異体同心   作:プロッター

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最終話:異次元の逃亡者

 人生でも大きなイベントを前にすると、眠気がさっぱり湧いてこなくなる。遠足や旅行を前に眠れなくなる子供のようだが、待ち構えているものはそんな生ぬるいものではない。

 明日はついに、URAファイナルズ決勝戦だ。

 自分はレースで走ることはない。走るのは自分の担当するサイレンススズカだ。だが、自分の担当ウマ娘が大舞台に出走するとなれば緊張せざるを得ないし、明日のレースは自分とサイレンススズカが3年かけて積み重ねてきた成果の集大成にも等しい。理事長からの期待も高まっているため、プレッシャーは相当のものだ。

 しかも、決勝戦ということはそれこそ粒ぞろいのウマ娘が集う場だ。中山レース場での準決勝でも驚異的な差し脚を見せたメジロドーベルも出走する。サイレンススズカの調整は万全だが、それでもどこまで通用するか、すべてが未知数だ。

 サイレンススズカにはもう自分の不安などで心配はかけさせない、と約束をした。だから彼女の前では不安やプレッシャーを押し殺していつも通りに接し、こうして自分がひとりきりの時に思い切り不安に押しつぶされているのである。

 

「ふうううう…」

 

 落ち着かせるために深呼吸をする。

 URAファイナルズ決勝が1日、また1日と近づいてくる毎に、こうして寝る前に不安になって眠れなくなり睡眠時間が少なくなっていく。

 しかし、他の理由で寝付けない日も多かった。

 担当のサイレンススズカのことを考えているせいでもある。

 準決勝の翌日に京都観光を少し楽しんだが、その時のサイレンススズカの言葉が頭の中にとどまり続けているのだ。

 

 ―――私は、トレーナーさんと一緒にここへ来たかったんですから

 

 参拝と言う名の山登りをしている途中、そう言われた。

 サイレンススズカが好きな登山で、その言葉を言われて、柴波は顔が赤くなるのを抑えられなかった。それから今日に至るまで、サイレンススズカのことを考えない日がほとんどなくなり、そして彼女を思うたびに心が熱くなってきてしまう。

 担当ウマ娘だから、大舞台が近いから、と言う理由だけでこうはならない。

 それは別の理由からくるものだと思うし、自分自身でその気持ちについては概ね分かっている。

 だが、それを簡単に認めるわけにはいかなかった。

 

(俺はトレーナーだぞ…)

 

 自分はトレーナーで、大人だ。

 サイレンススズカは学生で、まだ子供だ。

 たとえレースで華々しい結果を残していようと、眉目秀麗であろうと、そこに関しては曲げられない事実。だからこそ、この気持ちは簡単に認めてはならない。蜜浦と担当ウマ娘の件でそれは十分理解しているではないか。

 それは自分の環境を大きく左右するものでしかないのだから。

 

「……」

 

 甘い香りが漂い、視線をそちらへ向ける。去年のターコイズステークス前に、サイレンススズカが贈ってくれたカモミールのアロマだ。安眠効果があるらしく、眠りに就ければ実際心地よい朝を迎えられることが多いため、結構重宝している。

 だが、またしてもサイレンススズカのことを思い浮かべてしまい、ため息を吐く。

 結局その日、寝る直前まで考えていたのはURAファイナルズのことではなく、サイレンススズカのことだった。

 

 

 如何にレースで結果を残してきたサイレンススズカと言えど、URAファイナルズ決勝という初めての舞台を前にすると、緊張感はどうしても拭えない。

 ベッドの中で、明かりの消えた天井を見上げながら、サイレンススズカはため息をつく。

 

「…スズカさん」

 

 その時、横合いから声がかかる。隣のベッドで眠っていたはずのスペシャルウィークだ。しかし、彼女は今確実にこちらを見ている。

 

「スぺちゃん…ごめんね、起こしちゃった?」

「いえ、私もちょっと眠れなくて…」

 

 サイレンススズカも、身体を横にしてスペシャルウィークを見る。暗闇に慣れてきた目に映ったスペシャルウィークの表情は、少々不安げだ。

 

「明日、いよいよですね」

「ええ、そうね」

 

 それだけで、スペシャルウィークも何を考えているのかは分かる。

 彼女が目標としていた阪神大賞典は先週終わり、彼女は勝利を収めている。サイレンススズカもその瞬間はテレビ中継で見ていた。

 次に彼女が目標にするのは春の天皇賞だが、期間はまだ空いている。そして自分を慕ってくれる彼女だからこそ、サイレンススズカが明日出走するURAファイナルズが気がかりで仕方ないのだろう。

 

「緊張して、眠れなくって」

「それは私もよ。でも、走るのは私なんだし、スぺちゃんまで気にしなくても…」

「それでも、気になっちゃうんです」

 

 スペシャルウィークが上体を起こす。

 

「私にとって、スズカさんは憧れですから。ううん、私だけなくて、エルちゃんやグラスちゃんにとっても。それに私たちもいずれURAファイナルズには出走するかもしれませんから、他人事には思えなくて」

 

 スペシャルウィークを含めた黄金世代は、今年からシニア級だ。このまま順当な成績を残せば、来年度のURAファイナルズに出走する可能性はかなり高い。だから、今まさにURAファイナルズに挑戦しているサイレンススズカを気にせずにはいられないのだろう。

 何よりも、スペシャルウィークたちはサイレンススズカを慕い、挑戦することを諦めていない。緊張する度合いはサイレンススズカよりやや劣るものの、それでも気になって仕方がないのだ。

 

「まぁ、私がこんなだから、スズカさんのトレーナーさんはもっと緊張してるかもですけど…」

 

 乾いた笑いをこぼすスペシャルウィーク。

 だが、柴波のことを指摘されて、サイレンススズカの心が強く跳ねる。

 

「…そうね。多分トレーナーさんも、私以上に緊張しているかも」

 

 以前は、柴波の緊張を解くために、心配には及ばないと証明するために走ったこともあった。だが、それ以降余計な心配はかけないと言いつつも、陰では心配しているんだろうなとは思っている。決勝を明日に控えているが、今頃はまだ眠れていないのかもしれない。

 だが、そんな柴波の存在が、サイレンススズカにとっては大きな支えだ。

 

「でも、トレーナーさんが支えてくれたおかげで、私はここまで来ることができたから…。強くなれたからこそ、明日は絶対に負けない」

 

 アロマの香りが漂う。柴波の贈ってくれたものだ。

 トレーニングの時も、けがをした時も、柴波は自分を支えてくれていた。その末に今、こうしてURAファイナルズ決勝戦まで勝ち上がり、自分の走りはより研ぎ澄まされてきている。そして何より、柴波のことを思うと自分の中に力が込み上げてくる。今もまた、心が温かくなってきていた。

 

「…頑張ってくださいね、応援していますから」

「ええ、頑張るわ」

 

 スペシャルウィークがガッツポーズをとると、サイレンススズカも頷く。

 アロマの香りに包まれ、柴波のことを思い浮かべながら、サイレンススズカはやがて眠りに就いた。

 

 

◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 URAファイナルズ決勝の舞台は、サイレンススズカにとっては多くの思い出がある東京レース場。

 予選・準決勝とは異なり、天候は快晴。風も穏やかで、バ場の状態は文句なしの『良』。絶好のレース日和だ。

 この日東京レース場を訪れた人の数は優に5万人を超え、GⅠレースに匹敵するレベルだと前のレースで実況は誇らしげに言っていた。つまりそれだけ、これから開催されるURAファイナルズ決勝が注目されているということになる。

 

「いよいよだな」

「ええ」

 

 控室は外の喧騒とはかけ離れ、柴波とサイレンススズカは最後の確認をしていた。

 サイレンススズカは、見る限り不調の様子はない。顔色はいいし、脚に違和感を抱いている様子もない。靴の蹄鉄も再三確認して問題はなく、勝負服にも解れや汚れはなかった。勝負服がなっていなければ、せっかくの晴れ舞台が台無しだ。一方で柴波も、若干寝不足なのを除けば体調はすこぶるいい。担当ウマ娘の大舞台に担当トレーナーがいないなど話にならない。

