柴波に限らず、ウマ娘のトレーナーは基本、担当するウマ娘のことを第一に考えている。日中のトレーニングはもちろん、人によってはほぼ全ての休日をウマ娘と過ごしたり、あるいはウマ娘の家族とも親交を持つトレーナーまでいる。
しかし、時にはトレーナー同士で交流の場を設けることもあった。
『かんぱーい』
この日、柴波を含め同期5人は、駅前の居酒屋で飲み会を開いていた。他にも同期のトレーナーはいるのだが、時間の調整ができたのはこの5人だけだ。
「久しぶりかな、こうして集まるのなんて」
「そうだねぇ、みんな担当の子にかかりきりだったし」
柴波の言葉に、ビールを呷って答えるのは
「確かに、担当の人気が高くなると、色々取材とか遠征とかが増えて、あっちゃこっちゃ行くし時間もないしな」
「嬉しい悲鳴ってものよ」
お通しのしらすおろしを食べながら、中距離ウマ娘担当の
デビュー当初は、よほど傑出した才能や人脈、血統でもない限り、注目されることはそうそうない。時間が作れなくなるほどになるのは、それだけレースの世界で人気が出て、忙しくなるということだ。すべてが悪いこととは言い切れない。
「
「え?ああ、まぁ…そうだな」
柴波が訊くと、長距離ウマ娘を担当する蜜浦は、歯切れの悪い答えを返してきた。
柴波を除いてここにいる4人は同出来だが、友人とも言えるぐらいには付き合いもある。だから、蜜浦は真面目で、聞かれた質問には大体『はい』か『いいえ』で答える人なのは知っていた。そんな彼があいまいな答えをするというのが、柴波は妙に引っ掛かる。
「ま、ま。今日は楽しみましょ?」
「…だな」
今日の飲み会の発案者である五十島が言うと、柴波もビールジョッキを傾ける。酒は普段飲まないが、こうして集まることもそうそうないので、今日ぐらいはまあいいかという軽い気持ちで飲むことにした。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
飲み会を始めて1時間ほど経つと、料理と酒と居酒屋の雰囲気が合わさって、口が回りやすくなる。柴波は最初の一杯からソフトドリンクしか飲んでいないが、それでも陽気な気分だ。
「でさぁ、ウマスタに上げてくるあの子の写真、どれもこれも可愛くてねぇ…。癒されない日はないんだわ…」
「分かるわぁ…直に見るのと写真で見るのとはまた全然違うのよね!」
そして専ら、担当ウマ娘の話が始まる。と言っても、愚痴や文句ではなく、近況だったり可愛いところ自慢程度だ。特にブーストがかかっているのは市河と五十島の2人で、男性陣はそれに対して相槌を打ったり、ゲラゲラ笑ったりするぐらいだ。
ここで忘れてはならないのだが、彼ら彼女らはウマ娘たちの成長の片棒を担いでいる身であり、天下のトレセン学園に所属するトレーナーでもある。公序良俗に反する行いはしてはならないと厳命されているし、今いる居酒屋でもトレーナーの証であるバッジは外して厳重に保管し、話が外に通りにくい個室で飲んでいる。
「そうだ柴波」
「?」
そこで双木が柴波に話しかけてくる。頬が赤くなっており、目が据わっている彼はビールジョッキを2~3杯空にしていた。
「お前んとこのサイレンスズカのおかげで、ウチの子が躍起になってくれてるよ。3着にすらなれなかったから、次は絶対負けないってな」
言われて、柴波は記憶を遡る。そういえば、双木の担当するウマ娘とは天皇賞か、宝塚記念で当たっていた。いずれも入着はしていたはずだが、やはりウマ娘として目指すのは誰も同じ1着。彼の担当ウマ娘も苦汁をなめたことだろう。
「それなら、頑張ってって伝えておいてくれ」
「おいおいおい、何だぁ?勝者の余裕かこのヤロー!」
「はいはい、双木くんは一旦お酒ストップね」
面倒な絡み方をする双木を市河が制し、彼の手にあるビールジョッキを回収する。だが、双木の発言が酔い+冗談なのは彼の顔を見て分かった。
トレセン学園では、自分が受け持つウマ娘と、知り合いのトレーナーの担当ウマ娘が直接レースで戦うことはざらにある。距離の適性が似ていれば猶更だ。そんな時、自分の担当ウマ娘が負ける度に相手に絡んだり憤ったりなどしていては、トレーナー業はやっていけない。悔しさを胸に、その敗北を糧に次のレースに挑むだけだ。
「…ねぇ蜜浦くん、大丈夫?」
そんな中、五十島が蜜浦に話しかける。彼の様子がおかしいのは、柴波も乾杯の時から気づいていたが、その蜜浦はあれ以降ほとんど口を開かない。ちびちびと酒を飲み、つまみにはあまり手を付けず、人の話にもぽつぽつと相槌を打つだけで、自分から話を切り出そうとしなかった。
