「窮地で苦しみ続けると、藁ですらない無にすがろうとする。何千年前から変わりませんね」
畜生界の中国料理店、こぢんまりした少人数の宴会席に吉弔八千慧、驪駒早鬼、そして一人の人間の男が集っていた。
「しかし現に神は現れ人々の救済へ動いている。今更畜生のもとで嬲り殺されようだなんて誰が思う?家畜臭くてかなわんよ」
男の挑発で今にも彼を殴り飛ばさんと鼻息荒く机に乗り出す早鬼の脚を八千慧が片手で軽く押さえて、物言わずなだめる。
「人間界にいたことがあるのなら尚更、エジプトを出た奴隷の広めた信仰が、その後数千年にわたりいかにして人類を苦しめ続けたかを、ご存知のはずですが」
机に空いた穴に固定されている猿の頭蓋を取り外し、中を黄酒でびたびたにしたあと、匙を突き立てた。
「阿片でも食わせると味が変わっていいのですよ。……そういえば、人間って霊長類でしたね」
口を半開きにして固まる男に畳み掛ける。
「こちらへついて、もちろん働いてもらいます。しかし今の霊長園でも同じでしょう?少なくとも飢えた動物にこうやって脳の奥までしゃぶりつくされるようなことはなくなります。霊長園のクーデターの原因を鑑み、労働も幾分楽になるかもしれません。私はそうすべきと考え力を尽くしています」
一口いかが。ここまで来て飲まず食わずじゃあ、この先で野垂れ死ぬかも。
「……、」
澄んだ笑みを湛えて口に匙を近づけてくる八千慧のその手を、男は脂汗を垂らしつつも拒まなかった。
「そう、舌で潰してよぉく味わって…… 取引成立。あなたは鬼傑組、ひいては動物の側につく人間としての成果を誇示し、私は輝かしい未来での、人間の労働環境を改善する。鬼傑組へようこそ…… では明日の朝九時に」
明らかに動物の立場が上になっていて取引とはとても呼べないが、日々追い込まれて視野の狭まっているものに対して少しの譲歩は有効だ。
人間との解散後、店のある湿った通りを二人歩きながら。
「あんたのその舌にはきちんと血通ってんのか?なあにが『楽になるかもしれません、私はそうすべきと考え』だ、あんだけ酷い嘘つけるのもあんたぐらいだろ」
「これで十分私の手腕を目の当たりにしたでしょう。偶像の手に堕ちた人間を我々のほうへ引き込み、邪神の力を直接削いでいくことができるのです」
広告塔となる人間を一人勧誘すると同時に、鬼傑組の宿敵たる勁牙組の長へ、一時団結するか否かの選択をさせるための時間を与えていた。
「お前の腹ん中がまっったく読めん。いきなりこの私にいい顔しやがって。……ほんとにいい顔だな」
早鬼が赤樫のパイプにこれでもかと詰め込まれた葉に火をつけ、無理矢理吸った煙とともに鼻からため息を吐いた。
「失礼な。いつもいい顔です。しかしこれでわかったでしょう、誰かを下に見たなら、こんなやり方で脅します。あくまで静かにね。暴力で改宗を迫った末に怪我でもさせちゃあ、働かせられませんし」
ただの脅しであるはずがない。食ってその死すらも次の交渉に利用する。脳の奥までどころか、死そのものまでしゃぶりつくす。
相手を安心させるなら手の内を明かすべし。ただ実際、八千慧のその手の内には、さらなる手が握られている。相手はそんなことを知る由もない。
「団結とはつまり、偶像を蹴散らす勁牙組最強の戦士たちに、道具、奇襲、救護などの盤石なバックアップがつくということです。それと潤沢な松の葉も。うちの野菜(野菜)はお気に召しませんでしたか」
早鬼が吹かしていたのは煙草でなく松の葉だった。
「好きで吸ってるだけだ、別に口直しじゃない。仮に二つの組が連携を取ったとしても、たかが二組だろ。これじゃあの邪神のところまで持つわけがない」
「もちろん二組だけじゃありません。三組です」
知らぬ間にどこぞと徒党を組んでいやがったか。顔をしかめ側溝に灰を捨てる。
