その日は週に一度か二度ある特別な日だった。
「あの人は?」
「ああ、今日は乾先輩のデータ整理だな。新レギュラー決まったし色々話し込んでんだろ」
毎日練習に参加する乾が時折姿を消すことがある。部内では周知の事実だった。
全部員の膨大なデータを掌握する彼こそが青学テニス部の真の支配者なのではないか、などという噂がある。ただこれはあくまでも噂で、部を率いるのは厳格な手塚で、彼をフォローする副部長の大石も頼りになる。乾の特徴の一つでもある不思議ドリンクを面白がって誰かが流したのだろうと囁かれていた。
その噂が案外笑えないな、と知るのは助手として手伝いをする宮瀬悠介であった。
青学テニス部は今の三年生が率いるようになってから人知れず暗黙の了解が確立されていた。
緊張感を生み出し、部を率いる青学の顔が部長の手塚国光。
部長をサポートし、部員を精神的に支えるのが副部長の大石秀一郎。
その一方で、練習メニューを考案し、公式戦・練習試合を問わずオーダーを決定するのは顧問の竜崎スミレに代わって乾貞治なのである。
裏から部を動かす影の支配者。そう思われても仕方ないだろうと悠介は思う。
全国制覇。それが揺らがぬ目標。
そのためにできることをするのだと手塚や乾は繰り返し言っている。
語らない手塚と心配性の大石に比べれば、乾が冒険的であるのは間違いなかった。
「これ出ないか? 越前とペアで」
その乾にチラシを差し出され、思わず受け取った悠介はぽかんとする。
「なんですかこれ……あー、例のやつ」
「今年は幾分仕様が変わるらしい。中学生の部が設けられるんだと」
「絶対跡部さんですよね。でもなんでわざわざ? 去年なんか逆シードで大学生とか社会人コテンパンにしてたじゃないですか」
「簡単に言えば、全国を見越して宣戦布告といったところだろう。腕に覚えのある奴はかかってこいと言いたいんだ」
「また思い切ったことするなぁ……」
チラシに書かれた文章を読みながら悠介はげんなりする。
元々はテニスを盛り上げようという目的で行われていた小さな大会だった。地元の人間が少しばかり集まって和気あいあいとやれればいい。そう思って運営されていたのだが、ある時に事情が変わってしまった。
当時小学生だった男が大人を蹴散らして優勝して以降、運営に跡部財閥が参入したことで大会の知名度は飛躍的に上がった。
年に一度の大会で尚もその少年は参加を続け、その都度ダブルスパートナーを変えながら一敗も許さず勝ち続けた。無敗の優勝者の存在が、大会に更なる人を集め、テニス界の盛り上げに助力しているのである。
乗っ取りだ金持ちの道楽だと批判の声が上がる中、彼はマイペースに参加を続けていた。
「しかも越前って。本気でダブルス考えてるんですか?」
「本気だよ。パートナーは宮瀬限定になるだろうけどシングルスの腕も十分。しかも成長途中だろうからこれからも期待できる」
「なんか楽しそうですね。今回波乱があったし、オーダーどうするんですか」
「波乱? 別にないけど」
乾が表情も変えずに平然と答えたのを目の当たりにして、悠介は反射的に固まった。
嫌な予感がしたのは少し黙って考えてからだ。
信じたくないという心境で、恐る恐る言葉を吐き出す。
「海堂と桃が負けてレギュラー落ちして……」
「あいつらは負けん気が強い。当日も片付けが終わるとすぐに特訓に行っていただろう。次のランキング戦にはさらに強くなって戻ってくるさ」
「まさか……」
「全て計算通りだよ」
力が抜けてしまう一言だった。
口を開けたまま閉じる余力すら失くし、悠介は椅子に座ったまま動けなくなる。
正面に座っていた乾が立ち上がり、鞄から取り出したノートを彼の前にある机へ置く。開かれたページには数々のデータと、彼が予想した結果が記されていた。
「唯一河村の“
「じゃあ……負けるってわかってて」
「お前はきっと不満だろうな。しかし俺の考えでは、一年の頃からレギュラーだったあいつらをこのままレギュラーにしておくより、一度挫折させた方が負けん気の強さでさらに伸びる」
