「どうやらお前は実力と精神力が釣り合っていねぇようだな」
両手で揉むようにして自分の顔に触れる悠介は迷惑そうな表情をしていた。
克明に浮かび上がるのは困惑。なぜこうなるのだ、という気持ちが隠せていない。試合中ならばいざ知らず普段の彼は割かし感情が素直に顔に出るため、一目見れば困り果てているのは相手にも伝わっていただろう。
わかっているとは思うのだが、まるで気にされていない。困るのならば大いに困れとでも言いたげな楽しそうな態度だった。
些細な偶然とはいえ、これは不幸か。ばったり出会ってしまった跡部景吾が朗々と語る。
「精神論は信じちゃいねぇが、勝負をする以上は気持ちってやつは切っても切り離せねぇ。たった一試合、一応とはいえ、お前はこの俺様の興味を引く試合をしたんだ。いつでもあれができねぇようじゃ意味がない」
「はい……そうは思ってるんですが」
「勝たなきゃいけない、なんて思ってる奴が勝てるはずもねぇだろ? 特にお前みたいな奴はな、虚勢だろうが愚かな嘘だろうが必要以上に自分を大きく見せるくらいでちょうどいいんだ」
「えっ」
「自分を騙せ。己の本領をいつでも発揮できるようにしろ。ダブルスだシングルスだと理由を捏ねるのは二流三流の証拠。一流のプレイヤーがすべきはただ一つだ」
指をさされて、時が止まったかのような錯覚を覚えた。
少し離れた位置では同行していたリョーマと樺地崇弘が見ている。しかしいつしかその存在を忘れて彼に見入り、他の情報が一切入ってこなくなる。
取り込まれていく。そんな感覚。
跡部の笑みを見る悠介はざわざわと奇妙な感覚を感じていた。
「全てを支配しろ。己も、パートナーも、戦う相手ですら。お前の全てでコート上を手中に収め、ゲームを思うがままに進めろ。今のお前ならできるはずだ」
「そ、れは、できたらいいと思いますけど……」
「まずはそのヘタレっぷりをどうにかする必要があるな。やると自分で決めろ。そして実行しろ。お前の意思でゲームを支配できた時、ようやくそれで俺様の足元に立ったってところだな」
その言葉を疑わない。目の前に居ながら遥か高みに居る。
導かれているのだと知って悠介の心は踊った。彼は良くも悪くも他人に影響され、他人と比較して自分の価値を決める。現状弱気なのは間違いない。他人の真似をして騙し騙し進んでいる自分では本当の実力者には敵わないと考えていた。
それでも、高みから手を差し出されたその状況は、そうした思考を忘れるほど鮮烈だった。
ただ背中を見せて部を引っ張る手塚とは違う。
優しく手を引いてくれる不二や、気まぐれに軽く背を押す乾とも違う。
お前もこっちへ来いと、断れないほど強引に腕を引っ張られる感覚。
彼に言われたら行けるかもしれないと思ってしまった。そのせいか体がわずかに震える。
「試してみたくねぇか?」
「どう、すればいいですか?」
彼にとっては単なる気まぐれだったのかもしれない。そうしなければならない義理などあるはずがなく、興味を失えばそれまででしかない行動なのだろう。
構わない。せっかくのチャンスなら賭ける価値がある。
目の色が変わった悠介を見て、跡部はふんと鼻を鳴らして言った。
「普通じゃ退屈だ。臆病なお前は相手にこうでも言ってやれ――」
試合の流れが明らかに変わる。
序盤にゲームを連取した亜久津・壇ペアはそのまま勢いに乗るかと思われた。だが3ゲーム目が始まると雰囲気は一変する。
崩れるきっかけになったのは、ゲームを連取した亜久津だ。
ボールをぶつけられてからというもの、気合いが入ったようでプレーは荒々しく、さらに正確性を増して苛烈な攻めを開始していた。しかしそうした状態に反比例して得点できなくなり、見るからに先程よりキレを増しているのに同じ展開が続く。
得点パターンは常に同じだった。
悠介が返球し、亜久津が打ち返すと、とどめとばかりにリョーマが得点する。
