1 期待のルーキー
俺は、凡人だ。
小学生の頃に始めたテニスについてはそれなりに自信があった。
始めるきっかけは忘れた。
とにかく俺は熱中していて、通っていたスクールに元プロだというコーチが居て、熱心で優しい指導をしてもらい、褒められたのが嬉しくてどんどんのめり込んでいったのを覚えてる。
将来はプロになるとか、漠然とした目標を持つようにもなって、コーチに憧れたのも大きかったのだと思う。あの時はこうだったとか、こんなことがあったとか、自慢するわけでもなくて何気なくエピソードを聞かせてくれたのだ。
そんな風になりたいと思ったのが大きな夢を持つきっかけだった。
我ながら無邪気な子供だったのだなと思う。
おっと、これは難しそうだぞ、と思ったのが中学に入ってからだった。
青春学園中等部はテニス部が活躍する強豪校で、毎年一定の結果を残しているし、関東大会は常連で全国出場経験もあって、過去にはプロを輩出したりしている。
それなりの自信を持ってそこへ入学して、すぐに鼻っ柱を折られる。
あぁ、これは無理だな。
そう思ったのはある一人の先輩が試合をしているところを見た時だった。
入部以来、練習試合でも公式戦でも一敗さえしていない、“天才”すら敵わない本物。頂点というのはこういう人を言うのだろうなと思った。
自分との違いをまざまざと見せつけられて、俺の夢は早々に崩れ去った。
だからといってテニスが嫌いになったわけじゃないし、諦めて退部するつもりはなかった。
将来がどうとか、そういうのは一旦置いといて、この部に居たいと思った。そしてあの異常な先輩たちの中に入って、レギュラーになって、試合に勝ちたい。
目標が変わって、より現実的になって、青学テニス部の全国出場を目指すようになる。
うちの先輩たちははっきり言って強い。
特に俺の代の一つ上の世代が、一部とはいえまだ発展途上なのに三年生より強かった。
自信を持って、夢を持ってこの学校に来たのは俺だけじゃない。希望を抱く一年生は俺と同じようにこの学校での活躍を夢見てやってきた。そして打ち砕かれる。
あの人たちは俺たちの想像を遥かに超えていた。
いわゆる天才がそこに居る。詳しく考えているわけじゃないのに“なんとなく”やってみただけで自分の想像を現実にすることができる人が居る。
生半可じゃない努力家が居る。テニス部の活動でさえ他の学校より練習量が多いのに、それでも満足せずにさらに練習して、全てを伸ばすのは無理だとしても、自分の得意なことを最大限まで伸ばして武器にしようとしている。
その姿を一番近いところで見ていて、絶望してしまうくらいに衝撃を覚える。
自分とはあまりに違うのだと、新入生はまず挫折から始まった。
俺はきっと、凡人だ。
才能なんて言葉を軽々しく使わせないほど圧倒的な勝利もできないし、華麗な技を次々なんとなく編み出すこともできないし、際立って目立つ個性すらない。
武器を持つには、凡人なりの戦い方を見つけるしかなかったんだ。
「桃が負けたって?」
部室に入って早々、
噂は部内に広まっていて、今年の新入生には一人、図抜けて上手い少年が居るらしい。軽く打ち合っただけとはいえ二年生を相手に有利に立ち回ったというのだ。
どうやらその話題は禁句だったようで、途端に
「別に負けたわけじゃねぇよ。あいつは右足首やっちまってて本気を出せなかったんだ」
「もう治りかけじゃん」
「バカお前、足首痛めてんだから本気で踏み込めないだろ。特にあいつはパワー型なんだから下半身の踏ん張りと上半身の捻りで――」
「なんでこんなに荒井が必死になってんの? あ、一年が目立って悔しいんだ」
「違ぇよ! 桃城の名誉のためだろうが! 怪我してるあいつに勝っただけででけぇ顔されたらたまったもんじゃねぇ!」
「器の小さい奴め。漫画で一番最初に主人公に狩られる小物の悪党みたいだぞ」
「うるせぇなぁ!? 誰が小さいだ! 俺は悪党じゃねぇよ!」
「学生でテニス部員だからね」
ジャージに着替えながら悠介ははいはいと適当な返事をする。
テニス部には個性的な生徒が多い。いちいち真面目に取り合っていてはこちらがパンクする、というのが一年かけて彼が出した答えで、時には聞き流すことも重要なのだと理解している。
