この畜生界に龍はいない。八千慧が卵の殻を破ったときにはもうどこかへ飛び去っていて、それからしばらく一人で育った。今更龍と対峙してもそれがきょうだいだとは思わないだろう。互いの姿も知らず、別々の道を歩みすぎた。
親のことも知らない。三途の川辺に生まれ、欲の赴くままに生き、後になってここが畜生界と呼ばれる世界で、それまでの自分の生きざまこそこの世の確たる正義なのだと知った。
周りを懐柔して組織化した。当時の大人たちを真似して、自分もいずれこの世界の頂点に立つと決め、今日までやってきた。現在最大級の組を抱え、目的も現実味を帯びてきた中で、心配事も出てくる。
畜生界を統一したとして、肥大化した単一の組織をどう治めるのか。治めるのに都合の良い組織といえば、勢力が一枚岩で、思想や信条が同じ方向を向いている組織だ。しかし実際にそんなものは存在し得ない。ましてや畜生だ。人間社会とは違い様々な種が混在して生活している以上、考えが一致することなど本質的にありえない。今この畜生界の畜生全体をそれぞれの組織が大きな争いもなく統治できているのは、争いの種となる力をもった動物の間で造形神という共通の敵が存在しているからだ。今の動物は、動物同士ではかつてなかったような落ち着きを見せていて、人間という貴重な労働資源をごっそり奪われているとはいえ、今こそ平和と言えるのではないかと、八千慧は思った。
「……このまま勢いで畜生界を一つにすることが本当にこの世界のためになるのでしょうか」
組の霊に聞いたって仕方がない。組全体としては敵対勢力の打倒、さらにその先の統一こそ目標なのだ。
「最大勢力の組長ともあろうあなたが何を言うんですか。それは畜生界全体の産業の危機たる今考えることじゃありませんよ」
畜生たるもの、己の欲に忠を尽くすべきなのだろう。ただここまで上り詰めて、もう生活に不自由することなど滅多にない。
「それと……現状維持を始めたときこそが、組織の終わりの始まりです。畜生界で止まってちゃあいけません…… っと、来客です」
「吉弔八千慧はいるか」
無言で扉を押し開けて組長を呼び捨てしたのは、埴安神袿姫が持つ無尽兵団の長、杖刀偶磨弓だった。
「おや、お人形さんが何の用かしら」
観賞用の人形として完璧な造形を持つ彼女はこのとき帯刀していなかった。
「袿姫様からの提案を預かっている。私の右の手背を腕につけて再生しろ」
人間の関節の可動域を超えて曲げると磨弓の口調と態度が一変する。袿姫の声と動きをそのまま再生できるらしい。
「こんにちは。私が手にしている霊長園のリソースについてあなたに提案があるの。悪くないと思うわ。霊長園で保護している人間たちの労働力で、あなた達の生活に必要なものを生産できる。人間は私に守られて、動物は安定した暮らしが手に入り、人間に渡った通貨が畜生界にさらなる生産を促すのよ。どう?あなたを通して、他の派閥にも伝えてくれるかしら?」
「……木刀持ってきなさい。赤樫の」
その質量およそ三貫。人が凶器として振り回すには重すぎるその木刀を棒立ちの真弓の前で構え、脳天から正中線に沿って振り下げた。人間のそれに限りなく近い質感の肉体は、宿る霊魂が離れた瞬間に本来のセラミックへと戻り、壺のように真っ白の粉を吹きながら騒々しく崩れた。
これは邪神の挑発だ。奪われた資源による商売になど乗るものか。
「私が帰るまでに掃除しておきなさい」
「どうでしょう、長らく考えてくださったようですね」
組長二人、今度は焼肉屋の個室で。
「考えた。組のためにはやめたほうがいい」
入れ知恵をされたか。十数世紀腐っても聖徳太子、敵味方には敏感なようだ。脳のない馬のくせに、素直に懐柔されぬとは生意気な。