 

「レースは18人のフルゲート、メジロドーベルもいる。バ場の状態も良いし、皆本気で勝ちを狙ってる。誰が1着になってもおかしくないだろう」

「でもトレーナーさんは…」

「当然、スズカが勝つと思ってるよ」

 

 サイレンススズカの言葉に被せるように、自信をもって伝える。トレーナーが自分の担当するウマ娘の勝利を信じずして、何がトレーナーだ。

 出場するウマ娘の中には、今までどうにか直接対決を避けてきたメジロドーベルがいる。それ以外にも名うてのウマ娘たちが集っており、本当に誰が勝つかは分からない。競馬番組のキャスターや評論家も、今回出走するウマ娘の誰が勝つかは予想できないとのことだ。

 それでもなお、柴波はサイレンススズカが勝つことを信じている。これまでのレースに裏打ちされた練習は自分の目で見てきたし、彼女の走りは全く衰えていない。その逃げで、必ずやURAファイナルズを制すると、確信めいた自信があった。

 柴波の自信を持った言葉に、サイレンススズカは頷いて口を開く。

 

「…トレーナーさん」

「?」

「今日のレース…」

 

 サイレンススズカが紡ぐ言葉を慎重に待つ。流石のサイレンススズカも緊張して、レース前に弱音を吐くのかもしれない、という予想が頭を掠めた。

 

「私は、昂っていますが、緊張もしています」

 

 口にしたのは、相反する感情だった。

 

「これまで私は、先頭の景色を見ることを願って、ずっと走ってきていました」

「ああ、そうだったな」

「そして今回の決勝戦、周りが強者揃いという事であれば、そこで見られる景色はどれほど素晴らしいものだろうと、楽しみでもあるんです」

 

 実に楽しそうな表情でサイレンススズカは語る。

 しかし、『でも』とつなげたサイレンスズカの眉は下がった。

 

「強者揃いだからこそ、先頭へ立てなかったら、と不安になり、緊張することもあるんです」

 

 無理もない不安だ。出走から常に先頭をキープして逃げ切るサイレンススズカの走りは強力だが、今回のレースでそれがどこまで通用するのかは本当に分からない。メジロドーベルをはじめとした差しや追込脚質のウマ娘に最後の最後で差される可能性だって考えられる。

 そんな不安になるサイレンススズカに、励ましの言葉を贈ろうとしたが、それよりも早くサイレンススズカが言葉を発した。

 

「それでも私は、トレーナーさんとの日々を思い出して、必ずやこのレースを制して見せます」

 

 拳を握るサイレンススズカ。

 そこには、これまで見てきた中でもより強いサイレンススズカの意思が感じられた。その姿に、柴波自身が抱いていた不安も薄れていく。

 

「それで、トレーナーさん」

「?」

「レースの後、少しだけお話をしてもよろしいでしょうか?」

 

 サイレンススズカが、おもむろにお願いをしてくる。

 柴波は一瞬引っかかったが、それでも頷いた。話の内容について今は聞かないでおくが何かお願いでもされるのだろうと思った。もとより柴波は、URAファイナルズで優勝したら何かご褒美でもあげたいと思っていたところだ。それぐらいどうということはない。

 

「…絶対、勝ちますね」

「ああ、存分に走ってきていいさ」

 

 しかし柴波が頷くと、サイレンススズカはより強い決意を胸に抱くかのように、言葉に力強さが滲み出し、目に一層強い光が宿った。

 それに柴波が気付くと同時、携帯のアラームが鳴る。パドックに出る時間だ。

 

「…では、行ってきます」

「行ってらっしゃい、スズカ」

 

 サイレンススズカは背を向けて、控室を出る。

 気のせいでなければ、柴波にはその見送る背中から闘気のようなオーラが出ているように見えた。

 

 

◇ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 パドックでウマ娘たちの様子を確かめる観客たちの中には、エアグルーヴもいた。

 彼女にとっても、今日のレースは気になるところではある。何せ、自分にとっては可愛い後輩のメジロドーベル、そして友人のサイレンススズカが参加するのだから。

 

(良く整っているようだな、ドーベル…)

 

 パドックに出てきたメジロドーベルを見て、エアグルーヴは内心頷く。

 理想の女帝を自負するエアグルーヴだが、メジロドーベルはとりわけ自分のことを慕ってくれており、何と勤労感謝の日にはお茶をご馳走してくれるほどだ。そんな彼女をエアグルーヴも気にかけており、トレーニングにも付き合うことがたまにある。

 メジロドーベルは、あのメジロ家の令嬢としてひたむきに努力をしてレースの世界を生きている。一方で男性が苦手という面もあり、トレーナーすらも向き合うのが難しく、レースの結果まで左右するとされていたが、今はそんな様子もない。どうやら、トレーナーと接するうちにある程度は克服できたらしい。

 

「お、ドーベルもなかなか仕上がってるみたいだね」

 

 気さくな様子で話しかけながら、エアグルーヴの横に誰かが来る。フジキセキだった。『やっ』と軽く挨拶をするフジキセキに対し、エアグルーヴは頷いて答える。

 

「男性嫌いもかなり良くなっているみたいだし、協力した甲斐があったよ」

「そのせいでドーベルも戦績が振るわないことがあったが、確かに問題はなかろう」

 

 男性嫌いを克服するために、一時期フジキセキは男性役としてメジロドーベルと接していたこともあった。そんな彼女からすれば、今のメジロドーベルを見ていると安心するのだろう。

 

「エアグルーヴからも見ても、走りの方は大丈夫そうかな?」

「トレーニングや実際のレースを見たり、模擬レースをしても良い仕上がりといえる。間違いなく結果を残せるはずだ」

 

 エアグルーヴが言うと、フジキセキも同意見らしくニコッと笑った。

 それから彼女は、パドックの周囲に目を向ける。

 

「それにしても、やっぱりこの熱狂ぶりはGⅠ以上だね」

「ああ。さすがは決勝戦といったところか」

 

 開催されているURAファイナルズは、厳密に言えばGⅠレースではない特殊なクラスのレース。だが、トゥインクルシリーズで活躍したウマ娘たちが一堂に会し戦うというのだから盛り上がらないはずはない。エアグルーヴたちはすでにURAファイナルズを経験しているからこそ言えるが、GⅠレース以上でここまで人が集まるのは珍しいことだ。

 その時、観客たちのざわめきが増す。

 

「お、来たね」

 

 フジキセキがパドックの入り口を見て告げる。

 エアグルーヴもそちらを見るが、誰が来るかは分かっていた。未だこの場に姿を見せていない、1番人気の座に立つサイレンススズカだ。

 

(…なんだ、あれは)

 

 だが、その姿を見た瞬間にエアグルーヴが抱いた感情は、『恐怖』に近い『疑問』だ。

 入ってきたのはサイレンススズカに変わりない。その姿は勝負服を除けばつい先日学園で会った時と同じものだ。

 明らかに違うのは、雰囲気だ。その表情は真剣としか表現しようがなく、目に宿る光は力強くて、一歩一歩と前に進むその姿からは強固な自信を感じさせる。

 その異様な雰囲気に気づいたのはエアグルーヴだけではないようで、観客たちも歓声ではなくざわつき始める。

 

「ドーベルも中々だけど、スズカはそれ以上の仕上がりぶりだ」

 

 その異様な空気を知ってか知らずか、フジキセキは全く変わらない様子で話す。そのフジキセキの声を聞くまで、エアグルーヴ自身が彼女の雰囲気に吞まれていたと気付かされた。

 

「この様子だと、何か面白いことが起きそうだ」

「…そうだな」

 

 雰囲気だけで周囲の空気を変えるほどの仕上がりを見せるサイレンススズカだ。そして、確実に頭角を現しているメジロドーベル。フジキセキの言う通り、今年のURAファイナルズは何かが起きそうだ。

 しかしエアグルーヴは、それだけではないと思っている。友人でもあり、過去にトゥインクルシリーズでも戦ったことがあるからこそ、今のサイレンススズカがあれだけの仕上がりを見せているのは、単にトレーニングを入念に積み重ねてきたからではないと思った。

 彼女が先頭の景色を堪能するために走っているのは知っている。だが、それとはまた違う何かを狙っているようにも見えた。

 

(スズカ…この決勝戦で、何を望んでいる…?)

