圧倒される、とはこういうことを言うのだろう。
青学テニス部の選手が強いのはわかり切っていたことだ。毎年関東大会は必ず出場、全国出場の経験もある。おかげでシードを獲得して他校よりも試合数が少ない。
強い奴が集まってくるのは当然。
そう知っていたはずだった。
その試合は異様を極めた。
先程よりも鋭く、より冷たく、正確な打球は恐ろしいほど狙った通りに刺してくる。
言うなれば同じ行為の繰り返しだった。数度のラリーの後、苦手なコースに来て、上手く打ち返せずに甘い球が上がって、スマッシュが決められる。これを何度も繰り返し行われる。
ボールが上がり、ほとんど移動もせずに待ち構えて、跳んでスマッシュ。
ただそれだけと言えばそれだけだが、一度のミスもせずに繰り返す光景は理解に苦しむ。
ある時点から全てのポイントがそれで取られていたのなら不気味にすら感じていた。
(なんか、よく見える)
悠介は思考を続けていた。
テニスをする時、つらつらと考え事をするのはもはや癖のようになっている。乾に習ったデータテニスの基本に則り、対戦相手のプレースタイル、利き腕と利き足、身体能力、性格と癖、その他諸々を分析しながら戦うことが多い。しかし乾との大きな違いは試合前に集めたデータに拘らず、試合中に自らデータを集める部分だ。
彼は多くの部員からテニスを習っている。
乾の選手分析を基本とし、判断で重視するのは不二が言う“なんとなく”。
思考は絶えず動き続け、目はぐりぐりとよく動き、コート内の全てを把握しようとする。
(よくわかる。ここに打ったらこう返ってきて、こう打ったら、決まる)
両足を揃えて軽く跳び、わずかに背を反らして力を溜めて、落下してくるボールを迎えると全身のバネを使ってラケットを振り下ろす。
強烈なスマッシュ。ズドンと重々しく地面を跳ねる。
初めは持て囃すように声をかけ、中には指笛を吹いている器用な生徒も居たものだが、その回数が増えるごとに周囲は静まり返って何も言えなくなる。
(越前効果、バカにできないかも。うん……越前よりも、よく見える)
圧倒的とはこういうことを言うのだろう。
練習ではないのに、真剣勝負なのに、ほとんど同じ光景が繰り返されている。
意図して相手にロブを上げさせてスマッシュ。ただそれだけ。
狙っていなければできるはずがない。冷徹なまでに同じ攻撃を繰り返す悠介の姿に、彼をよく知る部員たちですら絶句せずにはいられなかった。
左右に振られる程度ならばわからなくもない。だがそれも、得意なコースに来たかと思えば次は苦手なコース、諦めなければギリギリ届く位置を正確に狙われる。
負けたくない。そう思ってボールに跳びつけば、必ず結果は決まっていた。
狙った位置にボールを上げさせ、無慈悲なまでに絶対に返せない場所へスマッシュを叩き込む。
何度も何度もそれを続けていれば心が折られるのは必然。
諦めてしまえば当然のように負けるだけ。ボールを追いかけるしかない。しかし打ち返したところでそこに悠介が待っているため、必ずスマッシュで返される。
試合を見ていた部員たちが息を呑む一方、悠介は普段通りに平然としていた。
ゲームに集中している。今日は特に調子がいいという自覚はあったが、彼自身が試合中に考えていることはこれまでとあまり変わらない。自分が作る試合展開が周囲から恐れられているなど微塵も考えてはいないだろう。
集中力が途切れることはなく、強い視線は冷静に対戦相手を捉えたまま。
決着がつくまでは油断するつもりなどなかった。
(変な感覚だ。今までにない。全部思い通りになる)
不思議な体験をしていた。
思考はいつも通りに動き続けているのに、体はどこかふわふわ軽くて、意識ははっきりしているのかぼんやりしているのか定かではない。滅多に感じない奇妙な感覚。
(気持ちいい――)
ズドンとスマッシュが決まって、想像した通りの光景を目の当たりにして思わず身震いする。
我に返って冷静に考えられたのは試合が終わった後だった。
すごいすごいと群がってくる部員の相手を粗方終えた後。
「悠介」
呼びかけられて立ち止まった悠介はにこやかに微笑む不二に歩み寄った。
「お疲れ様です」
「お疲れ様。すごかったね」
「や、俺も何がなんだか……まぐれだった可能性も十分にありまして」
「ここまでの試合全部? ふふ、だとすれば奇跡的な確率だね」
いつも通りの微笑みを浮かべて冗談っぽく言われてしまった。少なくとも彼はまぐれではないと確信を持っているらしい。
照れるやら困惑するやら。気まずそうにする悠介は指先で頬を掻いた。
「もっと自信持ってもいいよ。あれはちゃんと悠介の力だから」
「そ、そうですかね。自分ではまだなんとも言えない感じで。不二先輩は……あー、聞かなくてもまあわかります」
「うん。ちゃんと全部勝ってるよ」
