サイレンススズカは、普段は朝5時頃に目を覚ます。
それは健康を保つためでもあるが、何と言ってもやはり朝の空気と景色を感じながら走るためだ。
たとえ走る場所が同じでも、時間によっては見る景色も感じる空気も変わるものだ。朝であれば僅かに冷えた空気を感じ、朝日が昇るのを眺めつつ走ると身体に気力が湧いてくるような気持ちになる。昼になれば、明るい景色を見て、暖かい日の光を全身に浴びると、穏やかな時間を過ごせていると実感できる。夜に走ると、その時間にしか見られない街灯や建屋の明かりを横目に見つつ、ふと夜空を見上げれば輝く月や星々が目に入り、心が研ぎ澄まされるかのようだ。
時間だけでなく、天候や季節によっても見える景色は変わる。
サイレンススズカは、どんな時間でも、どんな天気でも、どんな季節でも、走るのが好きだった。
しかし今は、脚の件で静養を心掛けるように言われている。ランニングなどもってのほかだ。
(…どうしようかしら)
そんなわけで、サイレンススズカはベッドの上で半身を起こしたまま手持無沙汰な状態だった。本当なら目覚ましが鳴るのは1時間半後ぐらいだが、身体がこの時間に起きることに慣れてしまったせいで、勝手に目が覚めたのだ。
視線を動かせば、同室のスペシャルウィークが隣のベッドで安らかな寝息を立てている。天真爛漫な彼女の寝顔はだらしなく無防備だが、実に心地よさそうなのでサイレンススズカも思わずくすっと笑ってしまう。
だが、サイレンススズカ自身の眠気は完全に失せていた。このままベッドの中で無為に時間を過ごすのも、何かもったいない気がする。かと言って、起きて何かするにもスペシャルウィークがまだ眠っているので、部屋であれこれするのも申し訳ない。
仕方なく、サイレンススズカは音を立てないようゆっくりと着替えてから部屋を出て、寮の談話スペースに行くことにした。
「誰もいない…」
いつもなら、サイレンススズカはジャージに着替えた後はすぐランニングに出発する。だから、この時間の寮の中の様子など全く知らなかった。
今はまだ朝の5時半。こんな時間から起きているウマ娘は他にいないようで、ロビーや廊下、トイレと言った最低限の場所の電気しか点いていない。
サイレンススズカは、談話スペースに着くと電気を点ける。教室の半分ほどの広さがあるその部屋には、くつろぐためのソファやテーブル、座布団が用意されている。本棚には雑誌や小説、壁際にはテレビ、キャビネットにはトランプやボードゲームなどの娯楽品と、共同生活感溢れた部屋だが、やはりここにも誰もいなかった。普段から多くのウマ娘が使っているのは知っているし、サイレンススズカも使ったことがあるからこそ、今はどこか寂しいとさえ感じる。
しかし、そのまま突っ立っていても無駄なので、とりあえず適当に雑誌を読むことにした。ティーン向けのものではなく、レース関連の雑誌だ。
「……」
その雑誌の表紙を見て、動きが止まる。
表紙を飾っていたのは、他でもないサイレンススズカだった。周りの景色を見るに、撮影されたのは東京レース場で、見出しには『秋の天皇賞特集』の文字。どうやら、写真は先日の天皇賞のもののようだ。
サイレンススズカは、普段雑誌の類を読まない。何度かインタビューを受けたことがあっても、中身について知るのは大体他人の口からだ。それは単に自分が興味を抱くことがほとんどなかったというのもあり、自分について書かれているのを読みたくないというわけではない。なので、ソファに座ってその特集を読むことにした。
『天候は晴れ、バ場の状態は「良」と好条件で開催された天皇賞には、錚々たる顔ぶれのウマ娘たちが参戦した。目を見張る逃げを得意とするサイレンススズカ、神がかり的な力と走りを見せるマチカネフクキタル、日本を代表する名家メジロ家のメジロブライト。この3人による激戦は必至とされていた』
脳裏に2人の顔が浮かぶ。彼女たちはトレセン学園の中では共に友人・同期だが、この記事で書かれているように一事が万事火花を散らし合うライバル同士というわけでもない。特にマチカネフクキタルは、占いの結果に一喜一憂して何かと忙しないので、レースで見せた真剣な姿とは大違いだ。
記事を読み進める。
