「兄さん、実は一度テニスをやめようとしてたの」
杏ちゃんの言葉に、少なからず驚きを隠せなかった。
関係ないと言われてしまえばそれまでだけど、相手が相手だ。全国区の“九州二翼”の一人がテニスをやめようとしてただなんて、聞く人が聞けば黙っていられない。
「そうなの?」
「うん。うちのみんなも知らないことだけどね」
「へぇ……」
「理由は聞かなくていいの?」
正直聞きたい。でもやめるって話になるってことは相当なんだと思う。
俺も、今はレギュラーになれたし、考えてないけど、何も結果を出せないままズルズル続いてたらどうなってたかわからない。
何人かから言われてメンタルが弱いってのはわからなくもないし……俺もそうなってたのかも。
「よっぽどのことだったんじゃない? 同じ学校の人が知らないみたいだし、俺が知ってるのはなんか変かなって」
「それもそうかもね。兄さんも私も気にしないけど、神尾君とかは怒っちゃうと思う」
怒られるのは嫌だなぁ……。せっかくなら仲良くなりたいよ。
「でも今はもう気持ちが変わったってことでしょ?」
「そう。不動峰の男子テニス部、元々はかなり荒れちゃっててさ。柄の悪い人たちが集まってまともな練習もしてなかったんだけど、部員の中には真面目に練習したい人も居て。見かねた兄さんが新テニス部を作るために動いたの」
なるほど。
同じ地区の不動峰中テニス部は治安が悪いので有名だった。大体一回戦負けだし、ちゃんと練習してないのは誰が見たって明らか。なんなら三年生が居ても適当に選んだ一、二年が試合に出るのが例年の決まりだった。
新テニス部を作る。ということは、もう前とは別のテニス部になってるってことか。
“九州二翼”の橘さんが作る新しいテニス部。
俺は俺で今の環境に満足してるけど、自分がそこに居たら、なんてちょっと興味がある。
「部活は盛り上がってる? 新しいテニス部なんてちょっと楽しそうだけど」
「いやー大変だよ。テニスで勝負したりもしたけど結局暴力事件になっちゃったりしてさ。でも前の顧問が何もしてなかったから責任問題になって、今は普通に活動できてるんだけどね」
「あー……あんまりいい噂聞かなかったからね」
確かにそりゃそうだ。
そもそも環境が悪かったから新しいテニス部を作らなきゃいけないわけで、この場合羨ましがるのは失礼かもしれない。
「ただ盛り上がってはいるよ。それは兄さんだけじゃなくてみんなのおかげ」
「そっか」
「だからね、今年は不動峰が青学のライバルになるよ。覚悟しておいてね」
にやりと笑って言う杏ちゃんに、苦笑を返すのがやっとだった。
今年は俺も応援だけじゃないのだ。
大方の予想を裏切り、試合は白熱した展開になっていた。
ゲームカウントは2-2。
先取したのは不動峰の橘桔平であり、後を追うようにして不二周助がゲームを取っている。前評判では青学圧勝だったのに、その展開は誰も予想できず、その後もリードする桔平に多くの人間が驚きを隠せずにいた。
強く地面を踏みしめて、腰を捻りながら全力でスイングする。
桔平の打球に強烈なスピンがかけられ、大きな弧を描いてコートの隅へ飛んだ。
「オラァ‼」
見るからに強烈な一打。普通に見ていれば明らかにコートの外へ出るアウトなのだが、先程までにもすでに見た軌道だった。
空中で大きく軌道が変わり、急激に落下してくる。
不二は必死に走って追いつき、辛うじて届いた。
強烈なスピンは彼にとって格好の獲物。しかし、有名になった彼の技を知る者は多い。
ラケットで受け止め、面で転がす。
相手の力を利用し、自らもスピンをかけて打ち返す。“
スパンと軽い音と共に放たれる。
確実に点を狙った一打。だが桔平の足は速く、バウンドする前に打球へ追いついた。
「ゲーム不動峰! ゲームカウント3-2!」
的確に逆サイドへ打ち抜いた桔平により得点が決まる。
ふうと息を吐いた後、体の力を抜いて微笑を浮かべ、桔平は勝ち誇るわけでもなく純粋な喜びを露わにした。
まさかの展開に動揺が広がる会場の中で、彼だけは唯一普段通りのプレーをしていた。楽しげな姿からはプレッシャーなど微塵も感じられない。
対策していたわけではない。だが噂には聞いていて、“つばめ返し”の返し方はなんとなく理解していたのだろう。
