天皇賞から4日後のこと。
「少しだけ、学園の外を歩いてきていいですか?」
トレーニングの時間、トレーナー室にやってきたサイレンススズカはそう提案してきた。
柴波としても、その提案は予想していたものである。普段から、呼吸するも同然なまでに走ることが好きだったサイレンススズカだ。時間を持て余しがちな彼女に、何か興味を持ったことを突き詰めてみればいいと言ったのは柴波自身だし、サイレンススズカが興味を持つとすればまずその辺りだろうというのも深く考えるまでもなく分かった。
読んでいた資料を閉じて少し考える。脚の怪我はそこまで大したものではないと診断を受けたし、散歩程度なら大丈夫だとも言われている。学園の外を歩くぐらいなら、そこまで負担もないだろう。
ちらっと、サイレンススズカの様子を窺う。表情は普段自分に向ける穏やかな笑みだが、尻尾がやけにせわしなく動いている。どうやら、早く外に歩きに行きたいらしい。その尻尾の動きを見て、柴波は少しだけ笑った。
「分かった。でも、俺も一緒に行くよ」
柴波は頷いたが、やはり心配は拭えないので同行を申し出る。
万が一、外を歩いている最中に症状が再発したらすぐに対応できない。それに加えて、サイレンススズカには少々申し訳ないが、散歩中に誰かに触発されて走るかもしれない、と言う可能性を完全には捨てきれなかった。ウマ娘を信じるのはトレーナーとしての必要条件みたいなものだが、こればかりは仕方がない。
まだ脚が健在だったころは、天気が良ければミーティングを前倒しにしてでも走りに行きたがっていたし、早朝のランニングで遠くへ行きすぎて結局遅刻したという話も聞く。今のサイレンススズカの脚の状態は本人の口からしか分からないが、恐らく症状が軽いのだろう。その上で、ここ4日間ランニングはおろかトレーニングもできず座学のみとなれば、サイレンススズカの根底にある『走りたい』と言う気持ちは限界を迎えるだろう。
もしも無理をしてしまえば、繋靭帯炎や骨折と言う重大なケガにつながる危険性も強い。だが、症状が落ち着く、あるいは完全になくなると、その危険に対する意識が薄れがちになってしまう。これは、柴波自身も経験したことがあるものだ。
監視、と言うと人聞きが悪いが、つまりはそういう理由で柴波は名乗り出たのだ。
「では、行きましょう」
それでも、サイレンススズカは嫌な顔一つせず、にこりと笑った。制服のまま、鞄もそのままに。どうやらニュアンスとしては、散歩というより回り道をしながら寮へ帰る、という形らしい。
柴波も貴重品と最低限の荷物を持って、サイレンススズカの後を追う。自分も直帰と行きたいところだが、まだ色々と仕事が残っているので後で学園に戻るつもりだ。
「脚の具合は?」
「もう日常生活には特に違和感がないぐらいには、痛みもないですね」
「そっか…明日あたり、一度ドクターに意見も聞いてみるか」
校門に向かいつつ、サイレンススズカの容態を確認する。ここ数日で通例と化しているものだ。元々日常生活に支障は出ないレベルの怪我だったが、近頃はその痛みもかなり引いてきたらしい。今こうして歩いている間も、サイレンススズカの表情、歩き方は以前と変わりない。元々ウマ娘の身体はヒトより丈夫だと聞くし、割と回復は早い方なのかもしれない。
だが、サイレンススズカにとっては大切な脚だ。やはり専門家の意見は聞くべきだとして、医者に診てもらうことにした。何せ症状が症状だし、容態が安定してきているのであれば本当に大丈夫かを診てもらった方が安心する。自分たちの判断で勝手にトレーニングを再開してしまい、今度こそケガをしてしまえばそれこそ一生モノのトラウマだ。病気に関してはちょっとぐらい心配性になった方がいいと、柴波自身は思っている。
「スズカは普段、どういう場所を走るんだ?」
「基本はどこでも…走るのが気持ちいいお気に入りの場所もいくつか…」
「それなら、今日は近場に行ってみようか」
「はい」
今回はサイレンススズカの希望に応えるため、行く場所も任せることにする。それに、サイレンススズカが普段どういう場所を走るのかも気になったので、柴波はサイレンススズカが走り出したりしない限りは、下手に口出しはしないでおこうと決めた。