「…何かあったのか?」
五十島が話しかけていたおかげで、柴波もそう訊ねることは容易かった。
「無理に話そうとはしなくてもいいが、同期とか友達は頼るもんだぞ」
双木も同調してくれる。
そこで、明らかに大丈夫じゃない蜜浦は、ようやっと口を開いた。
「…実は相談があるんだ」
「相談?」
「あぁ、双木と柴波に。できれば市河さんと五十島さんにも聞いてほしい」
畏まった様子の彼を見て、双木は姿勢を正し、市河と五十島はビールジョッキを一度テーブルに置く。柴波も、水を一口飲んで向き直った。
双木と柴波に、と前置きをしたとなれば、主に男性的な問題と思われる。この場の男性は蜜浦を除けばその3人だけだ。しかしながら、女性の市河と五十島にも聞いてほしいとなれば、男女の問題の可能性もある。そこまでならわかるが、彼がどんな悩みを抱えているのかは話次第だ。
「…担当の子を好きになったら…どうしたらいいんだ?」
蜜浦の口から放たれた言葉に、誰もがぎょっとした。
相談内容は実にシンプル、『好きな人ができた』ということ。この世に生を受けたのであれば、抱いても何らおかしくない感情で、その気持ちが芽生えることは本来ならば喜ばしいことだろう。
しかし問題なのは、その感情の向ける先が『担当しているウマ娘』であるということだ。簡単に盛り上がることなどできるはずはない。
「…一体また、どうして」
いち早く驚愕から抜け出した双木が訊くと、蜜浦は言葉を慎重に選びながら、事情を話してくれた。
蜜浦が担当しているウマ娘は、誰に対しても優しく穏やかに接し、とても良い子だという。柴波もそのウマ娘には会ったことがあるが、とても和やかな子という印象を抱いた。他の3人もその担当ウマ娘のことは知っているようで、うんうんと頷いている。
一方で、そのウマ娘は他人との距離がとても近く、トレーナーの蜜浦が相手でも例外ではないとのことだ。身体的距離の近さだけでなく、そのウマ娘の他者に対する思いやり、優しさ、穏やかさが相まって、『好き』という気持ちに気付いてしまった。
「…最初から一目惚れとか、そういうわけじゃないと」
「ああ…」
市河が訊くと、それに対して蜜浦はすぐに答えた。
そのウマ娘は、柴波から見ても世間一般で言う『美少女』に相当すると思っているし、他の4人も同意見らしい。蜜浦が盲目的にそこだけに惚れてしまったのであれば、比較的美形が多いウマ娘が集うトレセン学園でこの先トレーナー業など務まらないだろう。なので、一先ずは安心だ。
しかし、蜜浦の話はそれだけで終わらない。
「で、これは俺の勘違いであってほしいんだけど…その担当の子も俺のことが気になっているらしい」
「「何?」」
柴波と双木が声を揃えて問い返す。市河と五十島の女子コンビは額を押さえていた。
だが、蜜浦のその発言は、恋をしているとき特有の勘違いとかそういうものではないらしい。なんでも、元々距離が近いそのウマ娘が、最近になってハグや手繋ぎなどのスキンシップを繰り出す機会が増えたという。おまけに、発言の節々に蜜浦のことを担当のトレーナーという枠組みではなく、一人の男性として特別に思っているようなことまで言っているとのことだ。
蜜浦の話を聞いて、悩ましそうだった市河と五十島も、それが単なる勘違いではないと分かったらしく、表情が真剣なものに戻る。
「…とりあえず、その子が蜜浦のことを好きかどうかは置いておこう。でも、お前はどうするつもりだ?」
柴波が問う。そのウマ娘の真意は定かではないが、蜜浦がそのウマ娘に対して恋してしまっているのは事実。あとは、その気持ちをどう処理するかが課題になる。
蜜浦は、ジョッキに残っていたビールを一口で飲みきり、告げた。
「…その子がトレセン学園を卒業するまで、今の関係を続ける」
「賢いな」
その答えに、双木が頷く。
忘れてはならないが、自分たちは社会人であり、トレセン学園のウマ娘たちはまだ学生だ。加えて、彼女たちはレースの世界で生き残るために躍起になっており、特にここにいる5人の担当するウマ娘は全員トゥインクルシリーズに参戦している。お互いの立場と、置かれている状況を考えれば、簡単に手を出すことは許されない。
「で、卒業したら?」
続く五十島の質問も、尤もだと柴波は思う。先ほどの蜜浦の答えは賢明と言えるが、答えを先延ばしにしているとも言える。そのウマ娘がトレセン学園を卒業した後も、その関係を続けるとは考えづらい。
