異体同心   作:プロッター

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第4話:異心

 天皇賞からもうすぐ2週間ほどになる。

 サイレンススズカのトレーニングは、ランニングを除き通常通りに戻っていた。脚にはまだ気を付けなければならないが、それ以外なら制限はないと、医者からのお達しも出ている。なので、ここ最近は上半身の筋肉のトレーニングを重点的に行っていた。

 これまでのサイレンススズカだったら、走れない現状に悶々としていただろう。だが、柴波から自分の走りがどういうものかを気づかされ、考えを聞いたことで、自分自身を律するようになった。だから、誰かに触発されて無意識に脚が疼いて動きだしてしまう、なんてこともない。

 

「よし。今日はこれぐらいにしようか」

「はい」

 

 トレーニングルームで柴波に言われ、サイレンススズカはアブクランチマシンから降りる。周りを見れば、同じようにトレーニングをしていた他のウマ娘たちも帰り支度を始めている。時計は18時を過ぎており、そろそろ帰り支度を始めた方がよさそうだ。

 差し出されたタオルで汗を拭き、スポーツドリンクを飲んで水分補給も済ませて落ち着いてから、トレーニングルームを後にする。

 

「筋力トレーニングばかりだと、やっぱり物足りない?」

「正直、そうですね…。でも、まだお医者様からの許しが出てないので」

 

 体操服から制服に着替え、トレーナー室へ荷物を取りに行く途中でそんな話をする。

 ウマ娘たるもの、走ってなんぼのものだ。特にサイレンススズカのように、走ることが本能レベルで根付いていれば、『走りたい』と言う気持ちは常に心の中にある。だが、走りたくても走れず、筋力のトレーニングやレースの研究しかできないのが物足りないのも事実だ。

 しかし今は、我慢の時だとサイレンススズカも理解していた。この身体の許す限りは走っていたいし、自分の走りが今や自分のためだけのものではないと知ってから、そう思うようになっている。

 サイレンススズカの答えに、柴波は頷いた。

 

「明日からの連休はどうする?」

「うーん…寮にいようかなと思います。もし余裕があったら、散歩にでも」

「そっか。何かあったらいつでも連絡してくれていいからな」

「わかりました」

 

 休日のサイレンススズカは、天候に関わらず大体外へ走りに行く。それができないとなれば、過ごし方も考えなければならない。まさか、無為に一日寝転ぶわけにもいかないので、ひとまず近場に散歩に行く予定だ。

 あるいは、以前柴波が話していたように、バスや電車を使って少し遠出をしてみるのもいいかもしれない。具体的な予定はまだ決めてないので、それは寮に帰ってから考えることにしよう。

 そこでふと、サイレンススズカは気になることを柴波に聞いてみた。

 

「ちなみにトレーナーさんは、お休みの日はどうしているんですか?」

「んー…体力に余裕があったらちょっと足を延ばして出かけたりするかな。そうでなければ残った仕事をしたり、家でゆっくりしたりする」

「出かけたり、というと…?」

「色々だよ。ショッピングモールとか回るの面白いし、動物園とか水族館とか…スーパー銭湯もたまに」

 

 柴波の意見を聞き、サイレンススズカは頭の中のメモ帳に走り書きをする。未だに走らない休日の過ごし方がわからないので、参考にしておきたかった。

 

「いつもお一人なんですか?」

「いや、たまに同期のトレーナーや友達と出かけたりもするよ。ただまぁ…一人の方が多いかな。自分で自由に動き回れるし」

 

 一人で出歩くことが多い、という点にサイレンススズカは親近感を抱いた。自分もまた、休日は大体一人でいることが多いし、大人数で一緒に行動することにも若干苦手意識がある。

 

「…分かりました。参考にしてみますね」

「ああ。と言っても、俺なんかのが参考になるかはアレだけど…休日はしっかり休んでおくように」

「はい」

 

 トレーナー室で荷物を回収し、サイレンススズカは帰路に就く。柴波はまだ仕事が残っているとのことなので、ここでお別れだ。

 サイレンススズカは、寮への道を歩きつつ、休日をどう過ごそうかと思案する。

 そしてふと、休日の予定を考えていると、心が満たされるようなそんな感覚がしてきた。

 それが、休日をどう楽しいものにしようか考えるだけで楽しくなっているのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。

 

 

◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 サイレンススズカの休日の予定は、思いのほか早く決まった。

 

「水族館?」

「はい!トレーナーさんからチケットをもらったんです」

 

 夕食と風呂を終えた後の自由時間に、同室のスペシャルウィークが提案してきた。手には言う通り、都心部にある水族館のチケットが2枚ある。

 

「でも、それってスぺちゃんのトレーナーさんと行くべきなんじゃ…」

「いいえ、トレーナーさんが『貰ったはいいけど別の用事があるから』って譲ってくれたんです。なので大丈夫ですよ」

 

 スペシャルウィークのトレーナーは、サイレンススズカも知っている。柴波トレーナーと同様に担当ウマ娘のことを大切に思い、トレーニングにも真摯に向き合っているらしい。そして、食べ過ぎて体重が増えた際には、ビシッと叱る厳しい一面があるとも。寝る前にスペシャルウィークが嬉々としてよく話してくれるので、彼女がどれだけ信頼しているのかも伝わっていた。

 だが、答えないでいるとスペシャルウィークの表情が不意に曇る。

 

「あっ、もしかしてスズカさんも何か予定があったとか…?」

「あ、ううん。違うの、むしろ何しようかなって考えていたところだから…そうね。良ければご一緒してもいいかしら?」

 