◆ ◇ ◇
校門を抜け、サイレンススズカが足を向けたのは、トレセン学園からほど近い河川敷だ。土手にはランニング用の道路が設けてあり、しかも歩行者用・自転車用・ウマ娘用でレーンが分かれている。車の通りが多い道路ならまだしも、自動車が通れない道でウマ娘用のレーンがあるのは近くにトレセン学園があるからかもしれない。
サイレンススズカがここを気に入っているのは、広い景色を見渡せるのと、風を感じることができるからだ。ここでランニングをする機会は、他のお気に入りのルートより結構多いと思っているし、夢中になってこのランニングコースの起点まで走ったこともある(そして寮の門限に遅れかけた)。
「いい景色だな」
「トレーナーさんは来たことが無いんですか?」
「この辺りはまだ開拓してなくてね」
サイレンススズカは、歩行者用レーンを柴波と並んで歩く。普段なら迷わずウマ娘用レーンを駆けるが、脚のこともあるし、柴波随伴なのでそうもいかない。
歩きながら周りの景色を眺める。普段は走りながら見る景色だが、ゆっくり歩いていることで見え方も変わってくる。例えば、走っている時は流し見でしかなかった建物の形や看板が、徒歩だとその形や模様までちゃんと見えるし、看板に書かれている文言も読むことができる。
それに、走っている時とは違って、風が吹くと撫でるように流れていく。風の感じ方さえも違うので、サイレンススズカはまるでここが初めて来た場所のように感じた。
「もうかなり陽が傾いてますね…」
「いよいよ秋が深まったって感じだな」
太陽は既にオレンジ色に染まりだし、傾いた太陽が山の斜面に触れようとしている。夏から秋にかけて気温はかなり落ち着いてきて、過ごしやすい気温の日も増えてきた。サイレンススズカだって暑いのは苦手なので、それはありがたい。
「声出してがんばろー!」
「「オー!」」
するとその時、ウマ娘用レーンをジャージ姿のウマ娘が走り抜けて行った。彼女たちの走る速度はヒトとは全く違うので、彼女たちが追い抜いたと思ったら、あっという間に豆粒ぐらいの大きさになってしまった。
「……」
彼女たちが駆け抜けていく前後、力強い踏み込みによる振動が脚の裏から伝わってきたが、それも一瞬だった。
それだけ彼女たちは本気で走り、風を一身に受けて、歩くよりも遥かに速いスピードで流れる景色を見ている。
そこまで思い至った時、サイレンススズカの脚がまた疼く。
彼女たちに引っ張られるかのように、前へ進みたくなった。
「スズカ」
しかし、隣からの自分を呼ぶ声に、意識が静まる。
見れば、柴波が眉を下げて困ったように笑っていた。その顔を見て、サイレンススズカは申し訳ない気持ちになる。何だか、胸にちくりと痛みが走った。
「…すみません」
「まぁ、ずっと小さい頃から走るのが好きだったんだし、仕方ないと言えば仕方ないけどさ。でも、ついてきて正解だった」
歩くのを再開する。
こうして散歩に繰り出したのは、サイレンススズカの中にある『走りたい』と言う気持ちを少しでも紛らわせるためだった。
脚の症状はもうほとんど治まっており、歩いている時に痛んだりすることもなくなっている。なので、ちょっとでも走れたら、と言う気持ちが頭をもたげることもあったのだが、その度にサイレンススズカは自分の心を落ち着かせた。今度こそ故障したらどうするのか、と。
その気持ちを発散させようと、散歩に出たわけである。
「今は我慢の時だ。俺だって、スズカにはできる限り元気に走ってほしいから。万全の状態になるまでは走らせられない」
学校帰りと思しき子供たちとすれ違う。
柴波の言葉に、サイレンススズカは頭が上がらない。
自分だって、脚が大丈夫である限りは走っていたい。今回の静養は、この先できる限り走っていくためには必要なもののはずだ。
それでも他のウマ娘に触発されて走りたくなってしまうと言うのは、それだけ自分の中で『走る』という行為が本能として根付いているからだ。こうして散歩に出ても気休め程度にしかならず、柴波に制止されなければ恐らく駆けだしていた、という始末。この自分の中にある本能が、今ほど恨めしいと思ったことはない。
