俺は、凡人だ。
自分が天才じゃないと気付く人は多い。
遅かれ早かれ、特別な人間に出会うと自分の自惚れに気付いて自信を粉々に砕かれる。優秀な人が集まる学校ならそれはより顕著に、残酷なほど突き付けられる。
俺もその一人だった。
珍しい話じゃない。俺みたいな奴は今までも同年代も、そしてこれからもたくさん居る。
それでも俺が諦めずに済んだのは同期の存在が大きかったからだ。
特に目立つ二人の生徒はどちらも初心者。中学からテニスを始めている。だから当初はお世辞にも上手いとは言えなかったけど一際目立つくらい個性的で負けん気が強かった。
桃城は反射神経が良くて運動能力が優れててとにかく元気だった。
海堂は執念深くて真面目でひたすら我武者羅だった。
俺はその間に挟まれて、テニスは経験者だったけど常に二人を意識していた。
あの二人に負けないように。そう思ったのが努力のきっかけ。
二人のような強みがないことに絶望した後、そもそもは苦し紛れに打開の方法を探した。
先輩に頭を下げて、色んな事を教わって、先輩たちの良いところを少しずつでも自分のものにしようと思ったのだ。
不二先輩にはテニスの基礎と“
乾先輩には“データテニス”と選手の分析を。
大石先輩には広い視野の使い方と“ムーンボレー”を。
菊丸先輩には“アクロバティックプレー”とネット際の攻防を。
河村先輩とはパワーの向上とメンタルの切り替え方を。
手塚先輩には“零式ドロップ”を。
それから、桃には“ダンクスマッシュ”の練習に付き合って、海堂とは“スネイク”開発のために時間を使って一緒に考えた。
今の俺はみんなのコピーだ。
一部分ずつ、ちょっとずつ真似をして今の俺ができている。
きっと俺は凡人だ。
自分の力で何かを生み出すことなんてできない。できることはせいぜい誰かの物真似で、それを上手く利用していくくらいでしか個性を作れない。
俺より強い人はいくらでもいる。それはもうわかってた。でも自信を粉々に砕かれて、プライドなんて捨ててしまえば、開き直ったからこそできることもある。
俺はもう凡人であることを恥じてはいない。
ただほんの少し、教えてくれたみんなに申し訳なさがあるだけ。
誰かに憧れる力は、俺が持っているものの中で唯一誇れるもの。
俺の武器は、天才には真似できないものだ。
すっかり日は暮れて、辺りは暗くなっていた。
ナイター設備をわざわざ用意したようで、テニスコートは大きなライトに照らされている。
ボールを打つ音はまだ続いており、南次郎は笑顔だった。
隣を抜こうとする鋭い打球に追いつき、ラケットを振るう。風を切るようなスイングで的確に捉えると強烈なスピンがかかって宙を駆けていく。
首をもたげて獲物へ飛び掛かる蛇の如く、大きく弧を描く打球が襲い掛かってきた。素早く駆けてなんとか追いついたリョーマが迷わず打ち返す。
辛うじて返ってきたそのボールは意外なほどに弱々しい。
すかさずバックスイングで同様の軌道。獰猛な“スネイク”がコートを喰い破ろうとする。
リョーマは必死に走り、持ち前のスピードを生かして必ず拾う。一度目は驚いたが二度、三度と繰り返す内にその軌道を理解し、反応できるようになった。
四度目のスネイクがやってきた時、彼は完璧に反応して美しい軌道で打ち返す。
もう何十分、それとも何時間か。どれだけ経ったかわからない。
意識はぼんやりとして、それでいて鋭くなり、不思議な感覚だった。もはや考えていられる余裕などない。とにかく体を動かす。
悠介のプレーは明らかに変わっていた。
予想外の打球が来る。
リズムが崩れる。
打ち返せない球ではない。質だけを見れば何においてもリョーマが上だ。ただ打球の詳細が次々に変わり、その度に驚かずにはいられない。
南次郎が笑っている。その様子に気付けないほどリョーマは集中力を増していた。
猛烈なスネイクの攻めが終わったかと思えば、足元へ突き刺さる打球が甘く上がった時、高い跳躍で上から叩きつけるようなスマッシュが地面を叩く。
両手でグリップを握り、強引なパワー勝負に持ち込んだかと思えば、突然ふわりと柔らかい打球でギリギリ届かない位置へボールを落とされる。
思うように動けない。いつもとは違って、コートに自由がなかった。
リョーマは笑っていた。
全く以てやりにくい。本来のプレーができていない。非常に窮屈で、これならダブルスの方がまだマシだったと思うほど違和感があった。
妙にハイになっていたのは否めない。初めての感覚だ。初めてのテニスを経験している。
体が震えるのを感じている。
楽しい。
考える前に動き出してしまって、今や自分でも止められなかった。
「ねぇ、先輩」
「何?」
プレーの切れ間に唐突にリョーマが口を開いた。
大汗を掻いて呼吸が乱れ、どちらも大きな疲労を感じていたが気分は高揚している。冷静な声だが唸るような感情が見え隠れするのは気のせいではなかった。
「うちの学校に、あんたより強い人って居るの?」
「居るよ。たくさん」
「本音で言ってよ。気ィ使わないで、勝てない人って居る?」
真剣な問いかけだった。きょとんとしたが笑い飛ばすことができない雰囲気がある。
リョーマの眼差しを受け止めて、しばし考えた悠介は苦笑した。
「うーん……難しそうなのが六人。無理そうだなってのが二人」
「今は、でしょ」
右手にラケットを持ち替えた。
利き腕である左手でボールを地面に弾ませ、準備を行っている。