 サイレンススズカが言うと、不安になりかけていたスペシャルウィークの表情が一転、とても嬉しそうなものへと変わった。

 

「はい、是非!」

 

 そんな表情を見て、サイレンススズカも微笑ましくなる。それに、休日をどう過ごすか悩んでいたところだったので、この誘いは願ってもいないものだ。おまけに、スペシャルウィークが嬉しそうに水族館やその周辺のお出かけスポットなどを調べているのを見ると、サイレンススズカ自身も当日が楽しみになってきた。

 

 

◇ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 当日の天候は晴れ、気温も低すぎず高すぎずの良い塩梅で、お出かけにはもってこいの日となった。

 サイレンススズカは、スペシャルウィークと共に寮を出て、まずは電車で都心を目指す。

 

「お休みの日に電車に乗るなんて久しぶりかも…」

「スズカさんって、いつも走ることが多いですもんね」

「ええ」

 

 電車に乗ると、天候の良さと休日も相まって、乗客はそれなりに多い。

 人酔いしないように気を付けないと、とサイレンススズカが気を付けていると、1つの車内広告が目につく。

 

『最強の座に立つのは誰か!勇士が集うジャパンカップ開催!』

 

 11月の後半に開催される中距離のGⅠレース。国内外のウマ娘が参加し、注目を集める大規模なレースだった。

 ジャパンカップはクラシック級とシニア級で、それぞれ1度ずつ参戦することができる。しかし、サイレンススズカは、クラシック級では実力が通用するか微妙という柴波の判断で参戦しなかった。そしてシニア級の今年も、脚の影響で参戦は望めない。

 

「スぺちゃんも走るのよね?ジャパンカップ」

「あ、はい」

「応援しているわ」

 

 サイレンススズカが優しく声をかける。

 スペシャルウィークの適性は中~長距離なので、距離的な問題はない。クラシック級で参戦するのは、実力が通用すると踏んだトレーナーの意向で、スペシャルウィーク自身も同意して出走が決まっているのはサイレンススズカも知っていた。

 だが、応援されたスペシャルウィークの顔は少々浮かない。

 

「正直言うと、緊張してるんです。大舞台で、私の力が通用するのかなって」

「でも、スぺちゃんは今までレースで頑張ってきているし、大丈夫だと思うけど…」

 

 それは気休めではない。

 サイレンススズカも、スペシャルウィークの戦績は知っている。今年の東京優駿では1着、皐月賞、菊花賞でも好成績を収め、それ以外のどのレースでも入着している。決して弱いわけではないはずだ。

 それでも気分が上に向かないのは、やはり国内外の精鋭が集うことに対するプレッシャーによるものだろう。スペシャルウィークは、乾いた笑みをこぼす。

 

「トレーナーさんにもそう言われちゃって…。だから今日、水族館のチケットを貰ったのは、ちょっとでも気分転換ができるようにって意味もあったんです」

「そうだったの…」

 

 水族館のチケットは、スペシャルウィークのトレーナーの気遣いでもあったのだろう。大舞台を前に、少しでも息抜きができるように、と。だとすれば、猶更自分が一緒に行くのはどうなんだろうと思わなくもないが、それでもスペシャルウィークはサイレンススズカに笑いかけてくれた。

 

「スズカさんとお出かけするのは楽しいですから、スズカさんは気にしないでください」

「そう…?」

「はい!なので今日は楽しみましょう!」

 

 スペシャルウィークはにこっと笑う。

 だが、そんな彼女に対して明確に励ましたりすることができないのが、サイレンススズカは割とつらかった。もっと気の利いたことが言えたらいいのにと、考えてしまう。それこそ、サイレンススズカの担当トレーナーである柴波のように。

 ただ、自分と出かけることが楽しいと思うのであれば、ちゃんと楽しめるようにしなければならない。休日までスペシャルウィークの負担になるのはダメだ。

 心の中で、気合を入れる。

 

 

◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◇

 

 

 電車の中もそれなりに混んでいたが、街に出れば人出はそれ以上だった。

 

「結構混んでますねぇ」

「本当、目が回っちゃいそう…」

 

 10時過ぎに水族館に着いた2人だが、入場客の多さには驚嘆せざるを得なかった。何しろチケット売り場にはかなりの列ができているし、入場ゲートはひっきりなしに客が通っている。予めチケットが無ければ、もっと入場は遅くなっていただろう。

 そして、人が多いと気を付けなければならないのは、急な声掛けや取材だ。2人ともウマ娘としてそれなりに名を上げているので、万が一に備えて軽い変装―――帽子を被ったり髪型を多少変えたり―――をしているが、それが無ければどうなっていたことか。

 ただ、混雑でも2人のチケットが有効であることに変わりはなかったので、入場することは問題なくできた。しかし、外が混んでいれば中も混んでいて、主に家族連れとカップルがほとんどだ。気を付けなければ人とぶつかってしまいそうになる。

 

「ここってこんなに混んでるのかしら…?」

「前に来たときはここまでじゃなかったんですが…」

 

 サイレンススズカは来たことが無かったが、スペシャルウィークは既にリピーターらしい。だが、彼女が前に来たのも同じ曜日で天気もそう大差はなかったらしく、猶更どうしてここまで混んでいるのかが気になる。

 そんなことを考えていると、早くも人とぶつかってしまった。

 

「あっ、ごめんなさい…」

「いえ、お気になさらず」

 