 

 エアグルーヴはその疑問を抱きつつ、パドックでメジロドーベルと話すサイレンススズカを眺める。

 

 

 サイレンススズカとは同期であるが、メジロドーベルは彼女と話したことがあまりない。

 だが、それでも今のサイレンススズカからは闘気のようなものが強く感じる。自分だってこの日のためにトレーニングは積み重ねてきたし、今までのレースでプレッシャーを放つウマ娘は何人も見てきたが、彼女のそれは今まで以上だ。

 

「ドーベル、どうかした?」

 

 その時、そのサイレンススズカから話しかけられた。尻尾がびくっと震えるが、このままではプレッシャーに圧し潰されると察し、何より明確に自分に声をかけてきたので、口を開かざるを得ない。

 

「どうって…何が?」

「何か私の方を見ていたから、用でもあるのかなって…」

「あ、ううん…ただ、何だか調子よさそうだなって思ったの」

 

 調子が良すぎて周りの空気を変えるレベルだ。現に、他のウマ娘たちはサイレンススズカを見て無意識に胸の前に手を持ってきている。あれは気持ちを落ち着かせようとしている証だ。

 ただし、当のサイレンススズカは首を傾げた。

 

「そう見えるのかしら…」

「むしろそうとしか見えないんだけど…」

「そう…でも、確かに今の私は結構調子がいいかも」

 

 そう語る今のサイレンススズカからは、メジロドーベルはプレッシャーを感じない。パドック入り直後に見た、目に宿る強い光も、今は落ち着いている。代わりに、穏やかな表情をサイレンススズカは浮かべていた。

 そんな彼女を見て、自然とメジロドーベルも勝負に向ける意欲が再度湧いてくる。

 

「…宝塚記念では勝てなかったけれど、今回はそうはいかないわ」

 

 シニア級の宝塚記念、メジロドーベルはサイレンススズカに敗れ5着にとどまった。それ以降メジロドーベルはマイルレースに向けて徹底的にトレーニングを重ね、ヴィクトリア女王杯で勝利をもぎ取った。自分の差し脚を活かし、ダブルティアラを獲得した自分の実力は確実に上がっていると、自惚れなく思っている。

 そして今、こうしてURAファイナルズの決勝戦まで勝ち上がっているのだ。サイレンススズカに次ぐ2番人気に留まっているが、重要なのは人気度よりも実力だ。トレーニングは今まで手を抜いたことなど一度もないし、自分のトレーナーがメンタルトレーニングにも付き合ってくれたおかげで、仕上がりは今までで最高とさえ言える。

 

「負けないから」

 

 サイレンススズカに向けて、宣言する。

 彼女の戦績は、同期として耳に入ることが度々あるし、脚の不調で一時レース場から姿を消したときは心配したものだ。だが、復帰して以降目覚ましい走りを見せる彼女の走りに、ここまで来て負けるわけにはいかない。

 一方で、サイレンススズカの決意も固そうだ。

 

「…私だって、負けるわけにはいかない」

 

 サイレンススズカは、エアグルーヴの言葉に頷き、胸の前でこぶしを握る。

 

「このレースは私にとって…特別なものだから」

 

 そう告げるサイレンススズカは、ただ勝利を狙っているわけではないように見えた。

 そして、先ほど感じた闘気を、再び強く感じる。

 

 

◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◇

 

 

 柴波は、ターフビジョン前の立見スペースで、ウマ娘たちが入場するのを見届けていた。周りはウマ娘ファンでごった返しており、誰もがそれぞれ応援しているウマ娘に向けて応援の言葉を贈っている。

 今回のレースの距離は1600メートル。スタートするのはスタンドの反対側からで、第3コーナー、第4コーナーと最終直線を経由してスタンド正面のゴールに到達する。サイレンススズカが得意とする左回りのレースだ。

 当たり前だが、サイレンススズカが入場したのは見えても、彼女がこちらに気づくことはなかった。何せ周りは観客だらけだし、入場したらすぐにゲートまで向かう。そして見据えるのはターフだけ。立ち止まってトレーナーを探す暇はないのだ。パドックなら話は別だったが。

 

(……)

 

 重大なレースを前にして、眠気はとうに消え失せた。あるのは緊張感だけである。

 サイレンススズカとともに過ごした3年の成果が、このレースで決まる。紆余曲折はあったが、決して無駄な努力をしてきたつもりはない。確実にサイレンススズカは強くなり、これまでのレースでそれは証明してきた。

 しかしこの場に集うのは、トゥインクルシリーズの中でも最強クラスのウマ娘ばかり。サイレンススズカの強さを信じていないわけではないが、通用するかどうかはずっと気になる。

 そんな不安を前に、ウマ娘たちはゲートの前へと集合し、URAのスターターがスターター台の上で赤い旗を振る。すると、GⅠレースとも違う特別仕立てのファンファーレの生演奏が始まった。レース前のウマ娘、観客たちの昂ぶり、意欲、期待感を煽るようなファンファーレに、観客たちは一斉に拍手を贈る。柴波もまた同じく拍手を贈った。

 

『東京レース場、天候は快晴で風も穏やか、絶好のレース日和。トゥインクルシリーズを勝ち上がった18名のウマ娘たちが集う、URAファイナルズ・マイル決勝戦、まもなく出走です』

 

 実況の言葉に、柴波のみならず周りの観客たちからも息を吞む音がする。

 

 

 ファンファーレはサイレンススズカにも聞こえていた。

 生演奏や録音に問わず、サイレンススズカはファンファーレが好きだ。これから素晴らしい時間が始まると知らせるような、勇ましく高揚感に満ちた音楽を聞けば、朝から晴れやかな気持ちで1日を迎えることができるから。

 ファンファーレが鳴ったことで、サイレンススズカを含めたウマ娘たちはそれぞれがゲートへと入る。直前まで屈伸や腕伸ばしなどの準備運動をするウマ娘がいれば、深呼吸をしてリラックスしようとするウマ娘もいる。

 サイレンススズカはと言うと、ゲートの先に見える誰もいないターフを見て、これから自分がその景色を堪能するんだと意気込んでいた。

 

「……」

 

 その横を、メジロドーベルが抜き去るように黙って歩いていき、自分の隣のゲートに入る。しかしその目からは、闘志が消えていない。

 サイレンススズカもまた自分のゲートに入る。1枠1番、それが今回のレースで自分に与えられた番号だ。

 

(トレーナーさん…)

 

 ゲートに収まり、しばしの間1人の空間ができる。

 そこで思い浮かべたのは、これまで自分のことを支え、今なお自分の心の中心にいる人。

 自分が柴波のことをどう思っているのか、その答えはほとんど分かっている。この気持ちを今まで抱いたことはなかったが、それでもその気持ちが何なのかは不思議と知っていた。

 だからこそ、そんな彼のことを思い浮かべるだけで、心は昂ぶり、しかしながら余計な雑念は消え、『勝利する』と言う目標がより明確になる。

 

(どうか、見ていてください)

 

 最後のウマ娘がゲートに入った音が聞こえた。

 身構える。

 沈黙が挟まる。

 そしてゲートが開くと、同時に足は前に出ていた。

 

 

 

『スタートしました!』

 

 ゲートが開くや否や、観客たちは歓声を上げる。

 柴波は唇を締めて、ターフビジョンのカメラ映像をじっと見る。

 

『各ウマ娘、綺麗なスタートを切りました。まず飛び出したのは1番サイレンススズカ、その横5番アゲインストゲイル、半バ身離れて8番ディスパッチャー、今6番ブリッジコンプがディスパッチャーの前に出る。2番人気のメジロドーベルは先頭から3バ身、すぐ横を9番ツールジボワールが追い抜く』

 