『いずれのウマ娘も甲乙つけがたい仕上がりだったが、1番人気に挙がったのはサイレンススズカだった。それは過去の戦績が悪くないことに加え、今回の天皇賞(秋)の距離が2000mと彼女の脚質に合ったものであり、前々週に開催された毎日王冠でも好成績を収めたことにある』
自分について言及されると、何だか胸の奥がくすぐったくなってしまう。
ちなみに読み進めると、マチカネフクキタルは6月末の宝塚記念でサイレンススズカに一歩及ばなかったために2番人気、メジロブライトはほかの同期とのレース成績を総合的に判断して3番人気だった。
だが、改行した後の頭の文章は『しかし』で、そこにサイレンススズカの目が留まる。
『しかし、1番人気のサイレンススズカはレース中盤から終盤にかけてにペースを落とし、後続のマチカネフクキタルやツルマルツヨシとの差が一時1バ身にまで詰められた』
レースの後で、サイレンススズカは柴波と共に天皇賞の映像を確認した。レース中は脚の違和感に気を引かれつつも、後ろは見ずに走り続けていたが、俯瞰的に見るとかなり危うかったのが分かった。本調子のサイレンススズカであれば考えられないほどに距離を詰められ、差し返された可能性もあったほどだ。
『僅差にまで迫られたサイレンススズカだが、最終直線で再びエンジンがかかり、ついには2着のマチカネフクキタルに3バ身の差をつけてゴールした』
記事を読んでいると、その時の様子が頭の中に蘇ってくる。
序盤から中盤にかけては、確かに順調だった。ゲートが開いた直後から、サイレンススズカは脚を活かして先頭に陣取り、ペースを落とすことなく先頭をキープし続けることができていた。
自分が先陣を切って走り、前方に誰もいない中で感じる風、見る景色は、何物にも代えがたいものだ。同じものは一つとしてなく、この天皇賞で感じたものも初めて受けるそれだった。
だが同時に、終盤の左脚の違和感も思い出す。
『だが、終盤の失速は無視できるものではない。普段の力強い逃げを得意とするサイレンススズカの走法としては考えられず、前回出走の毎日王冠から時間が経っておらず疲労が残っていたか、あるいは怪我の可能性もあると、専門家は示唆している』
やはり、分かる人には分かるのだ。いや、きっとあのレースを観ていた誰もが、サイレンススズカの不調を悟っただろう。
自らの脚に意識を向ける。今は湿布を貼っていて、痛みもない。歩く時の違和感もほとんどなく、普段とは何ら変わりない。
それでも、今は問題ないとしても、あの天皇賞はサイレンススズカに期待していた人々に大きな不安を植え付けたはずだ。記事にも、このままの状態が続けば故障もそう遠くはないと、専門家の意見が記されている。
『サイレンススズカとその担当トレーナーはレース後のインタビューで、当面の間はレースを休むとコメントをしており、真偽のほどは定かではない』
天皇賞の後での勝利者インタビューで、サイレンススズカは確かにそうコメントした。記者からは『毎日王冠の疲れが抜けていなかったのか』『怪我をしていたのか』と矢継ぎ早に聞かれたが、適当に濁しておいた。あの時点では疲れか怪我かが明確には分からなかったし、正直に全てを答えると余計な混乱を招きかねないという柴波の意見もあったからだ。
『サイレンススズカの一時的な休養は今後の進展が気になるところだが、今回の天皇賞では最後の直線で同世代のウマ娘たちとのデッドヒートを繰り広げ、多くの観客たちを感動させた』
締めの文章に入り、サイレンススズカは読み進める。
『一層名を上げたサイレンススズカの1日でも早いレースへの復帰がファンからも望まれている』
そこまで読み進めたところで、足音が聞こえた。
「おや、こんな時間に珍しい」
足音と、意外そうに言う声の主は、寮長のフジキセキだった。サイレンススズカ同様、寝間着ではなく制服を着ている。普段の寮生活や、たまに放課後遠くへ走りに行き過ぎて門限に遅れてしまった際に世話になる彼女は、全く眠気を感じさせない爽やかな笑顔で手を振っていた。
「おはよう、スズカ」
「おはようございます」
挨拶をしたところで、サイレンススズカは壁に掛かった時計を見上げる。いつの間にか、時間は6時になろうかという頃合いで、自分でもかなり集中して記事を読んでいたらしい。
フジキセキが談話スペースに足を踏み入れたところで、廊下の奥からパタパタと足音が聞こえてきた。
