41 月夜に語らう
目が覚めた時、状況が理解できなかった。
明かりのついていない室内は暗く、どこか遠くから賑やかな声が聞こえてきて、すぐ傍にある縁側からはわずかに月明かりが差し込んでいる。それが唯一の光源だ。
長時間眠っていたのだろうという自覚はある。体は少しだるくて、気分は悪くない。果たして何があったのだろうと少し混乱してもいた。
縁側に座っていた少女だけが手掛かりだ。
おや? と思ったその人物は振り返り、悠介が目覚めたことに気付く。
「あっ、起きた。おはよー」
「……杏ちゃん? なんで、っていうか、ここどこ?」
橘杏が移動して、彼が寝かされる布団の傍らに座り直す。
時間は外の風景からしてすでに夜。なんとなく見たことがある景色な気がした。寝起きで思考が正常に働いていないらしい彼は気付かず、助けを求めるように杏を見る。
「越前君の家だよ。宮瀬君が倒れちゃったから、彼のお父さんが車で運んでくれたの。私はまあ、ついでかな? 心配だからついてきちゃった」
「あ……そうか。大会に出てたんだ。で、俺はぶっ倒れて……」
状況を理解しようとする悠介が思考を働かせようとする。
寝たままでは問題でもあるのか、気まずいと思ったのかもしれない。体を起こそうとすると咄嗟に杏が体を支えてくれて、礼を言いながら布団の上に座る。
少し時間をかけて徐々に思い出してきた。しかし確信を得るため彼女に尋ねる。
「俺、勝った、んだよね?」
「うん。覚えてない?」
「あー……」
自分の頭に触れて、脳裏にぼんやり浮かんだ映像を繋ぎ合わせて整理する。
ずいぶん頭が痛かった気がするのだが今はすっきりしている。一眠りして回復したのだろうか。代償が少なかったようでひとまずよかった。
思い出したのは仁王との戦い。おそらく巻き込まれただけだろうジャッカルは常に戸惑っていたが本気で戦っていたのは間違いなくて、特に終盤、本気の彼らとぶつかったのだろう、と思う。
仁王の態度だけが気掛かりだったものの、少なくともあの戦いは嘘ではない。
最後には自分たちが勝ったのだ。一人では無理でも、リョーマに託したことで成果は出た。
恐る恐る顔を上げて杏の姿を確認する。
彼女は悠介の疑問に答えるようにしてうんと頷いた。
「そうだ……勝ったんだ。めちゃくちゃしんどくて、考えてるんだか考えてないんだかわからない状態だったけど、あの仁王さんと戦って、それで」
「ほんとにすごかったよ。正直言うとね、かっこよかった」
「あ、ありがとう。なんかもう無我夢中で……」
頭に触れていた手を下ろす。何気なく視線が下を向いて、状況を理解して落ち着くと、試合中の出来事がより鮮明に思い出される。
自分の手を眺めていたら、あの時の感覚が蘇ってきた。
確実に大きな変化があった一戦だった。それを確かめるためにぽつりと呟く。
「なんか、変な感じで、自分でも何が起きたのかよくわかってないけど……あの瞬間は今までにないくらい気持ちよかったな。何が起こったんだろ?」
「うーん……それは私にもわかんない。体からなんか出てたよ? ぶわあって」
「あ、やっぱそう? みんなにも見えてたんだ。勘違いかなって思ったんだけど……」
「あれがつまり強くなった、ってことだよね」
詳しいことはわからないながらも、問いかけられた悠介は頷く。
変化があったのは確実。試合に勝ったのも確かならば、成長したと言ってもいいのだろう。
自分の力か否かさえわかっていない不安な状況とはいえ、そうなのだと言い聞かせたい。自信を持ってそうなのだとは言えないが、彼がそう信じたがっていることは杏にも伝わった。
以前とは表情が違う気がする。大会に出るために夜な夜なストリートコートに集まって、期待や不安が入り混じりながら練習していた時より表情が柔らかくなっていた。
元々笑顔が多くて親しみやすい人物ではあったものの、上手くやれるか、観客に見られるのか、という緊張感があったのであろう。傍に居るだけで伝わってくることが珍しくなかった。
今は違う。表情が緩んで雰囲気が柔らかくなって、大会が終わったというだけではない安堵が感じられる。そこにはきっと小さいながらも生まれたばかりの自信があるのだろう。
前と違うなら今はどうなっているのだろうか。話を聞いてみたくなった。
起きたらみんなのところへ連れて行こうと決めていたとはいえ、もう少しくらい、二人きりで話してみたいと杏は思う。
「どうだった? 予想してたのとは違ったでしょ」