「今は辛いだろうけど、耐えるんだ」
「はい…」
励ますように柴波は言ってくれるが、まだ気持ちはすっきりとはしない。
そんなサイレンススズカの気持ちを見透かしてか、柴波は少し気まずそうに頬を搔きながら話しかけてくる。
「…なぁ、スズカ」
「?」
「次の日曜、空いてる?」
「特に予定はないですけど…」
唐突に、サイレンススズカの予定を聞いてきた。休日は―――休日"も"とも言えるが―――基本的に走りに行くことがほとんどで、今はそれもできない。なので、今のところ予定はないも同然なのを伝えると、柴波は頷いた。
「ちょっと、スズカを連れていきたい場所があるんだけどいい?」
「分かりました」
今まで、柴波は休日にサイレンススズカと出かけることは度々あった。しかし、今の流れで誘ってきたとなれば、単純なお出かけと言うつもりではないのだろう。それはサイレンススズカもでも分かる。
しかし、どのみち断ったところでサイレンススズカも休日を無為に過ごす結果になりかねないので、その誘いに応じることにした。
◇ ◆ ◇
天皇賞から1週間後にあたる日曜日。
サイレンススズカが柴波に連れてこられたのは、まさしく自分の人生の分岐点とも言える東京レース場だった。
ただし、参戦するのではなく、観戦するために。
「始まるぞ」
アリーナ席で柴波は、これから始まるレースに期待を込めているかのようにそう言う。
一方のサイレンススズカは、生殺しの気分だ。目の前にはターフ、そして競い合うウマ娘たち。天皇賞のようとは言わずとも熱気に満ちたスタンド。おまけに金曜日に医者に診てもらった結果、自分の脚は『激しいトレーニングでなければ大丈夫』と一定のゴーサインまで出ている。これがなかなかもどかしい。
やきもきしていると、URAのスターターが旗を振り、ファンファーレが鳴り響く。といっても、始まるレースは今日の目玉とはいえGⅡのため、演奏は録音されたものである。
『天候はあいにくの曇り空、しかし東京レース場は熱気に包まれています。アルゼンチン共和国杯、芝2500メートルの長距離レース、勝つのはどのウマ娘なのか』
サイレンススズカは今日は昼頃にこの東京レース場に来て、それからしばらくの間、柴波と一緒にレースを眺めていた。基本的にメインレース以外はメイクデビュー戦、またはオープン戦のため、割と緩い雰囲気で観戦していたものだ。
その柴波のレースを見る目が、先ほどと変わっている。彼が注目しているのは、このレースだろう。
だが、このレースは実況も言っていた通り2500メートルの長距離レース。サイレンススズカは出走したことがないし、URAファイナルズのマイルレースとも違う。
一見、サイレンススズカの適性とは少々違うレースに、柴波は何を見出そうとしているのか。
『さあスタートしました。各ウマ娘、綺麗に並んでのスタートです』
そんな疑問など微塵も考慮されずにレースが始まる。ゲートが開くと同時、観客たちは一斉に盛り上がりだした。一方の柴波は静観し、サイレンススズカもまた同様だ。
今回のレースで出走するウマ娘は全部で16人。実況の通り、誰もがスムーズにスタートを切っていた。
『1番人気の6番エルコンドルパサー、早くも先頭を目指している。先頭3番アーリースプラウトとの差は3/4バ身』
実況を適当に聞き流しつつ、サイレンススズカはターフを駆けるウマ娘の様子を注視する。
1番人気のエルコンドルパサーは、サイレンススズカも毎日王冠で戦ったことがあるウマ娘で、スペシャルウィークの同期でもある。そんな彼女の得意とするレースはサイレンススズカと同じマイル・中距離だが、長距離を走破するスタミナもあると、柴波は事前に言っていた。
しかし、今回のレースは長距離で、マイルレースとはスタミナの使い方が違う故、走り方も違ったものになる。であれば、何のために柴波はこのレースをサイレンススズカに見せるのか。
『2番人気の8番グラスワンダーはシンガリ、先頭との差は7バ身。出遅れた様子はない、今は力を蓄えているか』
