きっかけを作ったのは悠介で、遅れて部活に顔を出すとすぐに彼へ駆け寄った。
右手にはチラシ。
見覚えがあるそれを確認してリョーマはまさかと思う。
「越前、これ一緒に出ないか?」
「熱あります?」
「え、なんでそうなった?」
驚きこそ大きかったとはいえ、顔を見れば普段との違いを感じた。
そうしなければならないと思ったのだろう。それなら拒否する理由はない。
「いいっスよ。俺も誘おうと思ってたし、断ってもやらせるつもりだったんで」
「そうなんだ。ひどくない?」
「何が?」
約束を取り付けるのは意外なほどにあっさりと。詳しい説明も話し合いもなく、それが当然と言わんばかりに呆気なく別れた。
いつも通りに練習をして、終わればいつも通りに帰る。
いつもと違ったのはそのタイミングだった。
「今日、先輩の家に行っていいですか?」
制服に着替えてすぐ、まだ校門すら出ていない時点でリョーマが言った。
熱が出たのか、と思ったがおそらく違うだろう。驚愕して、呆気に取られた悠介は返事が遅れ、驚いていることはリョーマに見透かされていたようだ。
「熱は――」
「ないですよ」
「別にいいけど、うちコートないよ? 普通のマンションだけど」
「いいっスよ。ぬらりひょんがどこに住んでるのか気になっただけなんで」
「あっ⁉ おいやめろ! 気ィ抜けてる時のポエミーな会話をいじるな!」
一緒に帰るのはすっかり習慣になっている
家の位置はそれほど遠くない。帰る方角が同じことも一緒に帰る理由の一つでもあった。
歩き出してすぐ、普段と同じように、しかし普段とは違った雰囲気でリョーマが口火を切る。
「なんで出ようと思ったの?」
「んー……怒られたってわけじゃないけど、先輩に痛いところ抉られて、このままじゃだめなんだろうなーって思って」
「ふうん。よくわかんないけど」
「スラムダンク読んだことある?」
「最初の方だけ」
「俺にはまだ“ダンコたる決意”ってやつがないんだよ」
いつになくセンチメンタルな様子だ。真剣な表情で悠介が語っている。
茶化すつもりもなく、リョーマはその声を聞き入れる。
「全国制覇を目標に練習してたけど、それってテニス部全体の目標で、決めたのだって先輩で、俺の意思なんか入ってなかったんだよな」
「まあね」
「考えてみたら俺、プレーも、目標も、日常の些細なこととかも、全部先輩の真似してたんだな。自分で何かを生み出してたわけじゃない。だから勝負事になっても熱くなれないんだ」
どこか恐る恐るといった様子で、考えて確認しながらだったが、悠介はそうして自己分析をしているようだった。
黙って聞いているのもセラピーかもしれない。だがリョーマは平然と口を開いた。
「それって悪いこと?」
「うーん……多分。例えば個人的な目標ってある?」
「部長に勝つ、かな」
「すごいな。とりあえずだったとしてもすぐ答えられるのはすごいよ」
後悔の念が感じられる。素直な褒め言葉には彼への羨望があったのだ。
「俺は乾先輩に言われて、適当にも答えられなかった。黙っちゃったよ。自分で考えて決めたことなんてなかったんだって気付かされた」
「でも真面目に練習してるでしょ。みんなの技使えるし」
「そうだけど、やっぱオリジナルには敵わないし。勝ちたいって力になる目標もなければ、負けて悔しく思うほどの気持ちもないんだと思う」
悔しい、と思っていた。負ければ当然のようにそんな気持ちになる。しかし冷静なままで居る自分にもすでに気付いていて、他の部員のように取り乱すことはなかった。
よくないことなのだろうと、不二と揃って不安を抱いていた。
兆しが見えた気がする。それでもまだ変化はない。その事実がまたしても不安を掻き立てた。
「変わらなきゃ、いけないんだよな」
尋ねるのではなく自分に言い聞かせるような一言。
彼の横顔を見て、リョーマはやれやれと肩をすくめる。
「先輩って一人暮らしなんスか?」
「急に話題変わったけど……」
「なんかうじうじしてて気持ち悪かったんで」
「気持ち悪いって言うな!」
