ワイバーンの谷に夏が来た。
草木は芽吹き、鳥や虫達が宙を舞っている。
少女は草むらを掻き分けながら声を上げた。
「待って、まだ一人で湖は危ないよ!」
大きな水音がして、周囲に澄んだ水が散った。
ケラケラと笑って、少女程の大きさに成長した子ワイバーンが水を浴びる。
「大丈夫だよ! お姉ちゃんも早く!」
子ワイバーンが快活そうな声で言う。
夏の暑い日には、水浴びは格別だ。
ボロの布服で湖に入り、少女は子ワイバーンの首に掴まった。
「もう。そんなこと言って。この前もピラニアにお尻を齧られて、気絶する所だったじゃない」
「ピラニアになんて、もうやられないもんね! 僕は強いんだ!」
子ワイバーン……ヘアーと少女が孵化を見守った子供。
その子は、グングンと成長を続けていた。
赤黒い鱗に、金色の瞳。
少女はこの子のことを「ジュニア」と呼んでいた。
どういう意味なのかはよく覚えていなかったが、おぼろげな知識の中で「子供」を意味する言葉だとは分かっていた。
すでに、ヘアーが眠りについて一週間程が経過していた。
ヘアーは、アルファとの戦いの後、死んだように眠ってしまっていた。
一度巣にやってきたライトニングワイバーンに、戦いで消耗した傷を眠って癒やしているのだ、と言われてから、少女はジュニアの世話を一人でしていた。
水をパシャパシャと巻き上げて、ジュニアが笑う。
ブラッドクリスタルワイバーン。
今は、アルファの襲撃によりだいぶ数が減ってしまい、貴重な種族の子孫だ。
少女はジュニアの鼻を水で洗ってやり、頭上のヘアーの巣を見上げた。
「ヘアーさん、まだ目を覚まさないね」
「お父さん、今日もいびきかいてた」
ジュニアが羽根を伸ばして水面に浮かぶ。
少女はその背中に移動し、横になった。
仰向けになると太陽の光が心地よく肌を焼く。
「あー……生き返る」
「そうだねえ……」
一頭と一人はぼんやりとそう言いながら、水に浸かっていた。
ヘアーが、少女をレッドウッドに連れて行くという約束はまだ果たされていなかった。
しかし、赤子のジュニアの世話をするだけで今はいっぱいいっぱいだ。
最近やっと言葉を覚えて、いろいろ話してくれるようになっていた。
「お姉ちゃん。お腹空いた」
しばらく太陽を浴びていたが、やがてジュニアが顔を上げてそう言う。
子ワイバーンの背の上で、少女は言った。
「じゃあお昼ごはんにしようか。お弁当、持ってきたよ」
「やったァ!」
水を泳いで、ジュニアと少女が岸辺に戻る。
少女は草で編んだ風呂敷に包んだプライマルクリスタルとベリー類を、地面に広げた。
クリスタルを一つ手に取り、ジュニアの口に入れる。
ジュニアはそれをもぐもぐと咀嚼した。
「美味しいねえ」
メジョベリーを齧りながら少女が微笑む。
ジュニアはクリスタルを飲み込んで喉を鳴らした。
「うん!」
「食べたらヘアーさんの所に帰ろうね」
「…………」
そこで、ジュニアの動きが止まった。
彼の目線が草むらに向いている。
「どうかした?」
「お姉ちゃん、僕の方に来て」
何か居る。
それを察して、少女は慌ててジュニアの脇に移動した。
ジュニアが威嚇するように歯を鳴らす。
ここは水辺だ。
肉食竜も草食竜も、蟲もみんな集まってくる。
その中には当然凶暴な者もいる。
「誰ですか? 私達なら、すぐここを出ますから、戦うのはやめましょう」
草むらの奥で目を光らせている者に、少女は声を掛けた。
ジュニアが歯を鳴らしながら、口から赤い煙を吐き始める。
そこで、ガサッ、と草むらが掻き分けられ、慌てた男性の声がした。
「ちょ、ちょ、ちょ、戦うなんてとんでもねえ! あんた達、ヘアー様のところの子達だろ? ここらへんであんた達を襲うのは、能無しのピラニアくらいでさぁ」
頭がツルツルにハゲた、小さい恐竜だった。
少女達とほぼ同じ位の大きさだ。
後ろ足で地面に立ち、小さな前足でバランスをとっている。
彼は、つんつるてんの頭頂部でキラキラと光を反射させながら、小さな手を一生懸命に動かして続けた。