何も言えなくなって悠介は口を噤んでしまう。
悲しそうな顔をしているから答えを聞かなくてもわかる。乾は小さく嘆息した。
「まあ、桃城と海堂に限らず、今回負けても次のランキング戦がある。お前は認めていないようだけど誰にも平等にチャンスがあるイベントだろう?」
「そうですけど、組み合わせとか、負けるとわかってて決めたってこと、ですよね」
「俺にとってはこれが本気でやるってことだ。チームとしての仕上がりを考えて、最良の状態にするためならランキング戦も利用する。今回は予想通りだったが、どんな結果になろうと勝つためのチームを作るつもりだった」
耳が痛くなる発言だ。そう言われてしまうと反論できない。
目指すは全国制覇。先輩たちは本気で狙っていて、影響される後輩たちも協力し、彼らと共に行こうと決意している。
本気だと言われてたじろいでしまい、自身が本気になれないという悩みを抱えていたところだ。
チームの完成形を見ている乾に生半可な返事はできずに、俯く悠介が背中を丸める。
「でもなんか、あんまりすっきりしないって言うか……」
「ひどいと思うか? それともあいつらを可哀そうだと思うか?」
「や、上手く言えないですけど」
「桃と海堂だけじゃない。お前が倒した奴らだってうちの部員で、レギュラーになりたいと思って戦ってる。それでも勝ってレギュラーになれるのはたった八人だ」
その内の一人は補欠だが、と補足して、乾はいつになく真剣に語っていた。
「勝つためにできることは全てやる。俺はそれを真剣勝負だと思ってる。ランキング戦もチーム作りも同じくだ。桃と海堂には期待しているからそうしたが、かといってあいつらだけが特別なわけじゃない。俺はお前がへこたれて今回レギュラーになれない可能性も考慮していたし、荒井が来ることも十分あり得ると思っていた」
「そ、そうですよね……」
「勝負の世界じゃ強い方が勝つ。コートに入る。レギュラーになる。それが当然だ。負けた相手を可哀そうだなんて思うのは、侮辱するに等しい行為だぞ」
悠介の顔色がさっと変わった。
意識してかせずにか、同様の想いは抱いていたのだろう。思っていない、と即座に反論することができなくて、その言葉が重くのしかかる。
「お前が人好きするのは知っているが、だからこそ心配だな」
「すいません……」
「なぁ宮瀬。お前の目標は何だ?」
問われてまた表情が変わり、きょとんとする。
知っているはずだろうという気持ちもあって、悠介は不思議そうに答えた。
「全国制覇、です」
「それは全員の目標だろう」
「……え」
「俺は、手塚と不二に勝ちたい」
思わず息を吞んでしまう。
何を言われているのか、何を求められているのか、なんとなく察したつもりだ。しかし何も言えなくなってしまったのは答えが用意できていなかったからに他ならない。
固まる悠介を見やり、乾は変わらず淡々と告げる。
「入部した当初からの目標だ。この部で俺が勝てていないのはあの二人しか居ない。そのために嫌というほどデータを集めて対策して体を鍛えた。それでもまだ結果は出せていないが、引退するよりも先に達成する」
「は、い……」
「全国制覇は俺たちの目標だろう。お前自身はどうしたいと思ってるんだ?」
答えようとして、口がわずかに動き、何も言えなかった。
悠介は良くも悪くも他人に影響される。誰にでも合わせられる反面、主体性に欠け、勝利への執念がない。他人の目標を自身が最も望む目標だと思っているのは予想通りだった。
愕然としてしまい、黙り込んだ悠介に笑いかけ、乾はチラシの上にトンっと指を置く。
「それを見つけるためにも、これは出ておいた方がいいんじゃないか?」
普段に比べて反応が遅かったものの、指差されたチラシに目を落とし、じっと見つめる。
レギュラーにはなった。だが作為的な結果であり、足りない物があると言われた。
もっと強くならなければならない。
変わる必要があるのだと知って、悠介は自らの意思でチラシを拾い上げた。