 咄嗟にサイレンススズカは謝るが、振り返った人を見て驚いた。

 ぶつかった相手は、柴波だった。それも、トレセン学園で見るスーツではなく、ラフなタイプの私服。明らかにプライベートで訪れている。

 

「…トレーナーさん?」

「スズカ…?偶然だね」

「あれ、スズカさんのトレーナーさん?」

「やぁ、こんにちは」

 

 スペシャルウィークも同様に気付く。ただ、通路の真ん中で話をすと他人の邪魔になるので、一旦壁際に寄ることにした。

 

「トレーナーさんもいらしてたんですね」

「特に用事もなくて時間が余ってね。それに昨日テレビでここが紹介されてたから」

「あぁ、どうりで…」

 

 柴波の話を聞いて、周りを見る。どんな番組で紹介されたかは知らないが、そういった形で客足が伸びるのは多いと聞いたことがある。道理で休日にこれだけの人が集まるわけだ。ちなみに、スペシャルウィークもサイレンススズカ同様に意外そうな反応をしていたのを見るに、その番組は観ていなかったらしい。

 

「今日は2人で?」

「はい。私のトレーナーさんからチケットを頂いたので」

「そうか。それじゃ、邪魔したね」

 

 スペシャルウィークから事情を聞いて、柴波はその場を離れようとした。恐らく、生徒の休日を邪魔するわけにはいかないという親切心からだろう。

 しかしサイレンススズカは、それがどうにも寂しい気がした。

 

「ええと、トレーナーさんさえよろしければ、ご一緒しませんか?」

「え?」

 

 そう提案すると、柴波は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。まさか、サイレンススズカの方からそう言われるとは思っていなかったのだろう。だが、その顔を見たところで意見は変わらない。

 

「スぺちゃんもいいかしら?」

「もちろんですよ!それにこう人が多いと、大人の方がいてくれた方が安心しますから」

「そうか…じゃあ、2人がもしよければ」

 

 スペシャルウィークの意見ももっともだ。自分たちはヒトより頑丈なウマ娘だが、学生を狙って何かをされない可能性も有り得るし、こうして人だらけでは何かと不安になりがちになる。

 さらにサイレンススズカ個人として、せっかくこうして偶然会ったのに、別行動をするというのがどうにも変な気がした。

 

「スズカさんのトレーナーさんもお出かけとかお好きなんですか?」

「時間がある時はね。今日はたまたま仕事が片付いたから。2人はどうしてここに?」

「スぺちゃんが水族館のチケットを貰ったからと、誘ってくれたんです」

 

 水族館を3人で見回りつつ話をする。

 サイレンススズカはこの場所に来るのは初めてだが、水族館自体は初めてではない。抑えられた光源が気持ちを落ち着かせてくれるし、水槽を泳ぐ魚を眺めていると穏やかな感覚になる。人が多いのだけが難点だが、それはさすがに仕方がない。

 まず日本近海の回遊魚の展示から始まり、磯場を再現した水槽に続き、大型魚を集めた水槽に続く。

 

「思えば、海って合宿以外で行かないわ…」

「そうだな…釣りもしないし…」

「セイちゃん―――セイウンスカイちゃんは釣りによく行くらしいですけどね」

 

 水槽を見て回る間、スペシャルウィークはサイレンススズカや柴波とも話をし、3人の間にある雰囲気を緊張させないものにしている。恐らく、サイレンススズカがトレーナーと2人きりで出かけたとしたら、沈黙が続いて気まずい雰囲気になる事請け合いだ。彼女は狙ってそうしたわけではないだろうが、それでもありがたかった。

 

「見てください!おっきな水槽ですよ!」

 

 大型魚を集めた水槽の前に来ると、スペシャルウィークが水槽を指さして2人に笑いかける。その無邪気な様子に、サイレンススズカと柴波はほっこりとした気持ちになった。言えば本人は気を悪くするだろうが、近くで『おっきー!』とはしゃぐ子供とテンションが似ている。

 そんなスペシャルウィークを温かい目で眺めていると、我に返ったスペシャルウィークが赤面して静かになった。

 

「…こういう場所ってなんだかワクワクするなぁって感じがして」

「まぁ、気持ちはわかるかな…」

 

 スペシャルウィークの言い訳じみた意見に賛成したのは柴波だった。サイレンススズカが見ると、トレーナーは苦笑いを浮かべる。

 

「こういう暗くて、静かな感じのする場所ってのは普段来ないからさ。どうにも楽しくなるというか」

「でも、トレセン学園にもこういう場所はありませんか?三女神様の像近くとか」

「あそこも確かに静かと言えば静かだけど、ここは魚がいるしね。それに青色はリラックスさせてくれるから、水槽もあって」

 

 柴波とスペシャルウィークが話すのを聞き、サイレンススズカも一理あると思う。

 以前のランニングで休憩する際に青空を見上げると、走っていて昂っていた心が落ち着いた記憶がある。あれも、青色の空を見上げたことでリラックスできたからだろう。

 

「あぁ、確かに…。だったら、学校にも水槽をたくさん置けばほかのみんなもリラックスできるかもしれませんね!」

「それは生徒会が許可しなさそうだけど…」

 

 柴波の言葉に、サイレンススズカは頷く。友人のエアグルーヴを含め、生徒会は在籍するウマ娘たちのことを考えてくれてはいるが、学園に水槽をたくさん置くなど、如何にリラックスのためにと理由をつけても許してはくれなさそうだ。