「うん……でも出てよかったって今なら思う。あんなに怖がってたのに、実際やってみたら周りのことなんか考えてられないくらい熱中してて。特に最後の試合は今までやってたテニスとは全然違うものだった。その分めっちゃ疲れたけど」
「そうだね。びっくりしちゃったよ。当日まではあんなに怖がってたのに、始まったらあんなに注目浴びるんだもん」
「や、その件はご迷惑おかけしました」
「いいえー。私もね、出てよかったって思う。あの時と今とじゃ全然違うよ」
大会前に自分たちがした会話を思い出したようだ。
ふと思い出すのはストリートコートで行った彼女とのやり取り。
くすりと悠介が小さく笑う。
「お守りももらったし」
「あれね。役に立った?」
「うん、多分」
「多分って何よー。あげた甲斐がないじゃない」
「いや、ごめん。役に立ったよ。なんか、試合前とかもらったこと思い出して頑張れたし。試合中はわけわかんなくなるくらい必死だったけど」
杏が枕元に置かれた物を見ると、つられて悠介もそれを確認する。
お守りと称して彼女にもらったリストバンドだ。大会の最中は常に着けていた。応援してくれている人が居るのだと思えて、今になってずいぶん支えてもらっていたのだろうと思う。
戦い切れたのは彼女の助力もあったからに違いない。会場で会うことはなかったとはいえ、今更だがそう気付いた。
「色々ありがとう」
「ううん。私もいいもの見せてもらったし、君が頑張ったのも見届けたから、それで十分。今ね、結構いい顔してるよ?」
「そうかな? なんか、恥ずっ……」
微笑む杏とは対照的に、悠介は照れた様子で頭を掻いた。
その時、不意に悠介が表情を変えて笑みを消す。何かを思い出した様子だ。
「そういえば……ごめん。約束したのに、優勝できなかった」
「あ、そういえばそうだね」
「忘れてたの?」
「言われてみたらそういえばって感じ。正直無理だろうなーって思ってたし、やる気出してもらおうと思って言っただけだったから」
「えー……ちょっと罪悪感あったのに」
「ふふふ。ごめんね?」
悠介がほっとしたような、拍子抜けしたような、ちょっと残念なような。微妙な顔をしたことで思わず杏が小さく吹き出す。
笑うなよ、と文句を言えば、ごめんと謝りながら彼女は楽しそうに笑っていた。
「謝ることないよ。君は精一杯やったし、結果を出したし、ちゃんと変われたでしょ?」
足が痺れでもしたのだろうか。いててと小声で呟きながら足を崩して、わずかに俯いて目を伏せると彼女はそんなことを言う。
変わったかどうかは自分でもわからない。変わりたいとは思っていたはずで、そのために大会に出て成長した実感はある。しかし根本的な性格の問題が解決したとは限らない。
言い淀む悠介の目を改めて見て、杏は優しい声で尋ねる。
「今の自分は好き?」
「……俺、そもそも変われたのかな。まずそこが実感ない」
「大丈夫。ちゃんと成長してるよ」
「テニスだけじゃなくて?」
「もちろん」
妙に自信のある言い方が気になったものの、質問する前に言われる。
「ちゃんと私が見てたから。だから、わかるよ」
「それは……どうもありがとう」
「いいえー」
他人のことならそれなりに見えているのに、自分のことになると途端にわからなくなる。自信がないとは周りからよく言われていた。他人の顔色を窺って生きているのだろうという自覚もそれとなく気付いているのである。
今回もまた自分のこととなると自信を持って「変われた」とは言い切れなくて、自分でも気付かない癖のように深く考え込もうとしていた。
杏にそう言われた時、途端に心が軽くなった気がする。
ちゃんと見てくれていた人が居て、その人が太鼓判を押してくれた。
これほど嬉しいことはない。
「うん……ありがとう」
「あ、嬉しいんだ」
「そうだね。結構、意外にも、最近で一番かも」
「意外は余計じゃない?」
「そう?」
くすくす笑っていたかと思えば、あははと豪快に笑ったりもする。よく笑う子だ。そこに居るだけでなんとなく雰囲気が明るくなるような、ストリートのコートで人気がある理由がよくわかる。
考えてみれば彼女と会うのはいつも夜だ。ストリートコートに集まって話すのが常で、今回の大会がそれ以外の会う機会だったのだが結局は叶わなかった。
何かと縁があるみたいだ。
落ち着いたせいか、なんてことのない思考で脳がゆるりと動く。
「体はもう大丈夫?」
「うん。頭も痛くないし。内側から破裂するんじゃないかってくらい痛かったのに」
「あはは、自分の力で破裂したら笑えないね」
「笑ってるじゃん……」
おもむろに杏が立ち上がった。
