「大会……出るけどさ」
そうだ、出るんだ。
自分から誘いはしたけど意識したら妙に緊張する。
考えてみたら俺は大会に出るのなんて初めてで、練習試合くらいなら経験あるけど、お客さんが居る前でプレーする経験なんてほとんどない。
レギュラーで公式戦の経験なんてないし、小学生の頃も練習するのが好きだったわけで、嫌ってわけじゃないけどなんとなくそういう場には参加していなかった。
誰でも参加可能だけど跡部さんのせいで注目度が高くなった大会だ。結構軽はずみだったかも。
「俺は、あんまり勝ちたいとかって気持ちがなくて、それじゃだめだろうって思うから参加することにしたんだけど。なんか、その日が近付いてもふわふわしてるっていうか。いまだに実感なくてちゃんとやれるのかなって思ってる」
我ながら情けないとは思うがついつい言ってしまった。こうした行動も普段と変わらない、他人を頼りたくなる甘ったれなんだろう。
最初に来た日から数日通い続けたおかげもあって、杏ちゃんとは仲良くなれた。橘さんって呼ぶとちょっと怒られる。呼び方として“橘さん”より“杏ちゃん”の方がかわゆいかららしい。
話をするようになって日が浅いけど気付けば言ってしまっていて、杏ちゃんは馬鹿にするわけでもなくうーんと考えていた。
「うちは全国目指すようなガチの部活だし、俺がレギュラーになったのもなんていうか、実力もある意味では評価されてるかもしれないけどそれだけじゃないっぽいし。ちょっと、やめた方がいいのかなとか考えたりしたんだけど」
「それはだめだよ。やめたら絶対もったいないって」
「いやまあ、やめたいわけじゃないんだけど。一応目標にしてたレギュラー入りも、叶ってみたら案外スッキリしなかったってのもあるし。俺より相応しい人が、とか色々考えちゃって」
「うーん迷える子羊ですな」
「ほんとすいません」
杏ちゃんは明るい性格でノリがよかった。それに優しいから俺が弱みを見せたところで微笑みはしても馬鹿にして笑うことはない。だから話しやすかったんだと思う。
その時もにこっと笑って、しょぼくれる俺の顔を覗き込んできた。
「それなら、越前君のために頑張ったら?」
「……えぇ?」
「あ、嫌がってるねー」
「そんなことはないけど。どうしてそんな結論になった?」
「ん~、話聞いてると宮瀬君はダブルスが上手だし、部員にも認められてるし、越前君はダブルスが苦手なのに君とだけは上手くプレーできる。君自身は大したことないって思ってるかもしれないけどそれってすごいことなんだよ」
普段からかわれることが多いから、そうして真面目に語ってる姿の方が珍しかった。
その言葉は素直に嬉しい。褒められるのが嬉しかったからだ。当たり前のことなんだけど。
杏ちゃんが、俺を慰めるためだけじゃなくて、本音でそう言ってくれているのが嬉しかった。
「みんなの顔色を窺って心配して、ここに来る人とすぐ仲良くなっちゃうのもすごいけどさ。私から見てると君はもっとわがままになってもいいと思うな」
「そう言われても……どうすればいいかわからないな」
「だから越前君のためにだよ。参考になるでしょ?」
「あぁ、そういう意味では確かに」
ストリートのコートに来てた初対面の人と、試しにダブルスを組んで試合している越前を見る。相変わらずのプレーで存分に迷惑をかけていた。相手が年上のお姉さんで、越前のことを可愛いと思ってるみたいだからトラブルになってないみたいだけどハラハラする。
わがままの参考にって、あいつほど適任は居ないな、ってあのプレーを見て思う。キレられそうだから本人には絶対言えないけど。
「ダブルスって一朝一夕じゃできないじゃない。私もテニスしてるし男子の応援もしてるからそれなりにわかってるつもりだけどさ。誰とでも組めるって結構すごいことだと思うよ」
「んん……そうなのかな」
「ふふ、実感してないね。君にとっては当たり前だからなのかな」
「誰にも迷惑かけないようにって、それは意識してたから」
「自分のためには頑張れない?」
そう言われるとやっぱり困ってしまう。
テニス部が全国制覇するためとか、自分以外の誰かが理由になると頑張れる気がするんだけど。
「だから越前君のためにだよ。自分のためには頑張れなくても彼のためなら頑張れるでしょ?」
「まあ……ちょっと複雑だけどそうかもしれない」
「誰かのために努力できるっていうのは悪いことじゃないよ。君がやってることは間違ってない。ただ思春期らしく揺れ動いてるけど」
「うっ。仰る通りで……」
「ね、大会で優勝したらちゃんと自信になるんじゃない? 俺はダブルスで最強だぞって」
とんでもないことを言い出した。思わず苦笑してしまう。
「流石にそれは――」
「無理って言葉禁止!」
「む、り……じゃない、です」
「うん、よし」
ビシッと指を突き付けられて反射的に息を呑んでしまった。
どうも彼女は距離感が近いというか、危うく指先が俺の唇に触れるところだ。そういうのあんまり気にしない人なんだろうか?