「一人暮らしなんスか?」
「ぐぅ、全く同じテンションで聞いてくるし……!」
はあ、と大きく息を吐いて、気分を変えることができたらしい。
呆れた様子で頭を掻きながら悠介の表情から緊張が抜けた。
「別にそういうわけじゃないよ。実質的にはそうかもしれないけどさ」
「どういう意味?」
「兄が居てサッカーやってるんだけど、スカウトされるくらいすごくて今は海外でやってる。母親はそっちに付きっ切り。父は日本だけど忙しくて出張とかなんとかで会わないことが多い。結果的に一人暮らしっぽい感じになってる」
「へぇ」
リョーマは表情も変えずに聞いていた。
悠介も慣れているようで、彼がどんな反応をしようと声色は変わらなかっただろう。冷静に説明して変化を見せなかった。
「そういう事情を知ってるから、先輩も同期も飯食ってけとか泊まっていけとか気ィ使ってくれてるわけで、甘えるのも好きだし慣れたのかな」
「マネージャーみたいなことしてるのもそのせい?」
「うーん、それもあるかも。申し訳なくも思うから。でももっと単純なことでさ、褒めてもらえるのが嬉しいんだ。人の役に立つのって楽しい」
強がるわけでもなく純真な顔でそう言う。また少し彼のことを知った気がした。
「寂しくないの?」
「もう慣れたよ」
屈託なく笑って平気にそう言う。強がりではなく本心なのだろう。
ふうんと気のない返事をして、リョーマは多くを語らなかった。
「ねぇ妖怪」
「妖怪って呼ぶな! あれはあくまでも場を和ませるジョークだから! 菜々子さんが気まずそうにしてたから言ったんであって!」
「ダブルスは好きなの?」
また唐突な質問だった。落ち着きを取り戻した悠介は咄嗟に考えながら答える。
「ん~多分そうなんだと思う。シングルスと比べて身の入り方が違う実感があって」
「さっき言ってたみたいなのが理由?」
「まあ、そうだろうな」
「じゃあ例えば」
リョーマは考えもせずに喋ろうとしていた。
何を言うんだ、と発言する前には気付いたのだが止めることができない。言ってしまった後で少しだけ後悔する。
「俺がダブルス組んだら多少は落ち着きます? うじうじしてるの」
「え……固定ペアってこと?」
「なんスかその顔。自分から誘ったくせに」
「いや誘ったけど、シングルスの方がイメージ強いし、まさかそこまで本気とは思わなくて」
「別に本気とは言ってないけど」
「なんなんだよこいつ。揺さぶるな」
困惑する悠介の反応は気にせずに、リョーマは前を向いたまま冷静に言った。
「いいんじゃない? 俺はいつ誰が相手でも負けるつもりないし、勝ちに行くよ。あんたがそれをサポートしてくれるんでしょ」
「ん? まあ……」
「他人に気ィ使ってばっかのあんただから、それが上手く生かせれば文句ないじゃん」
一瞬言葉を失ってしまうほどの衝撃だった。
何も言わない悠介を不審に思い、振り向くリョーマと視線が合う。
「まさか俺励まされてる?」
「は? 何その顔」
「だって、熱もないのに越前が優しいとか……」
「俺のことなんだと思ってんの?」
反射的に驚いてしまったが、不思議と勇気付けられる言葉だった。
誰かの影響で自分が作られている。誰かのコピーでしかない自分に引け目を感じていた。しかしそれでもいいのではないかと言われて、改めて考えるきっかけになったらしい。
ダブルスはシングルスよりも好きだ。その自覚は以前からある。
そもそも彼がレギュラーになれた大きな理由はダブルスを得意としていて、誰と組んでも一定の結果を出せるからに違いない。自身の強みがどこにあるかと問われれば、パートナーを選ばずにダブルスができる点だと答える。
それも自信満々とはいかないものの、そういえばと思い出す程度には周囲の言葉があった。
自己評価ですら他人の言葉を借りなければできない。
そんな自分に嫌気が差す悠介の隣で、リョーマがふと視線を上げた。
「先輩。ねぇ、ぬらりひょん」
「やめろそれ! ポエミーな俺!」
「ボールの音。あれってテニスじゃないの?」
「ん? あぁ、ストリートのコートだろ。確か無料で使えるとかなんとか」