 それにしても、とサイレンススズカは思う。

 スペシャルウィークが人懐っこい性格なのもあるだろうが、柴波とは随分打ち解けているようだ。元から多少関りがあったとはいえ、ぎくしゃくした様子もなく、普通に話すことができている。先ほど電車の中で見せた、ジャパンカップに対する緊張感も今は見られない。

 

「……」

 

 それ自体は喜ばしいことのはずだ。

 なのに、サイレンススズカはその様子を見ていると、なぜか無性に寂しさを覚えてしまう。自らの胸に手を添えてみるが、痛みが走るわけではない。なのに胸の奥がむず痒くなる。

 天皇賞で自分の脚に抱いた違和感に似ているような気がした。

 

「スズカ?どうかした?」

 

 胸の中の不安が顔に出ていたか、心配そうに柴波が話しかけてきた。サイレンススズカは表情を繕い、『大丈夫です』と答える、スペシャルウィークも同じように不安そうな顔をしていた。

 

「スズカさん、もしかして人が多くてちょっと疲れたりとか…」

「ええと、そんなことはないのだけど…」

 

 確かに人が多いのは苦手だが、まだ気疲れしてはいない。それに、この自分の違和感の原因はまた別のところにある、とサイレンススズカ自身は思っている。

 

「…少し早いけど、お昼がてら休もうか」

「あっ、そうですね」

 

 柴波が言うと、スペシャルウィークも賛成する。自分を気遣う方向で話が進んでいるのはサイレンススズカも分かったが、強く反対はしないでおく。もしかしたら、自分でも気づかないうちに人の多さに疲れてしまったのかもしれないから。

 そうして、柴波が先導し、スペシャルウィークがサイレンススズカの手を握って、人の流れから外れるようにフードコートへと向かう。

 サイレンススズカは、せっかくの休日に申し訳ない気持ちになってしまった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇

 

 

 水族館はビルの上層3階と屋上からなっており、一番下の階に出入口と少しの展示、そしてフードコートがある。

 サイレンススズカたち3人は、エレベーターでその階まで降り、フードコートの手近な4人掛けの席に座る。お昼時よりも早い時間なので、難なく席を確保することはできた。出店の方もまだ空いている。

 

「私ちょっと何か買ってきますね」

「あぁ、頼むよ」

 

 先んじてスペシャルウィークが出店の方へと向かう。柴波は、サイレンススズカの正面に座った。

 

「大丈夫?」

「はい…」

 

 サイレンススズカが感じた胸のつかえは、今はもう感じない。こうなってしまうと、自分の一時の不調で時間を妨げてしまったことが申し訳なくなる。

 

「すみません…迷惑を掛けてしまって…」

「いいよ。スズカもこういう人が多い場所は苦手なのは知ってるし、仕方ない」

 

 サイレンススズカが謝るが、柴波は気にしてないと手を横に振る。その気遣いはとてもありがたかった。

 

「でも、トレーナーさんだってお休みだったのに」

「気にしないでいいさ。それに俺としては、スズカの方がずっと大切だし、脚のこともあるからなおさら心配なんだ」

 

 笑って柴波が言うと、サイレンススズカは視線を伏せる。

 サイレンススズカのことが大切、という言葉自体は嬉しいのだが、そういう言葉を真っ直ぐに言われると鼻の頭がどうにもむず痒くなる。そして柴波を直視できなくて、結果目線が下に行ってしまう。さらには顔まで熱くなってくるが、不快感は全くない。

 

「スズカ、顔赤くなってるけど大丈夫?」

「…ええ、多分」

「その返事はちょっと心配だな…」

 

 柴波がサイレンススズカの気持ちなど知らずに話しかけてくるが、曖昧な答えしか出せない。

 そんな中で、スペシャルウィークが帰ってきた。

 

「お待たせしました~」

 

 スペシャルウィークは、トレーの上からニンジンハンバーグやたこ焼き、カレーライスといった料理をテーブルに並べていく。およそサイレンススズカに苦手な食べ物はないので、ありがたいチョイスだった。

 そんなスペシャルウィークに、柴波は立ち上がりながらお礼を告げる。

 

「ありがとう、お代は後で払うよ」

「いいえ、そんないいですって」

「いやいや。生徒に金払わせるなんて忍びなさ過ぎるから」

 

 言いながら柴波は、一度席を離れた。どうやら水を取りに行ったらしい。交代に、スペシャルウィークがサイレンススズカの隣の席に着く。

 

「スズカさん、大丈夫ですか?」

「ええ、何とか…。心配かけてごめんね?」

「いいえ、とにかく大丈夫そうで良かったですよ」

 

 スペシャルウィークが胸を撫でおろす。

 

「…よかったです」

「?」

「スズカさんが脚を痛めてしばらく走れないって聞いて、落ち込んでるんじゃないかと思ってたんですけど…こうして今日一緒に出掛けることができてよかったんです」

 

 今日のお出かけは、スペシャルウィークなりにサイレンススズカを気遣ってのことだったらしい。天皇賞で脚を痛めて以来、思うように走ることができないことが、彼女としても心配だったらしい。ルームメイトであっても、心の奥底までは知ることはできないし、特にサイレンススズカはそういったことをあまり口に出したりしないから、猶更気がかりだったのだろう。

 

「ありがとう、スぺちゃん」

「……」

「私も、最初はちょっとだけ落ち込んだし、走れなくてもどかしい気持ちもあったけど…今はそうでもないの」

「?」

 

