目の前に伸びるターフには誰の背中も見えない。
周りの景色は猛烈な勢いで後ろへと流れていき、その風は自分の身体や髪を撫でていく。
(この景色、この風…心地良い…)
サイレンススズカは、勝負の最中にもかかわらず心地よさを抱いていた。
GⅠ、それも秋の天皇賞と非常に注目度が高いレースで緊張感を抱かないことに、常人は疑問を抱くだろう。
しかしサイレンススズカは、勝ち負けのみに固執してはいない。自らが先頭に立ち、自分だけが見ることができる景色、感じられる風を楽しむことにも重きを置いている。得意とする逃げで、その自分が楽しみにしていたものを一身に受けている今、緊張感よりも高揚感が勝っているのだ。
(もっと速く、先へ…!)
脚に力を籠める。
ただ、先頭の景色を堪能する一方で、勝負についても考えてはいる。
後方から多くのウマ娘たちが迫ってきている気配を感じる。誰もがこの大舞台のために調整を重ねてきた、選りすぐりの精鋭たちだ。勝負への執念は相当のものだろう。
だが、サイレンススズカとて生半可な覚悟でここにはいない。この戦いに向けて精神面・肉体面のトレーニングは怠っていないし、何よりウマ娘の根底にある『戦いに勝ちたい』という本能が、より一層サイレンススズカの脚に力を注いでいた。
(…この感じ、フクキタルね)
第3コーナーを抜けて、第4コーナーに差し掛かろうというところ。
後方から迫って来る集団の中から、闘気にも似た気配を感じる。それが誰のものなのかは、レース前に話をし、また同期でもあるから分かっている。マチカネフクキタルだ。
占いが好き、と言うより半生を懸けていると言っても過言ではないほどに、神秘的な現象を信じているウマ娘。時々トラブルを起こしてしまいがちだがどこか憎めず、(自分で言うのも悲しいが)人付き合いが苦手なサイレンススズカともすぐに打ち解けられた。
だが、例え相手が同期であっても勝ちを譲るなんてことはない。後ろから誰が来ようと関係ない。自分だけの先頭の景色を妨げられたくはないし、自分のことを慕ってくれる人を裏切ることになってしまうから。
脚に力を籠めて、第4コーナーに差し掛かる。東京レース場名物の大ケヤキを左手に見つつ、後方から迫るマチカネフクキタルたちの足音や気配がやや遠ざかるのを感じる。差はどれぐらいだろう、と考えかけたが止めた。今はただ、この先頭だからこその景色と風に集中したい。それが自分のペースを保つことにもつながるから。
その時だった。
(っ…)
自分の左脚に違和感が生じたのは。
サイレンススズカの担当トレーナー・
秋を代表するGⅠレースだけあって熱気と人出は凄まじく、誰もがサイレンススズカの『逃げ』を目の当たりにし、歓声を上げている。一方で、後続のマチカネフクキタルやメジロブライトなどの強者たちが、必死に喰らいつこうとしている姿に感銘を受けている人も多い。
そんな中で柴波が応援しているのは、当然サイレンススズカだ。加えて、他のウマ娘たちの健闘も祈りつつ、走り方や作戦の出方にも注意している。今この場で戦っているウマ娘は誰もが粒ぞろい。今後のためにもデータを集めておいて損はない。
『先頭は依然として1番サイレンススズカ。続く6番マチカネフクキタルとの差は3バ身から4バ身へ。マチカネフクキタルの外からは2番ツルマルツヨシ。先頭を狙いマチカネフクキタルとの差は1/2バ身』
『サイレンススズカ、順調にペースを上げてますね。逃げの調子も悪くありません。マチカネフクキタルはやや掛かり気味でしょうか』
実況と解説は後方集団にも目を配っているだろうが、やはり先頭争いが気になるらしい。何せ先頭でレースを引っ張っているのはいずれも有名なウマ娘だ。その気持ちは分からなくもない。
(頼む…もってくれ…)
心の中で柴波は祈る。
『もってくれ』とは、サイレンススズカに今の優位な位置取りをキープしろ、というだけではない。
―――左脚が、ちょっと痛むんです。本当にほんの少しなんですけど…
昨日の最後の調整の際に、サイレンススズカは左脚のほんのわずかな痛みを訴えた。目立った外傷があるわけではなく、微細な筋肉痛程度の痛み。保健室で診てもらっても、特段異常はないとのことだった。
それでもレースにおいては、そのちょっとした痛みさえもレースを左右しかねない、大きな問題につながることもある。だから柴波は、最初は出走の取り消しも提案した。
しかし、サイレンススズカはそれを拒否した。
―――もしも今が、私のウマ娘としての最盛期にあるとするのなら、どこまで速くなれるかを試したいんです