「…卒業までに、この気持ちは本当に恋なのかを考える。そうでなかったら…保護欲とか父性とかだったら何もしないし…恋だったら、告白する」
それが蜜浦の答えだ。 とはいえ、『考える』と言っても彼の感情は十中八九『恋』だろう。それは4人とも分かっていたが、あえて言及しない。
思いがけず、トレーナーとウマ娘の関係について一石を投じる話になってしまい、5人の空気は自然と引き締められたものになる。ましてや、真面目な蜜浦がそんな事態になったということが、余計に驚きだ。
「…また何かあったら、相談してくれよ」
「ああ、助かる」
柴波の言葉に、蜜浦は力なく笑った。
「…それじゃ、飲みなおそ!」
「そうだな。よし、じゃあ次はカクテルに挑戦するとしようかな」
「双木、明日も仕事なの忘れるなよ?」
「わかってるって」
そして市河が気遣い交じりに宣言すると、各々手元に残った酒を飲んだりつまみに手を伸ばしたりと、雰囲気を徐々に戻していく。蜜浦も、話をして少しほっとしたのか、先ほどよりも口数が増え、酒や料理に手を伸ばしている。
ただし、柴波だけはどうにも箸が進まなかった。
◇ ◆ ◇ ◇ ◇
「…はぁ」
今日だけで、悩ましそうなそのため息を何度も聞いた。
サイレンススズカは、それが耳障りとは思わないが、気にはなっている。
「トレーナーさん?」
「…あ、ごめんスズカ。どうかした?」
「いえ、何かボーっとしているようでしたので…」
話しかけても、柴波は考え事を振り切れていない様子に見える。今日、初めてトレーナー室に入った時も反応が普段より遅かった気がするし、トレーニングについて意見を聞こうとしてもこんな感じだ。
間違いなく、柴波は何か悩みを抱えている。
「何かあったんですか?」
「あー、いや。大丈夫、スズカの心配には及ばないよ」
笑って手を振る柴波だが、サイレンススズカは余計気になった。
柴波と出会ってから今日に至るまで、自分は柴波に幾度となく心配を掛けてきた。悩んでいる姿も見せてきたが、その度に柴波は真剣にサイレンススズカに向き合って話を聞き、解決させようと尽力してくれていた。一度だって、見捨てたり放っておいたことがない。
そんな柴波が悩んでいる様子なのに、自分にはそれを打ち明けない。男として、大人として、担当トレーナーとしての面子があるのかもしれない。
それでも、できることなら力になりたかった。
しかしサイレンススズカは、それを詳しく聞くことができない。柴波が打ち明けようとしないのもあるが、サイレンススズカ自身の中に別の心配事があるからでもある。
(私が聞いてどうにもならないことだったら、どうしたらいいのかしら…)
他のウマ娘と比べても、自分は走ることに重きを置いていて、人との接し方についてはまだまだ勉強の余地が多い。加えて、柴波の方が自分よりも長く生きており、それだけ人生経験にも差がある。
その柴波が打ち明けた悩みが、仮にもし自分では答えられないものだったとしたら。力になんてなれないし、柴波からしても解決できず中途半端な結果になってしまう。
その結果を恐れて、サイレンススズカも深掘りできないのだ。
そこで無情にも、下校のチャイムがスピーカーから鳴り響く。
「…っと、今日はそろそろ帰ろうか」
「…分かりました」
促され、仕方なくサイレンススズカは勉強道具を片付ける。
一方の柴波は、まだ仕事道具を片付ける様子はない。どうやら今日も、仕事を終わらせるまで帰るつもりはないらしい。
「そうだ。聞き忘れたけど、脚は大丈夫?」
昨日までは、毎日最初に顔を合わせる度に尋ねられたこと。それだけ柴波も心配しているということだし、今も自分自身が悩んでいても心配してくれている。その気遣いは嬉しくて、同時にサイレンススズカを寂しい気持ちにもさせる。
「ええ、もうほとんど問題はないです」
「そっか。もしかしたら、来週にはランニングもできるようになるかもな」
もうすぐランニングができるかもしれない。
それはサイレンススズカにとって大きな喜びでもあるが、同時に柴波の悩んでいる様子が自らの心を掴むかのように感じる。
自分の心配を、柴波の悩む様子を振り切るように、サイレンススズカは挨拶をして扉を閉めた。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
夜、スペシャルウィークは、自室の机でノートを広げ、数学の宿題を進めている最中だが、どうにも集中できない。
背後でルームメイトのサイレンススズカが、部屋の中をうろうろとしているのだ。