縁側へ移動すると振り返って彼に手招きする。
「ね、ちょっとこっち座らない? 今日は月がきれいに見えるんだよ」
「へぇ。まあ、これくらいの距離なら」
つられて悠介も動き出す。
立ち上がる際に自分の服が着替えさせられていることに気付いた。そりゃそうか、と思い出すのは汗だくでぐしょ濡れになっていた服。今になって下着まで余さず全身ひどい状態だったことが鮮明に思い出されて、うへぇと声が漏れた。
杏に視線を向けた時、誰が着替えさせたか気になった。
まさかな。そんな風に思いながらも、そのまさかが怖くて微妙な顔をしてしまう。
聞くのはやめて、このことは自分の中に留めておこう。そう決めるのは一切迷わなかった。
「どうしたの? 変な顔」
「変な顔はやめて。寒くない?」
「ぜーんぜん。私昔から体は丈夫なの。暑いのも寒いのも平気」
「すごいなぁ。俺はどっちもだめかも」
「ヘタレだからねー」
「それもやめて」
誘われるがまま何も考えず、縁側で肩を並べて座る。
確かに月がきれいだった。今日は満月、やけに空が明るく見える。
ストリートコートで練習している時は話すことはあれども、考えてみれば落ち着いて空を眺める時間などなかった。ひたすら必死だったのかもしれないし、そんな考えに至るほど余裕がなかったのかもしれない。
改めて空を眺めてぼーっとする時間ができて、大きくゆっくり息を吐き出す。
何も言わない時間が予想以上に落ち着いた。
元々こうした過ごし方は好きだったなと思い出す。
試合中にふと思い出した光景をきっかけに、昔のことを思い出した。と言ってもほんの一年前。何も考えずに先輩の背中を追っていた自分の姿だ。
たった一年で何も変わっていないと思っていたのだが、あの頃より少し物事について考えるようになって、それに比例して心配するようになって、卑屈になっていたのだろう。
思えば桃城も海堂もあの頃のまま。お前はできる奴だと言い続けている。
先輩たちにしたって同じで、言っていることや接する態度は何も変わっていない。
いつの間にか変わっていたのは自分だったと気付いて、恥じはしないがなるほどと思った。
手塚が掲げる全国制覇という目標。
自分はただ見ていればいいと思っていた節があるけれど、どうやらそうではない。それでは許さないぞと仲間たちが言ってくる。
今日の成長を経て、ようやく彼らと正面から向き合えそうだと今ならば思う。
「俺さ、みんなが全国目指すの、近くで見ていられればいいって思ってた。みんなすごくて、俺より全然強くて、誰が主人公でもおかしくないって。でも俺は違うだろうなーって思ってたから雑用としてでも関われてればそれでよかったんだ」
「そうなんだ」
「でも、多分、今は違うと思う。みんなに頼られたいし、褒められたいな」
「主人公になれそう?」
杏が顔を覗き込んできた。その答えはどうしても聞きたいらしい。
ふっと笑って見つめ返して、悠介は考えもせずに答えた。
「まあ、越前の方がそれっぽい気はするけど……なるために頑張りたいなって思うよ」
「うんうん。良い傾向だと思う」
「どうも。なんか、保護者みたいな感じ」
「お姉ちゃんは悠介が成長してくれて嬉しいよ」
「いや同い年だから」
唐突に杏が後ろへ倒れて、両手と両足を伸ばしてうーんと小刻みに震えた。脱力するとそのまま動かなくなる。
気ままな彼女はそのままにして悠介は空を眺めていた。
「あーあ。でもうちにとっては強敵登場って感じかな。余計なことしちゃったかも」
「そんなこと言わないでよ。俺は感謝してるんだから」
「冗談だよじょーだん」
ふうと息を吐いた杏が不意に笑みを消す。
空を見ていた悠介は気付かなかったが声色が少し変わったことには気付いた。
「ね、でもさ。優勝の約束は気にしてないけど」
「ん?」
振り返った悠介は、寝そべったままこちらを見る杏と視線を合わせた。
「また約束しない?」
「え? 何を?」
「今度は本気のやつ」
そっと小指が伸ばされて差し出される。
結ばれるのを待っているのだろう。
きょとんとする悠介はしかし、奇妙な雰囲気を感じておどけることもできずにいる。
「優勝」
「あ……本気?」
「うん。本気」
「それってまずいんじゃないの? 不動峰の生徒だよね、杏ちゃん……」
「そうだよ。こんなこと聞かれたらみんなになんて言われるか。私も結構協力してるし、みんなと仲良いんだからね」
「あぁ、うん。だからまずいって言ってるんだけど」
「だから内緒ね。ここだけの秘密」
悪戯っぽく笑って言い、その後にはふわりと柔らかく微笑んだ。さっきはふざけてお姉ちゃんなどと言っていたが、確かにその表情には慈愛のようなものを感じる。