 案の定、サイレンススズカは早くも先頭に立った。脅威とされているメジロドーベルは『差し』脚質のため、ひとまず中団でで様子を窺うだろう。後のウマ娘たちは、それぞれが自らの脚質に合った位置につき、第4コーナー手前まではこのままでいくだろうと柴波は考えていた。

 しかし。

 

『サイレンススズカ、早くも距離を離している。シンガリの11番コサックステップまでおよそ11バ身。レース開始からまだ500メートルと半分も過ぎていない』

 

 サイレンススズカが、今まで以上のペースで後方との距離を離し始めた。実況も困惑しながらも状況を淡々と説明し、観客たちからは歓声とどよめきが半々の割合で上がっている。

 掛かってしまっているのだろうか。

 柴波は不安になるが、ターフビジョンに映るサイレンススズカの表情に目を凝らす。焦りや不調の様子が見られず、あれが本調子だ。

 しかしながら、柴波もただサイレンススズカの横で突っ立って練習やレースを見ていたわけではない。これまでのトレーニング量やレースの走りを見て、サイレンススズカの走りは分析し、どれほど成長しているのかも目にしている。

 だが今のサイレンススズカの走りは、自分の予想を超えていた。

 

『まもなく第3コーナーに差し掛かる。先頭は1番サイレンススズカ、続く5番アゲインストゲイルとの差は6バ身。その横並んで8番ディスパッチャー、半バ身後ろにツールジボワール。1バ身離れて15番リバイバルリリック』

『リバイバルリリック、掛かり気味でしょうか。冷静さを取り戻せるとよいのですが』

 

 まだ第3コーナー手前だが、差し脚質のリバイバルリリックが先頭に出ようとしている。恐らく、サイレンススズカとの差を考えて、今から仕掛けないとゴールまでに差せないと踏んだのだろう。

 だが、ライバルとして有力候補のメジロドーベルはまだ仕掛ける様子がない。彼女の順位は先頭から6~7番目ほどだが、彼女の差し脚はかなり強力だ。今は力を溜めている状態だろうし、彼女はおそらく第4コーナーあたりで仕掛けてくるだろう。

 

(スズカ…)

 

 柴波は、先頭を行くサイレンススズカに気を向ける。

 これまで見せたこともないような走りを見せている彼女は、今何を思って走っているのだろうか。

 

 

 不思議なことに、ゲートに入る前は多くのウマ娘をこの目で見ていたはずなのに、自分の周りに気配を感じない。

 まるで広々としたターフを、自分一人が走っているかのような感じだ。

 自分の前には誰もいない。

 後ろにも横にも気配がない。

 しかし、感じるのは寂しさではなく心地よさだ。

 誰の気配も気にせずに、ただこうして先頭の景色を独り占めにし、伸び伸びと走ることができるのが、とても気持ちよくて、幸せだ。

 自然と、周りの音が聞こえなくなってくる。

 

(これが、このレースの景色…気持ちいい…)

 

 自然と、笑みがこぼれてしまう。

 多くの強者が集うURAファイナルズの先頭の景色がどれほどのものか。その答えこそ、今の自分が見ている景色だ。見慣れた東京レース場でも、まったく別の景色にしか見えず、身体を貫くほどの爽快感を得られる景色。

 ずっとこの景色を、堪能していたい。

 脚は動き続けている。力強く芝を踏み、前へ前へと自分の身体を進めてくれている。

 左手に大ケヤキが見えた。もうすぐ第4コーナーに差し掛かる。

 やがてスタンドが見えてきた。

 けれど不思議なことに、歓声が聞こえない。風は感じるし、芝の匂いもするのに、レース前に聞こえていた喧噪が少しも聞こえないのだ。

 それをサイレンススズカは不安に思わなかった。それだけ、今見ている自分の景色を堪能したいと、身体の全てが訴えている。

 そして最後の直線に差し掛かろうとしたその瞬間、ターフのはるか先に、誰かが立っているように見えた。

 

(…トレーナーさん)

 

 今の自分にとって、()()大切な人。

 自分しかいないと思っていた先頭の景色に、いつしか自然といるようになった人。

 そして自分の心を、こんなにも温かく、優しい気持ちで包み込んでくれる人。

 

(…そうだ)

 

 その姿に引かれるように、サイレンススズカの脚がより力強く踏み込まれる。

 

(私は、トレーナーさんのことが―――)

 

 自分の中にある気持ちを、確信した。

 

 

 ウマ娘たちの背を視界にとらえながらも、メジロドーベルは懸命に走る。

 第3コーナーを過ぎ、第4コーナーへと差し掛かったのを見計らい、そろそろ仕掛けるべきかと思案する。

 マイルレースの決着は中距離以上のレースと比べれば早くに付いてしまうが、自分の脚は終盤から力を発揮する。それまでは自分のペースを保ちつつ、周りの様子に合わせて柔軟に対応する。それが差しでマイルレースに挑む自分のやり方だ。

 

(あれがスズカの走り…)

 

 前方を走るサイレンススズカの背中を見て、感心する。以前戦った宝塚記念や、映像で確認したURAファイナルズの予選・準決勝よりもその走りのキレは増しているように見えた。スピードがこれまでのレースより上がっている。

 メジロドーベルは、力を少しずつ自らの脚に伝え始める。

 サイレンススズカが最後の直線で再加速するのは知っている。そうなっても自分の脚で食らいつき、追い抜くと決めていた。けれど、このままのペースでサイレンススズカが進むとなれば、差し切れない可能性も高い。だから、この段階から仕掛け始めるべきだと直感で決めたのだ。

 前を行く5番と8番のウマ娘の外側から回りつつ、サイレンススズカの背中を目指して脚に力を籠める。自分のスピードが上がっていくのが、受ける風と後ろに流れる景色で分かった。

 

(なんてスピード…)

 

 そうしている間もサイレンススズカの脚色は衰えない。常に先頭を譲るまいとする意志がひしひしと伝わてくる。先頭の景色を見ていたい、という彼女のスタイルは知っているが、それだけでは説明しきれないほどの速さを保っている。

 一体何が、彼女をそこまでさせているのか。

 気になるところではあったが、メジロドーベルは冷静に速度を上げていく。自分とて生半可な覚悟でこの場には立っていない。自分のトレーナーや尊敬する先輩、メジロ家などの背負うものがあるのだ。

 サイレンススズカの背が徐々に近づいてくる。残り600メートルの標識を過ぎ、間もなく第4コーナーを抜けて最後の直線に入る。

 最後のために、メジロドーベルはさらに脚に力を込めてサイレンススズカの前に出ようとした。

 

(え?)

 

 だが、そこでメジロドーベルの目が見開かれる。

 

 

 東京レース場名物の大ケヤキの横を通り第4コーナーに差し掛かったあたりで、後方で控えていたメジロドーベルが速度を上げる。他の差しウマ娘や、後方にいる追込ウマ娘も準備を始めていたが、メジロドーベルは仕掛けるのが早い。恐らくは、サイレンススズカのスピードに合わせて早めに仕掛けるべきだと踏んだのだろう。

 柴波は、その様子に唾を飲み込む。

 彼女の走りは、とても力強い。サイレンススズカを追い抜こうとする意志が強く見え、その差をゆっくり、しかし確実に詰めていく。サイレンススズカの逃げも相当なもので、メジロドーベルの走りは予選や準決勝のような華麗ななで斬りとまではいかないものの、サイレンススズカといい勝負を繰り広げている。

 その様子に観客たちは、ややもするとあの驚異的な走りを見せるサイレンススズカを追い抜けるのではないか、と誰もが思い始める。

 その時だった。

 

『さあ第4コーナーから最後の直線に差し掛かる。ここでサイレンススズカ、さらに速度が上がった!後方メジロドーベルとの差が再び広がり始める!』

 

 実況の熱が右肩上がりになり、観客たちもサイレンススズカの再加速を目の当たりにして歓声を上げる。ウマ娘たちの走りが大地を通して、立見スペースにいる柴波たちの脚にも伝わってくる。

 

