診断表とレントゲン写真を見て、医師が笑みとともに頷く。
「改めて検査をしましたが、怪我の方は完治したと言っていいでしょう」
「本当ですか?」
「はい」
天皇賞から1か月近く経った今日、サイレンススズカの脚はついに治った。
医師の言葉に、柴波は喜びが言葉に滲むのを押さえられない。サイレンススズカの尻尾は上を向いて嬉しそうに揺れている。
「もしもまた、脚に不調が出るようであれば、遠慮なくいらしてください。今回は筋肉の異常という状態でしたが、また同じ症状が起きるようであれば骨の方にも注意しなければなりませんから」
「分かりました。では、また何かあれば」
医師の言葉に、柴波はサイレンススズカとともに頭を下げて、診察室を出る。
この後の予定は、学園へ戻ってこの後の方針をサイレンススズカと詰めるつもりだ。しかし、診察室を出てからサイレンススズカはどこか落ち着かない様子で、歩調も普段よりやや早めに見える。
「医者からゴーサインが出てよかったな」
「ええ、本当に」
会計を済ませて、病院の外へ出る。
サイレンススズカは、ニコニコしていた。先ほどまでの気持ちが逸っているのもそうだが、何故そうなっているのかは簡単だ。今まで走ることを我慢していたのだから、それができるようになったことが嬉しくて仕方ないのだろう。
「それじゃあこの後は…」
そんなサイレンススズカを宥めつつ話をしようとしたところで、スマートフォンが電話を知らせる。柴波がポケットから取り出してみてみると、それはトレセン学園からだった。
「はい、柴波です」
一旦サイレンススズカから少し距離を置き、通路の脇で電話に集中する。それから少しだけ話をしてから、サイレンススズカに向き直った。
「スズカ、ちょっと理事長に呼ばれたから、先にそっちへ行くよ」
「そうですか…では―――」
「念のためにタクシーで、
「…はい」
先んじて告げると、耳が垂れるサイレンススズカ。ドクターストップが解除された今、すぐにでも走りたいであろうサイレンススズカがトレセン学園まで走って帰ろうとしていたのは、容易に想像できた。
しかし今は、念のためにタクシーで学園に帰る。本格的に走るのは明日か、早ければ今日の夕方からだ。
しょんぼりしているサイレンススズカの背中を優しく叩きながら、柴波は手を挙げてタクシーを呼んだ。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
トレセン学園に戻ると、サイレンススズカはトレーナー室で待っているように言われた。理事長がお呼びなのは柴波だけだったらしいため、その間はトレーナー室でレース雑誌を読んで待つことにする。
雑誌の表紙を飾っていたのはスペシャルウィークとメジロブライトだ。2人が走っているその写真を見るに、おそらくはこの間のジャパンカップで撮影したものだろう。事実、メインの記事はそのレースに関するもので、最後の最後で一進一退の攻防を繰り広げたスペシャルウィークとメジロブライトを称賛する内容だった。
特にサイレンススズカの目についたのは、クラシック三冠レースで好成績を収めたスペシャルウィークが、ジャパンカップでも1着に輝いた事実が目を見張るものだという点。まさに『黄金世代』の名にふさわしいという文章には、サイレンススズカも無意識に頷き同意していた。
「遅くなってごめん」
そこで、トレーナー室の扉が開き、柴波が帰ってくる。時計をちらっと見ると、時間的には15分と経っていない。
「何の話をされてたんですか?」
「スズカの脚の具合と、URAファイナルズの意向について」
柴波がデスクに着くと、サイレンススズカもそちらへと向かう。
理事長と話した内容は、脚は治ったからいいとして、後者はサイレンススズカにとっても他人ごとではない。
「医師の判断で、脚はもう大丈夫だって旨を伝えた。理事長も安心してたよ」
「そうですか」
「で、URAファイナルズについては参加する予定なのを伝えたけど…異論はある?」
「いいえ、それで構いません」
改めて問われるが、それは愚問だ。
