異体同心   作:プロッター

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第7話:異性

 金曜日の昼休み、教室。

 

「ふんにゃかはんにゃか、ふんにゃかはんにゃか…」

「……」

「ハッピー来ませり、ラッキー来たれり…」

 

 水晶玉に手をかざし、奇妙な呪文を唱えるマチカネフクキタルを前にして、サイレンススズカは困った表情をしていた。

 マチカネフクキタルは占いが好きで、自分だけでなく他人も占うことが頻繁にある。占いの方法は、今やっている水晶占いから易占、タロットカードと本格的なものから、コロコロ鉛筆占いや並走占い、自作おみくじ占いなどの若干疑わしいものまである。しかしながら、占いの結果は割と的中するため、一概にあてずっぽうでもなく、学内でも信用するウマ娘は多い。最近では、後輩と協力して『ボーノなお菓子占い』なるものを開発したらしい。

 そんな彼女に、サイレンススズカも以前占ってもらったことがある。内容は、自分が走り以外を顧みない性格に疑問を抱き、『何か新しい趣味でも見つけた方がいいのだろうか』というものだ。その時の占い(並走占いだった)の結果は『現状維持、時が来るのを待て』と、当初は気休め程度にしておこうと思っていたが、今となってはそれもある意味当たっていたと思う。

 なのでサイレンススズカも、彼女の占いの精度はある程度信用していた。

 しかし、困った顔をしているのには理由がある。

 

「ふんぎゃろおおおおおお!イヤアアアアア!」

 

 マチカネフクキタルが両手を挙げ、叫ぶ。

 瞬間、クラスメイトたちの視線が一斉に自分たちへ集中したのを感じ、サイレンススズカはいたたまれない気持ちになる。こんな風に、マチカネフクキタルが怪しげな呪文を唱えて占ったり唐突に声を上げたりして注目を集めるのが、サイレンススズカにとっては困りごとなのだ。

 

「むむむ…見えました!スズカさん!」

「な、何が見えたの…?」

「次のお休みの日、身近な方とお出かけを!さすれば、ハッピーな出来事に恵まれるでしょう!」

「具体的なのか曖昧なのか微妙ね…」

 

 周りの好奇の視線など気にせず、高らかに宣言するマチカネフクキタル。

 そもそも今回の占いは、サイレンススズカが望んで占ってもらったものではない。

 昼休みに入った直後。

 

『スズカさん!居眠りしていたら、シラオキ様のお告げがありました!「友の運勢を見極めよ、さすれば汝に幸運が訪れる」と!というわけでさぁさぁ!占いますよー!』

 

 色々ツッコみたいところはあったが、そんな感じで有無を言わさず占ってもらったわけだ。

 とはいえ、自分のことを『友達』と認めてくれていることについて悪い気はしない。それに、マチカネフクキタルの占いの精度は多少信用できるので、本当に次の休日はだれかと出かけようかと思う。

 

「いやぁそれにしても、スズカさんの脚が治って安心しました…」

「ありがとう…」

「フジキセキさんとの模擬レースでも勝利したんですってね?まさに完全復活!」

「まだちょっとブランクからは抜け出せてないけど…」

 

 水晶玉を仕舞い、鞄をごそごそと探りながらマチカネフクキタルが話しかける。自分のことを心配しているのは確かなようで、サイレンススズカもお礼を言う。

 

「スズカさんはURAファイナルズに出るとのことですが、それまではずっとトレーニングですか?」

「ううん、今度『ターコイズステークス』に出るわ。ブランク後の調整も兼ねて」

「なるほど!応援していますよ!」

 

 オカルトに傾倒している点を除けば、マチカネフクキタルも優しい子だ。サイレンススズカは応援の言葉に微笑む。

 

「そういえば、フクキタルは有マ記念に出るのよね?」

「はい!」

「後輩のスぺちゃんや同期の子たち出るから、油断はしないでね?」

「『黄金世代』ですね?私も強さは聞いていますが、負けるつもりはありません!」

 