 サイレンススズカは、先ほどまで柴波が座っていた席に目を向ける。

 

「トレーナーさんが、励ましてくれたから」

「そうだったんですか…」

 

 そして、スペシャルウィークが自分のことを気遣ってくれるからこそ、猶更悪い気持ちが浮かんでくる。

 

「むしろ、スぺちゃんだってジャパンカップ前に緊張しているのに、私がこんなで…」

「いえいえ、スズカさんの体調の方が大事ですから!」

「ジャパンカップがどうかした?」

 

 そこで水を持ってきた柴波が戻ってくる。サイレンススズカは水を受け取りつつ、話をした。

 

「スぺちゃん、今度のジャパンカップに出走するんですけど、緊張してるみたいで…」

「あー…そっか。もうすぐか…」

「それで、今日一緒に出掛けて気分転換をしようってことだったんです」

 

 サイレンススズカの言葉を聞き、スペシャルウィークは頷きつつ水を飲む。表情は、少しだけ困ったような感じだ。

 その表情と、サイレンススズカの言葉に、柴波は思案するように目を閉じる。

 

「スズカは、GⅠレース前に緊張とかしない?」

「私ですか…?」

 

 不意に話題を振られてサイレンススズカは少々驚く。だが、聞かれた内容はシンプルで、答えやすいものだった。

 

「私は…あまり。先頭の景色を見たい、って強く思っているから…」

「…それはつまり、周りを気にするだけでなく、自分の気持ちだけを見て素直に従う、ってことかな」

「まぁ、そういうこと…だと思います」

 

 柴波の言葉に、サイレンススズカは頷く。

 すると柴波は、スペシャルウィークに目を向けた。

 

「スペシャルウィーク。俺は君の担当じゃないからちょっとしたアドバイスぐらいしかできないけど、君がレースでいい結果を残しているのは聞いてる。それは間違いなく君と、君のトレーナーが積み重ねてきた結果だ」

 

 スペシャルウィークは、水の入ったコップを手に持ったまま柴波を見ている。

 ウマ娘は、担当トレーナーがいなければデビューできない。そうして基本的に、担当トレーナーが組んだ練習メニューに従いウマ娘たちはトレーニングをする。だから、レースで結果を残してきたのは、ウマ娘自身の努力と、それを支える担当トレーナーの力あってのことだ。

 サイレンススズカは、隣の柴波を見てそう思う。彼がいなければ、今の自分はいない。

 

「そこまでやることができたのは、担当トレーナーの指導がいいのもあるだろう。でもそれだけじゃなくて、君の中には何か大きな目標があるか、それともスズカのように自分の中に強い気持ちがあるのか、とにかく理由があるはずだ。そうでないとここまで来られない」

 

 スペシャルウィークの目が、何かに気づいたように僅かに見開かれる。それは柴波も気づいたようで、少しだけ笑った。

 

「君は、何を目指してる?」

 

 改めて問うと、スペシャルウィークの視線がコップの中の水に向かう。

 だが、それは決して落ち込んでいるからではないのが分かった。

 

「…日本一の、ウマ娘になるためです」

 

 サイレンススズカもそれは知っている。大言壮語ではなく、本当にそうなるのではないかと思うほどの結果を残しているのが事実だ。

 

「大舞台に緊張するのは恥じることじゃない。でも、周りのウマ娘の強さに気後れしているようなら、一度自分の中にある、自分が目指すものを見直してみるんだ」

「……」

「そうすれば、サイレンススズカみたいに、緊張よりも自分の気持ちを前に出していけるはずだよ」

 

 柴波が言うと、スペシャルウィークの表情が徐々に明るさを取り戻していく。

 そして最後には、笑みを浮かべて『はいっ』と元気に答えた。

 それを見て柴波は頷き、サイレンススズカも安心した気持ちになる。何とかスペシャルウィークの不安を取り除いてあげれば、とは思ったのだが、どうしたものかと悩んでいたのだ。柴波が彼女の緊張感をある程度ほぐすことができて、よかったと思う。

 

(トレーナーさん…)

 

 そこでサイレンススズカの中に、2つの気持ちが宿った。

 1つは、自分だけではスペシャルウィークの不安を取り除くことができなかったのが、申し訳ないという気持ち。

 そしてもう1つは、柴波がスペシャルウィークに対し親身になっているのを見て、またしても寂しいと思ってしまった気持ち。丁度、ついさっき水槽を見て回った時に感じたものに似ている。

 まるで、柴波が自分から遠い場所へ行ってしまうような気がした。

 

「何か、スズカさんが持ち直した理由がわかった気がします」

「スズカが?」

 

 自分の感情に気づく前に、自分の名前を呼ばれて意識が現実に戻される。

 

「さっきスズカさんが、怪我した時にトレーナーさんが励ましてくれたから心配ないって」

「…ぅ」

 

 サイレンススズカは、恥ずかしくなる。それは確かに言ったし、自分で言う分には何も問題ないことのはずだ。しかし、他人の口からそう言われると何か違う。

 一方の柴波は、照れるように頬を掻く。

 

「ありがとう。でも、スズカが大切なのは本当だから、これからも何かあったら頼りにしてほしいよ」

「…そうします」

 

 正面に座る柴波が微笑むと、サイレンススズカも気持ちが軽くなり、水を飲む。

 雰囲気が和らいだのと、スペシャルウィークが先にたこ焼きに手を伸ばしたところで、昼食の時間が始まった。

 先ほど感じた寂しさは、今はない。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◇

 

 