荒井はレギュラーを取った経験はないものの、二年生の中では実力者として知られており、来年の主戦力としてすでに数えられている。しかし並々ならぬ向上心と気性の荒さが広く知られているのも事実で、初めてできた部の後輩にいきり立っている姿を見ても違和感は持たれない。
単純な奴だと悠介は微笑んでいて、彼に対する態度はやけに大人びていた。
「今日テンション高いねぇ。一年が入って喜んでんの?」
「ケッ。誰が」
「あと林とマサやんが悪いことしたって聞いたけど」
「え!? いやそれは……!」
「桃か……あいつ結構口軽いからなぁ」
「荒井が問題起こすと二年の評価がぐっと落ちるなぁ」
「なんで俺が問題起こす前提なんだよ! 何もしねぇよ!」
「どうせいじめるだろ。一年生」
「いじめねぇよ!」
「いーやいじめる顔だよ。人相悪いもん」
「んなわけあるか! どんな顔だ!」
「やっぱりテンション高いな」
部活開始までまだ時間がある。
いつもならば準備が済んだ者からコートへ入って、部員が揃うまで自主練習を行う。すでに入部希望の一年生や数名の部員はコートに入っているはずだ。
誰よりも素早く着替えた悠介が意気揚々と部室を出ようとする。
「んじゃ荒井に絡まれる前に俺が絡みに行こう。一年生もその方が喜ぶだろうし」
「なんだとオラァ!」
「やめとけ荒井。事実だ」
「そうそう。絶対一年は荒井より宮瀬を選ぶ」
「なんじゃそりゃあっ!!」
騒がしい同級生の声を背中に聞き、ラケットを持つ悠介は軽い足取りでコートに入った。
途端に入部希望の一年生たちが挨拶してくる。
今でも後輩の気分でいたが現実は違う。彼らに教えられた気がして少し驚くものの、すぐに笑みを浮かべた悠介はひらりと手を振った。
「やあやあ、どうも。いらっしゃいみんな。部長来るまでは部活始まらないから空いてるコートで打ってていいよ」
「えっ、いいんですか!」
「うん。コート五面あるし、あーでも、あんまり広く使い過ぎてるとややこしい先輩が絡んでくるかもしれないから気をつけて」
「やったー! あっち空いてるから打とーぜ!」
元気な子が居る。体操着を着て参加する生徒が多い中、派手なテニスウェアを着ていた。おそらく経験者なのだろう。
彼を始めとして、微笑して見守るように振る舞いつつ、悠介の目はそこに居る一年生をぐるりと見回した。
気になって視線を止めた生徒が一人だけ居る。
テニスウェアを着て黒のハーフパンツ。白い帽子を被っている。初めに思ったのはきれいな顔をしているな、だった。どことなくクールな様子が窺えて、はしゃいだ様子で移動しようとする他の一年生とは違い、立ち振る舞いやラケットの取り扱いから見て経験者なのだろうと察する。
何より、強そうだな、という雰囲気が感じられたのだ。
他の生徒とは違って、特にやることもないしと言いたげな足取りで一年生が集まるコートへ移動しようとしている。
偶然傍を通りかかったものだから、悠介は思わず声をかけてしまった。
「桃に勝ったのって君?」
ぴたりと足が止まる。
名も知らぬきれいな顔の少年は帽子の下から覗くようにして悠介を見やり、視線が交わる。
その状況に気付いた一年生の内、おそらく友達だろう三人が殊更顕著に反応していて、その中に派手なウェアの子が居るのが少しおかしく思えた。
「桃……?」
「髪ツンツンの二年生。馴れ馴れしくしてこなかった?」
「あぁ、あの人」
「あいつあれでもレギュラーなんだよ。無茶しちゃって足首痛めたんだけど、それでも勝つってすごいね」
「別に、勝ってないっス。最後までやってないんで」
素っ気ない態度に淡々とした返事。クールな印象は間違っていなかったらしい。中学生になったばかりとは思えない落ち着きだ。
一方で勝負の結果については不満そうな声色を感じ、納得いっていないのだろう。口ぶりと態度からしてちゃんとやりたかったといったところか。相手をした二年生が万全の状態でなかったことも不満の理由かもしれない。
にこやかな顔で悠介がふむふむと頷いていた。