ピースサインなどするのだが、喜ぶでもなく勝ち誇るわけでもない。彼にとっては当たり前で驚くような状況ではない。
一年生の頃、三年生の引退後に初めてレギュラーになって以降、不二は一度もレギュラー落ちしたことがない。校内ランキング戦で彼が好成績を収めるのは皆が当たり前のものと認識していた。
彼から多くを教わり、一年生の頃にはべったりひっついていた悠介にしてみれば、“天才”は認めても決して完璧な人物ではない。
不二周助は菊丸英二以上の気分屋だ。少なくとも悠介はそう思っている。
同じ相手と対戦しても結果がその都度違う。圧倒的で付け入る隙を与えずに6-0で勝つことができる一方、些細なミスや反応が遅くなって6-3で勝つこともあり得る。どちらにせよ勝つとはいえ常に最高のパフォーマンスで最良の結果を出すとは言い難い。むしろなぜ? と思ってしまうようなプレーが散見されることさえあった。それでも勝つのだから尚更不思議だ。
手を抜いているわけではない。
本人曰く「本気になる方法がわからない」というのだ。
傍で見ていればそれが嘘ではないことがわかる。青学でトップを競い、全国的に知られるほどの実力者でありながら非常にムラッ気が強い。気分がノッている時には誰も太刀打ちできないと思うほど凄いのだが、また別のタイミングでは明らかにノッていないのが目に見えて伝わる。
不二は内外を問わず“天才”という異名で知られていた。
自らが編み出した数々の美技を操るカウンターテニスは多くの観客を魅了し、ファンを名乗る人物は多い。しかしながらミステリアスだと語られる彼の素顔を知る者は少ない。
「実を言うと今日は僕も調子が良くてね」
「あ、俺も見ましたよ。すごかったです。なんかいつにも増して集中してる感じがして」
「ありがとう。って言っても最初はいつも通りだったんだけどね。悠介の試合を見てから自分でも意識が変わった気がするんだ」
にこやかな表情だったが真剣な様子も窺えた。
きょとんとしてしまった悠介は普段との違いに気付く。
「触発されたのかな。今日は多分、本気でやれそうな気がするんだ」
「え……珍しい」
「ふふ、自分でもそう思う。でもそうしたいって思った。珍しいよね」
不二の雰囲気が違っているのがわかった。優しくふんわりとした空気はそのままに、普段にはないひやりとした緊迫感もあって、静かに高揚してもいる。
見ればわかるのに表情と佇まいは普段通りなのだから違和感があった。
こういうところが怖いのだと悠介は言葉にはせずに唇を噛む。
「前に話したことがあったでしょ。自分の本気がわからないって」
「はい……覚えてます」
「なんとなく、今日は違う気がする。悠介と戦えば自分の本気がわかるんじゃないかな」
なんとなく。
彼の口からは度々聞かされる言葉だ。
美しいと称される技の数々も相手の力を利用するカウンターテニスもそもそもはただ「なんとなくやってみただけ」で編み出されたものである。
まさしく感覚派の極致。不二の“なんとなく”ほど恐ろしいものはない。
「だからこの後よろしくね」
「え⁉」
「次は僕との試合だよ」
「うわぁ、マジか……お手柔らかに」
「ふふふ。それはどうでしょう」
やはりいつにも増して楽しそうだ。彼は悪戯っぽく笑っていた。
「だから悠介も本気できてほしいな。今の君ならもうわかってるんじゃない?」
「どう、なんですかね。いつもと違うのは確かですけど、それが俺の本気なのかどうかは」
「わからない?」
「はい……正直」
問いかけられて悠介は戸惑いを見せた。考えながら素直に答えるものの、自信を持って答えを用意できる状態にはない。
彼も不二と同じく、自分の本気がわからず、競争心がないのが部内では認知されていた。自分が勝負に熱くなれないことを知っている。
レギュラーになって先輩の役に立ちたい。
そう思う一方で、レギュラーを決める校内ランキング戦にはあまり乗り気でなく、部内の仲間を蹴落とす状況に抵抗があった。
「多分、いけないのは僕らの方だから。でも今日で変われるんじゃないかって期待してる。悠介のおかげだよ」
「いやいや、俺は別に何も……!」
「それで悠介は越前のおかげかな?」
「あー……否定はできませんが」
照れた様子で悠介が答えに詰まる。
彼と出会ってからというもの、行動を共にする時間は多い。少なからず影響されていることは否定できなかった。
見透かされたようで恥ずかしく思いながらも、不二が相手では仕方ない。素直に受け入れる。
「今度の大会はレギュラーで一緒にコートに立ちたいね。もちろん勝つために」
「う……頑張ります」
「その前に対戦だから、それまでちょっと離れておくよ。また後で」
「はい。また後で」
去っていく不二を小さく手を振って見送った。
悠介は安堵とも不安とも取れる様子で息を吐いて、緊張を隠し切れずに頭を掻いた。