「一増えたって同じだろうがよ。そいつはどこなんだ、剛欲同盟か?」
早鬼は冗談のつもりだった。同盟長の性格はしたたかで賢しらなクソガキ、それでいて畜生界の誰よりも強い。なにせ神獣だ。
「鳥は弓兵の的になってくれればそれでよい。もちろん剛欲同盟です。これから誘うのですよ、あなたとね」
「だあーっはっは!なんだよ、今度はあの子羊の前で子羊鍋食おうってんじゃあねえよな、あいつぁ羊は羊でも七つの目と角が生えてたっておかしくねえ野郎だよ!(羊は羊でも、ヨハネの黙示録で神の裁きを呼ぶ羊と言われても疑問ないほどの力を持つ羊だ)」
「七つの目と角が生えているからには、賛美と誉れと栄光と権力とが、世々とこしえにあらねばなりません。もちろん、子羊と我々とにです(喩えに乗って:裁きのための巻物を持つ者と羊が手にするべきとされる賛美、誉れ、栄光、権力を我々で寡占しよう)」
「んまあ考えとくよ。ごめんな、これから地上に行かなきゃならねんだ」
「答えはいつだっていいわけではありません。こうしている間にも霊長園の守りは固められています」
八千慧は早鬼が地上へ何をしに行っているか知っていた。行き先はかの霊廟だ。
「もし信頼できる者がいれば、その方に相談するとよいでしょうね」
こちらにつかぬはもはや愚策の極み。きっとあの豊聡耳神子ならば彼女の背中を押してくれるだろう。
この混乱に乗じて、早鬼も尤魔も他を出し抜いてやろうと考えるであろうことは八千慧にもわかっていて、それは彼女自身も同じだった。早鬼については、邪神との戦いで勁牙組の奴らを最前線で戦わせることで組全体を、こちらの消耗を最小限にしつつ弱体化できると考えている。
剛欲同盟の奴らは…… 集団で何かを企むことは滅多になく、これからも組の邪魔になるようなことをするとは思っていない。尤魔ただ一匹の動きにさえ気をつけていればいいだろう。
早鬼は初めに誘ったときから明らかに態度が変わった。今に堕ちる。
一晩ののち。
十数世紀ぶりに姿を顕したかつての主、豊聡耳神子と存分に遊んだあと、畜生界に戻る。悪趣最強格ともあろう驪駒早鬼が地上の指導者にぞっこんであることが本人はたまらなく恥ずかしいらしく、毎度誰にもどこへ何をしに行くとは決して言わず地上へ通う。大丈夫、どうということはない。私はいつもの驪駒だ。気分は余韻で浮かれていても、いつもの驪駒早鬼として振る舞えている。組の事務所の扉をバンと蹴破って入る。
「あっお帰りなさい。……柔軟剤変えました?」
食肉目は鼻が良い。神子のところへ着ていったよそ行きの服を現地で洗い干してまた着て帰ったのを忘れていた。番をしていた狼が口にしたのはそのことだったのだが、まだ帰りの土産に渡された紙袋にしまっている、神子から賜った新しい手織りのスカーフを嗅ぎつけられたものと勘違いした。
「!!……、……」
なんと返せばよいかわからず狼の方も振り返らぬまま立ち尽くすうち、顔を小刻みに震わせながら耳の先まで真っ赤になっていく。狼も狼でボスが地雷を踏み抜かれて怒り心頭に発するうちに赤くなっていると思い込み、内心震え上がっていた。
「……泊まりの用で服まで洗ったんだよ。汗血馬みたく駆けずり回ったからな」
駆けずり回ってかいた汗ではない。
隣接する自室に飛び込んで、扉の札を「いないよ」から「はいるな!」に裏返した。
「これが……!」
袋からスカーフだけを取り出してベッドに置き、正面に正座する。あの敬し愛する豊聡耳神子が手織りしたスカーフを。
そう、折り始めから最後まで、その全てを神子が丹精込めて手織りしたのだ。そこには早鬼への溢れんばかりの愛情と、彼女自身が纏う、片時も忘れたことのないあの薫香が詰まっている。
早鬼の首に巻くために贈られたものだとはわかっていた。しかし抗えぬ望みがある。
そのスカーフに突っ伏した。