「フジ寮長、ロードワーク行ってきまーす!」
「ああ、行ってらっしゃい。くれぐれも怪我はしないでね?」
ジャージ姿の生徒がフジキセキの後ろを通って行く。元気な挨拶をするウマ娘を、フジキセキはにこやかに見送った。
(ロードワーク…)
そのやり取りを聞いて、サイレンススズカは静かに目を閉じる。
きっと彼女たちは、朝の爽やかな空気と景色を感じながら走るのだろう。
今まで自分がその身に受けた風、空気、そして見てきた景色が頭の中に蘇ってくる。これまでサイレンススズカも毎日のように走っていたから、それは最早脳に染みついていた。
脚が、不意に疼く。
「ダメだよ、スズカ」
だが、その疼きを見抜いたように、フジキセキが笑って釘を刺す。サイレンススズカが肩を落とすと、フジキセキは気の毒そうに笑みを浮かべた。
「露骨に落ち込むね…。その分じゃ、大分早い時間に起きたのかな」
「はい…いつもの習慣でつい…」
「習慣じゃ仕方ないね」
言いながら、フジキセキはサイレンススズカの隣に腰かける。
「この前の天皇賞は見せてもらったよ。冷や冷やさせられたけど、1着おめでとう」
「ありがとうございます…。私の脚には無理をさせてしまいましたけど…」
「確かに。あのレースは紙一重だったかもしれないね」
フジキセキはサイレンススズカの脚を見る。
サイレンススズカの記憶では、フジキセキはマイル・中距離のレースを得意としていたはずだ。恐らく、得意な距離が自分と似ているサイレンススズカに注目していたのだろう。そして、同じくトゥインクルシリーズを経験しているからこそ、不調に気づいていた。
「だからこそ、安心したよ。こうして元気な姿を見ることができて」
気さくに笑うフジキセキ。普段からその甘いマスクで女性ファンを骨抜きにすると噂される彼女だが、この笑顔を見るとそれもわからなくはない。逆に、サイレンススズカは心配をかけてしまったことが申し訳なくなり頭を下げるが、フジキセキは首を横に振る。
「…君は気にしていないと思うけど、君の走りは人々を惹きつける。私の友達や、君とも仲がいいエアグルーヴもそう言ってたし、恥ずかしながら私もその1人だ」
「私の走りに…?」
「ああ。レースにおけるウマ娘は、どうしようもないほどの『勝ちたい』って気持ちを糧にして真剣に走る。誰かのレースを見ているとそう思うし、私自身の走りを後で見返しても確かにそうだって思う」
だけど、とフジキセキはサイレンススズカの目を見て唇の端を上げる。
「君の走りは、どこか伸び伸びとしている風に見える。勝利を渇望するでもなく、何かを恐れているでもなく。自由に走っているように見えるその走りが、見ている人たちを魅了するんだと思うよ」
人差し指を立てるフジキセキだが、サイレンススズカはどう返していいのか分からない。膝の上の雑誌に視線を落とす。
「私は…ただ先頭でしか見られない景色を見たくて。先頭でしか受けられない風を感じたくて、結果的にそうなっているだけです」
「だから言っただろう?『気にしていないと思うけど』って。そしてスズカの言う通り、結果として周りにいるみんなは君の走りに惹きつけられた。この私も含めて、ね」
言いながら、フジキセキは雑誌の表紙に映るサイレンススズカを指さす。
「そして、天皇賞で人々に感動と歓喜を与えた。より多くの観客やウマ娘たちを魅了した。それを私は、喜ばしいとも羨ましいとも思ったよ」
自分の走りを観る者を感動させたい、とフジキセキが以前語っていたのを思い出す。脚質は違うが、レースの適性距離が似ていて、観ている人たちを自然と惹きつけ、さらには天皇賞で(不本意ながらも)感動を与えたサイレンススズカは、フジキセキにとって共感と羨望を抱かせるものというわけだ。
「確かにあのレースで、スズカは『演出』でペースを落としたわけじゃない。脚の不調という、非常につらいものだけれど、ほとんどの観客が気にしていたのは『サイレンススズカのペースが落ちて追い抜かれ負けそうになったが勝利した』という、『結果』だ」
膝の上の記事では、サイレンススズカのペースダウンについて『真偽のほどは定かではない』と書かれていた。恐らくレースを見ていた観客たちも、あの時のサイレンススズカの厳しい表情は見えていただろうが、ペースダウンの原因が『疲労』か『怪我』かは分からなかっただろう。