ウマ娘という種全体の共通点として、肉体のピークというものが存在する。そのピークに達するにつれて力は強くなるが、それを過ぎれば緩やかに衰えていく。それを判断する基準は、当人の感覚―――食事量が増えたとか、背格好が伸び始めたとか―――を信じるしかない。
今がサイレンススズカの力の頂点かどうかは分からなかった。それでも、そうだと仮定して、そのうえで今回の天皇賞には参加したいと、サイレンススズカは望んだのだ。走ることが好きだから、今の状態で走ればどこまで速く走れるのかを、実際にその身で経験し、その景色を見てみたいのだと。
柴波は、その意思を尊重した。
勿論、最初は大怪我に繋がったらどうする、と理性が待ったをかけた。けれど、サイレンススズカの意思は強く、その言葉の強い芯と、その目に宿る光を見て止めても無駄だろうと悟ったのだ。それに、もし本当にサイレンススズカの最盛期が今だったら、過ぎた後に残るのは衰退しかない。最盛期が今という確証がなかったが、挑戦することに決めた。
結果、直前まで脚の状態には注意しつつ、万全の状態でレースに臨むと言う形になったのだ。
『各ウマ娘第4コーナーから最後の直線へと差し掛かる。先頭はやはり速い、サイレンススズカ。ツルマルツヨシ、マチカネフクキタルを抜くもサイレンススズカとの差は6バ身まで広がっている』
『最後の直線に入るとサイレンススズカを捉えるのはほぼ不可能に近くなりますからね。ここが後続にとって正念場です』
解説と実況の言葉に、無意識に頷く。
サイレンススズカの真骨頂は、最後のコーナーからの直線でさらに加速する脚だ。後続に大差をつけてゴールインする彼女がどれだけの脅威かは、トレーナーである自分が一番分かっている。解説の言う通り、最後の加速に入ればサイレンススズカを抜かすことなど不可能に近い。
柴波の唇が、自然と緩んだその時だった。
『あっと、ここでサイレンススズカのペースが落ちたか?後続の集団が近づいてくるぞ』
『スタミナ切れの可能性は低いですが、どうしたんでしょうか』
実況と解説が不穏な会話をしだし、柴波の視線と意識は先頭のサイレンススズカ『だけ』に集中する。
サイレンススズカの顔に、わずかな翳りが見える。普段のレースでは終始凛々しい表情の彼女が、初めてレース中に表情を変えた。真剣、というより何かに耐えているような表情だ。
そして脳裏に過るのは、レース前にサイレンススズカ自身が言っていた『痛み』。
「スズカ!」
柵に手をつき、叫ぶ。周りの観客も、サイレンススズカの異変に気付きざわついていたので、叫んでも誰も気にはしていない。
『第4コーナーを過ぎて最後の直線。先頭はサイレンススズカだが加速しない。ツルマルツヨシとの差は3バ身まで縮まった。マチカネフクキタルも力を振り絞る、後方からメジロブライトが追い上げてくる。抜き返せるか?』
『こうなってくると後方のウマ娘も差し切れるかもしれません。そうなると番狂わせとなりますね』
このレースのサイレンススズカは1番人気。だが、ペースが落ちたサイレンススズカならば、後方で控えている『差し』や『追込』のウマ娘でも抜き返せる可能性が高くなった。もしそうなれば解説の言う通りの番狂わせになる。
だが、柴波にとっては勝敗など最早どうでもよかった。
サイレンススズカに、無事でいてほしかった。
「スズカ!!」
もう一度、叫んだ。
脚の違和感の主張が激しい。痛みはないが、無視できないほど意識に訴えかけている。雨の日に側溝に溜まったゴミが、水の流れを鈍くしているような、そんな感じの引っ掛かりを抱く。
スピードは明らかに落ちている。脚の違和感が気になり、思うように走れない。
後方から迫って来るウマ娘たちの気配が強くなってきた。このままでは抜かれるのも時間の問題だろう。せっかく堪能していた景色も風も、全てが邪魔されてしまう。それは、嫌だった。
だが、頭でそれを分かっていても、脚がついてこない。
脳裏に『故障』の文字が浮かんできた。
(ちゃんとレースに集中しないと…)
サイレンススズカは、自分に言い聞かせる。
しかしながら、それができない。後続に気を取られ、意識の半分が左脚に向き、さらには観客の声が聴覚を刺激してくる。集中できているとは言えないし、考えている間にも自分のペースは落ち続けていた。
既に最後の直線に入り、残り600メートルの標識を過ぎる。いつもならここで脚に力を込めて再加速を仕掛けられるが、違和感が邪魔するせいでそれができない。無意識に歯ぎしりをしてしまう。
―――スズカ!!