調子を上げていく彼らの姿に苛立ちは募る。
流れがなんだ、変えてやる。そうして亜久津が果敢に攻めるのだが思うような展開にならない。
まるで事前に決められた通りの動きをしているかのようだった。
しっかりと地面を踏みしめた悠介が、右手を伸ばしてユラリとラケットを揺らした。
先程も見た動作。癖なのか、そのスイングに欠かせない準備なのかもしれない。どちらにせよ次の打球に気付かないほど亜久津は鈍くなかった。むしろ集中力が増すと相手コート内の情報を全て取り込もうと視野を広くし、どんな些細な動作ですら見逃さない執念深さを見せている。
恵まれた身体能力のみならず、彼を神童たらしめたのは高い集中力、広い視野と冷静な判断力、物怖じしない性格と負けず嫌いだった。
予想した通り悠介が“スネイク”を繰り出した。打球が大きく弧を描いて飛んでくるが何度も見ていれば驚くほどの技ではない。
亜久津が変化している最中のボールへ自ら飛びついた。跳んだ勢いさえ利用し、コンパクトな両手のスイングで打球を捉え、逆サイドを狙って腕を振り切る。
「オラァ! 舐めてんのか間抜けがァ!」
強烈な打球がネットを越えようとした瞬間、亜久津が目を見開いた。
待ち構えていたリョーマがすでに打つ準備を終えていて、軽く跳んで迎え入れる。
「打ちやすいだろ……!」
「やるじゃん」
迷いのないスマッシュが、亜久津が飛びついたことで空いたスペースへ突き刺さる。フォローしようとしていた太一の手では止められず、当然隙をつかれた亜久津は何もできずにその状況を理解するのみだった。
リョーマはくすりと笑って、立ち尽くす亜久津へ声をかける。
「何? ひょっとして自分のことだった?」
あからさまな挑発。その一言が効いて頭に血が昇っているのは明らかだった。
慌てる太一はわざわざ亜久津の傍へ駆けつけて落ち着かせようとする。
試合が始まってから常に彼は亜久津に好意的であり、尊敬していることがよく伝わる。自分たちとは正反対だなと悠介は見守っていた。
「ドンマイです亜久津先輩! ああいえっ、足を引っ張ってる僕が言うのは偉そうだし説得力ありませんけど、今のはしょうがない――」
「うるせぇぞ太一! 余計なこと言ってんな!」
観客が盛り上がる中、亜久津の怒声が響く。思わず会場にあったはずのざわめきが止まってしまうほど感情的な大声だった。
冷静に見れば、外見に見合った行動なのだろうと多くの人が思う。柄の悪い亜久津が苛立ちを隠さなくても、それはそうだろうな、と思うだけ。ただし彼の隣に居たのは小柄で気弱そうな壇太一であり、彼らの関係性を知らない者はつい心配してしまう。殴られやしないだろうかと考える観客は少なくない。
そうとは知らずに、空気が冷え切ったことに気付かず亜久津は全身から熱を発していた。
「俺が流れを変えてやる……! お前は黙ってついてきてりゃいいんだ!」
「は、はい! ついていきます! 僕は亜久津先輩を信じてますです!」
徐々に余裕が失われているのは火を見るより明らか。良い傾向ではない。
亜久津は、テニスを舐め切っている一方、練習などせずとも体力も技術も並のテニスプレーヤーなど軽々凌駕する。だからこそ熱が入らなくて馬鹿馬鹿しいと断じているのであり、碌に身を入れていない今でさえジュニア選抜経験者の千石が一目置く選手なのだ。
それ故に現状の異質さには感覚的に気付いている。
ここまでのプレーは何かがおかしい。自分の思い通りにはならずに、相手の思い描いた通りの展開が作られている気がする。
このペースを崩さなければ。それはわかっていた。
冷静になれば亜久津は焦りを捨て、苛立ちを忘れてゲームに集中する。
顔つきが変わる。それでも悠介の目つきは変わらない。
さっきの一言で理解した。
もう彼らには負けない。自分に言い聞かせるだけの言葉が確信に変わる。