しかし、ごく短い時間のレースで観客たちが気にするのは『結果』だ。『原因』についてあれこれ考えるのは、どうしても後回しになりがちになる。
「そして、スタンドの前で調子を取り戻して、加速し、後ろにいた子たちを引き離してゴールした」
指を振りながら、フジキセキが言う。その時のレースの感覚、芝の踏み具合、見ていた景色が脳裏にフラッシュバックする。
「その『結果』に、人々は感動していた…」
腕を組みつつ、フジキセキは目を伏せる。自分も見ていたというレースやスタンドの熱気を、思い出しているのだろう。
サイレンススズカも、その時の熱気を思い出そうとする。レースが終わった直後のスタンドは、確かにレース前と比べるとより沸いていた。あの時は、途中のアクシデントがあったとはいえ、先頭の景色を譲らなかったことと勝利を飾ったことによる達成感で胸が満たされていて、ほとんど気にしていなかったが、あれは自分の走りに感動したということだったのか。
「天皇賞のあれは、意図したものではなかった。だけど、これまでのように人々を惹きつけ感動させる走りをするスズカは、私にとっては共感できて、羨ましくて、何より挑みたい子だ」
フジキセキは、サイレンススズカを見つめる。
その瞳は、どこからきらきらと揺らめいていた。
「君の脚がいつ治るのかは分からない。だけどまた、いつかまた多くの人たちを魅了させられるレースができるよう、祈っているよ」
「…ありがとう、ございます」
「それに、君とも戦ってみたいからね」
片目を瞑って見せるフジキセキ。自分に期待しているであろうことは、サイレンススズカにも理解できた。ただ、どういうことを言えばいいのかが分からないので、『がんばります…』としか返せなかったが。
「あっ、スズカさんここにいたんですか!」
すると今度は、心配そうな表情のスペシャルウィークがやってきた。だが、寝巻から制服に着替えてはいるものの、若干髪の毛が跳ねていて、寝起きからそこまで時間がたっていないように見える。
「スぺちゃん、どうしたの…?」
「どうしたのって、起きたら部屋に居なくて心配したんですよ?」
「心配?」
「だってスズカさん、当面の間走れないって言ってたから、それを忘れて走りに行ったのかと思ったんです!」
心底安心したようなスペシャルウィークの言葉に、サイレンススズカは複雑な気持ちだ。サイレンススズカが毎朝欠かさずロードワークに出ているのは最早周知の事実だし、こと走りになると周りが見えなってしまうからこそ、その心配も尤もだ。
とはいえ、サイレンススズカは自分のケガを弁えているし、医者からは安静を心掛けるよう言われている。歯止めが利かなくなったらもうレースに復帰できるかどうかが危ぶまれるから努めて自制しているのだが、スペシャルウィークにそう言われると相応に堪える。
「大丈夫よスぺちゃん、今日は走ってないわ」
「うん。私も起きてから、ここでスズカと話をしていたからね」
「あ、そうだったんですか?良かった~」
大きく息を吐き安心するスペシャルウィーク。彼女はサイレンススズカのことを特に慕っている節があるので、心配させてしまったのは天皇賞の件も含め申し訳ないと思う。
するとフジキセキは、ソファから立ち上がりサイレンススズカを振り向く。
「しかし、こうしてスズカが早起きしてここにいてくれたおかげで有意義な時間を過ごせたよ」
「?」
「いつもは朝早くに走りに行っちゃうし、帰りも遅くてなかなかゆっくり話をする機会もなかったからさ」
確かに、サイレンススズカが普段早朝ランニングに行くとき、誰かとゆっくり話をするなんてことが無かった。帰りも門限ギリギリまで走ることが多いし、サイレンススズカ自身が他人との距離の取り方を測るのが苦手と言うのもあって、誰かと話をする場を設けるなんてこともなかった。
フジキセキに指摘されて、先ほどまで話をしていたのを今更ながら新鮮に感じ始める。
「そう言えば、スズカはトレーニングの時間はどうするんだい?その脚からして、ランニングとかの激しいトレーニングは無理なんだろう?」
「はい。なので、取り敢えずトレーナー室に行こうかなと…。レースについての研究なら大丈夫ですし、あまりトレーナーさんを心配させたくもないですし…」