脚が治った今、すぐにでも走り出したい気分だし、何の憂いもなくレースに参戦できる。それにサイレンススズカはただ走るだけではなく、他のウマ娘が何人も出るレースでしか味わえない、自分だけの先頭の景色を許される限り楽しみ続けたい。
URAファイナルズに出走する権利が失われてないのであれば、喜んで参加する。
柴波は頷き、引き出しから資料を取り出した。
「…よし。それじゃあ前に話した、サイレンススズカの走りを再確認するレースの話をしよう」
柴波に言われて、天皇賞の翌日に交わした話を思い出した。確かに、URAファイナルズまでに間に合えば、リハビリを兼ねてGⅡ以下のレースに出走するという話はしていた。
「どのレースにするかは、トレーナーさんも決めているんですか?」
「ああ、12月中旬のターコイズステークス。GⅢだ」
差し出された資料をサイレンススズカは確認する。場所は中山レース場、距離は1600mのマイルレース。なるほど、サイレンススズカにはもってこいだ。
「、スズカの脚の調整や慣らしには丁度いいと思って」
「…はい。私も、これなら大丈夫だと思います」
「よし。それじゃあこのレースに向けてトレーニングを始めようか。ひとまずは…」
そこまで言ったところで、柴波は口を止めた。
そしてサイレンススズカの顔を見ると、小さく笑う。
「…脚の具合を確かめるのも兼ねて、今日はランニングにしようか」
「はいっ」
多分、今の自分はとても晴れやかな笑みをしているのだろう。柴波も、ふっと笑いつつもランニングのための準備を始める。
「今までよく我慢したと思うよ。でも、無理はしないように」
「もちろんです」
そう答えて、サイレンススズカは着替えるために更衣室へと向かう。
そこへ向かうまでの間、サイレンススズカは全力疾走とはいかずとも小走りだ。静養中はこういうことすらもできなかったのだから、自分の脚が治り思い通りに走れることが嬉しくて仕方がない。
「…ふふっ」
走っている間も、笑みが抑えられなかった。
◇ ◆ ◇ ◇ ◇
その日は、日が沈むまでグラウンドを走り続けた。これまでと比べれば全然走り足りないが、それでも幾分か鬱憤を払拭することはできた。それに柴波の言っていた通り、完治を言い渡されたとはいえ具合を見るのもあったので、文句はない。
(…明日はロードワークに出てもいいかしら…?)
手元の電気を消し、サイレンススズカはベッドの上で明日のことを考える。明日のトレーニングもまたランニングの予定だが、許可が下りれば河川敷を走ってもいいかもしれない。明日、柴波に会ったら聞いてみよう。
(……)
ふと、柴波のことを思う。
脚を痛めてから、サイレンススズカのことを我が身のように心配してくれていた。時には我慢できずに走りだしそうになった自分のことをは優しく制し、また自分の走りが周りにどういう影響を与え、どう思われているかにも気づかせてくれた。
もしも柴波がいてくれなかったら、自分の脚はまだ治らないどころか、悪化していたかもしれない。自分の存在意義ともいえる走りを、脚を支えてくれた柴波には、本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。
(感謝…)
布団の中で身体を丸める。
こうして脚の怪我をしている間も、それ以前も、柴波はサイレンススズカのことをずっと念頭に置いてくれていた。
そんな彼にサイレンススズカが何か報いたことは、あまりないような気がする。バレンタインに感謝の気持ちを込めていちご大福を贈ったが、本当にそれぐらいだった。
今まではそこまで気にしていなかったのに、自分の人生の成否を分かつような状態を脱した今、それを改めて考えると無性に不安になる。本当に自分は、柴波に対して何も返せなくていいのだろうか、と。
それを直接訊いたところで、柴波は笑って首を横に振るだろう。『スズカは気にしなくていいよ』と言うだろう。『それがトレーナーの仕事だから』と言うだろう。彼はそういう人だから。
だが、そこまで予想できても、サイレンススズカはなおモヤモヤした。
何かお返しをしてあげたいと、考え始める。
(何ができるんだろう…?)