 未だ鞄を探るマチカネフクキタルの自信に満ちた言葉に、サイレンススズカもおやっと思う。

 黄金世代がどれだけの強さは、サイレンススズカたちの学年やその上の先輩たちの間でも話題になっている。冗談半分で『恐ろしい』という人までいる。

 だが、マチカネフクキタルは違うらしい。彼女もトゥインクルシリーズを駆けるウマ娘で、レースの世界で生き、トレーニングも真剣に取り組んでいる身だ。さらにサイレンススズカは、一度マチカネフクキタルに実際のレースで負けたこともある。その実力は、間違いないものだろう。今までの自分のトレーニングの成果や積み上げてきた勝利を信じている、というわけか。

 

「伊達に私だって、トゥインクルシリーズで3年近く過ごしてきたわけじゃありません!トレーナーさんとのトレーニングの成果は決して無駄じゃありませんからねぇ!」

 

 にこっと笑うマチカネフクキタルにつられ、サイレンススズカも微笑む。

 

「何より私にはシラオキ様の加護がありますし、おみくじも大吉でしたからね!」

「…そうね」

「あっ、せっかくですしスズカさんのターコイズステークスの結果も占ってみましょうか!こちらの自作おみくじ占いで!」

「ウソでしょ…」

 

 鞄から六角形の木製の筒を取り出し、瞳を輝かせるマチカネフクキタル。折角カッコいいと思ったのに、最後の最後でガタ落ちの気分だ。

 その時。

 

「あ、フクキタルちゃん、先生が今日の放課後職員室に来いって」

「…何ですと?」

「さっきの授業中居眠りしてたから罰当番だって」

 

 通りがかった同級生の伝言を聞き、マチカネフクキタルの表情が青ざめる。『シラオキ様のお告げはっ…間違っていたとでも…!?』と嘆く様子に、サイレンススズカは『頑張ってね』と気休めの言葉をかけるしかなかった。

 

 

◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 ほぼ同時刻の、職員用食堂。

 

「失礼するぞ」

 

 柴波が1人唐揚げ定食を食べていると、向かいの席に男のトレーナーが勝手知ったる様子で座る。視線を上げると、蜜浦トレーナーだった。手には、カレーセットが載ったトレーがある。

 

「飲み会ぶりだな」

「ああ」

 

 柴波が軽く挨拶をすると、蜜浦は手短に返して黙々と食事を始める。

 だが、柴波は恐らくこの後何か話があるんだろうと、すぐに気づいた。それをすぐに言うのも野暮なので、柴波も気にせず食事を再開する。

 ウマ娘専用の食堂やカフェテリアと違い、職員用…教師やトレーナー専用の食堂はそこまで広くはない。それでも天下の中央トレセン学園なので、食事の質はウマ娘向けのものと同様、それなりに高かった。柴波も、サイレンススズカがこの前弁当を作ってきてくれた時以外では、大体この場所を利用している。

 そんな食堂は、トレーナー同士で情報交換をしたり雑談をしたりと大体賑わっている。その中で、対面する2人が一言も発さずに食事を続ける柴波と蜜浦のテーブルは、割と異質だった。

 

「…柴波」

 

 お互いに最後の一口を咀嚼し終えたところで、蜜浦が話しかけてきた。

 

「サイレンススズカ、脚が治ったって聞いたよ。おめでとう」

「あぁ、ありがとう。スズカも喜んでたよ、また走れるようになって」

 

 柴波が祝いの言葉をかけられるのは少し違う。実際に不調で我慢を強いられてきたのはサイレンススズカの方だ。ただ、身内の喜ばしい出来事に対する称賛は素直に受け取っておく。

 

「昨日のフジキセキとの模擬レースも見ていたけど、あの様子を見るに本当に脚は大丈夫みたいだな」

「ああ。といっても、まだ本調子には見えなかった。やっぱりブランクのせいだと思うし、それにまだもう少し脚には注意しないと」

「そうか…とにかく、怪我が治って何よりだ」

 

 医者からOKと言われても、サイレンススズカが再び走れるようになっても、それでも柴波は不安を拭いきることができないでいた。課題はまだ残っているし、不安もある。だが、ここから先は柴波とサイレンススズカの2人で考えることだ。