スペシャルウィークのように、自分の姿がないと分かればすぐ『走りに行った』と勘違いされてしまうのは、今までの自分を考えればもう仕方がない。だとすれば、同じく自分のことをずっと見てきた柴波トレーナーも、同じ心配をするだろう。
その答えに安心したように、フジキセキとスペシャルウィークは笑って頷いた。
「ところで、スぺちゃん?寝癖がちょっとひどいけど…」
「あ、それは私も思った」
そして、フジキセキと2人で寝癖について言及すると、スペシャルウィークはすごすごと自室に戻っていった。
◆ ◇
トレセン学園の授業は通常の学校とほぼ同じだが、午後の授業が終わった後には部活動ではなくレースに向けてのトレーニングの時間が始まる。トレーニングとは別に体育の授業もあるが、レースへの出走を目的としたランニングやスタミナのトレーニングは行われない。
(走っちゃダメ、走っちゃ…)
サイレンススズカは、ホームルームを終えると自分にそう言い聞かせながら、柴波の待つ部屋へと向かう。
天皇賞以来、サイレンススズカに心配そうに声をかけるクラスメイトは多いが、それも早々に切り上げた。まだ他人との距離感が掴みにくいので、あまり多くの人からあれこれ話しかけられるのが苦手なのに変わりはない。
さて、脚に問題を抱えていなければ、トレーニングでは走り込みを重点的に、他には筋トレやウイニングライブのダンストレーニングをしていた。しかし今は、激しい運動は控えなければならない身。朝フジキセキたちに伝えたのもあって、サイレンススズカのやろうとすることは決まっていた。
「失礼します」
「いらっしゃい、スズカ」
普段の教室の半分ほどの広さがあるトレーナー室。ホワイトボードとロッカー、レースの資料が仕舞ってある棚に、長テーブルとパイプ椅子。質素な感じがするが、それでも十分快適な場所だ。
柴波は、トレーナー用のデスクで何かの資料を読み漁っていた。改めて思うが、サイレンススズカがトレーナー室を訪ねた時、彼はいつもそこに座って何かを読んでいる。サイレンススズカを1人で待たせていたことはほとんどなかったと思う。
「脚の調子は変わらないか?」
「はい。今日一日ひどく痛んだりはしてません」
「そうか…良かった」
答えると、柴波は安堵したかのように息を吐く。やはり柴波も、自らの目の届かない場所で容体が悪化していないかと不安に思っていたらしい。
「トレーニングはどうする?しばらくは走ったり筋トレしたりできないし…」
「レースについて、少し勉強したいなと」
「ん、分かった」
レースに関する資料は図書室にもある。しかし、図書室は他人の目が若干気になるし、柴波を安心させたいと言うこともあるので最初からここで勉強しようと決めていた。
「それじゃ、勉強ついでにちょっと話があるんだけど…」
「?」
席に着いたところで、柴波が引き出しから封筒を取り出し、サイレンススズカに差し出してくる。既に中身を見たのであろう封が切られたそれを、柴波が『開けてみて』と促したので、サイレンススズカも中に入っていた紙を広げる。
「今朝、理事長から渡されたんだ。URAファイナルズに出走する資格がスズカにはあるって」
紙の先頭には、『URAファイナルズ参戦について』と書かれている。
トゥインクルシリーズの最初の3年間で結果を残したウマ娘が参戦できるというレース。GⅠよりもさらに出走条件が厳しいものだ。そのレースに出る資格がサイレンススズカにはあると、この紙に書かれている。
「資格って、どういうものなんですか?」
「これまでのスズカの戦績や、ファン人気投票の結果とかだ」
言われて、思い返してみる。秋の天皇賞までに、サイレンススズカも随分とインタビューを受ける機会や、レース場や休日に声を掛けられることも増えた気がする。今朝読んだ雑誌にもファンについて触れられていたし、それだけサイレンススズカの注目度は高まっていると言うことだろう。
「ただし、スズカは今のところ静養扱いだ。URAファイナルズは来年頭から開催予定だけど、それまでにスズカが快復する保証もないから、ひとまず保留にしてもらってる」
「でも私は…」
「分かってるよ」
サイレンススズカが言葉を挟もうとしたが、柴波は優しく押しとどめた。