初めてのことではない。サイレンススズカは何か考え事をしているとき、部屋の中を左回りで歩き回る癖がある。スペシャルウィークも以前この目で見たし、しかもその最中は話しかけてはならないと本能が謎の警告をしてきたので、気づかないフリを貫いていた。
しかし、今日は少し様子が違う。顎に指をやり、ぐるぐる部屋を歩き回っているのは同じだが、サイレンススズカの表情は困ったように眉が下がったもので、何か悩みを抱えているようにしか見えない。それが、スペシャルウィークの集中力を削いでいた。
「…んん」
たっぷり10分ほど部屋の中を歩き回ったサイレンススズカは、やがて自分のベッドに腰を下ろす。ちらっとその様子を窺うが、サイレンススズカの表情は晴れていない。
もう話しかけても大丈夫だろう。
「あの、スズカさん…何かあったんですか?」
窺うようにではなく、椅子を回してサイレンススズカに身体を向けて訊ねる。サイレンススズカは、取り繕ったような笑みを浮かべた。
「ううん、大丈夫。ありがとうスぺちゃん」
その笑顔に、スペシャルウィークは胸が詰まる思いになる。
スペシャルウィークは、机を離れてサイレンススズカに向かい合うように、自分のベッドに座った。
「…スズカさん、もう脚はほとんど問題ないって、言ってましたよね」
「ええ。今度お医者様に診てもらって、もしかしたら来週にはまた走れるようになるかもしれないわ」
そう語るサイレンススズカは嬉しそうだ。
天皇賞から間もなく半月以上。その間サイレンススズカは、少しも走ることができなかった。それがどれだけ彼女にとってはつらいものかは、彼女にしか分からないだろう。だからこそ、彼女はもうすぐ走れるようになるのが待ち遠しいはずだ。
しかし、サイレンススズカがどれほどまでに悩み、つらい思いを堪え、そして今再び走れるようになるのが嬉しいのかは真の意味では理解できない。例え彼女を慕うスペシャルウィークでも、それは推し量ることができなかった。
だが、それでもスペシャルウィークは、極力普段通りに接しようと思った。よそよそしくしていたら、余計サイレンススズカに悪いと思ったから、脚については触れず普段通りにしていようと。
そして今、サイレンススズカはきっと、脚ではない別の何かについて悩んでいるのだろう。
「…スズカさんが脚を痛めている間、私では何も力になれませんでした…。私の脚とスズカさんの脚は全然違いますから、どうアドバイスしたらいいのかもわからなくて…」
「スぺちゃん…?」
「だからこそ、今スズカさんが何か悩んでいるのであれば、今度こそ力になりたいんです」
真っ直ぐに、サイレンススズカの目を見て告げる。
意表を突かれたように、サイレンススズカは口を小さく開けていた。だが、すぐに穏やかな笑みを取り戻す。
「…ありがとう、スぺちゃん」
「いいえ、お礼なんてとんでもありません」
「…だったら、相談に乗ってもらおうかな?」
サイレンススズカの表情が和らぐと、スペシャルウィークもそれだけでほっとした。
かつてのサイレンススズカは、人付き合いが苦手で、悩みを抱えていてもあまり他人に話すタイプではなかったのだ。だから、こうして自分に悩みを打ち明けてくれるというのは、それだけサイレンススズカも変わったということだろう。
「実は今日ね、私のトレーナーさんが何か悩んでいる様子だったの」
「スズカさんのトレーナーさんが、ですか?」
しかし、サイレンススズカが切り出したのは、自分のことではなく彼女のトレーナー・柴波のことだった。自分のことではなく他人のことを気にしているというのは珍しいような気もする。
「悩みがあるのなら聞いてあげたいと思ったのだけど…聞けなかったの」
「それは、どうして…?」
「聞いて私が解決できるような悩みならいいけど、もし私が答えを出せなかったら…何だかトレーナーさんにも申し訳ない気持ちになっちゃうから」
気遣いからくるサイレンススズカの悩みに、思わず感心する。
そしてその悩みの答えは、思ったよりも簡単にスペシャルウィークは気づいた。
「そうですか…でも、何だか珍しいですね。スズカさんが悩みを聞いてあげたいだなんて」
「それは…」
言うと、サイレンススズカの視線が左右に揺れ、やや俯きがちになる。だが、少なくとも気を悪くしたようではない。
「だって…トレーナーさんにはずっと世話をかけてばかりだし、私が悩んでいた時は相談に乗ってくれたから…私も力になりたいって」