『最後の直線入った、メジロドーベル追いすがる!残り400メートルを切った!メジロドーベルとアゲインストゲイルが激しい競り合い!サイレンススズカが単独で先頭をキープ!影すら誰にも踏めない!踏ませない!メジロドーベル追い抜いた、サイレンススズカを差し切れるか!』

 

 歓声で実況の声が聞こえなくなりそうになる。

 だがサイレンススズカは、変わらないペースでスタンド正面を駆け抜ける。それからほんの少し遅れて、メジロドーベルが走り抜ける。

 柴波には、メジロドーベルの表情をほんのわずかに捉えることができた。必死に先頭を狙って力の限りを振り絞る、戦う人の表情だった。

 

『ゴールを抜けた!今、マイルレースの頂点にサイレンススズカが君臨した!!』

 

 やがて勝敗が決した。

 瞬間、大地を揺るがすほどの歓声がスタンド中から上がり、ある者は感動に咽び泣き、またある者は悔しがっているのか頭を抱えている。

 やがて全てのウマ娘がゴール板を抜け、拍手があちらこちらから聞こえてくる。このレースを走り抜いた全てのウマ娘たちに、健闘したウマ娘たちに贈る労いと感謝の拍手だ。

 

『今ここに、URAファイナルズマイル部門を制したサイレンススズカ!2着メジロドーベルとの差は「大差」と、驚異的な走りを見せました!』

 

 実況が告げると、ターフビジョン横の着順掲示板に順位とそれぞれの差が表示される。

 1着サイレンススズカと2着メジロドーベルの差は、確かに『大差』と表示されていた。それを見た観客たちは驚き交じりの歓声を上げている。

 

『発走から終始先頭をキープし、誰にも抜かれず、ペースも落とさず…!最後に圧倒的な差をつけてゴールしたその走りは、まさに異次元!まさに、「異次元の逃亡者」!!』

 

 実況に、観客たちがわあっと歓声を上げた。『異次元の逃亡者』と言う表現がとても格好よく聞こえたらしい。

 

「……」

 

 その中で柴波は、ターフビジョンから青い空へと視線を移し、腹の奥の奥から息を吐き出す。

 サイレンススズカが勝った。

 その事実に、歓喜の余り胸の奥が震えているような感覚がし、血が沸騰しそうになほど身体が熱く、脚の力は気を抜くと全てなくなってしまいそうだ。

 しかもその走りは、これまで見せたことがないような大逃げ。走り出してから誰にも先頭を譲らず、終いには12バ身以上もの差をつけてゴールした。

 興奮と同時に、疑問も浮かぶ。

 彼女はなぜ、これだけの走りを見せたのだろうか。

 いったい何が、彼女をあれだけ駆り立てたのだろうか。

 強者たちが集うこの場で先頭の景色を見ることが、至上の喜びだからなのか。

 それは分からないけれど、後でゆっくり聞いてみるとしよう。

 そのサイレンススズカは、ウィナーズサークルへと向かう途中でメジロドーベルと一言二言言葉を交わし、最後に握手をしていた。

 柴波はその2人に向けて、拍手を贈った。

 

 

 ゴール板を駆け抜ける。

 それを認識して、サイレンススズカは脚に込めていた力を少しずつ抜いていく。それに比例するかのように、周りの音が聞こえるようになってきた。

 そして、立ち止まってから聞こえてきたのは、まるで大瀑布のような歓声だった。振り返ってみれば、スタンドにいる観客たちがターフに向かって思い思いの声を向けている。その声は、自分に向けられているのだろうか、と現実味もなく考えてしまう。

 

「…すごいよ、スズカ」

 

 そこへ、メジロドーベルが歩み寄ってきた。

 振り返ってみると、彼女の顔はレースの後で高揚しているからかわずかに紅く、瞳は汗のせいかそれとも別の何かのせいか、濡れていた。

 

「まさか、あそこからあれだけ伸びるだなんて。あとちょっとで差し切れるかもって思ってたのに…」

「…うーん」

 

 苦笑しながら言われるが、サイレンススズカは実感が持てない。

 

「ただ、自分の気持ちに正直に走ってたらそうなってたから…」

 

 サイレンススズカの言い分に、メジロドーベルはくすっと笑った。

 レースの中で、自分の心にいるただ1人のことを考えていたら、自然と脚に力が流れ込んでいた。終盤など前を見て、後ろを気にせず、ただただその先にある景色、そしてそこで待つ人の下へ辿り着くのだと、それだけを考えて走っていた。その結果が、この大差勝ちだ。

 当然、ここに彼はいない。だが、後で必ず会いに行く。

 

「負けちゃったのは悔しいけど、あなたが勝ったのは事実よ」

 

 そう言って、メジロドーベルは右手を差し出す。

 

「おめでとう」

「…ありがとう」

 

 サイレンススズカは、同じく右手を差し出して握手を交わす。

 スタンドからは、轟くほどの拍手がサイレンススズカとメジロドーベルに贈られた。

 

 

◇ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇

 

 

 サイレンススズカと柴波が学園に戻ってきたのは、日もすっかり暮れた夜だ。

 レースの後、URAファイナルズ決勝限定の歌詞と振付が独特なウイニングライブを行い、表彰式、さらに長時間に渡る勝利者インタビューをこなした結果がこれだ。特にインタビューは予定した時間をかなり過ぎてしまっている。URAファイナルズという大舞台を制したのだからも仕方ないが、サイレンススズカもレースとウィニングライブで疲れているからという理由で、インタビューは切り上げさせてもらった。それがなければ、いつまで続いていたことか。

 

「…全然、興奮が収まらない」

 

 トレーナー室に戻った柴波の言葉に、サイレンススズカはくすくすと笑う。

 レースの後で柴波は、いつもサイレンススズカに対して労いや祝いの言葉を真っ先に贈ってくれる。だが、こうして長いこと勝利の余韻から抜け出せないままでいるのは初めてだったはずだ。ここまで来て、柴波の新たな面が見られたことが嬉しく思う。

 そんな柴波も、一つ咳払いをすると、改めてサイレンススズカに向き直る。

 

「本当に…よく頑張ったよ、スズカ」

「ありがとうございます」

「君のことを、誇りに思う」

 

 心の底からの笑みと、讃える言葉に、サイレンススズカは頭を下げる。

 やはり柴波に評価をしてもらえると、心に一滴の水が落ちたように気持ちが研ぎ澄まされ、胸が温かくなる。

 

「あの、トレーナーさん。覚えていますか?レース前の…」

「覚えているとも」

 

 話がしたいという約束。訊ねてみるが、柴波は覚えてくれていた。

 それだけで安心する。レースの後は色々忙しかったので、そのせいで忘れられていたらどうしたものかと。といっても、忘れたと言われたら改めて言わせてもらうつもりだったが。

 

「だから、話してごらん?」

 

 柴波が、優しく促してくる。太陽は沈み、部屋の中を照らすのは蛍光灯の明かりだけ。だが、先ほどまでいたレース場のような熱気や歓声はなく、今は2人きりのこの部屋を満たす空気は穏やかだ。

 サイレンススズカは、一つ呼吸を挟んでから告げる。

 

「まずはトレーナーさん…今日まで私のことを支えてくれて、ありがとうございます」

 

 感謝の気持ちを伝える。柴波がいなかったら、自分はあの舞台に立つことはできなかっただろう。それ以前に、このレースの世界に立つことさえなかった。

 

「トレーナーさんがいてくれたからこそ、私は私の走りを貫き、大きなけがをすることもなく、走り続けることができました」

 

 柴波が自分の走りを見出してくれなければ、サイレンススズカは先頭の景色を楽しみ続けることができなかった。柴波がいなければ、脚の不調をきたしたあの時、そのまま一線から身を引くことになっていただろう。

 

「……」

 

 柴波は何も言わない。今はサイレンススズカの『話』を聞くことに徹しているからだろうか、口を挟まないでいる。

 それは却ってありがたい。今から伝える気持ちを聞いてもらうまで、最後まで言葉を挟んでほしくはない。

 

「そして、トレーナーさんがいてくれたから、私は走ること以外にも、楽しみを見つけることができました」

 