まだ試合どころかラケットを振るフォームすら見ていないが、中々どうして雰囲気がある。かなり強そうだなと思ってなぜか彼は嬉しそうだった。
「俺は二年の宮瀬悠介。君は?」
「越前リョーマ」
「越前か。よろしく」
「ども」
生意気そうな一年生だ。荒井に会わせるとやはり問題が起こりそうな気はする。
彼自身は気にしなかったものの、上手いのなら尚更、良くも悪くも青学テニス部に新風と混乱をもたらしそうな存在だ。なんだか面白そうだと判断しただけでなく、問題のありそうな性格であることを感じ取ったのもあって、悠介は自分くらいは彼に優しくしてやろうと決断する。
「うちは強い人が来るの大歓迎だよ。部長が掲げてる目標は“全国制覇”だし、もう知ってるかもしれないけど実力主義の校内ランキング戦で強い奴からレギュラーが決められるし。基本三年の引退まで一年は参加できないけど、桃と打ち合ったんなら参加あり得るんじゃない?」
「ふーん。そんなのはどうでもいいけど」
「えぇー……応援しようと思って結構喋ったのに」
「あんたは強いの?」
リョーマの唐突な問いかけに一年生たちがぎょっとする。特に親しいだろう三人は顔面を蒼白にして咄嗟に動き出していて、彼を止めようとする。
堂々とした宣戦布告。多分、負けず嫌い。
クールな印象とは裏腹に好戦的らしい。悠介は思わず噴き出すように笑ってしまった。
「ちょおっ!? お前何言ってんだ!?」
「越前君! 相手は先輩だよ!?」
「も、もうちょっと口の利き方とか気をつけた方がいいんじゃ……」
「いやいや、いいよ。まあ俺の場合はって言っといた方がいいかもしんないけど。こういうので本気でキレ出しそうな奴とか居るし」
「ほらぁ!?」
「謝れ! 謝れって!」
「いやだから平気だって。何もそんなビビんなくても」
慌てて駆け付けた三人がわさわさと騒がしいが、リョーマは微動だにせず彼らを無視して、悠介を凝視して離さない。
何か感じるものがあったのか、それとも単に二年生の先輩だったからか。どちらにせよ、彼の好戦的な面が見られて面白いと思い、気分を害していなかったのは本当だ。
悠介は彼の目を見つめ返して平然と手を横に振った。
「いやいや、強くないよ。桃は三年が引退した後すぐレギュラーになったけど俺なってないし。あいつよりは弱いんじゃない?」
「本当?」
「本当。嘘じゃない」
「レギュラー云々は置いといても、なんかできそうな感じはしますよね」
「なに、覇気でも持ってんの? なんで見ただけでそんなこと……」
「ちょっと打ってもらえません? 軽くでいいんで」
大胆不敵な誘いだった。明確に戦意を滾らせてメラメラしている。
なぜそこまで、と思いはするが、彼もまた強豪の青春学園に入学した以上、熱い想いを抱いているのかもしれない。
そう思いはしたが、悠介は見るからに眉間へ皺を寄せた。
「嫌だ!」
「なんでスか」
「こういうタイプは覚えがある。軽くでいいんでって言って誘い出して途中で熱くなって軽くなくなるやつだ。まだアップもしてないのに」
「大丈夫ですよ。軽くなんで」
「絶対軽くないだろ。っていうかちょっと意固地になってない?」
「なってないっス。やりましょうよ」
「あー……まあ俺も気になるのは確かだし。でもせめて部活終わった後とかさ」
「やだ。今がいい」
「なんてわがままな奴。逆にすごいぞ、初対面なのに」
ため息をついて、逃げるように視線を逸らすのだが、ちらりと確認すれば、やはりじっと見つめられていて居心地が悪い。
個性的な部員が多い中で、彼は自分が没個性だと自認している。
そうして強く押された時にどうしても弱くなるのもわかっていた。それで今までも苦労したことはあるというのに、いまだ改善は見られないようで落ち込んでしまう。
「じゃあ……ちょっとだけやってみる?」
「やります」
「良い返事ですね。さっきと違って」
「お願いしまーす」
にやりと笑って飄々とするリョーマに悠介が苦笑した。
またとんでもない奴が入ってしまった。
プレーを見る前からそう思って、これは予想というより確信だろう。勝気で挑戦的、多少生意気でわがままだが面白い。
ほんの少しだけ、というつもりで、悠介はリョーマを連れてコートへ入った。