終わるのか、と思った。
終わりたくない、と思った。
何か手はあるはずだと必死に考えて、精一杯頭を悩ませて、今の自分では何もかも足りない。だがこのまま諦めて終わるのだけは嫌だと思って、気付いた時には言っていた。
「亜久津先輩、僕を頼ってくださいっ」
太一が真剣な目で訴えかけた時、亜久津は振り返らなかった。先程までと同様、これまでに見たことがない、ぼんやりした態度で立ち尽くしている。
ショックを受けたのかもしれない。仮にそうだとしても、仕方ないとしても、そうして足掻かずに終わるのは、彼らしくないと思ってしまう。
何かしたいのだと普段は大人しい太一が必死になって訴えた。
「僕は、弱いです。テニスは始めたばっかりで、まだまだ下手です。せっかく上手い亜久津先輩の足を引っ張ってばっかりです。でも……これはダブルスなので、僕にもできることがあるんじゃないかって、思うです」
日頃の弱気な態度とは裏腹に、譲らない態度である。しかし亜久津の意思をないがしろにしたいとは思っていなくて、あくまでも彼の許可があって成り立つのだと考えていた。それ故に彼は強制しようとは思っていない。
亜久津のためを思い、ただ心配していた。この声が届けばいいと思っていた。
「亜久津先輩……もう一人で戦わないでください! 僕だって、下手なりに頑張りますから、全部自分のせいにしないで……! これは二人の責任です! 僕のことも使ってください! 下手ですけどできることはなんでもやりますから!」
亜久津は振り返らなかった。
届かないのか。短いとはいえこれまでの時間があってもどうにもできないのか。
太一が俯いた時、二人の交流は失われ、ペアとしての形は崩れた。
精彩を欠く亜久津のプレーはお世辞にも褒められたものではなく、独自の強みを持っていた先程とも違って、足掻こうという意思は感じるのだが結果が伴うものではない。
心の内を訴えて、届かなくて、それでも彼のために動きたいとプレーする太一は、残念ながらまだ彼らと同じレベルではゲームについていけなかったらしい。
最初の2ゲームは敢えて与えた。
無意味ではない。結果は想像した通りだったのだ。
「頼む」
「りょーかい」
辛うじて亜久津が打ち返したボールに反応し、リョーマが前方へ向けてダッシュする。勢いをつけると迷わず膝を畳み、両足を曲げた状態でスライディングをして、ネット際まで来ると思い切り地面を蹴りつけて飛び上がる。
やってくるボールを正面から打ち据え、勢いよく返した。
コートから出てアウトになるかと思われた打球は急速に落ちて、ライン内側ギリギリでタタンと二度ほど地面を叩く。その軌道はまるでアルファベットのBのよう。
「ドライブB……ダメ押しにはきつかったかな?」
「いや、よくやった。十分だ」
「ゲームセット! ウォンバイ宮瀬・越前ペア! ゲームカウント6-2!」
審判がコールしたことで観客が一気に盛り上がる。
序盤こそどうなるものかと思ったものの、中盤からは明らかに彼らが主導権を握っていた。その結果は当然だと思われただろう。
肩の力を抜いた悠介はふうと息を吐き、リョーマは手の甲で汗を拭う。
肩を落として残念そうな太一は予想できる姿だったが、もう一人は意外であった。
亜久津は、意外にも怒りや苛立ちを見せることなく、怖くなるほど冷静な目で悠介を見ていた。不思議なほどに敵意は感じられず、何も言わない。そのまま何も告げずに握手さえせずにコートを出ていったのだ。
「握手は?」
「おい、やめろ。俺今心臓バクバクだぞ」
「あ、あの! ありがとうございましたです! 応援してますから、この後も頑張ってください! あああと、えっとえーっと……!」
慌てたたくさん喋る太一はまだ何か言いたそうにしていたが、亜久津が先に行ってしまうため、早く追わなければと考えていたのだろう。結局は言い残したことを伝えられないまま、深々と頭を下げてから急いで去ってしまう。