「オオオオッ!」
覚悟を決め、勝ちを狙う亜久津のスイングはさらにパワフルなものに変化する。
スピードはもちろん、完璧かつ彼にしか実現不可能とさえ思える柔軟なフォームにより、どんな姿勢からでもパワーショットが打ち込まれる。しかも初動が早く、どこを狙おうとも逃さず即座に追いつき、相手に休む時間を与えない。
早いテンポでどんどん打ち込み、攻撃は一方的に繰り広げられているかのように見えた。
強い意志を持ってそうしていたのだが、所詮は付け焼刃。さらに言えば太一の考えは度外視して亜久津の意志を押し通したに過ぎない。
リズムを変えてプレーの様子が一変するのは早く、崩れるのもまた早い。
悠介がミスをしたように見えた。ふわりと浮く弱々しい打球がコートの中央へ落ちる。
攻め時だと感じて亜久津が飛び上がるまで一秒すらかからない。
自力で試合の流れを変える。そのために必要な打球が来て、変えられる力量があるのだから迷う必要はない。彼自身が実行しようとしたその時、太一が青ざめた。
「舐めやがって……!」
「だ、だめですっ⁉」
「喰らいやがれェ‼」
ドカッと荒々しい音を伴う強烈なスマッシュ。亜久津の渾身の力が込められていた。
その打球を直接ラケットで受け止め、力を受け流しながら体が反転し、ラケットを掲げる。
ふわりと上がったロブは狙った通りにコーナーのライン上へ落とされて、咄嗟に逆サイドへ走ろうとしていた太一が間に合わず、誰にも触れることなくコートの外へ出る。
スマッシュに対して圧倒的な優位を取るカウンター“羆落とし”。
さっきはスマッシュが決まった。だから今度も流れを取り戻せると思っていた。そんな瞬間に見せられた、対戦相手を嘲笑うかのような必殺技。
なぜさっきはやらなかったのだと動揺し、呆然とする亜久津は悠介を見つめていた。
合わせられた彼の視線は冷ややかで、まるで亜久津を責めるようだ。
「て、てめぇ……! ふざけるなァアアアッ‼」
亜久津のプレーがさらに激しく強くなった。
我を失ったのではないかという大振りのスイングに、それでも冷静で居ようという足捌き。迫力を増した彼の存在感は多くの人々を惹きつけた。しかし悠介の態度は変わらず、それどころか彼のプレーからも攻めようという気概を感じる。
ラリーを長く続けるつもりはない。悠介は早々に攻めるため、ラケットの面にボールを転がし、相手の力を利用して打ち返す。
何かおかしい、と察した太一とは違い、打ち返すことに拘る亜久津は迷わず走る。
打球が地面に触れた途端、強烈なスピンを利用して弾むことなく転がる。
相手がかけたトップスピンを利用してボールを転がすカウンター“つばめ返し”。
真っ直ぐに向かってくるボールを見て、驚きこそしたが構うものかと目つきを鋭くし、亜久津は姿勢を低くしてラケットを振るう。勢いよく転がるボールを掬い上げようとして、辛うじてボールは浮いたもののネットへ直撃して向こうへ返らず、ラケットは地面に当たった衝撃で手から離れて飛んでいった。
反射的に目にした悠介の姿は何も変わらず。喜ぶこともなく、驚いてもいない。それが当然と言わんばかりの冷静さでじっと見ている。
視線を合わせた亜久津は愕然として、テニスを始めて以来、初めて悪寒を覚えた。
自分の思い通りにならない。予想だにしないことが起こっている。それがどうやら、彼の思惑通りに事が進んでいるようなのだ。
「あ、亜久津先輩……あの、その」
「チィ、気に入らねぇ……!」
異変は感じているが退くつもりはない。
亜久津は攻め気を変えなかった。
愚直なまでにひたすら攻めのプレーを続けて、自分が得点を取るのだと決断しており、その姿勢に迷いは皆無。何がなんでも状況を変えてやるという気迫がある。
慌てふためく太一が必死にフォローしようとする姿には気付かぬまま、彼は広いコートを自由気ままに駆け回ってボールを打ち返した。