「スズカは、先頭の景色を見たいんだろう?だから『保留』にしてもらったんだよ」
柴波もサイレンススズカの気持ちを十分に把握してくれていた。確かに今までも、サイレンススズカの希望には最大限応えてくれたし、レースの方針を示すこともあったが、サイレンススズカのことを考えずにあれこれ勝手に決めることは今までなかった。
サイレンススズカだって、まだまだ自分の脚が許す限りは走っていたい。URAファイナルズがどれほどのものかはまだ実感がないが、GⅠ以上に強者が揃い踏みするそこで見る先頭の景色は格別のものだろう。走らないわけにはいかない。
「距離はスズカが一番力を発揮できるマイルになる予定だけど…それで問題はない?」
「はい」
「よし。じゃあ、出走するということで話を進めよう。マイルとなると、スズカと同世代でライバル候補に挙がるのはこの2人かな」
続けてトレーナーは、机に広げられていた資料をサイレンススズカの前に広げる。トゥインクルシリーズで活躍するウマ娘たちのデータをまとめたもので、顔写真やレーダーチャート付きで読みやすい。
「メジロドーベルとタイキシャトル…2人とも、マイルレースで結果を残している」
「あ、タイキはきっと出るとしたら短距離かな、と思います」
サイレンススズカの同期でもあるアメリカ出身のパワフルウマ娘・タイキシャトル。彼女はマイルレースも確かに得意だが、短距離も性に合っていると以前聞いたし、短距離の重賞でも何度か勝利を飾っている。URAファイナルズに出るとするならば、おそらくはそちらだろう。
「…だとすると、現状マークするのは彼女かな」
メジロドーベルの資料を見る。
同期ではあるものの、話したことはあまりない。だが、資料によればクラシック級ではオークスと秋華賞で1着に輝き『ダブルティアラ』を達成するほどに強力で、他のマイルレースでも確実に入着している。2週間後に開催予定のエリザベス女王杯にも参戦する予定になっているらしいが、手堅い結果を残すのだろう。
「実力は勿論だけど、戦術眼も鍛えられていると思う。気を取られるとあっという間に足をすくわれる。まぁ、スズカはそういったことはないと思うけど一応ね」
「…心に留めておきます」
サイレンススズカは、レース中に他者を意識することがほとんどない。景色を堪能するために、先頭へ辿り着くことを重視しているため、後ろにいるウマ娘の気配をほんの少し感じるぐらいでしかなかった。
しかしながら、サイレンススズカも最後の最後に差されて1着を逃したこともある。GⅠ以上に緊迫したレースになるだろうURAファイナルズでは、より一層戦う相手のことを意識しなければならないだろう。
「それと、URAファイナルズの予選・準決勝・決勝開は、同時期に開催されるGⅠレース開催地を避けて開催されるらしい。だから、短期間で結構移動することが多くなるけど、それは大丈夫?」
「はい、それは…多分」
レースが開催されるのは1か所だけではない。県を跨ぐことは多々あるし、飛行機や新幹線での移動もざらにある。ただ、サイレンススズカはそういった長距離移動で疲れたり、ストレスを溜めたりすることもない。URAファイナルズは出走する間隔が比較的すぐなので、柴波の心配はそれを考えてのことだろう。
「一番最初の予選は、来年の1月後半。それまでに脚の不調を治して、トレーニングの調整をする…と言いたいところだけど」
だが、そこで柴波は含みのある言い回しをする。柴波を見ると、彼はURAのレーシングカレンダーを取り出した。
「予選の前に時期が合えば、1戦だけGⅡ以下のレースに出走したい」
「?」
「スズカは当面、トレーニングは控えて脚にかなり気を使う生活をしなくちゃならないし、それがいつまで続くかもわからない。ファイナルズまで時間は空いているし、静養も含めたブランクでレースの走りがちゃんとできるか不安もある」
トレセン学園にも練習用のトラックや坂路はあるが、やはり実際のレースでなければ体感することができない熱気、緊張感などの環境もある。だからURAファイナルズの前に、実戦の感覚を取り戻すために、重賞に参加する必要があると、柴波は言う。
サイレンススズカは少し考え、やがて頷く。
「…分かりました」
「よし、参加するレースはこっちで調べておくよ。まぁ、やっぱり全てはスズカの脚次第だけどな」