優しい香りが漂ってくる。それは、自分の机の上に置かれたアロマが発するものだ。
そのアロマも、走れなくなったサイレンススズカが少しでもリラックスできるようにと贈ってくれた、柴波の気遣いの印。それと同じように、何か自分も贈り物でもした方がよいのだろうか。
だが、サイレンススズカは柴波の好みがどういうものか分からない。休日に出かけることが多いのは知っているが、それだけでは解決にはつながらない。
布団を強く握って、どういうものを貰えば柴波は嬉しくなるだろう、と考える。
「にんじん、ハンバーグ…美味しそうですぇ…」
不意に声が背後から聞こえた。あまりに唐突すぎて身体が固まる。
だが、注意深く振り返ってみれば、その声の正体は先に夢の世界へ旅立ってしまったスペシャルウィークの寝言だった。相も変わらず幸せそうな寝顔に、サイレンススズカも温かい気持ちになる。
今日の夕食の時間に、脚が完治したことを伝えると、スペシャルウィークは満面の笑みで祝ってくれた。『うれしすぎて箸が止まりません!』と言って、夕食のにんじんハンバーグをモリモリ食べていたのも同時に思い出す。
しかしその時、スペシャルウィークの寝言でふと気づいた。
(もし、そうだとしたら…)
確実性はそこまでではないものの、前に似たようなことをしてあげた時、柴波は喜んでくれた。それを活かせれば。
それに気づいたサイレンススズカは、枕元で充電していたスマートフォンを点け、メッセージアプリ『LANE』を起ち上げる。
相手は、あまり頼ることが無かった友人だ。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
「まさか、あんな時間に料理を教えてくれと頼まれるとはな」
「ごめんなさい…」
日曜日。栗東寮のキッチンで、サイレンススズカはエアグルーヴに頭を下げる。先日、柴波への恩返しのために協力を求めたのだが、確かに今思えば時間が悪かった。平謝りをするも、エアグルーヴはそこまで根に持っていないようで、『まぁいい』と言ってせっせと料理の準備を始めていた。
サイレンススズカより1つ年上だが、お互いにライバルでもあり、友人でもあるエアグルーヴ。トゥインクルシリーズだけでなく模擬レースでも何度か戦う仲で、彼女には負けたこともある。『女帝』であると自負する彼女は少々怖いところがあるが、勉強や家事も得意ということは聞いていた。サイレンススズカが彼女に何かを頼ることは今まであまりなかったが、今回ばかりは彼女を頼った方がよさそうだと判断した。
「しかし、どういう風の吹き回しだ?普段料理などあまりしないはずだが」
「ええと…お世話になってる人に恩返しがしたくて」
「スズカのトレーナーか」
名前も言ってないのに、すぐに看破されてしまった。思わずサイレンススズカはぎょっとしてしまう。
「な、なんでわかったの…?」
「まぁ、これまでのケガのことを考えれば、世話になる人と言えば担当医かトレーナーぐらいなものだ。加えて、外部の担当医に手作り料理を作って贈るなんて話は聞かない。だから消去法だよ」
当てられてしまい、エアグルーヴが得意げな笑みを浮かべているのも併せ、やけに恥ずかしくなる。
ぽぽぽと照れるサイレンススズカが面白いのか、エアグルーヴは好戦的な笑みを隠そうともしない。
「それにしても、贈り物に手料理とは味なことを考えたな」
「前に料理を作ってあげた時、美味しいって言ってくれたから…。何か物を贈ろうにも好みとかが分からなくて…」