その時、サイレンススズカの耳に、ひと際強く自分の名を叫ぶ声が滑り込んできた気がした。このスピードと周りの歓声ではひとりひとりの声など聞き取れないはずなのに。
視線をほんの少し横にずらすと、立ち見スペースで身を乗り出して声を挙げている人がいる。
忘れるはずもない。走ること以外においては不器用な自分を支えて、走ることにおいては貪欲な自分を今も見守ってくれている、サイレンススズカにとってはかけがえのない人。
柴波トレーナーだ。
「…っ」
その声を、存在を意識した直後、サイレンススズカの脚から違和感が失せ、脚に力が籠った。
『マチカネフクキタルがツルマルツヨシを抜き返した、残り400メートル!ここにきてサイレンススズカ再加速!マチカネフクキタルとの差が1バ身から2バ身に広がる!後ろのウマ娘差し切れるか!』
ゴールを前にして、サイレンススズカが本調子を取り戻した。追いすがっていたマチカネフクキタルやツルマルツヨシ、メジロブライトとの距離を再び離し、速度を上げていく。実況の語調はどんどん昂っていき、観客たちもサイレンススズカのラストスパートを目の当たりにし、間もなく勝敗が決まるとあって大歓声を上げている。
一方の柴波は、調子が戻ったサイレンススズカを見て安堵したと同時、不安にもなった。
第4コーナーでサイレンススズカの速度が落ちたのは、左脚が原因とみてまず間違いない。そのまま失速し、入着すら叶わないことも考えられたが、サイレンススズカは目の前でスピードを取り戻した。
脚が一時的に治ったのだろうか。そうでないとしても、今は脚に力を無理矢理込めているのだろう。ウマ娘の身体がヒトより多少丈夫だとしても、無理な負荷が身体に悪影響を及ぼすことに変わりはない。最悪の場合は、この天皇賞の後すぐにレース人生から身を引くことになる。
サイレンススズカは、走ることがとても大好きなウマ娘だ。トレーナーとしてそれは十分分かっている。ターフで常に先頭に立ち、景色と風、空気を身体の全てで受け止めることが好きな子だ。故に、体が許す限りは走り続けたいだろうし、だからこそレースの世界を退いてしまったらどうなるのか、考えるだけで妙な寒気が走る。
『逃げ切った!意地で逃げ切った!サイレンススズカ、今1着でゴールイン!!』
そんな柴波の不安を他所に、サイレンススズカは先頭でゴールした。瞬間、観客席からはあふれんばかりの歓声が上がる。
『秋の大舞台を制したサイレンススズカ、他の追随を許さず引き離した!途中のペースダウンも振り切って、その走りを知らしめた、まさに輝かしき栄光の日曜日!』
実況の興奮も最高潮に達し、洒落たコメントを残す。
当のサイレンススズカは、しばらく惰性でターフを走り、やがて立ち止まる。
そして晴れやかな笑みで、空を見上げた。
◆ ◇ ◇
「大丈夫か?」
控室に戻ったサイレンスズカを迎えた柴波の第一声はそれだった。祝いの言葉でも、労いの言葉でもない、心配そうな言葉。
しかし、それに対して不満はない。今回のレースの経緯と、自分の脚のことを考えれば柴波の心配も尤もだ。
「…はい、今のところは」
サイレンススズカが椅子に座ると、柴波はその前に跪き、『少し足を診るぞ』と伝えた。下心が無いのは分かっていたので、サイレンススズカも頷く。靴が注意深く脱がされ、柴波はサイレンスズカの脚に、ガラス細工に触れるように慎重に手を添える。
「痛む?」
「いいえ…」
確認しつつ、柴波は足の指、甲、踝、脛と場所を移しつつ、容体を確認していく。他人に足を触れられるのは変な気分だが、痛みは感じない。レースの最中に抱いた違和感も、今は収まっていた。
「…腫れとかもないな」
「歩くのも大丈夫ですので、一先ずは問題ないかと」
「そうか…」
サイレンススズカが言うと、柴波は靴を履かせて、大きく息を吐く。
「よかった…」
心の底から絞り出すかのような、安堵の言葉。項垂れる柴波の肩は、僅かに震えている。
「スズカが失速した時、『故障したらどうしよう』って思ったから…」
「トレーナーさん…」
「大事に至らなくて、本当に良かった…!」
自分の脚の痛みを訴えた日、それでも天皇賞に出たいと伝えた日、柴波の表情は渋く、不安に染まっていた。自分の担当するウマ娘がもし大怪我などしたら、と思っていたであろうことは理解していたが、こうして目の前で心底ほっとしている姿を見ると、改めて柴波は自分のことを大切に思っていたのだと、実感する。