これでよかったのかもしれない。
深く息を吐いた悠介を見るリョーマの視線はどこか冷ややかだった。
「ヘタレ」
「う、うるさいな。頑張っただろ」
「あのままだったらもうちょっと褒められたのに」
「褒めてくれよ、頼むから。結構いいゲームだっただろ?」
「まあね」
試合が終わればいつも通り。変わらなさ過ぎるのがおかしいくらいだ。
悠介とリョーマは普段の雰囲気に戻り、いつも通りのやり取りを始めた。
大股で歩く亜久津は会場を出ようとする。必死に走って追いついた太一は止めようとして、しかし何と声をかければいいのかわからずに口籠る。
太一は亜久津に心酔していた。純粋に尊敬し、彼のためにテニスをしたいと考えていたほどだ。
それだけにそう易々とは声をかけられずに、ただ無言で後ろを歩くことしかできない。
外へ出た時、亜久津の足が止まった。
ちょうど荷物を取りに行かなければと考えていたところだ。太一はほっとする。
亜久津が誰かを見ていて、あっと声を発したのは数秒後のことだった。
「ジジイ……」
「見させてもらいましたよ。お疲れ様でした」
「あっ、先生」
山吹中テニス部の顧問、伴爺と呼ばれる
いつもにまにま笑っている彼はその表情とは裏腹に非常に狡猾で、勝利に貪欲な人物である。素行の悪い亜久津を半ば強制的にテニス部へ入れたのも、効率的な練習で選手の地力を上げるのも、全ては自らが勝利の快感を味わうためだと言われていた。
彼らが大会に出ると知って見に来たらしい。ここで会って初めて知った。
さっきの試合を見て何を言うのか。
顧問としてか、観客としてか、伴爺は普段と変わらずにまにましながら言う。
「いやぁ、とてもダサかったですね。物凄くかっこ悪いです」
「せ、先生……!」
「テニスなんて簡単だと、負けるはずがないと言って練習をしなかったあなたが、まさか年下のペアに負けるだなんて。いくら不慣れなダブルスとはいえここまで一方的だとは思いませんでした」
じっと見つめこそするが感情を見せずに亜久津は押し黙っている。
太一があわあわしているのだが伴爺はまるで気にしない。どうやら太一を責めるつもりはないようなのだが、その分亜久津へ言うのだ。
「私が見ている限り、壇君はよく動けていました。最初は戸惑いや緊張もあったでしょうが、後半は特によかったです。ダブルスプレーヤーの才能発覚ですね」
「あ、ありがとうございますです……あの、でも、亜久津先輩は」
「ああ、そうですね。とてもダサかった。下手でしたね。ダブルスとしては0点、シングルスとして考えてもまあ、50点もあげられません」
「ジジイ……俺は今機嫌が悪いんだ。笑えねぇぞ」
亜久津がどこか力のない声で、いつもの迫力が失われた状態で呟く。機嫌が悪いとは言うがいつもの憤りは微塵も感じられない。初対面の時にはたとえ顧問であろうと伴爺の胸倉を掴んだというのに今はそうする気配がなかった。
対照的に伴爺は上機嫌な様子でにこりと微笑みかける。
「悔しいですか?」
端的な問いかけに亜久津は答えず、太一はぽかんとした顔をする。
「どうでしょう。今改めて指導を受けてみませんか? こう言うのもなんですが、素材は一級品。練習さえすればあなたはこれからもっと強くなる」
それは期待しているが故の勧誘。
山吹中テニス部員と、彼と対戦経験のある学校のテニス部顧問は知っている。伴爺は自らの目的を果たすための策はいくつも用意しているのが常。
太一が亜久津に憧れていて、彼のプレースタイルを真似しているのは知っていた。そんな彼が大会へ出ようと言い出したのは僥倖だった。自分の指示ではないが、上手く利用できると考えたのは事実である。
伴爺は彼の闘争心を煽るべく、優しい口調だが意志を持って語り掛ける。