改めて表情がよく変わる。見ていて飽きない、面白い人だ。
「約束があったら頑張れるでしょ? 今回みたいにさ」
「……そうだね」
悠介が右手を上げて小指だけを伸ばした時、その気になったと知って杏ががばりと起き上がり、再び座ると手を差し出す。
小指を結んで、約束する。誰にも知られてはいけない秘密だ。
敢えて言うことはないだろう。
不思議に胸の内が暖かくなって悠介が呟く。
「俺は誰かのために頑張るのが得意らしいから、抱えるものは多い方がよさそうだ」
「えへ。抱えられちゃった」
「比喩だよ?」
「わかってるよ。私だって乙女なんだから。そうそう簡単に抱えられません」
なんだそりゃ、などと言いながら指を離して、さっきから馬鹿馬鹿しいやり取りをしている可笑しさに笑い合う。
いつになく肩の力が抜けている。必死に頑張って変われたのはよかったことだがやはりこういう時間の方が好みだ。
悠介が何気なく視線を動かした時、キシっと廊下がわずかな音を立てて、視線を向ければ月明かりに照らされる小柄な人影が見えた。
きょとんとしたリョーマの存在に気付き、思わずお互いにあっと声を漏らす。
「起きてたんスね」
「おはよう。もう夜だけど」
「体は平気?」
「うん。疲れてるけど動けるよ」
「そ」
リョーマが来たことでなぜという理由もなく杏は口を噤む。変わらず笑顔ではあったが二人のやり取りを見ていたいと思い、敢えて混ざらないようにしたのだ。
静かに歩いてきたリョーマは杏の背後を通り過ぎ、悠介の隣に来て何も言わずに座る。
ストリートコートに来ている頃から杏とリョーマの間には会話を交わしても一定の距離がある。比べてみると悠介との間にはないらしい。
まるで飼い主にだけ懐いている猫みたいだな、というのが彼女の感想だった。
「勝ったよ」
「うん。夢じゃないみたいでよかった。ありがとう」
「別に……いいっスよ。お礼言われることじゃないんで」
なんとなく口数が少ない気がする。普段の軽快なやり取りを知っているから余計にそう思う。
落ち着いている悠介は気にならないようで、そもそも沈黙が気にならない性質のようだ。彼らの仲が良いのは知っているからそのせいかもしれない。
しばし黙っていたのだが、先に口火を切ったのは悠介だった。
唐突にリョーマへ顔を向けて声をかける。
「あのさ、俺のこと褒めてよ。結構気持ちいいもんなんだなってさっきわかったとこだから」
「嫌だけど?」
「早っ。いやもうちょっと考えてさ。結構頑張ったんじゃないかなって思うんですけど」
「結局ぶっ倒れてるじゃん。もっと頑張った方がいいんじゃない?」
「敬語がないな、おい」
「痛いです」
相変わらずのやり取りにくすくす笑う。その一方、杏は一旦その場を離れようかと考えた。
どうやらリョーマは素直ではないようだし、二人きりの方が話しやすいかもしれない。男同士でも性格によってはそういうこともあるのだろう。
ちょうどそんなことを考えて言い出そうとした時、リョーマがぽつりと呟いた。
「まあ……先輩にしてはよくやった方なんじゃない?」
「あっ」
「デレた」
「は? 違うし意味わかんない」
そっぽを向かれてしまって二人は揃って声を漏らした。
顔を見合わせて思わず笑い合う。
「難しい奴でしょ?」
「そんなことないよ。可愛い後輩じゃない」
「俺はもっと素直になってほしいよ……」
「うるさいなー。撫でないでよ」
あからさまにリョーマが不服そうな顔をしていたが、幸か不幸か、もう慣れてしまった。悠介は動じることなく気楽に笑っている。
不服そうではあるものの、頭を撫でられても手を振り払わないあたりは心底嫌がっているわけではないのかもしれない。
やはり見ていて面白い二人だ。杏はにこやかな顔で見守っていた。
試合が終わってから悠介は眠り続けて、しばらく話すことができなかった。
きっと色々話すことはあるだろう。やっぱり二人きりにしてあげた方がいいのでは。
杏がそんな風に思っている時、どたどたと騒がしい足音が聞こえてくる。
「あっ⁉ ゆーすけ起きてるやんか!」
「おー金ちゃん。あれ? なんで金ちゃん?」
慌ただしく現れた金太郎は目覚めた悠介を見て満面の笑みになり、咄嗟に大声で叫ぶ。
「ゆーすけ! ワイとダブルス組んでくれ!」
「へ?」
唐突な口説き文句だった。
ぽかんとした悠介はしばし受け入れられず、にこにこ笑う金太郎を凝視することになり、何を言えばいいかわからずに困った顔をしてしまった。