 走れなくなったことで空いた時間。サイレンススズカは周りの仲間や、自分の走りが周りにとってどう思われているのかを、見つめなおすことができた。それは自分の意思で目を向けたことだけではなく、柴波が気付かせてくれた面もある。

 それに、柴波と一緒の時間を過ごすことで、自分が今まで興味がなかったことにも自分から手を伸ばすことができるようになった。

 そして。

 

「トレーナーさんがいてくれたから…私は、走ること以外にも、自分の心の芯になっているものに気づくことができました」

 

 柴波を見る。何かに気づいたのか、表情に一点の疑問が見える。

 しかしサイレンススズカは今更止まれない。

 

「私が走る中で見る景色には、今までは誰もいませんでした。けれど、トレーナーさんと一緒に過ごしている中で、私の景色には…トレーナーさんがいつもいるようになりました」

 

 視線が下に行く。床のタイルが目に入るが、サイレンススズカにはそこにコースの芝が生い茂っているかのように見えた。

 

「あなたが私の景色にいると思うと、私の脚は自然と前へ前へと踏み出していて。自分でも不思議に思うくらい、速く走ることができて、胸が温かくなるんです」

 

 視線を上げる。先ほどのURAファイナルズで見たように、自分の景色の先には、トレーナーがいてくれている。

 

「それは私にとって、トレーナーさんがいつも私のことを考え、支えてくれているからであるのと同時に…私も、トレーナーさんが自分のそばに、私の景色にいてほしいと思うようになったんです」

「スズカ…」

 

 柴波が名を呼ぶ。

 だがサイレンススズカは、この想いを伝えられずにはいられなかった。

 

「トレーナーさん…好きです」

 

 初めての気持ちを、言葉にする。

 たったそれだけで、サイレンススズカの胸は高鳴った。

 

「あなたのことが、大好きです」

 

 

 

 その言葉を、心のどこかで待ち望んでいたのだろう。

 だから柴波は、サイレンススズカの真っ直ぐな気持ちを聞いて、驚きはしなかった。むしろ、喜びを抱いた。それこそ、つい数時間前にURAファイナルズをサイレンススズカが制した時のように。

 何よりも柴波の頭を占めているのが、サイレンススズカも()()だったということだ。

 しかし、頭を過るのは、自分とサイレンススズカの立場のこと。

 散々考えて、同僚にも忠告した。自分が大人で、担当するウマ娘たちはまだ学生と言うどうしようもない事実。それこそが、自分たちの間に立ちはだかる大きな壁であると、悲しいほどに理解していた。

 だからこそ、やすやすと自分の気持ちを伝えるわけにはいかないだろう。

 

「…スズカ」

 

 けれど、自然とその名は口にできていた。

 心の中で主張していた、現実的な問題に対する不安や恐れが、今だけは感じられない。それほどまでに、自分の中の気持ちは大きくなっている。

 サイレンススズカが『きっかけ』を作ったことで、今まさに自分の感情は堰を切ろうとしていた。

 

「俺は…」

 

 立場はどうしても変えられない。

 しかし今、サイレンススズカは勇気を振り絞ってその想いを伝えてくれた。自分がサイレンススズカにとってどれほどの存在であるのかを、勇気と覚悟、そして今日のレースの結果をもって示してくれた。

 その感情に対する答えが、『立場』とか『世間』とか堅苦しく現実的なものではならないと、柴波の感情は告げている。

 

「俺も…」

 

 自分が出す答えは、トレーナーとして、大人としては間違っているのだろう。

 だが今は、サイレンススズカの気持ちに、自分自身の気持ちに、真正面から向き合いたかった。

 

「…スズカのことが好きだよ」

 

 嘘偽りのない、自分の気持ちがそれだ。

 

「…っ」

 

 直後、サイレンススズカの眦から、涙が一筋落ちた。涙を見せたことなんてほとんどなかったのに。

 けれどそれは、決して悲哀からくるものではない。

 そんな彼女に向って、一歩ずつ歩み寄る。

 

「ありがとう、スズカ」

 

 正面に立って、視線を合わせるように屈む。

 サイレンススズカの目は潤んでいた。

 

「これからも、一緒にいよう」

 

 言いながら手を差し出すと、サイレンススズカは静かに自分の手を重ねてくれた。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◇

 

 

 URAファイナルズから3日後の早朝。

 栗東寮のキッチンからは、誰かが料理をしている音が聞こえてきた。

 

「ええと、次は…」

 

 エプロンを掛け、サイレンススズカはスマートフォンの料理レシピを眺めつつ、フライパンに調味料を注いでいく。その動きに未だ不慣れさが混じっているのは否定できないが、最初と比べれば随分な進歩だろう。

 作りながら、サイレンススズカは今作っている料理を贈る人のことを考える。喜んでくれるだろうか、美味しいと言ってくれるだろうか、と。

 

「美味しそうな匂いがすると思ったら…」

「ここ最近は、珍しいことが続くね」

 

 そこへゆっくりと近づいてきたのは、スペシャルウィークとフジキセキだった。サイレンススズカは、その姿を見て会釈をするにとどめ、再びフライパンに視線を戻す。今は料理中なので、あまり視線を逸らしたくはない。

 だが、近づいてくる2人、特にフジキセキはニコニコ笑っているのが声でわかる。

 

「URAファイナルズの後で急にそんなことをしだすなんて…。何だい、『私普通のウマ娘に戻ります!』ってやつかな?」

「えっ、スズカさん走るのやめちゃうんですか!?」

「そんなことはないけど…」

 

 料理に集中しているのをいいことに、フジキセキが冗談を漏らすとスペシャルウィークが真に受けてしまう。フジキセキがいたずら好きなのは知っているが、何も今言わなくてもいいだろうに。しかし、弁明しなければスペシャルウィークが信じ込んでしまいそうなので説明だけはしておく。

 

「走るのはこれからも続けるわよ?でも、少しほかのことに挑戦してみたいなって」

「ほう…」

 

 フジキセキが感心したように息を洩らす。

 サイレンススズカは、肉に火が十分に通ったのを確認し、火を止めて皿に移す。ついでに、舌が肥えたスペシャルウィークに味見もしてもらうことにした。

 

「あっ、おいしいです!すごい!」

「それならよかった…」

 

 お墨付きをもらったので、サイレンススズカは弁当箱を()()取り出し、盛り付けを始める。

 

「へぇ、なるほど…」

 

 妙にニコニコしているフジキセキの視線が痛いが、気づかないふりをしておかずを詰めていく。スペシャルウィークはそんなフジキセキの視線に気づいていないのか、小皿に持った味見用のおかずを堪能している。

 

「ああ、そうだスズカ」

「はい?」

「今日とは言わないけど、また今度一緒に模擬レースでもどうかな」

 

 弁当の盛り付けが終わったところで、フジキセキが提案をしてきた。

 

「私は構いませんけれど、またどうして…」

「URAファイナルズを制した君の走りを間近で見てみたい、という理由ではダメかな?」

「あっ、私もスズカさんと走りたいです!」

 

 スペシャルウィークも同意する。そういえば、フジキセキと走ったのは脚の不調が完治してすぐのことだった。本来の走りを取り戻してからは模擬レースをしてはいない。スペシャルウィークも秋の天皇賞以降一度も模擬レースをしていなかったし、彼女もまたサイレンススズカと戦いたいと思っているのだろう。

 

「そうですね…わかりました。トレーナーさんに相談してみます」

 

 なんにせよ、模擬レースを組む際にはお互いのトレーナーの同意を得なければならない。なのでサイレンススズカも、まずは柴波にこの件を相談することに決めた。

 その時、柴波のことを思い浮かべると、自然と笑みが洩れてしまう。

 そしてそれを見透かしたようにフジキセキは笑い、スペシャルウィークは味見用の小皿を平らげ満足げだった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◆

 

 

「そうか、スズカと…」

 

 トレーニング用のトラックを見渡せる観戦スペースで、蜜浦が感慨深そうにつぶやく。隣には、コーヒー缶を片手に柵に背を預け、空を見上げている柴波がいた。

 柴波は、蜜浦がコーヒーを一口飲んだのを見計らい話しかける。

 