どうやらサイレンススズカは、柴波とかなり良い信頼関係を築けているらしい。スペシャルウィークも、自分のトレーナーとは良好な関係を保っていると思っているが、隣の芝は青いというやつか、何だか無性にその信頼関係の強さが羨ましく思える。
だが、サイレンススズカが柴波の力になりたいと真剣に考えてくれているのは事実だ。
「でも、スズカさんの気持ちは分かる気がします。力になれなかったらって言うのは、私も考えることがありますから」
「……」
「それでも、1人で悩んだままでいるのを放っておけなくて。それに、悩んでいるのを知ったうえで何も聞かないっていうのは後味も悪いから…足踏みするよりも先に聞いてしまうんです」
自分の言葉が照れくさくなり、頬を掻いてしまう。だが、自分一人だけで話を完結させてはならない。
「それでスズカさんも…トレーナーさんの力になりたいと思ってるんですよね」
「それは、勿論よ」
「でしたら、その気持ちをトレーナーさんに伝えたらいいと思います。スズカさんが信頼しているのなら、スズカさんが訊いて答えられなかったとしても、怒らないと思います」
先日水族館で偶然会い、アドバイスをしてもらった身からしても、柴波は親切な人だと思う。だから、サイレンススズカがその悩みを訊き、解決に至らなかったとしても、それで気を悪くするようには到底見えない。
「それにスズカさんだって、最初に悩みを聞いてあげたいって思っているじゃないですか。それならやっぱり、聞いてあげた方がお互い気持ちが軽くなると思いますよ」
「……」
サイレンススズカの表情から、徐々に陰りが引いていく。どうやら、スペシャルウィークの言葉に決心がついたようだ。
「…ありがとう、スぺちゃん。明日トレーナーさんに聞いてみる」
先ほどの力がないものとは違う、自信をつけた笑み。
それを見て、スペシャルウィークも嬉しくなった。
「スズカさん、けっぱって…頑張ってください!」
励まそうとしたら、思わず素の方言が出てしまった。すぐに訂正するも、サイレンススズカはくすくす笑う。
「…うん、けっぱるわね」
「もー!スズカさぁん!!」
◇ ◇ ◇ ◆ ◇
サイレンススズカの全快も近い。それから2か月と経たず、URAファイナルズが始まる。
だが、療養によるブランクが半月強とは無視できるものではない。なので、URAファイナルズの前に適性のあるレースを1つ経験させた方が良いと、柴波は考えていた。
「この時期なら…このあたりか」
レースの一覧が載っているカレンダーを見て考える。GⅡ、GⅢあたりで、距離適性が合っているレースとなれば、かなり限られてくる。だが、来週頃に回復するのを考えれば、条件に合ったレースには間に合う。あとは、それまでに集中的にトレーニングをするだけだ。
その時、レーシングカレンダーに載っている『エリザベス女王杯』『ジャパンカップ』の2つのレースが目に入る。
『エリザベス女王杯』は既に終わったものの、1着に輝いたのはURAファイナルズでのサイレンススズカのライバル候補・メジロドーベルだ。レース前半から中盤にかけて力を溜め、終盤にかけて一気にウマ娘たちをごぼう抜きにして1着となった。その華麗な差し脚に人々は拍手喝采、賞賛の雨が京都レース場に降り注いだという。
そのレースは実際に観戦に行くことはできなかったが、映像を観る限りあの差し足はサイレンススズカにとっても決して小さくない脅威となりうるのが分かった。彼女のデータは、もっと集めた方がいいだろう。
そして『ジャパンカップ』は、スペシャルウィークが出走する。
『刮目せよ、日本総大将VSメジロ令嬢』
昨日目にした雑誌の記事がフラッシュバックする。
先日、偶然にもサイレンススズカと水族館で会った日、一緒にいたスペシャルウィークとも少し話をした。そして、彼女がジャパンカップに参戦するという話も聞いている。アドバイスをした身である以上、サイレンススズカと応援に行くのもいいだろう。
そして、
ジャパンカップは芝のレースでは長めの2400mなので、上位へ食い込む可能性が非常に高い。故に、中・長距離レースで成果を残すスペシャルウィークとの激戦が見込まれると、記事に書かれていた。
だが、そのジャパンカップの記事から連鎖的に思い出すことがある。
かつて、同じレースで世代を代表するウマ娘と激戦を繰り広げ、今なお名を知らない者はいないというステイヤーがいた。今はドリームトロフィーリーグに身を置いているが、そのウマ娘こそ蜜浦トレーナーが担当し、想いを寄せているウマ娘だ。
―――…担当の子を好きになったら…どうしたらいいんだ?