 しばし昼食を楽しむと、正午を過ぎたあたりになり、他の客が昼食を摂るために一旦引き上げてきので、比較的人出が落ち着いてきた。良いタイミングだったので、せっかくだからと最初から水槽を見なおすことにした。何せ、入ったばかりの時はあまりの人の多さに一か所に立ち止まってゆっくり見るのもままならなかったものだから。

 調子は変わらず、話を振るのはスペシャルウィークで、柴波とサイレンススズカがそれに対して反応を示すという感じだ。ただ、珍しい種類の魚が展示されているコーナーではしゃぐスペシャルウィークを見ると、サイレンススズカはやはりほっこりとした気分になる。

 大型水槽の後はクラゲコーナー、川魚、熱帯域と続き、そして屋上でイルカのショーまで観終わったところで、時刻は13時半となった。

 そこで、スマートフォンの着信音が鳴る。サイレンススズカのものではなく、柴波も違うらしく辺りを見回す。

 

「あ、私でした。ちょっとごめんなさいね」

 

 スペシャルウィークがスマートフォンを持ちながら、ぺこりと頭を下げる。一度断りを入れて、一旦サイレンススズカたちから距離を取る。ただ、『あっ…』とか『そうだった…ごめん…』と聞こえてくるあたり、あまり楽しい話ではないのだろう。

 やがて通話が終わると、スペシャルウィークが困ったような笑みを浮かべて戻ってくる。

 

「えっと、ごめんなさい。来週の小テストに向けて、今日の午後からグラスちゃんたちと勉強会があるんでした…」

「あら…」

 

 いかにトゥインクルシリーズで今を駆けるウマ娘でも、トレセン学園の一生徒であることに変わりはない。トレセン学園も通常の学校と同様に学園行事や定期考査はあるし、補修や赤点などのシステムも存在する。

 サイレンススズカはルームメイトとして、スペシャルウィークが勉強が苦手なのを知っている。試験前には机に向かって勉強してもすぐ舟を漕ぐし、試験後には大体この世の終わりみたいな顔でベッドに横たわり、追試を受けることも多い。

 彼女が言う『グラスちゃん』ことグラスワンダーはスペシャルウィークの同期。こうして勉強の面倒を見る機会もあるようだ。

 

「なので、すみませんがお先に失礼しますね!トレーナーさん、今日はありがとうございました!」

 

 頭を下げるスペシャルウィーク。帰るのはもう止められそうにないが、サイレンススズカはその前に言いたいことがあった。

 

「スぺちゃん、何かごめんね?折角ジャパンカップの緊張を解いてあげようと思ったのに…」

 

 当初の目的だったはずのそれを達成できずに、申し訳なく思う。自分と出かけることが気分転換になると言っていたのに、自分はわけもわからず不調に陥り無駄に時間を費やしてしまった。

 だが、スペシャルウィークは気にしていないと笑顔で首を横に振る。

 

「謝らないでください。スズカさんと一緒にここに来られたのが嬉しいのは本当ですし、トレーナーさんにもアドバイスをいただきましたから、大丈夫です!」

 

 その笑顔と言葉に、サイレンススズカは何か言葉をかけてあげたかった。

 だが、スペシャルウィークは『それでは!』と別れの挨拶もほどほどに出口へと駆けて行ってしまった。慌てぶりを見るに、電話の相手は相当焦っていたのか、あるいは怒っていたらしい。

 

「「……」」

 

 そして取り残されるサイレンススズカと柴波の2人。先ほどまでは、元気なスペシャルウィークがいたので、相対的に場の空気が静かになってしまう。

 

「えーと、どうしようか」

 

 それでも先に口を開いたのは柴波の方だった。と言っても、彼自身もどうするべきか分からなくて、取り敢えず聞いてみたという感じだ。

 一方のサイレンススズカは、内心悩んでいた。もしも自分の身体が万全であれば、空いた時間で走りに行こうと考えていただろう。しかし、医者からゴーサインが出ていないためそれはできない。それなら学園に戻ってランニング以外の自主トレーニングを、と言いたいところだが、こうして休日に偶然トレーナーと会って、今はまだ外出先だ。それも何だか味気ない。

 

「あ、そうだ」

 

 だが、答えを出す前に柴波が続けてきた。

 

「今、スズカは欲しいものとかあったりする?下にはショッピング街があるし、買っていこうか」

「欲しいもの…ですか?」

 

 聞かれてサイレンススズカは、一旦この後どうするのか考えるのを横に置き、思考を変える。

 記憶している限りでは、文房具や衣類に足りないものはないし、シューズもストックはまだ残っている。それ以外の小物類も別に不足はないので、特段欲しいものは今のところなかった。

 

「…いえ、特には」

「そっか。じゃあ…」

 

 なのでサイレンススズカはそう答えるが、柴波はあまり落ち込んだ様子はない。

 そして、彼はおもむろに視線を『出口』と書かれた看板に向けた。どうやらここを出て、帰路に就くつもりらしい。

 それに気づいた時。

 

「あ、あの」

「?」

「よかったら、いろいろお店とか見ていきませんか?」

 

 原因の分からない『寂しさ』を感じたのと、そう言葉が口から出たのは同時だった。

 柴波の顔が、驚きに染まっている。急にサイレンススズカがそんなことを言ってきたのだから、当然だろう。いまさらながら、自分の発言が唐突すぎたことに気づいて、申し訳なさが湧いてくる。

 