「何というか、お前にあーだこーだ言っておいて、結局俺もこうなったから悪いと思ってる」

 

 蜜浦には全てを話した。

 というのも、自分は蜜浦に対して忠告をした身であり、陰ながら応援をした身でもある。だからこそ、その忠告をした自分がサイレンススズカと付き合うことになったことで、彼に対する罪悪感を抱いてしまったのだ。なのでこうして話をしたうえで謝罪したが、蜜浦は首を横に振る。

 

「謝らなくていい。担当の子と両思いになれたのなら、それだけお互いのことを見てきたってことだ。結果、お前たちはURAファイナルズで優勝できたんだし万々歳だと思うがな」

 

 蜜浦は、柴波と同じ感情を担当ウマ娘に抱いているゆえか共感してくれた。無論、それで蜜浦も自分の行いを正当化しようなどとは少しも思っていないだろうし、柴波自身も今の状況を吹っ切れるわけがない。同期の、友人の気遣いに柴波は感謝する。

 

「何はともあれ、URAファイナルズ優勝おめでとう」

「ありがとう」

 

 蜜浦が祝い缶コーヒーの缶を持ち上げると、柴波も自らのコーヒー缶を軽くぶつける。レース直後に親族、同期、友人等多くの人からお祝いの言葉をもらったが、こうして実際に祝ってもらえたのは理事長、理事長秘書の駿川たづなに続いて3人目だ。

 

「俺とスズカは、卒業するまではそれっぽいことはしないって約束してる。だから蜜浦たちも、もし付き合うのなら付き合い方は考えた方がいいな」

「そうするよ」

 

 付き合うことができるのに変わりはないが、それでもトレーナーと学生としての関係は変わらないので、あまり目立ったことはできない。特にサイレンススズカは、URAファイナルズを優勝して一躍時の人となったのだ。下手なことをすれば、サイレンススズカやこのトレセン学園、URAそのものにも悪影響を及ぼしかねない。

 そして、自分たちがこうして付き合い始めてしまった以上、もう蜜浦に対して告白を待てなどと言うことはできない。明確に付き合ってしまえとも、止めろとも言えないため、『付き合うなら節度を持って』と言うにとどめてある。

 そこで、昼休みを告げるチャイムが鳴った。

 

「昼メシ、一緒にどうだ?」

 

 蜜浦が残ったコーヒーを飲み干し提案するが、柴波は首を横に振る。

 

「いや、今日は()()があるから。トレーナー室で食べるよ」

「そうか。それじゃ、またな」

 

 蜜浦は手を振りながら食堂へと向かう。

 柴波もコーヒーを飲み干すと、トレーナー室へ向かった。

 

 

 

「スズカさん!占いによれば、今日のお昼は静かな場所で食べるとハッピーな出来事が起きるみたいですよ!」

「そう…?じゃあ、今日はそうしようかしら」

 

 昼休みのチャイムが鳴るや否や、マチカネフクキタルがそう宣言する。いつの間に占ったのか、何故に自分ではなくサイレンススズカのことを占ったのか、色々ツッコみたいところはあったが、元々今日は静かな場所で昼食を摂る予定だったのでむしろ好都合だ。

 しかしそこで、サイレンススズカは立ち止まる。

 

「フクキタル」

「はい?」

「ありがとうね」

「えっ…何ですか急にお礼なんて…私まだ占いしかしてませんけど…」

 

 マチカネフクキタルは困惑した様子だが、その占いこそサイレンススズカが感謝したいものだ。

 

「フクキタルの占いのおかげで、私も変わることができたから」

「ほぇ?」

 

 以前、マチカネフクキタルの占いで、『休日に大切な人と出かければハッピーな出来事が起きる』という結果。あれに従って行動したからこそ、今の自分があると思っている。マチカネフクキタルには、変な金色の鯛の置物を押し付けられたり色々振り回されることもあるが、それでも大切な友人だと思っていた。

 そして今も、彼女は全く知らないだろうが、今の占いの結果は多分当たるのだろう。サイレンススズカは微笑んだ。

 

「それだけ伝えたかったの。それじゃあ、また後でね」

「あ、はい…」

 

 お礼を言われたことが意外過ぎたようで、マチカネフクキタルはまだ現実味を感じていない様子だった。しかしあまり遅くなってしまうと申し訳ないので、サイレンススズカはトレーナー室へと向かう。

 

「スズカ」

 

 その時、聞き覚えのある声に呼び止められる。振り返ってみれば、エアグルーヴとメジロドーベルが一緒にいた。

 

「2人とも、どうしたの?」

「いや、会長からお暇をいただいてな。良ければ昼食でも一緒にどうかと思ったんだが…」

 

 言いながら、エアグルーヴがサイレンススズカの手元を見る。メジロドーベルが、残念そうに笑いながら口を開いた。

 

「…先約がいるみたいね」

「ええ。悪いけど…また今度でいいかしら」

「ああ。邪魔するわけにはいかんしな」

 

 肩を竦めるエアグルーヴ。彼女が生徒会のメンバーとして日々せっせと働いているのは知っている。昼食も生徒会室で摂ることが多いと聞いていたが、貴重なお休みの日に希望に応えられなかったのは少し心苦しかった。

 だが、サイレンススズカも約束があり、それを反故にするわけにもいかない。

 

「スズカも弁当を作るようになったんだね。ちょっと意外かも」

「毎日ってわけじゃないけど、たまにならいいかなって」

「そう…でも、私もいいと思う」

 

 メジロドーベルが言う。URAファイナルズ決勝で戦ったことで、最近はメジロドーベルとも話す機会が増えていた。クールな印象の彼女はどことなく親近感を持てるため、今度エアグルーヴと一緒にお茶でも、等と頭の隅で考える。

 一方でエアグルーヴも、サイレンススズカが新しい『習慣』を始めたことに対して嬉しさを抱いているようにも見えた。

 

「だが、見るからにそれは朝早くに作ったものだろう?」

「そうだけど…」

「なら、今朝はそこまで走っていないと見た」

 

 そこでエアグルーヴの笑みが不敵なものに変わる。

 

「新しい趣味に目覚めるのは良いことだが、それで走るのが疎かになるのでは…と言うのはいらん心配か?」

「ええ。その分トレーニングや放課後にいっぱい走るから」

「ならば結構。いつかまた、お前とは勝負がしたいと思っているからな。その時にお前が本調子でなければ話にならん」

 

 再戦を誓い拳を構えるエアグルーヴ。

 

「そうね。私も、次こそあなたに勝ちたい。今度こそ、あなたを差し切って見せるから」

 

 メジロドーベルもまた、好戦的な笑いを見せた。やはり、URAファイナルズ決勝でサイレンススズカの大逃げを許してしまったことで、彼女自身もまた勝負がしたいと思っているらしい。

 2人とも、サイレンススズカ自身の走りを見て挑戦したいという気持ちを滾らせている。これも、サイレンススズカの走りに惹かれている、ということだろう。今のサイレンススズカには、それは分かる。

 そうして再戦を誓い合い、エアグルーヴとメジロドーベルはカフェテリアへ、サイレンススズカはトレーナー室へと小走りに駆ける。あまり廊下を走ると風紀委員や学級委員長が黙っていないので、その辺りは気にしつつ。

 そしてトレーナー室の前につくと、ドアをノックして部屋に入る。

 

「こんにちは、トレーナーさん」

「いらっしゃい」

 

 挨拶をすると、柴波は笑顔で迎えてくれる。そして、サイレンススズカの手にある弁当箱を見て、さらに笑みを深めた。

 

「作ってきてくれたんだね。ありがとう」

「今日は豚の生姜焼きに挑戦してみました」

 

 レースの研究用の机に弁当箱を置くと、トレーナーも自分の机を離れてサイレンススズカの前に座る。

 

「うん、やっぱり美味しそうだ」

 

 蓋を開けたトレーナーが頷きながら言う。中に詰まっているのは白いご飯と宣言通りの豚の生姜焼き、そしてミニトマトと、以前トレーナーが褒めてくれたポテトサラダだ。

 

「「いただきます」」

 