俺が恐る恐る答えると、さっきの厳しい表情から一転してにこっと笑われる。
「じゃあさ、約束しよ。越前君を大会で優勝させるって」
「え? それ、つまり俺が優勝するってことでもあるんだけど」
「もちろん。だってダブルスは一蓮托生、ペア組んだ以上はどっちが良い悪いじゃなくて二人ともに責任があるんだから。でも君の場合はそう考えた方が頑張れるでしょ?」
「それは……そうなのかな」
「ね、だから約束」
今度はピッと小指が伸ばされる。
意味はわかるけど、咄嗟に反応することはできなかった。
「応援しに行くから、君たちが優勝するところ見せてね」
「そんな、相手も相手なのに……」
「だからこそいいんじゃない。君に必要なのはカウンセリングじゃなくて荒療治だよ」
「厳しいなぁ」
「でも勝たせてあげたくない? 先輩のために頑張ろうとしてる後輩だよ」
なんというか、俺の扱い方をわかってるって感じの言い方だ。乾先輩を思い出す。
そりゃあ、初めて後輩ができて、中でも毎日一緒に居る奴だから情はある。わかりにくいけどあれで俺に気遣ってくれたり勇気付けてくれたりすることもあるわけだし。あいつが勝ちたいと言うんなら、勝たせてやりたいって気持ちにもなる。
うん……やっぱりそうだ。勝ちたいって気持ちはあんまりないけど、勝たせてやりたいって気持ちの方がずっと大きい。
「私は無理だなんて思ってないよ。君たちなら本当にできるんじゃないかって信じてるから」
その一言がきっと後押しになったのだと思う。
これは、越前のためでもあるし、期待してくれてる彼女のためでもある。
ようやく俺も小指を伸ばせて、杏ちゃんの指に絡ませた。
ほわっと嬉しそうに笑う顔を見て、なんだか妙にこそばゆかった。
支配など、自分とは縁のない言葉だと思っていた。
ただ凄い人に認識されて、それだけで嬉しかったのに、道を示された時に困惑する。
果たしてそれは自分の進むべき道なのか、と。
考えてみれば隣に居る彼には合いそうな言葉だ。イケイケで恐れも抱かずに攻め続ける彼には後輩ながら尊敬の念を覚える。同時に自分がそうできるだろうかと悩んでしまう。
「集中してよ。全部勝つんだから」
「わかってるよ」
リョーマに声をかけられて我に返る。
確かめるにはやはり試合で試すしかない。
何かが掴めそうなのだ。跡部の姿を見てから確実に何かが変わろうとしている。しかもそれは小春を見た時よりも大きな衝撃で手応えのあるものだ。
ラケットを持った悠介はベンチを離れてコートに立つ。
人知れず静かに胸が高鳴っていて、自身への期待を感じていた。
いつもとは違う。今日はやはり特別だった。
ネットを挟んだ向こう側には自分たちと似たような組み合わせの二人が立っていた。しかし確実に違っているのは周知の事実であり、注目を集めると共に緊張感も生まれている。
すらりと長身で鋭い目付きの銀髪の男、
見るからにあわあわしている小柄な少年、
初めて見る人でも先輩後輩のペアだろうと察するものの、不良然とした亜久津と気弱そうな太一の組み合わせは嫌に目を引き、同じく先輩後輩である悠介とリョーマとは対照的だった。
「あわわわわっ、まさか本当に越前君と対戦できるなんて……! 感激です!」
「はあ、どーも」
「ビビってんじゃねぇよ太一。鬱陶しいからうじうじしてんな」
慌てふためいている太一は目の前に立ったリョーマに関心を寄せているらしい。背丈はほとんど変わらない。細身であることも共通している。それなのに彼が異様にテニスが上手いことに尊敬を覚えているのだろう。
落ち着きのない太一を見て亜久津は隠そうともせず舌打ちをした。眼前に立った二人へ向ける視線は侮蔑とも興味がないとも取れるものだ。
「テニスなんてよぉ……遊びにもならねぇ。つまんねぇんだよ。どうせお前らも大したことねぇんだろうが」
亜久津は、始める前から失望したと言いたげな顔でため息をつく。
リョーマと悠介を見る目に期待など微塵もない。ある意味では絶対の自信があるとも言えるがそれ以上に絶望している顔に見えた。
その言葉を聞いた太一は気まずそうに俯いてしまい、何も言えない。何やら事情を知っていそうだと感じさせる態度ではある。
最も早く反応したのはにやりと笑うリョーマであった。
「あんた、強いの?」
「あ? 当然だろうが。どいつもこいつも雑魚ばっかりでつまんねぇんだよ」
「ねぇ、雑魚以外と戦ったことないんじゃない? 本当に強い奴は知らないんでしょ」
「あぁ?」
明らかに挑発的な言動だった。