800メートルを過ぎたあたりで最後尾を走るウマ娘にカメラがズームインする。エルコンドルパサー同様、毎日王冠で戦いスペシャルウィークたちと同期のグラスワンダーだ。彼女はマイル~長距離を得意とし、スペシャルウィーク曰く『怒らせてはいけない人』らしい。
そんな2番人気のグラスワンダーと、1番人気のエルコンドルパサーは、スペシャルウィークを含めてレースの世代を代表する『黄金世代』とも称され、注目を集めている。中でもあの2人は寮で同室かつ仲も良好らしいので、観客たちの大半は『黄金世代』が対決するレースに興味があるのだろう。
隣にいる柴波の姿をそっと窺ってみる。
彼は特定の誰かに注目しているというより、レース全体の流れを観ているらしい。何というか、どっしり構えている。
『さあ第1コーナー回って第2コーナーに差し掛かる。先頭はエルコンドルパサーに変わり、この位置をキープできるか。一方グラスワンダーは後ろから2番目、集団は二分している』
今回のレースは長距離。出走から中盤にかけて、先行・逃げと差し・追い込みで分かれる。グラスワンダーを含め、後方集団が仕掛けるのは恐らく第3コーナーに差し掛かってからだろう。そこまでの間は、先頭集団と後方集団それぞれで少しずつ順位が入れ替わっていく。
実際、第3コーナーの手前では分かりやすく先行集団と後方集団とで団子状になりつつあった。この時点で先頭は、エルコンドルパサーのまま変わらない。レースが終盤に近づいてきたことで、観客たちのざわめきも大きくなっていく。
そして第3コーナーを抜け、名物の大ケヤキを横目に見始めた時だった。
『ここでグラスワンダー前へ出始めた。速度が上がる、捉えているのは先頭エルコンドルパサー。エルコンドルパサーこの位置をキープできるか、差されるか!』
実況に熱が入ってくる。その通りで、最後尾から4番目の位置につき外側を駆けるグラスワンダーが、速度を上げ始めたのだ。内側を走るウマ娘には目もくれず、先頭目指して一直線に突き進む。
サイレンススズカは、追い上げるグラスワンダーの様子をじっと見る。
(すごく、真剣な顔…)
先頭を目指す、何としても勝利するという気概が見て取れる。
一方で、先頭を行くエルコンドルパサーも、グラスワンダーの気配を察したか、若干焦りの表情がにじんでいるものの、脚に力を込めて速度を僅かながら上げ始めた。
『さぁ最後の直線に入った!先頭は変わらずエルコンドルパサー!外側からグラスワンダーが迫る!その差は3バ身から2バ身!さらに増速仕掛けてくる!』
スタンド前の直線に入り、1着争いはエルコンドルパサーとグラスワンダーに絞られた。歓声がより大きくなるが、おそらくあの2人にはその声も聞こえていないのだろう。
『迫りくるグラスワンダー、1バ身まで迫る!エルコンドルパサーか!グラスワンダーか!ゴールは目の前!どっちだ!どっちだ!』
実況の熱が入り、観客たちもヒートアップしている。
2人がほぼ横並びになったことで、サイレンススズカの目にエルコンドルパサーの顔が映る。彼女もまた、横に着いたグラスワンダーの気配を察しているのか汗を垂らし、それでも前方にあるゴール板だけを見て目を見開き、歯を食いしばって走っている。
『今先頭でエルコンドルパサーがゴールイン!続けてグラスワンダーが2着!!』
決着がついた。歓声が爆発のように湧き上がる。
グラスワンダーは、差し切ることができなかった。
エルコンドルパサーは、最後まで速度を落とすことなく走り抜き、1着を勝ち取った。
勝利したエルコンドルパサーは、片手を突き上げながら惰性で走り、一方のグラスワンダーは眉を八の字に下げ、残念そうな表情を浮かべている。
正反対の2人の姿を見て、サイレンススズカは小さく拍手を送る。
そしてやはり、自分も同じようにターフを駆けたいという気持ちが湧いてきた。
「惜しかったな…」
柴波は、グラスワンダーに肩入れしていたのか残念そうに言う。いや、きっと誰を応援していたというわけではないのだろう。そんな彼に、サイレンススズカは問いかけた。
「トレーナーさんは…どうしてこのレースを観に?」
「まぁ…スズカをライバルと見ている彼女たちの走りを見せたかったからかな」
言われてサイレンススズカは思い出した。