 手を合わせて、まず柴波が箸を伸ばしたのは豚の生姜焼き。出来合いの調味料ではなく、ネットにあったレシピを見て自分で合わせた調味料で焼いたものだが、果たして。

 

「うん、おいしい!」

「よかった…」

 

 口に含んだ直後、柴波の表情がぱっと明るくなる。それを見て、サイレンススズカも胸を撫で下ろし、自分の分を食べ始める。

 他人に弁当を作るうえで、相手がどんなものが好きなのか、どんなものを入れれば喜ぶかは結構悩むところだと、サイレンススズカは痛感した。自分の分だけなら栄養補給ができればいいと思っていたが、柴波にも作ってあげるとなればそうもいかない。ずっと前に作った素材の味がするニラレバ炒めの二の舞だ。

 そうして悩んでいたからこそ、こうして柴波が美味しそうに自分の作った弁当を食べているのを見ると、嬉しくなる。

 

「…あの、トレーナーさん」

「?」

 

 落ち着いたところで水筒からお茶を2人分コップに注ぎ、サイレンススズカは話しかける。

 

「私たちは、ええと…付き合う、ことになったんですよね」

「…ああ、その通りだよ」

 

 まだ実感が持てないが、自分は柴波に告白し、柴波もまた自分と同じ想いを抱いていたことを知った。

 これこそが男女で付き合うということなのだろう。初めてのことだから、まだ半ば夢心地だが。

 

「トレーナーさんと改めて、そうなれたことは嬉しいです。けれど、恋人らしいことが果たして私にできるでしょうか…」

 

 不安になってしまうのは、やはりそこだ。

 誰もがサイレンススズカのことを、走ること以外に対する興味関心が薄いと評し、サイレンススズカ自身もそれを自覚している。こうして弁当を作ったり、お出かけをする機会がやや増えたり、そして柴波に対して恋をしたように、変化自体はしているのだ。

 それでも、自分が普通の女の子、ウマ娘とはやや感性がズレていることに変わりはない。

 そんな自分が、柴波の隣に立ち、これから先も一緒に時を重ねていくことができるのか。サイレンススズカは柴波の恋人たりえるのか。

 

「できるよ、絶対に」

 

 柴波は箸を置いて、微笑む。

 

「こうしてスズカが弁当を作ってきてくれるのもそうだし、今までだって何度か2人で出かけたこともあっただろう?恋人らしいことっていうのは、そういうのの延長線上にあるんだと俺は思うな」

 

 自分の記憶を辿る。確かに、柴波に料理を作ったことは回数こそ少ないけれどあるし、一緒に出掛けたことも何度もある。

 その時も確かに楽しかったし、とても心地よい時間を過ごすことができた。

 恋人らしいことは、その延長線上にあると言う。

 

「2人で一緒にいるのは今までも同じだし、やることもそこまで変わらない。でも、そこにお互いのことが『好き』って気持ちが新しく加われば、それまで過ごしてきた時間もまた別のものに感じられると思う」

「……」

「今だって、こうしてスズカの作った弁当を食べているけど、前とは全然印象が違うよ」

 

 言われて、サイレンススズカも気づいた。

 確かに柴波に弁当を作ったことは前にもあった。だが、その時は今みたいに心が落ち着いていたり、作る時に柴波のことを考えて、期待交じりに心が温かくなるようなこともなかった。

 つまり、サイレンススズカもまた、無意識にこうして一緒に過ごす時間を特別に感じているということ。改めて、恋人同士になれたことに気持ちが高揚しているということだ。

 

「…そうですね」

 

 自然と笑ってしまう。

 

「トレーナーさん」

「?」

「私はこれからも、私の脚が許す限り走り続けたいと思っています」

 

 サイレンススズカという存在と、走るという行為は、切っても切れない深いつながりのあるもの。自分も走ることが好きだから、自分の身体が限界になるまで走り続けたい。

 

「それでもトレーナーさんは、私のことを…好きでいてくれますか?」

「当たり前だよ」

 

 柴波は逡巡せずに答えてくれた。

 

「俺はスズカが気持ちよさそうに走ってる姿も好きなんだから」

 

 改めて気持ちをぶつけられると、妙に照れ臭くなる。

 せめて自分も何か言い返せればいいのだが。

 

「…私も、トレーナーさんのそういうところ…好きです」

「ありがとう」

 

 優しく笑うところ、サイレンススズカのことを真っ直ぐに見てくれるところ。それがサイレンススズカが好きな柴波だ。他にも好きなところは沢山あるものの、今言えるのはそれぐらいだ。それでも柴波は嬉しそうに笑ってくれる。

 さて。

 サイレンススズカが気持ちよさそうに走るのが好き、と言うのであれば、早速やりたいことがあった。

 

「それで、トレーナーさん」

「?」

「実は今朝、お弁当を作っていたので走っていなくて…」

「いいよ」

 

 だが、具体的に何かを言う前に柴波は頷いた。

 

「今日のトレーニング、ランニングに変えたいんだろう?」

「…はい」

「URAファイナルズも終わったし、しばらくはスズカが走りたいように走るといいさ。ただし、無茶はしないこと」

 

 釘を刺されると、サイレンススズカは『はい』と答える。もう二度と、自分の身体のことで柴波に心配を掛けたくはない。もしも、不調をきたすようであればすぐに言うつもりだし、走ることだって我慢する。

 自分が気持ちよく走る姿が好きだと言ってくれるのなら、できる限り自分の走る姿を見てもらいたいのだから。

 

「よし、それじゃ昼食を再開しようか。午後、たくさん走れるように」

「そうですね」

 

 途中だった弁当を、お互いに食べ始める。

 だが、サイレンススズカはそこでちらっとトレーナーの顔色を伺う。サイレンススズカお手製の弁当に舌鼓を打っており、『美味しい』と惜しげもなく言ってくれる。

 

(これも…)

 

 唇が緩む。

 

(私だけの景色、なのかしら)

 

 今まで自分が見たいと願っていた景色は、自分が先頭に立ち、自分の前には誰もいない広々とした景色。

 そして今目の前にある、サイレンススズカが愛している柴波の笑顔や仕草は、自分だけが見られるもの。

 それもまたサイレンススズカだけが見ることができる景色であり、愛おしいものだ。




これにて、サイレンススズカの話は終わりでございます。
最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました。

以下、少々長くなりますがあとがきです。

ウマ娘プリティーダービーというコンテンツにおいて、サイレンススズカは走ることにひたむきなウマ娘として描写されています。そんな彼女が走れなくなった時、どう変化していくのか、その時何があったのか、アプリの中では描写されなかった点について想像を膨らませ、今回の作品を書き上げました。

サイレンススズカだけでなく、同期のマチカネフクキタルやメジロドーベル、同室のスペシャルウィークや黄金世代、友人のエアグルーヴや寮長のフジキセキといった面々も書かせていただきました。アプリではまだ仲間になっていない子もいたため書く際には細心の注意を払って書き上げました。既に全員仲間に迎え、このキャラの描写何かおかしいと思った方、いらっしゃいましたら大変申し訳ございません。

また、トレーナー(社会人)とウマ娘(学生)の恋愛という都合上、これまでの自作のような恋愛は書きづらく、登場人物の葛藤も主人公以外のトレーナーを登場させるという形で描写させていただきました。

さらに、2人の最初の出会いに関してはアプリ版で既に個人ストーリーで描写されていたため、そこまで書くと二重になりかねないため割愛とさせていただきました。

そしてウマ娘について書く以上、彼女たちが輝くレースの場も描かなければと思い、実際に観戦したレースや中継の実況を参考に書かせていただきました。

総じて、今まで書いてきた作品の中でも書き上げるまで非常に難しい作品だったため、読んでいただけたことを嬉しく思います。

最後になりますが、ここまで読んで下さり本当にありがとうございます。
番外編を書く機会があれば、登場する機会が中々作れなかった逃げ切りシスターズや、1X年後の未来の話などを書く機会があれば、書くかもしれません。
また別の作品を投稿する機会がございましたら、その際はよろしくお願いいたします。
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