柴波は笑って頷く。
すべては自分の脚次第。サイレンススズカは、その言葉を噛み締めて、自分の脚に目を向けた。
「…みんなから、心配とかはされた?」
柴波から不安そうな顔で聞かれると、小さく頷く。
「寮長やクラスのみんなから…」
「そうか…。でも、それだけみんながスズカのことを心配してたってことだし、そこを気に病むことはないよ」
「はい…いろいろ、心配されました」
「…何か、他に思うところが?」
思わず苦笑いを浮かべる。
確かに色々と思うところはあったので、話すことにした。
「実は今朝、普段ランニングに行く時と同じ時間に目が覚めてしまいまして」
「…走ったの?」
「いえ。それは流石に」
話を切り出すと、柴波が青ざめた顔で問い返してくる。やはり自分に対する印象は誰も似たり寄ったりなのだな、と思いつつ首を横に振った。
「普段からその時間に起きていたから、目覚ましを遅い時間にセットしても習慣で目覚めちゃったんです」
「あぁ、それは俺も経験あるよ。平日早起きをしてるから、休日にたっぷり寝ようとしてもその時間に起きることが何度もあるし」
今まで柴波の私生活については聞いたことが無かったので、似たような経験があるという話にサイレンススズカはくすっと笑う。
「それで、起きた後は談話室で本を読んだり寮長と話をしてたんです。そしたらスぺちゃんが、『怪我を忘れて走りに行ったかと思った』って」
困ったように言うと、柴波は同情するような視線を向けてきた。その同情がサイレンススズカに対してなのか、スペシャルウィークに対してなのかは如何ともしがたいが。
「さっきクラスの子たちにも、『走りだしたりしないか心配』って言われてしまって」
「…みんな、考えることは同じなんだな」
今日一日だけでそう何度も言われていれば、自分が周りからどう見られているのかは流石に気付く。柴波の言う通りだ。
しかし、気にしている点はそこだけではない。
「それで今朝、起きた後は少し時間を持て余してしまったんです…何をすればいいのか分からなくて」
「あー…分かるかも」
ただ、サイレンススズカの言葉に、柴波は意外にも共感を示してきた。
「俺もさ、トレーナーを目指すために、学生の頃は勉強しつつバイトを必死に頑張ってきたもんだよ」
「そうだったんですか…」
そう言えば、サイレンススズカは柴波の身の上話などを聞いたことがない。いつもサイレンススズカのことを気に掛けて、自分のことは後回しにしていたからだ。柴波自身のことを聞くのは、やけに新鮮に感じる。
「でさ、そうして一つの目標だけに固執して、いざトレーナーになる夢が叶ったら、何か急に暇になったんだよ」
「暇、ですか?」
「ああ。ただ『トレーナーになる』って目標一本で頑張ってきたから、何をしよう、あれがしたい、って気持ちがぽっかりと抜けて。時間を持て余すようになった。丁度、今のサイレンススズカみたいに、何をすればいいのか分からなくなったんだよ」
乾いた笑いを洩らす柴波。
しかし、サイレンススズカは親近感を抱いた。自分に対してはずっと優しくしてくれていた彼が、そうした悩みを抱えていた時期もあったというのは、意外にも思える。
「そうなった時は、自分がちょっとでも興味が湧いたことを突き詰めるんだよ。俺の場合は、気分転換で散歩することがよくあったから、街歩きするとか」
「街歩き、ですか…」
「まぁ、スズカが俺と同じようにする必要はないから、何か気になることがあったらそれを追求するといいよ」
たとえば、と言いながら柴波は腕を組む。
「スズカは走るのが好きだったから、電車とかバスとかでちょっとお出かけするとか」
「なるほど…」
「これはあくまで一例だし。スズカも何かやりたいこととかあったら、遠慮なく相談してくれていいよ。走ることになると、ちょっとあれだけど」
乾いた笑いを零す柴波。
しかしサイレンススズカにとっては、それは貴重な意見だった。ついこの間まで自分にとっては走ることが全てで、それ以外に対する興味は薄かったのだから。何から始めたらいいのか分からない。
「…では、もし何かあれば相談させてもらいますね」
「勿論だとも。俺はスズカのトレーナーなんだから」
笑いかけられる柴波に惹かれるように、サイレンススズカも笑った。