夏合宿の前、宝塚記念から数日経った後で、エルコンドルパサーとグラスワンダーは、サイレンススズカに宣戦布告ともとれる決意表明をしてきた。宝塚記念で勝利したことで、2人の意思に火が灯り、クラシック級とシニア級両方で出走可能な毎日王冠で勝負したい、と。
結果はサイレンススズカが勝利したのだが、そのあとの天皇賞でのあれこれもあり、そこまで気が回らなかった。
しかし、柴波の言い方はまだ他に理由があるようにも聞こえる。
「それともう一つの理由はまた明日あたりに教えるよ」
そう言って、柴波は『そろそろ帰ろうか』と踵を返す。どうやら、本当にもう用はないらしい。
サイレンススズカは、頭の中に疑問を残しつつも、ひとまず柴波の後についていく。不思議と今は、『走りたい』という気持ちがなかった。
◇ ◇ ◆
翌日、サイレンススズカはトレーナー室である映像を観ていた。
『まずは1着、おめでとうございます』
『ありがとうございます!』
昨日のアルゼンチン共和国杯のインタビューだ。特に注目してほしい、と柴波が言ったのは、一番インタビュー時間が長いのは1着に輝いたエルコンドルパサーのものだった。
『今回のレース、勝利の秘訣は何だったのでしょうか?』
『この先長距離のレースにも参加する予定ですし、そのためにスタミナをつけてきマシタから!おかげで、今回のレース、中々悪くない走りができたと思いマス!』
サイレンススズカは、元々マイルや中距離で自分の『逃げ』を最大限に活かしている。だが、長距離を走り切る適性はなかったので、エルコンドルパサーの長距離を走破するためのトレーニングを学んだところで吸収することはあまりない。
しかし、柴波は観るのを勧めている。となれば、この勝利者インタビューにも何か意味があるのだろうか。
『今回戦った黄金世代のグラスワンダーさんとは、来月末の有マ記念で対戦することが決まっていますが、今回のレースに勝利したことで、次も勝利する自信がついたのでしょうか?』
『もちろん…と言いたいところデスが、グラスは絶対今日より強くなって有マ記念に挑むでショウ…。でも、怖気づくヒマはありまセン!』
『なるほど…となると、目標としているウマ娘は、グラスワンダーさんでしょうか?』
『そうですね~…』
記者の質問に、エルコンドルパサーは少し悩む仕草を取る。
『やっぱり、サイレンススズカ先輩です!』
唐突に自分の名前をテレビ越しに呼ばれて、サイレンススズカの肩がびくっと震える。一方で、記者団はざわめいていた。
『サイレンススズカさんというと、この前の天皇賞で1着でしたね』
『はい!その前の毎日王冠では負けてしまいましたから、リベンジマッチもあります!』
『今は療養中で、来年開催のURAファイナルズへの出走も微妙なところとの噂ですが』
記者の言葉に、サイレンススズカも少しモヤっとする。少なくとも、今の時点ではURAファイナルズ出走は諦めていないし、医者からはトレーニングの許可も下りているので、これからは出走に向けて少しずつ調整を始めるつもりだ。引き下がる気は毛頭ない。
『ですが、スズカ先輩は必ずファイナルズに出走すると、信じてます!』
根も葉もない噂にモヤっとしつつも、インタビューはしっかり聞く。
記者の言葉を聞いてもなお、エルコンドルパサーはサイレンススズカの出走を疑わない。それはサイレンススズカとしても少しうれしいが、同時に疑問にも思う。
サイレンススズカはエルコンドルパサーと懇意と言うわけではなく、レースで戦ったのは毎日王冠の一度きり。なのに、どうしてそこまで自分のことを信じるのだろうか。
『だってスズカ先輩は走るのが大好きなのがエルにも分かりますから。またターフに戻ってくるって信じてます!』
テレビの向こうのエルコンドルパサーが、溌溂と宣言する。
それを聞いて、閉じていたサイレンススズカの唇がわずかに開く。
『それに、毎日王冠ではスズカ先輩に追いつくことができず、ただ小さくなっていく背中を見ていることしかできませんでした…』
毎日王冠でサイレンススズカは1着、エルコンドルパサーは2着だった。出走から先頭に飛び出し、一度もエルコンドルパサーの姿を前方に捉えたことはなかったので、エルコンドルパサーからはそう見えたのだろう。