先日の飲み会での蜜浦の言葉が頭を過る。と言うか、ここ数日の悩みの種はそれだ。
あの時下された『学園を卒業するまで関係は進めない』『卒業するまでに自分の気持ちをよく考えなおして整理する』という結論は、間違っていないと思う。前例があったかどうかは知らないが、トレーナーが学生であるウマ娘に手を出すなど、外部に知られればトレーナーの、ひいては学園の信用問題に発展しかねない。世間的な体裁、倫理的な問題もあるため、今の関係を続けることこそ最善だろう。
だが、他に何か言葉をかけてやるべきだったのではないかと思ってしまう。
『社会人として』の回答は、あれでよかったと思う。だが、『同期として』『友人として』の答えは、他に何かなかったのではないか。いや、あの場はそれを言う雰囲気ではなかったし、蜜浦もそれを理解していたから良しとするべきなのだろう。だが、どうしてもそのままにしてはおけない、心残りというものがあるのも確かだ。
「おはようございます、トレーナーさん」
「あぁ、おはよう」
その考え事をしていると、サイレンススズカの挨拶が入り込んできた。柴波は、無意識に開いていたレースの資料を棚に戻しながら言葉を返す。
だが、改めて顔を見ると、サイレンススズカは心配そうな顔を自分に向けていた。
「…どうかした?」
「あの、トレーナーさん…」
デスクに戻ると、サイレンススズカは鞄を机に置き、柴波の前に立つ。何か話があるのは明らかだ。
「…昨日も聞いたんですが、やっぱりトレーナーさんが何かに悩んでいるのが気になって」
サイレンススズカに指摘され、視線が手元に向く。
昨日も考えていたのは、やはり担当トレーナーとウマ娘の関係性についてだ。しかし、その話をするのは当人たちに申し訳がないし、何よりこれはウマ娘ではなくトレーナーについてのことでもある。サイレンススズカの気遣いはありがたいが、話しても根本的な解決には至らないだろう。
しかし、今日はサイレンススズカの様子が違う。柴波から目を逸らさず、戸惑う表情でもなく、凛とした目を柴波に向けている。
「…これまで、私が悩んでいる時や迷っている時、トレーナーさんはいつも私に力を貸してくれました」
「スズカ…?」
「でも、私からはトレーナーさんの支えになれたことがない…。それが、自分でもつらいんです」
これまでのサイレンススズカと過ごしてきた日々を思い出す。確かに、彼女が悩みを抱えていると、柴波は率先してその悩みを聞いてきたが、逆のパターンはどうかと言われると自信がない。
それはトレーナーとして当たり前のことだからと気にしてはいなかったし、サイレンススズカもきっとそうだろうと思っていた。だが、サイレンススズカは今までのことを考えて、同じように柴波の力になりたいと申し出てくれたのだ。
最初にサイレンススズカと会った時と違い、こうも自分のことを考えてくれていることに、嬉しくなる。
「それに、トレーナーさん言ってましたよね?理解しようと努力するのは止めないで向き合おう、って」
柴波は、その言い回しには聞き覚えがあった。
「私だって、トレーナーさんが何を思い、何に悩んでいるのかはわかりません。でも、やっぱり理解したいですから」
そこまで言われて、柴波の中に罪悪感が込み上げてくる。せっかく、サイレンススズカが勇気を出して、柴波の言葉に背中を押されて訊ねてくれたというのに、当の自分が話せないことがつらい。
それに、サイレンススズカは自分の言葉を聞き、それを胸に留めてこうして力になりたいと申し出たのだ。それに応えなければ、トレーナーの名が廃るとさえ思い始める。
「……」
腕を組み、葛藤する。
どうするべきか脳をフル回転させて考える。その悩む様子がおかしいのか、サイレンススズカの視線を感じるが、構わずに考える。
その末に。
「…スズカ」
「はい?」
「…その、確かに俺は悩みがある。だけどそれは、あまり他人に言わないでほしいんだ」
「分かりました…」
柴波は話すことにした。勿論、個人を特定されるような真似はせず、オフレコという条件付きだ。自分がそれほどまでに苦渋に満ちた表情をしていたのか、サイレンススズカは若干たじろぎながらも頷いてくれる。
「実はな…同僚のトレーナーが、担当のウマ娘を好きになったらしい」
名前は伏せて、最大限プライバシーに注意して、要点を告げる。
サイレンススズカの尻尾がわずかに跳ね、瞳が揺れた。