「…心配をさせてしまって、ごめんなさい」
だからサイレンススズカは、頭を下げた。
今回のレースに出走した理由は、ほとんどサイレンススズカの意地みたいなものだ。その意地から無理を言った上に、ここまで心配させたからこそ罪悪感は強い。
「でも、私が最後まで走ることができたのは、トレーナーさんのお陰なんです」
「…俺の?」
「はい。私がレースの途中で失速し、集中できなくなった時、私にはトレーナーさんの声が聞こえたんです」
柴波は何も言わないが、表情が『信じられない』と語っている。
だが、サイレンススズカには確かに聞こえたのだ。自分の不調に気を取られ、自分の走りができなくなった時、自分の名を柴波が呼んでくれたのを。
どういうわけか、柴波の言葉を聞くと、心が研ぎ澄まされて走りに集中できるようになる。サイレンススズカはその理由を自分で説明できないが、とにかくその声が聞こえたからこそ、自分のペースを取り戻して完走できたのだ。
「私を支えてくれた、トレーナーさんに応えたい。その気持ちが、私の脚にまた力を籠めてくれたんです。もしもあの時、トレーナーさんの声が聞こえなかったら、私はあのまま入着すらできなかった…」
声が尻すぼみになる。あの脚の不調に囚われ続け、順位を落とし続けていたら、自分はこの晴れ舞台で惨憺たる結果を残していたことだろう。
だが、現実にサイレンススズカは1着となり、『栄光の日曜日』とまで言わしめた。
それは自分1人では決してできなかった。柴波の声に導かれてこそ、成し遂げられたのだ。
「…ありがとうございます、トレーナーさん」
サイレンススズカは、もう一度頭を下げる。
自分1人だけで、今日の結果を残すことはできなかった。だからこそ、サイレンススズカは、柴波に向けて謝罪と感謝の言葉を一緒に伝えた。
その言葉に柴波が視線を上げて、サイレンススズカと視線が合う。
その時、テーブルの上に置かれていたスマートフォンからアラームが鳴り響いた。
「ウイニングライブ、行けそう?」
「はい」
レースで戦い抜いたウマ娘たちが再び一堂に会し、応援してくれた人々に感謝の気持ちを示すライブ。
中でも、上位3人のウマ娘は目立つポジションで歌い、踊りを披露する。1着に輝いたサイレンススズカはセンターだ。脚の状態も今は問題がないので、恐らくは大丈夫だろう。
「行っておいで」
柴波に促され、サイレンススズカは控室のドアを開ける。
「はわっ、スズカさん!?」
だが、ドアを開けると、そこにはマチカネフクキタルがいた。待ち伏せしていたわけではなく、タイミングよく通りかかったのだろう。
しかし、マチカネフクキタルの瞳は、サイレンススズカの姿を見ると途端に潤み始めた。
「あぁ、良かった…!大丈夫だったんですね、脚の方!」
「え、ええ…何とか」
「いやぁ、ほっとしました…何せ今日のレース、『大切な友人が危機に陥る』とシラオキ様の御告げがありました故、もしも故障など起こしたらどうしようかと!」
あわあわと今にも泣きだしそうな表情で手を握ってくるマチカネフクキタル。『シラオキ様』とは、彼女が信奉してやまない神様らしいのだが、サイレンススズカからすれば少々胡散臭く感じるものだ。
それはさておき、彼女も同期として、友達として自分の身を心配してくれていたらしい。
「…心配してくれてありがとう。でも、私は大丈夫だから」
「はぁぁぁ、そうですかそうですか…本当私も良かったですぅ…」
「だからまず、ライブへ行こう?そろそろ間に合わなくなっちゃうから」
レースの疲労と安堵で身体から力が抜けつあるマチカネフクキタルを支えつつ、サイレンススズカはライブステージへと向かう。
その時、控室の方をちらっと振り返ってみると、柴波が優しげな表情で見送ってくれていた。
◇ ◆ ◇
天皇賞の翌日、柴波はサイレンススズカと共に病院を訪れていた。無論、診てもらうのはサイレンススズカの方である。
「…いかがですか、先生」
「幸い、歩行困難に陥るほどの症状ではありません。ただ、当面の間激しい運動は控えた方がいいかと思います。でなければ、骨折や繋靭帯炎につながるでしょう」
検査結果を聞いて、柴波は一先ず胸を撫で下ろす。隣に座るサイレンススズカも、どこかホッとした様子だ。