『だからこそ、あの背中にいつかは追いついて、追い越して、1着を決めてみせマス!』
決意に満ちたエルコンドルパサーの言葉に、記者団はカメラを撮ることも忘れてほんの少し沈黙する。やがて、溢れんばかりののフラッシュが焚かれ、記者団が驚嘆と感心の声を洩らす。
サイレンススズカもまた同じで、その言葉に目を見開いていた。そこまで親しくはないはずなのに、たった一度のレースを経て、彼女はサイレンススズカの走りを見て、必ず追い越すのだと堂々と宣言した。ここまで自分のことをライバル視されるというのもあまりないので、サイレンススズカとしても気持ちが揺れ動く。
「スズカの走りは、多くの人を惹きつけるものがある。それは観ている人たちだけじゃなくて、ともに走っているウマ娘のみんなもだ」
インタビューが終わったところで、柴波はテレビを消すとサイレンススズカの前に立つ。
柴波の言葉から想起されるのは、以前のフジキセキとの話だ。彼女はサイレンススズカの走りを『見ている人たちを惹きつける』と言っていた。つまり、エルコンドルパサーも同じということか。
「そして、惹きつけるだけでなく、さっきのエルコンドルパサーのように君を乗り越えるべき壁とし、闘志を滾らせる子もいる」
テレビ越しにも、彼女はサイレンススズカのことを未だマークしているのが分かった。それほどまでに言葉は熱く、どれだけ本気かも窺える。
柴波は、一度息を吐いて問いかける。
「スズカは『どうして走ることが好きなのか』って聞かれると、上手く答えられないことが多いよね?」
「…はい」
恥ずかしい話だが、同じような質問を色々な人から何度も受けたことがある。しかし、はっきりと答えられたことはほとんどない。それはサイレンススズカにとって『走ること』が、生きるために必要な行為―――例えば呼吸や摂食など―――と同じぐらいのものとなっているからだ。
しかし柴波は、答え方云々ではなく、別のところを気にしているらしい。
「俺が思うに、最初からスズカはそうだったわけじゃなくて、単純に走ることが好きだったんだと思う。趣味や特技みたいな感じで」
「……」
「そうして走りを追求しているうちに、スズカの中で『走ること』が本能レベルにまで上がった」
過去の自分がどうだったのか。それは全体的にぼんやりとしていたが、確かにかつてのサイレンススズカは、走ることは『自分の全て』ではなくて、趣味嗜好の範囲での『好きなこと』だったはずだ。
だが、走ることを好きだと自覚してからは、それに没頭していき、切っても切り離せない今の自分が形成された。
「スズカは、走ることが好きなのに変わりはないね?」
「それは勿論です」
即答する。今も昔もそれは同じだ。
それを聞いて安心したのか、柴波は笑みを浮かべて頷き、『それで』と続ける。
「今のスズカの脚は、医者から許可が下りたとはいえ、まだまだ気は抜けない。口を酸っぱくして慎重になってほしいって言うのは、勿論スズカの脚が大事に至らないよう心配しているのもある。けど、それとは別の理由もある」
柴波は、サイレンススズカを指差した。
「スズカが好きな『走ること』に惹かれている人は大勢いる」
「…?」
「その人たちを、
言われて、ようやく柴波の真意を掴むことができた。
サイレンススズカは、『走ること』が好きなのに狂いはない。時間があれば走りに行くし、それどころか時間を忘れて遅刻して、怒られることもたまにあるぐらいだ。静養中の今でも、誰かが走る姿に触発され、無意識に脚が動き出すほどに、自分の中でそれは強く大きなものとなっている。
柴波がサイレンススズカに堪えるよう何度も忠告してきたのは、まず第一に怪我の悪化を防ぐため。それはサイレンススズカ自身も考えてはいる。そしてもう一つの理由が、多くの人を魅了するサイレンススズカが、自らが好きな『走ること』で怪我につながり、周りの人々を落ち込ませないため。
―――人々を惹きつけ感動させる走りをするスズカは、私にとっては共感できて、羨ましくて、何より挑みたい子だ
―――だからこそ、あの背中に次こそは追いついて、追い越して、1着を決めてみせマス!