「ヘアー様に伝えたいことがあってさ! でも、俺の足じゃあ巣まで上がれないし、どうしようかと思ってたんだ」
「あなたは……?」
見かけない恐竜だ。
問いかけられた彼は、胸をそらしてハゲ頭を光らせた。
「俺はパキケファロサウルス! レッドウッドから来た伝令でさぁ」
「レッドウッドから?」
少女は身を乗り出して聞いた。
レッドウッド。
自分によく似た者がいると言われている場所。
どういうところなのか想像もつかないが、彼はそこからやってきたらしい。
「そうそう。ここらの奴らから、あんた達のことを聞いてね。この暑さだ。待ってたら水辺で会えるかもと思ったんだ」
「ヘアーさんは、今眠っちゃってるの。まだ起きないんだよ」
少女に言われ、パキケファロは目を丸くして彼女を見下ろした。
「どっか悪いんで?」
「うーん……アルファさんとの戦いで、結構傷を負っちゃったから、それを癒やしてるんだって」
「なるほどなるほど。レッドウッドにも、アルファエンバークリスタルワイバーンを斃したという噂は届いてますぜ」
パキケファロはそう言うと、小さな体なのにやけに大きな重い足を立てて少女とジュニアに近づいた。
「お姉ちゃん、こいつ、ハゲてるよ!」
ジュニアがびっくりした声を上げる。
パキケファロは湖の水を飲んでから、ジュニアを見た。
「坊や。パキケファロ一族にとって、『ハゲ』とは褒め言葉! 俺の頭を見るんだ。否の打ちどころのないハゲ具合だろ!」
「うん、凄いハゲてる!」
「はっはっは!」
満足そうに笑って、パキケファロは頭を水に突っ込んだ。
しばらくして息をついて顔を上げる。
ハゲ頭に被った水が、太陽の熱で音を立てて蒸発している。
「ってなわけで、ヘアー様に話したいことがあったんだが……」
「そうねえ……ジュニア君の翼じゃ、私一人しか上に運べないだろうから、ちょっと待ってね」
「ジュニア?」
怪訝そうにパキケファロに聞かれ、少女はきょとんとして答えた。
「この子の名前だよ」
「名前? 名前って何でさ?」
「何って……うーん……」
問いかけられ、困った顔で少女は考え込んだ。
「ジュニア君は、ブラッドクリスタルワイバーンだけど『ジュニア』って名前なの。私がつけたんだ」
「へぇ! そいつはえらいシャレオツだな!」
ズシン、ズシン、と地面で四股を踏んで、パキケファロは少女を見下ろした。
「俺にもつけてくれ!」
「ええ……? あなたにも?」
突然そんな事を言われて、少女は目を白黒とさせた。
ジュニアが首をかしげてパキケファロの頭を見ている。
「……変なやつ」
「うーん……」
呟いたジュニアの脇で考え込み、少女は言った。
「ええと、パキケファロさん達の中では、ハゲっていい言葉なんだよね?」
「ああ! 特段ハゲてるやつが強い!」
「じゃあ『ハゲマル』とかはどうかな……?」
自信なさげに言う。
しかし、名前をつけられたパキケファロ……「ハゲマル」は、目をキラキラさせて少女を見た。
「ハゲマル! それが俺の名前か!」
「う、うん」
「何ていい響きだ! 俺はハゲマル! こりゃあいい土産ができたぞ!」
「ええと……あなたがそれでいいなら……」
引きつった笑いをしてから、少女はハゲマルに向き合った。
「ジュニア君。ハゲマルさんを先に巣に運ぶ事はできる?」
「できるよ!」
ジュニアが元気に言って、翼を広げる。
飛び上がった彼は、ハゲマルを掴み……しかし、そのあまりの重さに目を白黒とさせた。
「こ、こいつ重……」
「はっは! 鍛えてるからな! いっちょ頼むぜ坊主!」
「坊主じゃない! ジュニアだよ!」
息を切らしながら、ジュニアが頭上に消えていく。
少女は不思議な感覚に高鳴る胸を、服の上から押さえた。
名前をつけて喜ばれた。
思えば、ジュニアを名付けた時も嬉しそうだった。
名前……。
そういえば、私の名前って……。
そこまで考えて動きを止める。
自分は一体何なのか。
どこから来て、どうしてこんな不思議な力を持っているのか。
その答えはレッドウッドにある気がする。
ハゲマルさんの話を聞かなきゃ。
少女はそう思い、巣を見上げた。