以前、大雨で走り込みに行けなくなった日、柴波のアドバイスで料理に挑戦したことがある。その時作った鉄分補給のための料理を柴波に贈ったものの、最初は栄養分補給しか考えず味付けを全くしなかったために難色を示された。しかし、その後何度か挑戦を繰り返した結果、『美味しい』と言ってもらえた。
そこから着想を得たのが、今回の弁当作り。
柴波の嗜好が分からないので、以前美味しいと言ってもらえた料理を作ってあげた方がいいと思った。それも、以前贈った料理とラインナップが同じでは誠意に欠けるだろうから、エアグルーヴに新しい料理を教えてもらうわけである。
話を聞いたエアグルーヴは笑っていた。
「…何?」
「いや、不思議な感覚でな」
言いながら、エアグルーヴはエプロンを1枚差し出してくる。
「これまで、私はスズカのことを良き友人だと思っていたのだが、あまり頼られることがなくてな。少々寂しさを覚えていたものだ。だから、どういう形であれ頼ってもらえたというのは些か嬉しい」
「…何か、ごめんなさい」
「謝ることはない。お前はそういうやつだと知っているからな」
言いながら、エアグルーヴもエプロンを着ける。
「それに、手料理を贈りたいと言い出したのが、何とも年相応で微笑ましいなと」
年相応、と言われてサイレンススズカはぐうの音も出ない。これまでの自分の人生を振り返ってみても、周りのごく一般的なウマ娘―――ウマ娘に限らず同世代の学生―――のような趣味嗜好は持ち合わせておらず、周りからも『ちょっと変わっている』と言われているのには何となく気づいていた。
料理に関しても、普段自分が走りこみに行く際に持参するおにぎりか、以前トレーナーに作った鉄分重視の料理しか作ったことがない。なので、誰かに贈り物として真っ当な手料理を作ることも初めてだ。
その、贈り物として弁当を作ることこそが結構なチャレンジであることには、今のサイレンススズカ自身気付いていないのだが。
「さて、作るにあたって何かプランはあるのか?」
「ええと…美味しくて、栄養バランスが整っていて…。後はどんな感じのがいいのかしら」
「そうだな…」
エアグルーヴは少し考え、冷蔵庫を開けた。
「強いて言うなら、見た目もよくないとな。不味そうな見た目では、味の是非に問わず食べる気を失くしてしまう」
「あぁ、確かに…」
サイレンススズカも、エアグルーヴの隣から冷蔵庫を覗き込む。
寮の冷蔵庫には、定期的にある程度の食材が補給される。ウマ娘の中には食堂の食事だけでは腹が満たされない食欲旺盛な子もいるため、自炊用の食料もあるのだ。基本的に使う量は個々人の自由だが、あまりにも多く使ったら逆に罰当番を喰らってしまう。
そんな冷蔵庫の中には、オーソドックスな野菜、肉、魚の切り身がある。あとは、誰が買ってきたのかは知らないがケーキや刺身があるものの、それはさすがに手を付けられない。
「美味しそうで栄養バランスが整っている、となると…ふむ」
冷蔵庫の中を眺めて、あれこれと材料を手にとっては戻し、時には調理台に置きを繰り返し、やがて『これぐらいだな』と食材を揃えた。
「渡すのは弁当でいいんだな?」
「ええ。月曜に渡してあげようかなって」
「となると、また明日一から作り直すつもりか?」
「今日は、作り方を教えてもらって味見をして、よければ明日贈ろうかなぁ…って」
サイレンススズカの言葉を聞き、エアグルーヴは頷いた。
「前に料理を作ったことがある、と言う事だから…流石に野菜の皮を剝いたり切ったりするのはできるな?」
「ええ、それはもちろん」
「なら、今から作る料理は恐らくスズカも作ったことはないだろうし、ちゃんと説明する。だから、明日には一人で作れるようになれよ?朝早くに起こされるのは御免だからな」
かくして、サイレンススズカはエアグルーヴから料理についてレクチャーを受けることとなった。