亜久津は顔をしかめて怒りを露わにし、思わず太一が先程以上に動揺し始める。出会ったばかりだが憧れの存在であるリョーマが殴られるかもしれないと感じたからだろう。
こうした場面では太一同様、大抵慌てふためいているはずの悠介は考え事をしているらしく、珍しいほどに静かでぼんやりしていた。従って彼を諫めようというつもりがない。
「てめぇ、舐めてんのか」
「舐めてんのはむしろそっちでしょ。大口叩いてると負けた時恥ずかしいよ」
「ハッ、おもしれぇこと言うな。まさかお前が俺に勝つって意味じゃねぇよな?」
「そのつもりだけど。あんたのこと、ちっとも怖いとは思わないし」
「あわわわ、ちょ、ちょっと、お二人ともその辺で……!」
挑発は完璧に成功した。
眉間に皺を刻んで額に青筋を立て、顔色を変えた亜久津がラケットでリョーマを指す。
観客がざわざわして動揺する中、当人たちは一瞬たりともぶつかった視線を外さなかった。
「よぉし、いいだろう。お前は俺が直々にぶっ潰してやる」
「お願いしまーす。まあ潰すのは俺だけど」
「クソ生意気なのは立派だが口だけじゃねぇだろうな? 小僧」
「そっちこそ。偉そうに言っといてヘタクソとかやめてよね」
「あわわわわっ……!」
火花を散らして、いつ殴りかかるとも知れない剣呑な雰囲気だった。当然のように太一が震えているのも無理からぬ雰囲気だろう。相手は中学生とはいえ、審判も迂闊に声をかけることができずにいる。
そうした状況下において、ぼけっと突っ立っている悠介が脇腹を突かれた。その衝撃でようやく動き出してぶすっとした顔のリョーマに振り返る。
「いてっ。なんだよ」
「ちょっと。なに黙ってんの」
「え? あぁ……喧嘩してた? ひょっとして」
「間抜け面してないでちゃんと聞いといてよ」
「ごめん。ん? 間抜け?」
「ハッ。こんな奴がパートナーかよ。お前の言う通り間抜けじゃねぇか」
嘲笑する亜久津が口を挟んで、ようやく悠介が彼と目を合わせた。
恐れる様子はない。どこか呆然としていて心ここに非ずといった態度だった。
「こんな奴が居て俺に勝てるとでも思ってんのかよ。つまんねぇ試合なんかしやがったらお前ら負かした後にぶん殴るぞ」
「まあまあ、やってみなきゃわかりませんし」
「わかるんだよ。テニスなんか下らねぇ。暇潰しにすらならねぇじゃねぇか」
心底つまらなそうに言って亜久津は舌打ちをする。
それは他者への怒りであり、自分への苛立ちであり、テニスへの失望でもある。複雑な表情からは様々な感情が読み取れた。
彼はテニスが嫌いなのだろうか? それなのにここに居るのだろうか。
うーんと唸った悠介はさっきと違わない声色で話し出す。
「亜久津さんって、今まで一回も負けたことないんですよね」
「あ? なんで俺のこと知ってやがる。気持ち悪ィ」
「わかりました。それじゃあ、本気で勝ちに行きます」
顔つきが違った気がした。悠介を睨む亜久津がこれ見よがしに不機嫌そうな顔をする。
「なんとなく、今ならそれができる気がするんで。多分負けないです」
「ほう……上等じゃねぇか。さっきの言葉、忘れるんじゃねぇぞ。てめぇらが負けたらそのムカつく顔面ぶん殴ってやるからな」
ネットを離れて、やっと試合が始められようとしていた。
少し前から言葉を失ったままの太一はなんとか亜久津をなだめようとするものの、殴られこそしないが彼をコントロールできた試しなどない。ぶん殴るという発言を撤回させることはできそうになかった。
その一方、リョーマは意外だと言いたげに悠介を見ている。
影響されやすいのはわかるが、そこまで強気な発言はやはり珍しい。
「自信あるの?」
「え? いやないけど」
声をかけてみたら失望してしまうほど普段と同じだった。若干ふわついている彼は緊張と緩和の狭間で揺らいでいて、まだ集中しきれていないようだ。
試合が始まれば大丈夫か、とは思うのだが、気になる。
開始される直前までリョーマは悠介に声をかけ続けていた。
「完成形とか言ってたけど、あれ信じてんの?」
「いやぁ、どうだろう。そっくりそのままってわけじゃないと思うから、俺があの通りになれるとは思わないよ。そもそも基礎能力が違い過ぎるってネックがあるし」
「その割には落ち込んでないよね」
「うん。あれと同じは無理でも、道は示してもらえた気がする」
皮肉にも亜久津とは真逆の眼差し。希望に満ちて自分に期待している。
その眼はさっきまでとはまるで別人だ。
「俺は、勝ちたいとは思ってないけど、負けるわけがないって思ってる」
思わず笑ってしまって、リョーマは上機嫌そうに自分の位置へ移動した。