実践するのは決して簡単ではないが、軽々とやってのけてまだ余力が感じられる。
「お前のその技、返せないそうだからな。そうはさせねぇよ」
「うーん、そうか。どうやら君を相手に決めるのは難しそうだね」
“つばめ返し”を返されたのはこれで二度目。偶然ではない。かといって返すための準備をしてきた風でもない。
ただ純粋にボールを追い、打ち返しただけという態度に観客は言葉が出ない。
彼への驚嘆によって会場には異様な空気が流れていた。
「なあ、手を抜いてるとは思わないがまだ何か隠してるんだろ? これが全てとは思えない。実力もそうだし、使ってない技もあるよな」
「見たい?」
「ああ。せっかくの機会だ。ぜひな」
「全国までは、ある程度制限しようかと思ってたけど」
サーブのためにボールを持った不二が微笑む。
ついさっきまでは普段とは異なり、真剣な表情を見せていたというのに、微笑が浮かんだ途端に雰囲気が変わったのを感じ取る。
まさか手を抜いていたわけではないだろうが、本気でなかったのは明らかだった。
「君が相手じゃそれはできないよね」
「言っとくが、俺もまだまだ本気じゃないぜ」
美しいフォームで不二がサーブを打つ。
打球自体に変化はない。全力で打ち込みコーナーを狙う。
抜群のコントロールで厳しい場所へ打球が来た。桔平は足を開いて強く地面を踏みしめ、渾身の力を込めてボールを打った。
すかさず不二が逆サイドに打ち返す。左右に振り分け、桔平の足をサービスラインに釘付けにしようとするのだが、彼は構わず前へ出ようと試みている。
前へ向かう姿勢を眺め、一瞬の隙を狙って、不二の打球が足元を狙った。
突き刺さるようなスピードボール。桔平が目を見開いて驚愕する。
驚きこそしたものの、体は考える前に反応していた。
咄嗟に右手を下げてラケットを構え、打ち返すというよりただ当てるという行為になった。返球はへろへろと力が入っていないが高く飛んでネットを越える。
落下地点へ素早く入り、不二が迷わずスマッシュした。
コーナーを突くやはり凄まじいコントロールの攻撃。
諦めずに桔平が走り、跳んで拾おうとするが、わずかに届かず得点を許してしまう。
「チィ、惜しいな。ひょっとして俺の動きを読んでたのか?」
「まさか。なんとなくだよ」
「噂じゃその感覚が恐ろしいんだよな、お前は」
くつくつと笑い、桔平はやはり楽しそうに臨む。
相手にとって不足なし。それどころか、本来であれば対戦を望んでいたのは最も強いと言われる手塚国光であったが、青学No.2と名高い不二周助を前にしてみて、彼で良かったと心底思う。
サーブを打ってプレーを再開し、不二は真剣に思案する。
彼は手を抜いて勝てる相手ではない。全身全霊、本気で立ち向かわなければ。
そう考えた時、いつものように自身の迷いが脳裏に現れる。
自分は本気で戦うことができるのか。
鋭いサーブを打つと同時に不二は前へ向かって走った。らしくない行動に驚く声もあったが桔平はそれを見ても平然と対応する。
上下左右、どこへ打とうと不二はおそらく返してくる。しかしここまでのプレーで彼の得手不得手がわかった気もしていた。
テクニックは抜群だが、敏捷性では自分に分がある。桔平はそう確信していた。
桔平が相手を揺さぶるために左右へ走らせることを考える一方、先に不二が攻めた。
前へ出て早速の“つばめ返し”。
回転は大したことはないが、構えは明らか。どうしても地面に触れた際のイメージができる。
一度でもバウンドさせるのはまずい。地面に触れた瞬間、弾まずに得点はほぼ確定的な技。噂を聞いていた桔平は急いで追いつこうと走った。
違和感。辛うじて打ち返すことには成功するものの、眼前まで接近してみて、さっきよりも打球のスピードが遅いのではないかと感じる。
ラケットに触れた途端、ボールは強烈なスピンでガットの上を滑る。
不二はすでに待ち構えていた。
「うおっ、そう来たか……!」
桔平のラケットを離れたボールは彼の意思とは異なる方向へ飛んでいく。そして待ち構えていた不二が正面から打ち返した。
前へ来た桔平を見やり、高く上げられた打球は頭上を越えた。
踵を返して桔平が走る。