「え、えっと…」

「いや、ごめん。スズカがそういうこと言うのって初めてだから、ちょっと驚いたんだ。でも、全然嫌じゃないよ」

「え?」

 

 泳ぐ視線を戻すと、柴波は頷いていた。

 

「それじゃ、ちょっと寄り道していこうか。店を回るうちにほしいものが見つかるかもしれないし」

 

 優しくそう言ってくれた瞬間、心の中の『寂しさ』が『安堵』に取って代わる。

 そして、自然とサイレンススズカも笑うことができた。

 

「…はいっ」

 

 方針が決まり、2人はエスカレーターを降りて水族館を出る。

 次にエレベーターで、ショッピング街がある下層階まで降りる。

 しかし、水族館もそうだったが、店舗が軒を連ねる階はそれ以上混雑していた。休日なだけに仕方ないのは承知の上だが、それでも人の多さに目が回りそうになる。

 

「大丈夫?」

「ええ、どうにか…」

 

 しかしサイレンススズカは、不思議と疲れをほとんど感じない。というのも、サイレンススズカがはぐれないように柴波が傍を歩いてくれているからだろう。今日来て間もなかった水族館は、柴波に加えスペシャルウィークがいてくれたので同様に疲れはしなかったが、今は柴波の存在がより大きく感じる。

 それはそうと、人が多いのに変わりはないので、ゆっくり見るのは難しそうだ。

 

「色々見て回ろうにも、これじゃな…」

「そうですね…」

「少し時間をつぶそうか」

 

 柴波が指さしたのは、和風カフェだった。サイレンススズカも、その案に賛成する。

 昼食時の終り頃だったので、待ち時間なしでとはいかなかったものの、10分ほどで席に着くことができた。ここも混んではいたが、表と比べれば大分マシだ。

 

「折角だし、好きなもの頼むといいよ」

「いえ、そこまではさすがに…」

 

 メニューを開く柴波の気遣いに、サイレンススズカは『はいそうですか』とはなれない。

 サイレンススズカはスペシャルウィークのような健啖家ではなく、食事量は割と標準的だ。なので、昼食からそこまで時間が経っていない今、空腹で何かを食べたいという欲求はないし、下手をすれば体重が増えてこの先支障が出る。なので、ひとまずカフェオレか紅茶でも頼もうとメニューを流し読みしていたところで。

 

「……」

 

 『いちご大福』が目についた。

 和風カフェだから、そういう和菓子を提供しているのはおかしくない。自分の好物であるそれが置かれているのも、ごく自然と言える。しかも、サイレンススズカは昼にカレーライスを食べた。なので、口の中は若干甘いものを要求している。

 何か食べたい、という気持ちはついさっきまではなかったが、好物が目に入ると気持ちが揺らぐ。

 

「…スズカは、何にするか決まった?」

 

 柴波に聞かれ、サイレンススズカは顔を上げる。どうやら、サイレンススズカの葛藤には気づいていないらしい。

 

「はい、決まりました」

 

 そこで、こちらの空気を察したのか、店員が近づいてくる。

 

「ご注文はお決まりですか?」

「ええっと…カフェオレを一つ」

 

 サイレンススズカが注文したのは、それだけだ。

 いちご大福を食べたい気持ちは拭えなかったが、柴波の厚意でご馳走してもらうという点を考えると、飲み物だけでなく好物まで注文するのは少し図々しい気もする。それに、甘いものを摂るならカフェオレだけで十分なので控えることにした。

 そして柴波が注文したのは。

 

「では、玉露といちご大福を」

「はい、かしこまりました」

 

 思わず『えっ』とサイレンススズカは言いそうになるが、それはぐっと堪える。そして店員が去った後で聞くことにした。

 

「トレーナーさん…いちご大福を?」

「ああ、何か無性に食べたくなっちゃって」

 

 言いながら、トレーナーはメニューのいちご大福の写真を指さす。

 

「バレンタインに、スズカからいちご大福をもらってから、食べることが多くなってね」

「……」

「それにスズカも、もしかしたら遠慮してるんじゃないかと思ってさ。気を悪くさせたのならごめんね」

「…そんなことは」

 

 不快になど、なったりはしない。

 バレンタインデーにいちご大福を渡したのは、何も好意を示すためとかそういうのではない。感謝の気持ちを伝えるために、思わず自分の好物を渡してしまったのがそもそもだ。

 だが、それがきっかけでいちご大福に興味を持ってくれたというのは、何だか嬉しかった。自分の好きなものに興味を持ってくれるのは嬉しいし、それが自分の行動が理由となればなお良い。

 

「…何と言えばいいのか」

「?」

「自分の好きなものを好きになってくれるって、嬉しいですね」

 

 サイレンススズカは言うと、柴波も頷く。

 少し気恥ずかしくなったので、話題と視線を逸らすことにした。

 

「…それにしても、スぺちゃん大丈夫かしら…」

 

 天井のランプを見上げつつ呟くと、柴波が口を開いた。

 

「ジャパンカップの件?」

「はい…。スぺちゃん、私と出かけるのが気分転換になるって言ってたのに、私は特にアドバイスができなかったので…」

 

 しかも最終的に、小テスト勉強会に参加するという形で、急ぎ足で別れてしまった。去り際に、スペシャルウィークは気分転換になったと言ってくれたが、後味の悪さも否めないでいる。

 柴波としてもそれは思うところがあったようで、腕を組んで考え込む。

 