しかし一方で、骨折や繋靭帯炎の可能性については、柴波からすれば十分すぎる警告だ。それらのケガは、ウマ娘たちをレースの世界から否が応でも引き離す怪我で、発症すればレースに復帰できる可能性は限りなく低くなる。
天皇賞のことと言い、その前日のことと言い、今のサイレンススズカの左脚の状態は無視できるものではない。彼女の象徴でもある脚が悲鳴を上げているとなれば、無理をするのは危険だ。
「普段のトレーニングも、控えた方がいいですよね」
「ええ。特に、脚に負担をかけるのはお勧めできません。日常生活での歩行や散歩などは問題ありませんが…」
医師の言葉に、柴波はサイレンススズカの様子を窺う。
「…分かりました」
サイレンススズカは、眉を僅かに下げているが、ひどく落胆する様子はない。
彼女にとっての『走る』という行為は、ウマ娘の『勝ちたい』という本能と同等かそれ以上に強い欲求に基づくものだ。どんな天気でも走ることを楽しみ、時間も場所も忘れて走りに没頭する。それほどまでに、サイレンススズカは走ることを好いている。
その彼女から、『走る』ことを取り上げてしまうとどうなるのか。それは柴波も気にしていたが、サイレンススズカは予想よりも落ち込んでいない。
「脚のケアは念入りにして、もしもまた状態が変わるようであればまたいらしてください」
「…はい」
「もし可能であれば、毎週末にこちらにいらして状態を確認しましょう」
「分かりました」
医師から言われ、サイレンススズカは素直に頷く。
柴波はその表情からは、サイレンススズカの全てを窺うことはできなかった。
◇ ◇ ◆
病院からの帰り道で、柴波とサイレンススズカは何となく公園に寄り、ベンチに並んで腰かけた。お互いの手には、自販機で買ったニンジンジュースの缶がある。
「脚のことは、直ちに手術とか入院とかにならなくて良かったよ。走れなくなったのは残念だけど…」
「ええ、そうですね…」
ニンジンジュースを一口飲み、サイレンススズカは溜息を吐く。やはり、しばらくの間走れなくなるのは相当堪えるらしい。
しかしサイレンススズカは、柴波の顔を見る。
「でも、しばらくお休みして、治ったらまた走れるんですよね?」
「ああ。ドクターの許可が下りればだけど…」
今はダメだが、順調にいけばいずれまた走れるようになる。
それがわかると、手の中で缶を揺らしながらサイレンススズカは前を見る。あるのは誰も漕がないブランコだが、多分見ているものは違うのだろう。
「いずれ、今までのように走ることができなくなるのは分かっています。その時までは、できる限り走り続けたいとも思っています」
それは、サイレンススズカの『走る』ことに対する姿勢のような話だった。改まって聞くそれを、柴波は口を挟まずに耳を傾けることにする。
「もし、不慮の事故や大怪我などの何かがきっかけで、一生走れなくなったらとても落ち込むかもしれません。でも、今回はちゃんと休めば治るんですから、そこまで残念とは思っていません」
「…そっか」
「それに、トレーナーさんと一緒に、私は先頭の景色をもっと見てみたいですから…」
微笑むサイレンススズカ。
だがその言葉には、この3年近くの時間を経て、柴波のことを信用してくれるようになったことが伺えた。
柴波も笑い、ニンジンジュースを一口飲んで再びサイレンススズカに目を合わせる。
「スズカが走るのが大好きだってのは、十分分かってる。だから俺も、スズカが早く足が治るように、そして治った後でまた走れるように、しっかりケアするから」
「…ありがとうございます」
サイレンススズカは、にんじんジュースを飲み干して空を見上げる。太陽はまだ傾いてはいない。
柴波も同じように空を見上げて、考える。
3年近くもの間、柴波はサイレンススズカの傍でその走りを目にしてきたし、彼女の走ることに対する意欲は並のそれではないことも十分理解していた。
だからこそ、彼女の脚を、競争ウマ娘としての一生をここで終わらせるわけにはいかないと、強く思う。
それがサイレンススズカの担当トレーナーとしての責務だ。
こんばんは。
ここまで読んで下さりありがとうございます。
サイレンススズカの育成シナリオで触れられた、天皇賞後の脚の不調による静養に焦点を当てた作品でございます。
シナリオ内では数行で終わってしまいましたが、その時のことについて書いてみたいと思い至り、今回の話を書き上げました。
最後までお付き合いいただければ幸いですので、
何卒よろしくお願いいたします。