見上げた先は長い階段の先にある空間。そこに何があるのかは現在地からでは確認できないがライトアップされていることだけはよくわかる。
徐々に空が暗くなる中、テニスをするには十分な環境であろう。
興味を持っているらしいリョーマに気付き、苦笑した悠介が問いかけた。
「行ってみる?」
「うん」
こういう時だけは素直だ。
確認を取った途端に先導して前を歩くリョーマに引き連れられて、長い階段を上り、二人は初めて訪れるストリートコートに足を踏み入れた。
ぽっかりと空いたスペースに一面だけ用意されたテニスコート。
周囲には座って見るためだろうベンチが設けられており、荷物が置かれている。
集まっているのは十人足らずの若者たち。男性が多いが数名女性も居る。
リョーマは当然として、それとなく存在は知っていた悠介も初めて実際に足を運んだ。自然に視線は辺りを確認しようとし、ふと一人の少女と目が合う。
「こんにちは」
「こんにちは。あの、ここフリーだって聞いたんですけど」
「そうだよ。来るの初めて?」
「はい。なんとなく噂だけ聞いてて」
「ね、多分同年代くらいじゃない? 何年生?」
「俺は中二。こっちは中一」
「じゃあ君と私が同級生だね。敬語いらないよ」
少女がにこりと笑いかけ、虚を突かれたがすぐに悠介も笑みを浮かべて頷いた。
きょろきょろしてコートの状態と設備をリョーマが確認する一方、彼女は頼りになりそうだと判断する。初めに声をかけてくれたこともあって悠介は彼女に質問をした。
「ここって特別なルールとかある? そもそも俺たちって参加していいのかな?」
「全然いいよー。一見さん大歓迎。でも一応ルールはあって、1ゲームで交代。サーブは一球ごとに二人で交互に打つこと。あと、ダブルス専用だよ」
「あ、専用なんだ。どうする? やめる?」
「は? なんで」
リョーマに振り返った悠介が質問した途端、ぎろりと睨まれた。
今やすっかり慣れたのか、その程度では怯まずに悠介は平然とした顔だった。
「よく考えたらお前とダブルスって大変だなーと思って」
「ちょうどいいじゃん。やるよ」
「はーい……えっと、いいかな?」
「ふふ、どうぞ。最近メンバーが変わり映えしなかったし有難いんだ」
少女はそう言って二人を受け入れた。
傍らにラケットを入れた大きなバッグを置いていて、身に着けているのはテニスウェア。同い年らしいがどこの学生かはわからない。ただプレイヤーであることは間違いなさそうだ。
了承を得た二人も準備を始めようとして、そのためにも悠介が少女へ振り返った。
「簡単にだけど俺たち着替えていい?」
「あ、うん。見とけばいい?」
「いや逆⁉ 見といてほしいわけじゃないから!」
「あはは、ごめんごめん。じゃあ向こう向いてるから」
楽しげに笑って少女が背を向ける。
初対面だというのにさほど珍しくないやり取りな気がした。
やれやれと肩を落とす悠介を見やり、リョーマは小馬鹿にするように薄く微笑む。
「振り回されるの好きっスね」
「俺の意思じゃないんだよ。好きになってたまるか」
ぶちぶち文句を言いながらも陰に入って簡単に着替える。
準備を終える頃には少女が声をかけてきて、おそらく自分たちだろうと気付いた悠介が、反応を見せないリョーマに代わって返事をした。
「私、不動峰中の
「不動峰中……あ、俺は宮瀬悠介。こっちは越前リョーマ。青学中テニス部だよ」
「青学? へぇ~すごいじゃない。強豪校の人だ」
「や、別に俺たちがすごいってわけじゃ……っていうか普通にこっち見てるじゃん⁉ さっきの確認は何だったの⁉」
「あ、ごめん。どんなリアクションするかなーって思って」
「普通にびっくりしますけどっ!」
「遊ばれてますね」
呆れもするが、こういうところは素直に感心する。きっかけが何であれ初対面の相手と親しくなるのがスムーズで上手い。いじられて逐一反応するのがウケるのだろうか。
見習うつもりは一切ないものの、そういう人なのだと理解し、リョーマはフンと鼻を鳴らした。