サイレンススズカも料理の経験は多少あるが、エアグルーヴから教わった料理は初めての工程が多く、サイレンススズカ1人では考え付かないであろうことばかりだ。
「じゃがいもの粗熱は取れたな?よし、ならさっき切ったニンジンときゅうりを混ぜる。マヨネーズと、後はレモン汁を少し加えれば味がよくなるぞ」
横でエアグルーヴに見てもらいつつ、サイレンススズカはできる限り1人で料理を進める。ここまで手の込んだ料理を作ったことはないので、サイレンススズカとしては非常に緊張しながらのものだが、エアグルーヴの指導が丁寧なので失敗を恐れる気持ちは少ない。流石、皆を導く女帝を自負するだけはある。
そうして指導を受け続けること小一時間。
「美味しい…!」
完成した料理を味見してみるが、とても美味しかった。エアグルーヴのアシストがあったとはいえ、自分で作ったものだから猶更だろう。エアグルーヴを見ると、彼女もまた嬉しそうに頷いている。
「ただ、まさかそれ一品だけと言うわけにもいくまい。まだあと2~3品は作った方がいいな」
「ええ、お願い」
そこでサイレンススズカは、はたと気付いた。
「…エアグルーヴ、何だか料理に慣れてる感じね?」
「ああ、普段から弁当を作っているからな。徹底した栄養管理をするには、やはり自分で作るのが一番だ。それに栄養管理がなっていない
そこでエアグルーヴは、何かを言いかけたところで首を横に振る。
「いや、何でもない」
「もしかして、他の誰かにも作ってるとか?」
「……」
サイレンススズカが純粋な疑問をぶつけると、エアグルーヴはそっぽを向いた。尻尾が落ち着きなさげに左右に揺れており、心なしか耳元が赤くなっているように見える。
やがて深呼吸を一つすると、エアグルーヴは再びサイレンススズカに向き直った。もう顔は赤くない。
「…いいから次の料理を始めるぞ」
「…分かった」
なんとなく、触れてはいけないような問題に思えたので、サイレンススズカもそれ以上聞くのは止めておいた。
それにしても、ちょっとした動揺もほんの少しの動作で鎮めるとは、さすがは女帝だ。
◇ ◇ ◇ ◆ ◇
週初めの月曜日、トレーナーはそわそわしつつ、デスクでサイレンススズカの練習メニューを組み直していた。
自分が新米トレーナーだった頃は、練習メニューを組むのにも四苦八苦していた。特にサイレンススズカは、コンディションが良ければすぐさま走り込みに行ってしまうので、組み直した回数は両手の指では足りない。それでも、担当トレーナーになって3年目の今ではもうそつなくこなせる。
今こうして組んでいるのも、ターコイズステークスやURAファイナルズを見越してのものだが、若干スケジュールがタイトになるだけでそこまで苦ではない。
心が浮ついているのは、家を出るタイミングでサイレンススズカから『LANE』で連絡が来たからだ。
『今日のお昼、お弁当を作っていきますので、トレーナー室で待っていてください』
絵文字も記号もない、シンプルな予告メッセージ。それに対して柴波は『分かった』と返したが、いきなり弁当を持ってくるというのが想定外すぎた。
以前もサイレンススズカが料理を作ってきてくれたことはあるが、その時の鉄分重視料理とはまた違うものだろう。それに、あれ以来料理を振舞ってくれたことは一度もなかったから、どうした急にと面食らった。
かと言って、サイレンススズカの申し出を断りはしなかった。今まで走ることしか知らなかったサイレンススズカが、こういう形で新しいことに挑戦してくれたのだ。それを喜ばずして、受け入れずして、何が担当トレーナーか。
(一体どんな弁当を作ってくるんだ…?)