「そのトレーナーは、担当の子についている間に、性格とか境遇とかを間近に見て、そういう気持ちを抱いたんだそうだ。そして担当の子も、そのトレーナーに対して同じ気持ちがあるらしい。それはあくまで推測だけど」
「……」
「けど俺たちトレーナーは大人だから。流石に遠慮なく『そうか、頑張れ』ってゴーサインは出せない。だから一先ず、その話を聞いた時は『その担当の子がトレセン学園を卒業するまで関係は進展しない』って結論になったんだよ」
かいつまんで説明すると、サイレンススズカはあごに指をやって考える仕草を取る。
「ただ、大人としての意見はそれで合ってたはずなんだけどさ。同僚として、友達として…もっと何かいいことは言えなかったのかなって。頭ごなしに問い詰めるのは間違ってたと今では思うし」
ため息を吐く。
話したところで、自分がどういう問題に直面しているのかを再認識する。そして、どれほどの問題をサイレンススズカに相談してしまったのかを、自覚する。人付き合いはまだまだ勉強中のサイレンススズカには荷が重いと気付くのには、遅かった。
「…私には、確実に『これ』と言った答えは出せません」
やがてサイレンススズカが口を開く。しかし、言葉とは裏腹に、その眼はなぜか優しげだった。
「でも、トレーナーさんは、そのお二人のことを聞いて、どう思ったんですか?」
「どう、って…そりゃ驚いたよ」
訊かれて、その話を最初に聞いた時のことを思い出す。
蜜浦が担当ウマ娘に恋をしたと聞いた時、柴波は―――その場で話を聞いた他の3人もだが―――大層驚いたものだ。真面目な彼がそんなことになるとは思ってもいなかったのだから。いや、真面目にウマ娘に接していたからこそかもしれない。
「では、そのお2人の、その…関係について、トレーナーさんは『大人だから』とか『トレーナーと担当だから』って立場を抜きに考えたら、どう思われるんですか?」
自らも適切な言葉遣いを探るように、サイレンススズカはさらに問いかける。
柴波はその質問を受けて、背もたれに寄り掛かった。
「…まぁ、応援するかな。成功を祈るって」
立場と建前がある以上、『頑張れ』と声を大にしては言えない。
だが、人の恋路を邪魔する奴は何とやら。それに、誰かを好きになるというのはとても喜ばしいことだ。だから柴波自身、本音としては『成就するのを祈っている』だ。
「でしたら、それを直接言ったらいいのでは?」
「……」
指摘されて気付いた。
自分たちがトレーナーであり、ウマ娘たちはトレセン学園の生徒である以上、責任を持って彼女たちのことを考えねばならないとばかり考えていた。そのためには、トレーナーとウマ娘の関係性は清純なものでなければならず、そういう色恋の沙汰については厳粛に対応しなければならない、としか考えていなかった。
そうやって堅苦しいことばかりを考えてしまったために、人としてはごく自然な、『他人を応援する気持ち』気持ちを忘れていた。
その忘れていた気持ちをそのまま伝えればいいと、サイレンススズカは示してくれたのだ。
だが、その答えを掴もうとしたところで柴波は手を引っ込める。
「いや…でもそれを言っていいものなのか…」
応援する気持ちを素直に伝えるのは正しいのだろう。
だが、それをしようとしてもできなくさせるのは、やはり大人としての立場、責任、体裁、取り巻く環境だ。自分が男子高校生ぐらいだったら、背中を叩いて口笛でも吹いて応援できるのに(相手にもよるが)。
それに、蜜浦は担当ウマ娘が学園を卒業するまで今の関係を継続すると決めている。そこに、背中を押すような言葉をかけてしまうのは、少し間が悪いような気がしないでもない。
その悩む様子に、サイレンススズカは首を横に振った。
「それでも、トレーナーさんはその人のことを応援しているんですよね?」
「まあ、それは…」
「でしたら、すぐに言うのではなくて、時間を置いてから言ってみてはどうでしょうか?」
サイレンススズカは、一度目を伏せる。
「…私も、スぺちゃんもそうだったんですが、親しい人が悩んでいるのを見ると、心配で仕方がなくなるんです。そして、それを放っておけなくて、私もトレーナーさんにこうやって尋ねてみたんです」
聞けば、サイレンススズカは柴波が悩んでいることについて、寮の自室でも考えてしまっていたらしい。それを見かねたスペシャルウィークが尋ねて、サイレンススズカが本当は柴波の力になりたいということを知り、背中を押してくれたという。そこまで自分のことを考えてくれているとは、柴波も気づかなかった。