今度は悠介を警戒し始めた矢先、リョーマが続けて素早い攻撃を行う。
まるでそこへ打つよう導かれているかの如く、打ち返したボールにリョーマが労せず追いついて待ち構え、素早いスイングで的確に捉える。
狙い澄ましていたのだろう。追いついたはずの亜久津の腕の下を打球が通り抜けた。
攻撃のレベルが数段上がっている気がした。
今まで手を抜いていたのか、偶然の産物かはわからない。判断材料が少なく考えようがない。
少なくとも手玉に取られているのは確実であった。
「そんなもん?」
やれやれと言いたげにリョーマが声をかけてくる。
反論する余裕すら失ったのか、すぐにプレーを続ける亜久津は行動で応えようとした。
しかし、取れない。
ポイントは一つとして取れなくなり、なぜだ、という感情が胸を占めていく。
自分は何も変わっていない。手を抜いているわけでもなければ急に動きが悪くなったわけでもないと自覚している。それなのになぜこうも急に一方的になったのか。
亜久津の目が悠介を捉えた。彼は無慈悲に、冷たい目で亜久津を見据えていた。
「てめぇか……」
「落ち着きましょうよ亜久津先輩! 大丈夫です! まだ挽回できますから! 僕がお手伝いしますから、もっと亜久津先輩本来のペースで――!」
「うるせぇ! 黙ってろ太一!」
士気を上げようとする太一を一喝して止め、あくまでも敵と向き合おうとしていた。
その態度こそ問題なのだ。
何度繰り返しても同じ。もう捕まえた。
ゲームの展開が早くなる。
観客がおおっと声を漏らして、応援せずにはいられない。
悠介とリョーマのペアはラリーもそこそこに次から次へ得点していき、ゲームを奪取していく。
意識的に点を取ろうとしていた。その意図が伝わってくる。太一に何もさせず、亜久津の反応や行動を見切った上で体のすぐ傍から点を取っていった。
意識するだけで大きく違う。コートにある全てが情報として捉えられ、相手の動きや癖、得手不得手が鮮明になり、どこへ打てば得点できるのかがわかる。
それでいて悠介はリョーマの動かし方を心得ていた。どんな打球が好みで、どんな返球なら打ちにくいか、よくわかっているからこそ相手までをも自分の意思で動かす。
連続してゲームを取り続けて、終わりは確実に近付いている。
その最中、様子の変わった悠介がぽつりと呟いた。
「その子の方が上手い」
「あぁ?」
「弱点はあんただ。ダブルスができない奴とやったって負けるわけがない」
らしくない物言い。唐突な挑発だ。
亜久津は反射的に激情を露わにして、怒りの形相で睨みつけた。
そんな彼を冷たく見やり、悠介が呟く。
「どけよヘタクソ。お前は眼中にねぇんだよ」
ばしゃりと、冷や水を浴びせられたかのような衝撃だった。
自分が置かれた状況とゲームの展開。彼からぶつけられた言葉。これまで経験したことのない、むしろ自分が言う側だった言葉を言われているあり得ない瞬間。
亜久津は噴出するような怒りを忘れて、呆然とした顔で立ち尽くした。
短気ではあるが馬鹿ではない。たった今、正しく理解してしまった。
この試合、彼の掌の上で、彼が思う通りに踊らされているのだ。
これまで感じたことのない屈辱を理解した途端、それを知らない亜久津はただ混乱してしまう。
勝負はすでに決したに等しい。
対峙する二人の状態を確認した後、悠介を見るリョーマはやれやれと頭を振る。
「言われたまんまじゃん」
呆れる気持ちはゼロではないが、しかし実を言えば、それ以上にその状況を楽しんでいる。
持てる力を全て使った彼はやはり強い。
珍しいと思える姿ではあるが、すでに知っている立場からすれば不思議ではなかった。以前見た時より凄いと思うがそれさえもそりゃそうだとしか思わない。
やればできるじゃん、と口には出さずに、リョーマは珍しく上機嫌な様子で素直に笑っていた。