「このまま終わってもいいんですか? あなたが最も嫌うかっこ悪い姿のままで」
太一は口を挟めずに、緊張した面持ちで亜久津を見つめる。
「彼らに勝ちたいでしょう?」
「……うるせぇよ」
亜久津の声は冷たかった。
もはや目の前に立った伴爺など眼中にない。再び力を取り戻し、普段以上の怒りを孕んで何かを見つめる眼差しは、すでに強い意志を抱えていた。
「誰の力も借りねぇ。俺は一人で強くなる」
言って亜久津は歩き出し、一人で行ってしまう。
思わず手を伸ばした太一だが止められずに見送ってしまった。
緊迫した雰囲気の一瞬。妙に情緒的である。
伴爺はやれやれと二人を見やり、その場に残った太一へ声をかけた。
「おおっと、そうなりましたか。うーん、上手くいかないものですねぇ」
「あの、先生……亜久津先輩は、その」
「大丈夫ですよ。むしろあの言葉は私にとっては有難い。なんせ、まだテニスをやめるつもりはないみたいですからねぇ」
伴爺が普段通りににこにこしている顔を見ると、さほど問題ではなかったのか。しかし一人でと言い切った亜久津のことも気になる。
状況は複雑で、冷静ではないせいか自分がどういう気持ちなのかもわからない。
混乱する太一が不安そうな表情を見せる一方、伴爺は心配もせず、亜久津が去った方角を見て今後の展望について考えていた。
無事に試合を終えて、勝ったこと以上に血生臭い展開にならなかったことに安堵し、胸を撫で下ろす悠介は試合が終わったというのに緊張していた。
指示された通りだったとはいえ、亜久津に対してらしくもなく挑発を行い、今までに感じたことのない衝動を味わった。あの瞬間、自分は確かに極度の集中状態にあって、初めて感じる力が湧き上がってくるかのように感じられた。
試合後の高揚感はいまだ落ち着かず。心臓の鼓動がやけに大きく聞こえている。
スポーツドリンクで喉を潤し、気持ちを落ち着かせようとする悠介が深く息を吐き出した。
試合には勝った。得た物はある。自分でもまだ感動を受け入れ切れていないが、自分の成長を感じずにはいられない。
実感を得つつある悠介が傍に居るリョーマへ目を向けた。
「さっきの試合、どうだった?」
呼びかけると彼はきょとんとした顔で振り返る。
伝わっていなさそうだと感じて、続けて悠介が呟いた。
「俺はなんか、こうすればいいんだってのが掴めた気がする。上手く言えないけど。亜久津さんは特に変わったプレースタイルだったのに動きがよく見えたし、思う通りに動かせた。なんとなく上手くなった気すらする」
「ふーん。なるほど」
手応えを感じているらしいことに気付き、リョーマは淡々と告げる。
「まあ、ちょっと変わった奴だったから面白かったっスよ。負けるわけないって思ってたし」
「お前さあ、その挑発的な態度どうにかならない? マジで心臓に悪い……」
「自分だって言ってたくせに。珍しく」
「いやあれは言われた通りだし……ちょっと調子乗った。慣れないことするもんじゃないな。今でも心臓バクバクしてる」
胸元を押さえて深く嘆息する悠介の姿に、呆れながらもリョーマは口元に笑みを浮かべる。
一時の暴走であったとしても、珍しく相手を挑発したあの瞬間に喜びを覚え、むしろ好ましいとさえ思ったのだ。普段からあれくらいなら、という想いもある。
ただし変化を如実に感じてもいて、見かけによらずリョーマが上機嫌だったのは、一戦するごとに悠介が着実に強くなっているのを肌で感じていたからだ。
抑圧されていた実力がついに実を結ぼうとしているかのような、本人もその周囲も感じている不思議な感覚があった。
ダブルスは苦手だったはずだが、彼と一緒にプレーするのは楽しく感じている。
上手く乗せられているのだとわかっていて、それが彼の凄いところなのだろうと理解した。
「気持ちよかったでしょ? 勝って」
「……まあ、なくはない」