事前に聞いていた悠介はその仕草であっと気付いた。
「決めたよ。あの学校で一番になる」
「一番、強く?」
「うん」
「……その先は?」
「全国かな」
ボールを放り上げて、ラケットで強烈なインパクト。
異常なスピンがかけられたそれは、従来の方向へは弾まず、逆方向へ飛び上がる。言わば的確に顔面を狙って襲い掛かってくるのだ。
情報だけは耳にしていたとはいえ初めて目の当たりにし、驚愕こそしたが、それでも打ち返そうと悠介はラケットを振るう。
後ろへ跳ぶのではなく前へ体を出して、顔面に当たることを恐れていたがそう感じさせない動作でラケットに捉える。しかし強烈なスピンが腕を痺れさせ、予想外のパワーに押し切られた。
ガットを離れたボールは逃げるように悠介から離れていく。
「うわ……すげぇ。本物見ると迫力がヤバいな」
「一発目で当てといてよく言うよ」
「いやうち変な人多いからさ」
再びリョーマがボールを地面に弾ませる。その動作にも意味があるように見えた。
「行きつく先はどこでもいいよ。とにかく誰にも負けたくない」
「それは、またわがままな」
「先輩も来てくださいよ」
ボールが上げられる。
振り下ろすラケットで打つ瞬間、やはり彼は笑っていた。
「勝ちに行くんで」
地面に沈み込むような回転。一瞬の停滞の後、跳ね上がる。
衝撃を伴う美しいツイストサーブ。
ハイになっていたせいか、再び前へ突っ込むようにしてボールを迎え入れて、今度こそ確実に捉えて打ち返した。
驚かずに前へ出たリョーマは今までになく強く打ち返した。決して体格が優れているわけではないがその細腕にどこにあったのだろうと思うパワーを感じる。
再び激しいラリーが始まり、今度はどれだけ揺さぶられようとも喰らいつく。一度として逃さずに全ての打球を捉えていた。それでいてリョーマは攻め続けようとするのである。
身震いしたのは彼も同じだ。悠介は思わず笑ってしまった。
いつになく熱い打球を見て南次郎は笑っていた。
青春しやがって、似合わねぇ、などと思いながら馬鹿にするつもりはない。むしろ確かな喜びを感じてさえいる。それ以上に面白がっていた。
「なーんだ……んな顔できんじゃねぇか」
「先輩、ダブルス教えてくださいよ」
「え? シングルス上手いのになんで」
「負けたままにしたくない。それに変なおっさんシングルスしかしないんで」
「おいおい、親父だぞ俺は」
いつになったら終わるのか、誰にもわからない。
そうして打ち合っていると唐突に終わりがやってきた。
「あ! やっぱり!」
「おー菜々子ちゃん。どうしたい」
現れたのは越前家に下宿している女子大生の菜々子だった。
寝っ転がる南次郎とコートに居るリョーマを確認して怒った素振りを見せ、見知らぬ悠介を確認するとわずかな驚きを見せる。
「どうしたじゃありませんよ。晩御飯の時間が過ぎているんです。それなのに二人ともちっとも帰ってこないんですから」
「あーそうかそうか。そういや暗いな」
「もうっ。練習はいいですけど、お相手の事情もありますし……あの、こんにちは」
「こんにちは。っていうか、こんばんは?」
「あ、そうですね。もう夜ですから、こんばんは」
「ん~いいとこだったんだけどしゃーない。今日はここまでにするか。宮瀬君、君も来い。うちでメシ食ってきな」
起き上がった南次郎が言い出して悠介はきょとんとしてしまう。
今日はという言葉が気になりながらも、ただでさえコートを使わせてもらった後だ。流石にそこまで世話になるわけにはいかないと考える。しかし返事を待つつもりのない彼は早速歩き出していて聞く耳を持ちそうになかった。
「え? いや、あの……」
「ま~今日はリョーマの顔を立ててやったが次は俺ともやろうぜ。君は面白い。真面目で先輩を立てるくせにプレーは滅茶苦茶だ。もっと見てみたくなった」
歩き去ろうとしながらちらりと振り返って彼は言う。
「ウチの坊主にゃもったいねぇわ。君はもっと強くなるぜ」
さーメシだメシ、と大声で誘って先行する。
事情はわからないものの、何か機嫌が良さそうだと悟って菜々子がくすりと笑って後に続いた。
ぽかんと立ち尽くす悠介の下へリョーマが歩み寄って、置かれていた荷物を拾い上げ、彼の分まで運ぼうとし始めた。その様子を見てようやくハッと我に返る。
「い、いいよ。俺運ぶし」
「いいっスよ別に。逃げられるのも困るし」
「逃げるとか、そういうんじゃないじゃん。でも急にお世話になるとかさ、ここまでは別にいいとしてもそれはちょっと……」
「いいんじゃないっスか? おっさん聞くつもりないみたいだし」
逡巡するものの、諦めるのは早い。
この後輩にあの父親。なるほど、自分が扱い切れるような相手ではない。
何を言っても無駄なのだろうなと悟って、肩をすくめた悠介は大人しく従うことにした。
「でももったいないってのはイラッとしました」
少し前を歩いていたリョーマがぽつりと呟き、立ち止まって振り返る。
「負けないから」
言うだけ言ってさっさと振り返って行ってしまう。
真っ直ぐで、敵意と尊敬と、色々な感情が入り混じった瞳でじっと見つめてきた。その目を相手に視線を合わせた途端、あぁこりゃ大変だ、と先輩を真似るかのように思ってしまった。しかし嫌な気がしないのは先程までのプレーが影響しているのだろうか。
今はまだ考えずに流されていようと決めて、悠介はリョーマの後に続いて歩いていった。