「トレーナーさんも、その担当の子に恋をしたトレーナーさんのことが心配なんですよね?」
「……」
「そのトレーナーさんの応援したいって気持ちが伝えられないと、トレーナーさんもこの先ずっと、もやもやした気持ちを抱えたままになってしまいますから…」
柴波は、蜜浦のことを応援しているし、同時に心配もしている。それに加えて身近な問題でもあるから、ここまで思い悩んでいるのだ。確かにサイレンススズカの言う通り、自分の中の本音を伝えなければ、この悶々とした気持ちは永遠と抜けることはないだろう。
そこまで考えが辿り着くと、柴波の中の心のつかえが、ぽろっと外れたような感じになった。
「…そうだな」
単純な自分の考えにすら気付けなかったことに、思わず呆れて笑ってしまう。
顔を上げるとサイレンススズカも微笑んでいた。
「聞いてくれてありがとう。気が楽になったよ」
「いいえ。私がトレーナーさんに今まで話した悩みなんかと比べたら…」
サイレンススズカが首を横に振る。彼女は彼女で、これまで柴波に相談してきたことを気にしているらしい。
柴波からすれば、担当ウマ娘の悩みを聞くなど当然の責務だと思っている。悩みがウマ娘の体調に直結し、レースの成績にも影響を及ぼすなんてことは、誰にでも起こりうる。そんな悩みを解消させるのは、礼を言われることではない。
しかし、今は素直にその感謝の気持ちを受け取っておこうと思った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◆
11月最後の日曜日の、東京レース場。
そこは、異様な熱気に包まれていた。
『さあ第3コーナー回って第4コーナーへ入る。先頭は1番スペシャルウィーク、追いすがるように3番スターリープライドが突き進む!両者の差は1バ身半。後方外側から12番コードオブハートが差し切り体勢に入り始めた』
サイレンススズカと柴波は、多くの人でごった返すスタンドからレースを見守っている。両者ともに、自分たちにとっては近しい存在でもあるスペシャルウィークを応援するためだ。
そんな2人がいる東京レース場だが、海外の強豪ウマ娘も参戦するというのもあって、観客の数は自分が最後に出走した秋の天皇賞よりも多い気がする。さらに熱気はすさまじく、11月の冷たい空気を感じさせないほどだ。
くどいようだが、サイレンススズカは人の多いところがあまり好きではない。そのため気疲れしてしまいそうにもなるが、柴波が傍でちゃんと見てくれているので、何とかなっている。それに今は今日の大一番の終盤だ。ちゃんと見ておかなければなるまい。
『第4コーナー過ぎて最後の直線に差し掛かる!スペシャルウィークが2バ身半の差で先頭をキープ!後方からメジロブライトが追い上げてきている!』
大ケヤキを過ぎてスタンド前の直線に入ったことで、観客たちのボルテージは一斉に高まる。割れんばかりの歓声がそこかしこから聞こえてくるが、サイレンススズカも柴波も静かにその様子を目にしている。
『残り400メートル!スペシャルウィークとメジロブライトが並んだ!両者一進一退、どちらも先頭を譲らない!』
ゴール板を目前にして、デッドヒートを繰り広げるウマ娘たち。歓声には『行けぇ!!』とか『追い抜けぇ!!』などの怒号じみた応援も混じっているが、それでもサイレンススズカは声をあげない。
ただ目を見開き、拳を無意識に握って。
(スぺちゃん、頑張って…!)
届かないと分かっていても、心の中でそう伝える。
そして。
『今スペシャルウィークが1着でゴールイン!!並みいる強豪を組み敷いて、日本総大将ここに力を示しました!』
直後、歓声が一段階強まる。いたるところから拍手が聞こえ始め、よく耳を澄ますと誰かの泣き声まで聞こえてきた。
かくいうサイレンススズカもまた、胸がすっと軽くなった気持ちだ。応援していたスペシャルウィークが走り切り、こうして華々しい成果を挙げたのだから、嬉しくないはずはない。
実況の言葉に、サイレンススズカの頬が少しだけ緩む。帰ったら、きっとスペシャルウィーク本人も嬉々として今日のレースの話をしてくれるだろう。
「…よかった」
柴波も、安心したような表情で拍手を贈っている。
サイレンススズカは、そんな彼を見て微笑み、同じようにこのレースを走り抜いたウマ娘たちに拍手を贈る。
そして、自分も間もなく同じターフに戻るのだと、実感した。