「その感覚忘れないでよ。もう腑抜けないようにね」
リョーマがにこりと笑う。
同性とはいえ思わず見惚れてしまうような、晴れ晴れとした表情だった。
「今、結構楽しいっス」
「おぉ……そ、そうか」
珍しく素直でひねくれていない物言いに、反射的に怯んでしまった悠介はしかし、茶化すこともできずに頷く。
勝利の余韻がそうさせるのか、まさかの態度だったが悪くない。照れ隠しのつもりで頬を掻いた彼は褒められているのだろうと理解することにした。
「あー、頑張るよ」
「もう戻ってんじゃん。挑発は?」
「いやもうしないって。あれは言われただけだし、大体お前にしてもしょうがないだろ」
「なーんだ」
上機嫌なのは見て取れる。穏やかな笑みを確認して悠介が安堵した。
彼とのコンビネーションは向上しているはず。
このままでいけば優勝もあり得るかも。そんな期待を、一瞬とはいえ抱いたほどだ。
突然背後に人が立っても悠介はすぐには気付かなかった。
リョーマが不思議そうな顔をしたのを見てようやく異変を知る。
「強気で行けって。俺も断言してやる。お前は強い」
「え? ……ええっ⁉」
悠介が振り返った先には銀髪の男が居た。切れ長の目が楽しげに細められており、彼の動揺を楽しんでいるように見えた。
この時点で悠介は相手が誰なのかわかっているのだろう。わかっていないリョーマは深く考えるわけでもなく問いかける。
「誰?」
「立海大付属中2年、切原赤也」
「めちゃくちゃ嘘ついてるっ。3年の仁王さんじゃないですか!」
「プリッ」
なぜそんなリアクションになるんだ、と悠介は不満そうだったが、彼の反応など気にせずに仁王が上機嫌に言ってくる。
「次の相手は俺ぜよ」
「えっ⁉ マジですか……」
「俺はお前のことを気に入ってんだ。せっかくの技を持ち腐れにするなよ」
「え、あ……はあ」
わからない、という顔をする悠介を見て、仁王はまるで獲物を見定める動物かの如く、目を細めて口元に笑みを作った。
得体の知れない男だという噂は聞いているが想像以上。遠目に見たことはあっても間近で体感するのは初めてのことである。悠介は人知れず恐れを抱き、不安に苛まれた。
また元に戻っている。彼の背中を見るリョーマは呆れてため息をついていた。
「宮瀬、師匠は誰だ? もしくは憧れてるプレーヤー」
「えっと、青学の不二先輩、とか、っていうか先輩はみんな尊敬してて……」
「なるほど。
「うっ。柳さん、ですか」
事情がわからないリョーマが不思議そうな顔をする一方、何か知っているらしい悠介は顔をしかめていた。少なくとも柳さんという人物が関わっているのは確かである。
前触れもなく動いた仁王が、唐突に悠介と肩を組んだ。明らかにビビられているのだが当人はまるで気にしておらず、やけに楽しげな様子に見える。
「君はマジメ過ぎるな。マジメだろう?」
「は? いやまぁ、それで自分から真面目ですって言うのも嫌なんですけど」
「手札の多さは選択肢の多さ。せっかく先輩の技を覚えてもそのまま過ぎる。使う前からバレてたんじゃ意味ないぜよ。なぁ?」
「はぁ……」
距離が近く、ぐいぐいと押してくる。気付けば頭が触れるほど近くにあった。意味のある行動には思えないがなぜか気に入られてしまっているのだろうと伝わってくる。
困惑する悠介は冷静に話を聞くことすらできていなかったが、跡部という前例を知るリョーマは自身が当事者でなかったこともあり、何らかの意図があると気付いた。
要するに彼も言いたいことがあるに違いない。
「お前はもっと遊んだ方がいい。自分の意見が必要ってこと。わかる?」
「はぇ? あの、全然……」
「じゃあ俺が教えてやる」
にやりと笑って目を細める、その顔は何かを企んでいる狐のように見えた。
言葉を失う悠介は、ひどく不本意ながらその身勝手な提案を断ることができなかった。