 

「じゃあこれは、復帰祝いとして渡しておくよ」

 

 言いながら蜜浦は手帳を取り出す。開いたページには、映画館のチケットが2枚あった。

 そしてそれを、柴波に渡してくる。

 

「なんだこれ」

「休みの日に行ったショッピングモールの抽選で当たった。系列の映画館でチケットと交換できる」

「いやいや、俺が受け取るわけにはいかないだろ」

 

 運も実力の内、とはレースの世界でも聞くことがある。蜜浦がそれで手に入れたものを、柴波は快く受け取ることなどできない。

 

「何ならお前が担当の子に渡せばいい。そうすれば、その子が誰か友達を誘って行くだろうよ」

「ダメだ。多分あの子に渡しても俺と行こうって言うだろうし、実際俺が一緒に行ったら何が起きるかわからない」

「……」

 

 何が起きるか分からない。

 その言葉には、本当に2人の関係が進展するのではないか、と柴波に予感させた。

 

「とにかく、このチケットはやるよ。2人で行くもよし、サイレンススズカに2枚渡して誰かと行かせるも良しだ」

 

 蜜浦はテーブルにチケットを置いて席を離れようとする。どうやら、復帰祝いの言葉とチケットを贈るために同席したようだ。

 その背中を黙って見送ろうとしたところで、かつてのサイレンススズカの言葉を思い出す。

 

 ―――トレーナーさんはその人のことを応援しているんですよね?

 ―――そのトレーナーさんの応援したいって気持ちが伝えられないと、トレーナーさんもこの先ずっと、もやもやした気持ちを抱えたままになってしまいますから

 

「蜜浦」

 

 その言葉を思い出すと同時、柴波は蜜浦に声をかけた。

 蜜浦が振り返ると、柴波は少しだけ間を挟んだ後、伝える。

 

「その、お前たち2人のことは、判断が難しいところだ。同僚としては止めるべきなんだろうよ」

「……」

「でも、友人として…成功を祈ってるよ」

 

 サイレンススズカに気づかされた、自分が蜜浦たちに対して贈ればよい言葉。同じ大人として、同僚ではなく、友達として。

 その言葉を伝えると、蜜浦は小さく笑って片手を挙げた。『ありがとう』と言うように。

 そうして彼が去った後で、柴波はテーブルの上に残された2枚の映画のチケットに目を落とした。

 

 

◇ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 芝を踏み込み、前へ前へと駆け続ける。その度に景色は移り、風は吹き、鼓動は高まる。

 この感覚は、どれだけ時間が経っても色褪せることはない。飽きもしない。でなければ、サイレンススズカはとうの昔に走るのを止めていただろう。

 

「うん、いい感じだ。タイムも縮んできてる」

 

 サイレンススズカが足を止めると、柴波が歩み寄ってくる。手の中のストップウォッチはその言葉通り、先ほどよりも速いタイムを刻んでいた。

 

「だんだん感覚を取り戻せてる感じはする?」

「はい。昨日の模擬レースや、トレーニングと比べると」

 

 呼吸を整えつつ答える。

 フジキセキとの模擬レースで、確かに自分は勝利した。最初から逃げの姿勢を崩さずに、一度も抜かれることなく勝利を収めることはできた。

 だが、サイレンススズカ自身の評価としては、まだ自分の実力を発揮しきれなかったと言える。先頭の景色を堪能し、風や空気を感じることはできたが、まだ全盛の力を出し切れたような感覚はなかったのだ。

 

「でも、この調子でいけばターコイズステークスやURAファイナルズまでには調整が間に合いそうだ」

「はい」

 

 既に12月に突入し、来週にはターコイズステークス。来月後半にはURAファイナルズも開催される。予選、準決勝、決勝の3回で構成され、参加するのは実力者ばかりだ(基本どのレースもそうだが)。これまでの実績とファンの応援を一身に背負って参加するレースには、一切の手加減も慢心も許されない。