「……誰にも話していない、重大な懸念があるのです」
「なんだ、羊と仲良く羊鍋食う前に私と馬肉でも焼くのか」
「脅しじゃありません。我々共通の懸念です。埴安神は多くの人間もろとも霊長園を占拠した直後に、無尽兵団を急成長させ、文字通りの無尽兵団へと生まれ変わらせました。これだけ言えば、埴輪兵一体ずつの霊魂がどこから来ているかわかるでしょう?」
早鬼は適当に相槌を打ちつつ、昨日の神子の言葉を思い出していた。
『どうしたの、もう馬じゃないんだからこっちに上がってらっしゃい』
『人参はまだ好きなのね』
『えっ、ハンバーグと一緒に生の人参を!?』
『そんなに速くちゃ立派な帽子が飛んじゃうでしょ』
「……なんだって」
「早く霊長園を奪還しないと、人間の数が減り続けるってことです」
「そんな人間の使い道、畜生でもさすがにやらないよな……」
「今更人間たちに情でも湧きましたか」
結局早鬼が食べたのはほとんど塩キャベツだった。勁牙組の三次団体が統括する繁華街を歩きながら話す。
「奪還した後のことはその時考えればよいのです。どうせいつものようにみんなでてんやわんやするだけなんですから」
「やろう。畜生界は畜生のもんだ。お子様はどう説得する」
「ちょっと。もこもこの羊さんは我々よりも明らかに年上ですよ。……あの子の興味はもはや畜生界にありません。この世界だけじゃ窮屈なのです。誰がこの狭い世間を握るかなどどうでもよく、剛欲同盟の盟友たちにも好きにさせています。あなたにとってどうでもいいからこそ、少し盟友に声をかけてやるくらいはしていただけないものか。そう頭を下げるしかありません」
「私にゃ無理だ。明らかに自分より強い相手だろうと頭は下げられんよ」
袿姫を倒して八千慧の気が緩んだ隙に出し抜いてやればいいか。そう決めた。
自分より一回りも小さいこの亀の細い首なんぞ片手で折れる。さらにここは自分の島だ。なぜだか無性にそうしたくなるのに、早鬼の腕はそうしなかった。この衝動は胸の内を駆け回り、喉から漏れる。
「ヤなこと考えっぱなしで疲れちまったな。そこで休憩しよう」
八千慧の顔が一気に曇る。
「なんだ休憩だよ。お前も看板に書かせたことくらいあるだろ、休憩」
「きゅっ休憩の前にもっと何かあるでしょう、ほら、なんかこう…… ね」
八千慧自身はそうやって相手を手懐けたこともあるにはある。ただ、数えることをやめたほどの度重なる血生臭い争いで全身に傷を残してきていて、もう誰もそんな身体をよく思ってくれないだろうと思っている。
早鬼はそんなこと知る由もない。手懐けようとも思っておらず、ただ互いに気分を晴らせればよかった。
「今更なよなよしやがって。結果が嫌じゃなけりゃ過程なんていいだろうがよ、な」
「……後でぶつぶつ言わないでくださいよ」
そしてその早鬼の単細胞さは、八千慧には伝わっていた。
「最近思うんです。ここまで勢力を広げて、その先で何がしたいんだろうって」
「こんな時にまた仕事の話かよ」
「こんな時でないきゃ素直にお話してくれないでしょうから。どこかの誰かがこの世界の全てを手中に収めたとして、自身がトップに君臨し続けることに何のメリットがありましょう。周りはそれをよく思いませんし、一番を取るずっと前に、真に欲しいものはとっくに手に入れられているのではないでしょうか」
「畜生界を一つにしたやつは今まで誰もいない。ただの一人もな。そんなことは統一してから考えるもんでしょうよ。もしも最後まで二人生きてこられたら、その時は私に首を差し出しゃいい」
「ボスは二人もいらない、かどうかもその時一緒に考えればいいことでしょうに」