なりふり構わず腕を伸ばした結果、ライン上を狙ったロブをなんとか打ち返した。
振り返って視線を向けると、すでに不二は待ち構えている。
先程とは明らかに違う威圧感。何かが起こると感じ取る。
「白鯨」
ボールを撃ち出すかのように打球が飛んだ。その速度はさっきより速い。
攻め込むための一打だった。しかし目を見開いて驚いたのは不二の方だった。
「オラッ!」
強烈なスピンと些細な風を利用し、飛んでいる最中に上昇しようとしていた打球へ、激突を恐れずに頭から突っ込んだ。その上で桔平は見事に反応して見せ、殴りつけるようにボールを打つ。
今度は不二が急ぐ番だった。反射的に動いて一撃目を防ぐものの、すかさず桔平が飛びついて第二撃を放つ。
「もらったぜ!」
数秒前より気迫が増していた。
桔平の一打は確実にポイントを奪い、再び会場の度肝を抜いて驚かせる。今や声を抑えられずにどよめきが生まれ、彼を応援し始める者も少なくない。
まぐれではなく間違いなく本物だ。
半信半疑だった観客がプレーが進む度、徐々に認識し始める。
プレーの切れ間に二人が視線を合わせた。
桔平は純粋に試合を楽しんでいて、一方の不二は、自らもまた高揚感を覚えているが、桔平の姿に何かを感じ取ってもいた。
「ふう。今のは、見送るとヤバかったよな」
「くすっ、どうかな」
「顔に似合わず恐ろしい奴だぜ。だが、噂通りの美技ってやつかな」
相手への称賛を恥ずかしがらずに言い切る。中学生では中々珍しい。悔しがったり話すのも嫌だという顔をする人間は珍しくないが、彼のようなタイプはそう多くない。
その反面、先程の気迫はそうした人間が放つものとは思えなかった。
「ねぇ、手を抜いているとは思わないけど、まだ力を隠してるの?」
不二が尋ねた。
桔平は表情を変えたが多くは語らず、一瞬真顔になって驚いてから再び笑みを浮かべる。
「さあどうかな。だが安心しろ。お前相手に手は抜けないし、言い訳はしねぇよ」
はぐらかされたと感じる。鬼気迫る迫力と、それに似つかわしくない正攻法のプレー。言わないだけで何か種があるのだろう。
ここまでのプレーの多くは基本に忠実、かつハイレベルなもの。不二が連想していたのは同じ学校に居る手塚国光だ。彼にも匹敵する力量を端々に感じているものの、一方で彼と比べてみれば明らかな違いがあった。
プレー中にのみ感じさせる威圧感、闘争心。感情的な姿は手塚とは正反対。
それ故に気になる。
不二の目つきが変わったことにより、知る者が見ればギアを上げたのがわかったはずだ。
不二は非常に気まぐれである。
試合中、ノるかノらないかは己のテンション次第。対戦相手が強いか弱いかではなく、自分が興味を持たなければ本気を出せない。ノらない場合は相手を気遣い、無意識に手加減していい試合をしている風に演じてしまう。
本人も自覚する悪癖が、強敵を前にして功を奏した。
迫力が増して、桔平もまた全身に浴びるかの如く正確に感じ取った。
再び打ち込まれる“白鯨”が強烈なスピンを伴って異様な軌跡を描く。
桔平はプレーを思い出しつつ、何かあるかもしれないと警戒しながら迷わず前へ出た。
わずかな風を利用し、打球が相手コートへ飛んでいく途中で空に上がろうとした。出鼻をくじくならば上がり切る前。最高地点まで到達されてしまうと対処が難しい。
幅跳びのように高く前へ跳んで、勢いに乗って全力のスマッシュ。
桔平の攻撃に対して、待ち構えていたかのように不二は冷静に対応した。
「羆落とし」
強烈なスマッシュを受け止め、ボールに乗せられた勢いをいなして、ぽんと軽く返球。桔平の頭上を越えてコートのライン上へ落とす。
振り返って走っても間に合わない。ここしかないという奇跡的なコントロール。
得点されたのを見て桔平は楽しげな笑みを浮かべた。
(なるほど、“天才”……これはそんなもんじゃないな)
恐怖心など抱いていない。むしろ面白いと思ってしまうことが厄介だ。
不意に湧き上がりそうになる闘争心を自らの奥底へぐっと押し込む。これの方が難しい。
動揺は一切見られないが深呼吸して気持ちを落ち着けようとする桔平を見て、やはり何か秘密がありそうだと判断し、不二は薄く笑みを浮かべていた。