キーボードを叩きつつ、思考がサイレンススズカの弁当に寄りつつある。
弁当を持ってきてくれることに対する気持ちの整理は済んだ。後は、その中身に期待するだけだが、果たしてどのような中身なのか。デコ弁の可能性は限りなく低いが、無難な中身になるかもしれない。いや、もしかしたらおにぎり2つにちょっとばかりのおかずという質素な感じかも。
そんな中、午前の授業の終了を告げるチャイムが鳴った。
「もうそんな時間か…」
キーボードから手を離し、背中を伸ばす。
ドアの外からはざわめきがにわかに聞こえ出し、休み時間に入ったのだと思わせてくる。柴波も一旦パソコンをスリープモードにし、鞄から文庫本を取り出して、サイレンススズカが来るのを待つことにした。
「こんにちは、トレーナーさん」
「あぁ、いらっしゃい」
そして、ノックとともにサイレンススズカが姿を見せたのは、休み時間に入ってから10分ほど後のことだった。手には、パステルカラーのナプキンに包まれた弁当箱が2つある。
「今朝はすみませんでした。いきなりLANEを送ってしまって…」
「いやいや、謝ることないよ。楽しみにしてたし」
サイレンススズカが弁当を柴波のデスクに置こうとする。だが、柴波はミーティング用の机で食べようと促した。どうせ同じ部屋で食べるのなら、もう少し近い位置で食べたい。
「でも、急にどうしたんだ?」
「いつものお礼…のつもりです。脚のこととか、今までのこととか」
席に着いたところで訊ねると、サイレンススズカの視線が不安げについっと横に逸れる。
「多分、トレーナーさんは『気にしなくていいのに』って言うと思いましたけれど…私はどうしても、トレーナーさんの恩を受け取ったままでいたくありませんでした」
「……」
「これまで私を見放さなかったこと、導いてくれたこと、そして支えてくれたこと…。それらに対しては小さすぎるかもしれませんが、その感謝の印です」
弁当箱を1つ、柴波の前に差し出してくる。
その包みを見て、心臓が際立つ鼓動を打った。
「…確かに、スズカにそう言われたらさっきの言葉を返していたと思う」
これまで柴波がサイレンススズカにしてきたこと、言ってきたことは、全て自分が『トレーナー』だからこそのものだ。だからもし、何の前触れもなくサイレンススズカから恩返しがしたいと言われれば、やはり自分は『トレーナーとして当然だから気にしなくていい』と、答えただろう。
「でも、こうしてもらって言う言葉はそれじゃないな」
柴波はサイレンススズカに対して微笑み、頭を下げる。
「ありがとう、すごく嬉しいよ」
その気持ちを正直に話すと、サイレンススズカが息を吞むように、口元を押さえる。
「…いいえ、どういたしまして」
答えてくれた。嬉しそうに、優しい笑みで。
笑顔を向けられると少し照れくさくなり、サイレンススズカの顔を直視できず弁当に視線を移す。
「それじゃ、いただいてもいい?」
「はい。誰かにお弁当を作るのなんて初めてで、お口に合えばいいんですけど…」
ナプキンを解き、弁当箱(大人用にしてはやや小さめ)を開ける。まず半分を占めるのは、卵のふりかけがかかった白いご飯。そしておかずはミニハンバーグにきんぴらごぼう、そしてポテトサラダだ。
「…全部手作り?」
「一応…エアグルーヴに作り方を教えてもらって…」
どれも、初めてにしては上出来すぎる出来栄えだ。ハンバーグは目立たないレベルの焦げ目が食欲をそそるし、きんぴらごぼうは変にしなったりしていない。ポテトサラダも程よく野菜が混ぜてあって、いずれも美味しそうに見える。
サイレンススズカは誰かの手を借りたことを恥じているようだが、それでも十分だと思う。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
向かい側でサイレンススズカも、自分の弁当箱を開ける。中身は見る限り柴波のものと同じだ。
手始めに、まずハンバーグに箸を伸ばす。
「美味しい…」
時間が経ち、温かさはさほどないものの、肉や合わせ調味料の味がちゃんと伝わってくる。続けて食べるきんぴらごぼうも味が染み込んでいて、どこか懐かしい感じすら抱かせてきた。これはきっと、昨日作って漬けていたものなのだろう。そして、ポテトサラダもジャガイモやニンジン、キュウリの味に加えて、仄かにレモン汁の味がアクセントになっている。
「うん、本当に美味しい!初めてとは思えないよ」
「そうですか…よかった…」
サイレンススズカは、ようやく安心したように、自分も食べ始める。
食事の際、サイレンススズカが人と話しながら食べるのを好むタイプではないのは、柴波も何となくは気づいている。なので、お互いに食事に集中できるように、話しかけるのはやめておいた。サイレンススズカもまた、柴波に話しかけたりはしない。
「…ご馳走様。美味しかったよ」
「お粗末様です…」
やがて食べ終わり、手を合わせる。弁当箱は洗って帰そうとしたのだが、サイレンススズカがそれを拒んだので、ここはひとつお言葉に甘えることにし、包装を元通りにして手渡す。
「ちなみに、トレーナーさん。一番美味しかったのは何でしたか?」
「んー…ポテトサラダかな」
どれも甲乙つけがたいが、一番味が印象に残っているのはそれだ。
素直に答えると、サイレンススズカが安心したようにため息を吐く。
「ポテトサラダはちょっと自信があったので、そう言ってもらえて安心しました」