自分の走りがそこまで魅力的かどうかは、正直今も分からない。けれど、フジキセキやエルコンドルパサーは自分の走りを評価し、挑もうとしている。それだけでなく、自分をライバルとしているエアグルーヴや、慕ってくれるスペシャルウィーク。大勢のファンたちも、自分の走りを認め、中には新たに挑もうとする者もいる。過去には、自分の走りを見て一度は自信を喪失しながらも、自らを奮い立たせて再び戦い認めてくれた人もいた。
それだけ、今はサイレンススズカが人々の心の中に在るということだ。
けれどもし、今の自分を顧みず、自分の気持ちに素直になりすぎて、また走り、脚を壊せばどうなるか。最悪の場合、レースの世界に背を向けたらどうなるか。
深く考えるまでもなく、サイレンススズカを意識してくれている人たちは、落胆するだろう。当然、目の前にいる担当トレーナーの柴波も。
サイレンススズカが『好き』な『走ること』が原因でそうなることを、柴波は良しとしない。
「…そういうこと、でしたか」
「ああ、そういうことだ」
昨日のレースでエルコンドルパサーやグラスワンダーが、真剣な顔つきで走っていたのが脳裏に浮かぶ。それはレースで1着になりたいという気持ち、ウマ娘の本能でもある『勝ちたい』という気持ちがあったのは確かだろう。
しかし、それは目標とする人に…サイレンススズカに追いつくために、という気持ちも多分に含まれていた。
それを分かってもらうために、柴波は昨日今日と、サイレンススズカにレースとインタビューを見せたのだ。
意図を理解して、サイレンススズカは一度頭を下げる。そこにようやく気付かせてくれたことに対する、感謝を込めて。
すると、柴波が切り出した。
「さてと。それじゃ、トレーニングを始めようか。今日はどうする?」
いつものように、穏やかな調子で尋ねてくる。
元々今日は、『昨日の勝利者インタビューを見よう』と予め言われており、この後のトレーニングの予定は今のところ決めていない。
そして、先ほどのインタビューを観る前までは、昨日のレースによる興奮を抑えようと。また外へ歩きに行こうかとも思っていたところだ。
だが、あの勝利者インタビューと柴波の話を経て、その考えは自分の中で消化している。
「トレーニングルームで上半身のトレーニングをしようかな、と…」
「分かった。それじゃ、準備していこうか」
自分の脚を、もっと大切にする。
そして、レースに復帰した時のために、医師の指示通り脚以外のトレーニングを始める。
柴波はそれについてとやかく言わずに、筋トレ用のタオルやスポーツドリンクを準備し始める。サイレンススズカは制服だったが、後でトレーニングルームに併設されている更衣室で着替えるつもりだ。
「行こう」
「はい」
そして2人で、トレーナー室を出る。
サイレンススズカの足取りは、さっき部屋に入る前と比べて軽くなっているように自分で思った。