「確かに…いくらルームメイトだからって、考えてることが全部分かるわけでもないしな」

「……」

「俺自身、スズカのトレーナーとしてもう3年近く一緒にいるけど、未だに何を考えているかは全部は分からない」

 

 そうは言うが、先ほど柴波はスペシャルウィークに対して的確なアドバイスをしていたと、サイレンススズカは思っている。心が分からなくてもああして持ち直させることができたのは、彼が思慮深い性格なのもあるのだろう。

 

「他人の心ってのは、どうやっても全部は見えないものだから。理解しようと努力するのは止めないで向き合おうと、俺は考えてる」

「……」

「勿論、スズカに対してもな」

 

 真っ直ぐな瞳に、サイレンススズカは一度目を閉じる。

 自分は昔から、人の考えを読んだりするのは苦手で、配慮に欠けることもしばしばある。それは治そうと何度も試しているが、成果はそこまで芳しくはない。

 しかし、柴波の『努力するのは止めない』という言葉は、そんなサイレンススズカに自信を持たせてくれた。

 

「…トレーナーさん」

「ん?」

「私も、トレーナーさんのように…もっとスぺちゃんと話してみます。理解しようとする努力を、止めないで」

「…そうか」

 

 サイレンススズカの決意に、柴波は嬉しそうに微笑んだ。

 そこで丁度、注文していたカフェオレと玉露、そしていちご大福が運ばれてくる。

 いちご大福は、半分ずつにした。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◆

 

 

 和風カフェで1時間ほど過ごし、店を出る頃には人出も割と落ち着いてきていた。

 時刻は2時半を回ったところ。サイレンススズカの暮らす栗東寮の門限は把握しているので、それまでには用事を済ませようと、柴波は腕時計を確認する。

 

「スズカもこういうモールとかに来たことはある?」

「ありますけど…」

「そういう時、つい寄ったりする店はあったり?」

「そうですね…大体がレースの用品店、ぐらいですかね…。やっぱり走るのにシューズは欠かせませんし、蹄鉄も消耗が激しいので」

 

 適当にウィンドウショッピングをしつつ話をするが、サイレンススズカの答えはいっそ清々しいほど走りに振り切っている。走ること以外に対する興味が希薄だったから仕方ないとはいえ、そういう面を聞く度に彼女がどれだけ走ることに心血を注いでいるのかを実感する。

 

「トレーナーさんはどうなんですか?」

「俺はまぁ…書店とか、後は入りやすそうな気になる店に寄ったりする」

「入りやすそうな、気になるお店…?」

「売り物に興味があっても、女性客とか年齢層が違ったりしたら入りにくいものなんだよ」

 

 買い物について話をしつつ歩くが、これと言ってめぼしいお店は見当たらない。これはこのまま何も買わないで終わりそうだ、と柴波は考え始める。

 その時、ある店の前で足を止めた。そこは、寝具やアロマ、特殊なランプなどのリラックス用品を販売する店だ。販売しているものなのか、ほんのりと甘い香りが漂ってくる。一方のサイレンススズカは、急に足を止めた柴波を振り返った。

 

「トレーナーさん?」

「ああ、ごめん。ちょっと寄っていい?」

 

 提案すると、サイレンススズカも一緒についてきた。

 店内にいるのは女性客とカップルがほとんどで、柴波は店に入った直後に気が引けてしまう。だが、隣にサイレンススズカがいてくれているおかげで、回れ右して帰ろうとはせずに我慢して店の奥へと進む。

 安眠枕やリラックス用のぬいぐるみ、クッションなど中々興味深いものが揃っているが、その中で気になったのは、アロマのコーナーだ。店の前に漂っていた香りがここではより強く感じる。

 

「いい香り…」

 

 サイレンススズカも、この香りは嫌ではないらしい。その反応を見て、柴波の中で方針が決まった。

 アロマオイルが陳列されているラックには、アロマごとに効能などが一覧表で示されている。それを頼り、柴波はアロマを探す。サイレンススズカはその様子が気になるようだったが、彼女は彼女で、近くにあったヒーリングミュージックの棚を眺めていた。

 

「…これにしようかな」

 

 やがて柴波は、見つけたディフューザーを手に取る。丁度サイレンススズカが戻ってきたところなので、手に取ったそれを見せる。

 

「これは?」

「ヒノキの香りがするアロマ。良ければ、スズカにプレゼントしたいなと思って」

 

 モスグリーンの小瓶を眺め、サイレンススズカは小首を傾げた。要点だけを述べてしまい、逆に混乱させてしまったと反省する。

 

「えっと、スズカも走れなくて、結構ストレスとかを抱えてるんじゃないかと思って。それで、リラックス効果もあるアロマをプレゼントしたいなぁ、ってさ」

「…あぁ、そういうことでしたか…」

 

 ようやく意を得たらしきサイレンススズカは、笑みを浮かべた。

 

「でも、よろしいんですか?」

「もちろんだよ。俺だって、スズカのトレーナーなんだし、サポートは当然のことだ」

 

 サイレンススズカの脚の不調は、誰も責めることができない。大事をとって今は走れないという現実が全てだ。

 だが、だからこそ、サイレンススズカの悩みやストレスなどの負担を少しでも軽減させてあげたい。そのために、このアロマを買ってあげようと思ったのだ。

 

「ありがとう、ございます…」

 

 はにかむサイレンススズカを見る限り、どうやら受け入れてくれるらしい。

 柴波はその顔を見て安心し、会計へと向かう。

 

 その日の帰り道で、サイレンススズカはアロマの入った紙袋を大事そうに抱えていた。

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