「…本当、初めてとは思えなかったよ。教えてもらったにしても、完璧だ」
「それはちょっと褒めすぎですよ…?」
謙遜するサイレンススズカだが、柴波は花丸をあげたい気分だ。栄養重視で味付け完全無視の料理を作っていた時と比べれば、とても大きな進歩だ。
「それで、トレーナーさん」
「?」
弁当箱を仕舞い終えると、サイレンススズカがおずおずと尋ねる。
「今朝は、お弁当を作って朝練をする時間が無かったので…」
もじもじとしながら話す言葉に、柴波は吹き出した。
だが、何がしたいかはそこまで言われれば分かる。
「じゃ、今日はランニングにしようか」
「…はいっ」
心底嬉しそうにサイレンススズカが笑う。
その笑顔を見て、柴波も心が穏やかになるような気がした。
するとその時、トレーナー室のドアがノックされる。
「失礼するよ」
入ってきたのは、柴波からすれば意外過ぎる人物だった。
「フジ先輩…?」
「やぁ、スズカ。トレーナーさんも、食事中にごめんね」
「いえ、食べ終わったので大丈夫ですけど…」
栗東寮の寮長・フジキセキ。柴波も彼女の評判は聞いているものの、ほとんど話したことはない。今までこの部屋を訪ねたことなどなかったので、何か重大な話があるのかもしれない。
「何かスズカに用事が?」
「うん、そうだね。といっても、これはトレーナーさんにも伝えておくべきだと思って」
柴波が椅子を空けて着席を促したが、フジキセキは手を横に振って丁重に笑顔で断る。彼女が男女問わずファンが多いのは柴波も知っているが、男の柴波から見ても彼女は『可愛い系』ではなく『イケメン系』だと思う。
「スズカの脚が治ったって聞いて、ちょっとやりたいことができたんだ」
「やりたいこと?」
サイレンススズカが訊くと、フジキセキは口を開く。
「スズカ。君と模擬レースがしたい」
◇ ◇ ◇ ◇ ◆
柴波に弁当を作った3日後の木曜日。
トレセン学園の練習用コースに、サイレンススズカはやってきた。
「くどいようだけど、何か不調を感じたらすぐに走るのをやめるんだ」
「わかりました」
「それじゃあ、頑張って」
「はい。行ってきます」
柴波に背中を押され、サイレンススズカはコースに足を踏み入れる。フジキセキは既に待っていた。
「天気に恵まれてよかったね」
「ええ。本当に…」
空を見上げれば、雲一つない空が広がっている。あくまで模擬レースだが、走るにはもってこいの天気だ。
「天皇賞の走りを見てから、君とも戦ってみたいと思っていたよ」
「ありがとうございます。でも…負けませんから」
「いいね、その意気だ」
決意を示すと、フジキセキは笑う。
以前、フジキセキはサイレンススズカの走りに惹きつけられたと言っており、戦ってみたいとも言っていた。しかし、彼女は既にトゥインクルシリーズでの3年を終え、ドリームトロフィーリーグへと進出しており、トゥインクルシリーズ3年目のサイレンススズカとレース場で戦う機会はない。だからこうして、学園での模擬レースという形で戦うことにしたのだ。
それほどまでに、フジキセキはサイレンススズカと戦いたいと望んでいたのだろう。
「実際のレースと違って観客が少ないのは残念だけど、まぁそこは仕方がないね」
辺りを見回しながら言うフジキセキだが、確かにいるのはお互いのトレーナーと、見物に来たウマ娘が10人ちょっと。サイレンススズカにとっては些末な問題だが、大勢の観客をあっと驚かせるレースを繰り広げるフジキセキからすれば物足りないのだろう。
今回の模擬レースを柴波が了承したのは、復帰後の実力をある程度確認するためなのと、ターコイズステークスに向けての調整の一環として、とのことだ。
「さて、それじゃあそろそろ始めようか」
「はい」
スタートラインに並んで立つ。審判のウマ娘もやってきて、赤い旗を頭上に掲げる。
サイレンススズカは、実際のレースとは違うものの、懐かしい感覚を覚えた。1か月もの間レースに参戦しなかっただけでなく、つい最近再びランニングを再開し、トレーニングで模擬レースを行うこと自体も久しぶりだ。
しかし、模擬とはいえレースはレース、手は抜かない。相手はトゥインクルシリーズで名を残したフジキセキ。戦うのは初めてだが、臆する必要はない。
やがて、審判のウマ娘が赤い旗を振った。
「「!!」」
同時に、サイレンススズカは駆け出す。気配からして、フジキセキが出遅れた様子はない。
今回の模擬レースは、右回り1600メートルのマイルレース。フジキセキが模擬レースを依頼した際に、条件はこちらで決めてよいとのことだったので、後日出走予定のターコイズステークスと同じに柴波が指定したものだ。実際のレース場と起伏は違うものの、今の力量を確認するにはちょうどいいだろう。
すぐ後方にフジキセキがいる気配を感じつつ、サイレンススズカはターフを駆ける。
サイレンススズカは、確かに模擬レースは久しぶりだ。しかし、どういう走りをすればいいのかは本能レベルで身体に刻み込まれており、自分の走りができていないという感じはしない。足の不調も全くない。
(あぁ、懐かしい…)
全力で駆けながら、サイレンススズカは自然と笑みをこぼす。
ただ走るだけではない、誰かと競うことでしか味わえない先頭の景色、風、空気。それを今一度その身に受けられることが、とても懐かしくて、とても嬉しい。
しかしその時、自分の横から強い気配を感じる。
(フジ先輩…速い…!)
模擬レースだからと手を抜いて走っていないのはフジキセキとて同じ。残りの距離は正確には分からないが、後1000メートル弱ぐらいだろう。
サイレンススズカの『逃げ』はレース開始直後から最後まで先頭をキープし、先行策のウマ娘を徐々に突き放していくスタンスだ。
だが、フジキセキはレース開始から今に至るまでサイレンススズカと距離を離さずに食らいついている。これまで戦ってきたウマ娘の中でもあまり見ない。
だからと言って、サイレンススズカが走り方を変えることはない。このまま先頭の景色を独占し、逃げ切る。
「―――!!」
カーブを曲がると、何人かウマ娘がちらっと見えた。その中には自分も知っている子もいたが、今は気にしない。恐らくは自分の脚が復活したことと、フジキセキとの模擬レースということで興味を持ったのだろうと適当に結論付けておく。今はレースに集中しなければならない。
だが、思ったよりもフジキセキが粘っている。コースは残りあと600メートル。このあたりからサイレンススズカも再加速を仕掛けるが、フジキセキの気配が振り切れていない。自分が思い通りの走りをできている感じではないので、純粋にフジキセキが強いのだ。
「…ッ!」
その時、フジキセキが横に並んだ。横目に窺うが、彼女は彼女で全力で挑んでいるらしく、表情にはわずかに焦りが見える。寮で見せる気さくな笑顔とは大違いだ。
しかし今気にするべきはそこではない。最後の直線に入り、自分の横にほかのウマ娘がいるということ少々危うい事態だ。あの天皇賞でさえ、マチカネフクキタルやツルマルツヨシには並ばれなかったというのに。
(仕掛けないと…)
サイレンススズカが頭で理解すると同時に。
観戦スペースで走りを見ている柴波の姿が目に入った。
「…っ」
脚に力が籠り、より力強く芝を踏み込む。
再びフジキセキよりも前へ出て、速度が上がったのが分かる。先ほどまで感じていたフジキセキの気配は消え、再び先頭の風や空気を強く感じるようになった。
前方にゴール板が見えてくる。
しかし、視界に捉えてから通り過ぎるまでは、すぐだった。
「ゴール!!」
メガホンで審判のウマ娘が伝えると、サイレンススズカは入れていた力を適度に抜き、惰性でコースを走る。
フジキセキの背中は一度も見なかった。サイレンススズカは、逃げ切ったのだ。
そこへ、ゆっくりと並走するようにフジキセキがやってくる。
「中々いい走りだったよ」
「ありがとうございます」
褒めてくれた。敗北したことをまったく気にしていないように、いつものような笑顔で話しかけてくれる。
ただし、今回のレースは自分でも少しばかり思うところがあった。
やはり誰かと戦うことが久しぶりだからなのか、あるいはフジキセキの存在感が強かったせいか、これまでのレースと比べて周囲を気にすることが多かったように思う。毎日王冠や宝塚記念では、先頭を走っている間はその景色や風、空気のことばかりを考えていたのだが、今回は違った。
「その様子だと、納得がいってないみたいだね?」
「…模擬レースさえ久しぶりでしたから」
フジキセキは、そのサイレンススズカの中の疑問を見抜いているらしい。しかし、それを責めるようなことは言ってこない。
「でも、スズカからはレースを楽しんでいるような感じはしたよ」
「……」
「それこそ、みんなが惹かれるものなんだろうね」
確かに、レースの序盤から中盤にかけては、まだ先頭を走っていることを楽しみ、懐かしささえも感じていた。フジキセキはその時、そこまでサイレンススズカに接近していなかったものの、そこにサイレンススズカの魅力を感じたらしい。
トラックを回っていると、先ほど観戦していた生徒たちが自分たちに向かって拍手をしてくれた。サイレンススズカは彼女たちに向けて軽く手を振る。横でフジキセキが小粋なウインクを飛ばすと、生徒たちに悲鳴じみた歓声を上げさせる。
「ターコイズステークスに出るんだったよね?」
「はい」
「応援しているよ。頑張ってね」
フジキセキの応援の言葉に、サイレンススズカは頷く。
やがてゴール地点まで戻り、練習用トラック専用の掲示板には先ほどのレースの結果が表示されていた。サイレンススズカは確かにフジキセキに勝利したが、最終的な着差は『3/4バ身』となっている。最後の直線で突き放した感覚があったが、フジキセキも最後の力を振り絞ってどうにか追い抜こうとしていたらしい。
「お疲れ、スズカ」
コースから出たところで、柴波がタオルとスポーツドリンクを手渡してくる。
「やっぱり、フジキセキも強かったな」
「ええ。それに…ブランクもあってか今回はあまり集中できなくて」
「でも、無事でよかった」
今回の着差については、柴波も思うところがあったらしい。それでも怪我などをしなくて安心したのか、柴波は小さく息を吐く。
「ターコイズステークスまで時間はあまりない。何とか調整できるようにしないとな」
「わかりました」
方針が決まったところで、柴波を見てサイレンススズカはふと考える。
先ほどの模擬レースの最後の競り合いで、サイレンススズカは柴波の姿を目にした。
その時、仕掛けようとしていた脚に力が入り、フジキセキを抜いて先頭に立つことができたのだ。
勝利したのは、サイレンススズカの脚がフジキセキよりも一歩勝ったからなのは間違いない。だが、柴波の姿を見ると自然と力が籠ったのは、果たして偶然なのだろうか。
思えば、あの天皇賞もそうだ。最後の直線で脚の違和感に引きずられ失速したサイレンススズカを持ち直させたのは、柴波の声が聞こえてからだ。
天皇賞と今回の模擬レースで、柴波の声や姿に自分が奮い立たされたのはなぜなのだろうか。
サイレンススズカは、その答えが掴めなかった。