 サイレンススズカにとっては、レースのグレードやどこで開かれるかと言うのはさほど重要ではない。しかし、自分に対して期待している人がいるというのであれば、それには応えるつもりである。無論、そこには自分のトレーナーの柴波も含まれているのだが。

 

「あ、そうだ。このあとちょっと渡したいものがあるから、ちょっと時間をくれる?」

「?わかりました」

 

 渡したいもの、とは何だろうか。

 気になったが、サイレンススズカは日没まで走り込みを続けた。その後クールダウンをし、また走りたくなる気持ちを押さえてトレーナー室へ戻る。呼び出されているうえ、ドクターストップが解除された日や、弁当を作るために早起きした日など、何度もトレーニング内容を変更して走り込みをさせてもらっている身だ。あまり走ることばかりに集中していると本当に迷惑になりかねない。

 

「戻りました」

「お帰り」

「それで、渡したいものとは…?」

 

 トレーナー室に戻ると、柴波が報告書を書いているところだった。柴波は、パソコンから視線を上げると、懐から何かを取り出す。

 

「実は今日、同期のトレーナーからこんなものを貰ってな」

 

 差し出されたのは映画の引換チケットだった。

 

「スズカの脚が治ったことのお祝いだとさ」

「私に…?」

「ああ。良ければ仲のいい友達と行ってくるといい」

 

 受け取ったサイレンススズカは、柴波の言葉を受けて誰と行こうか考える。

 

 ―――次のお休みの日、身近な方とお出かけを!さすれば、ハッピーな出来事に恵まれるでしょう!

 

 先ほどのマチカネフクキタルの占いの結果が頭を過ぎる。当たるも八卦当たらぬも八卦と言うが、ここは彼女の占いの結果を信じて、身近な人と出かけようと思う。

 まず第一に思い付いたのは、同室のスペシャルウィーク。彼女の性格からして、きっと喜ぶだろう。次の候補はエアグルーヴ。この間弁当作りを手伝ってもらった恩もあるし、彼女も映画はそこそこ観るらしいので損とはならないだろう。ほかにも実際に占ってくれたマチカネフクキタルやタイキシャトル等、同期の顔が頭に浮かぶが、それでもサイレンススズカは。

 

「…トレーナーさん」

「?」

「私、トレーナーさんと映画を観に行きたいです」

「俺?」

 

 意表を突かれたように、柴波の目が見開かれる。

 柴波の同僚が、サイレンススズカの完治祝いとして渡してくれたのであれば、それは柴波と使いたい。何故なら、こうして自分がまた今までのように走ることができるようになったのは、自分の努力だけでなく柴波のサポートもあってのことだと思ったからだ。

 

「…本当にいいの?」

「はい」

 

 柴波は逡巡したように視線を巡らせてから聞き返してくる。

 だが、サイレンススズカの意思は揺るがない。

 自分の顔は見えないが、柴波が観念したように息を吐いたのを見るあたり、どうやら自分の顔は相当厳しいものだったようだ。

 

「…分かった。それじゃ、いつ行く?」

「では、次の日曜あたりにでも」

 

 行くのがすぐ決まれば、予定が決まるのも早かった。

 

 

◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 最寄りの映画館は隣町にあるので、待ち合わせはその映画館の近くの駅ということになった。

 日曜日の電車に揺られる柴波は、朝からやけに気分が落ち着かないでいた。サイレンススズカと出かけること自体は初めてではないので、今更身構えることはない。にもかかわらず妙にむずむずしているのはなぜか。その答えは熟考するまでもなかった。

 

(蜜浦のやつめ…)

 

 思うのは、交換チケットを渡してきた蜜浦トレーナーのこと。彼が渡してきたのも、担当ウマ娘と関係が進むのを恐れていたからであり、建前はサイレンススズカの復帰祝いということだったが、半ば逃げみたいなものだ。

 そんな背景に加え、意外なことにサイレンススズカから映画を柴波と観たいと言われたから、今こうしてサイレンススズカと出かけることに関して気が揉めてしまう。自分たちがかなり進んだ関係になるのではないかと、勘ぐってしまう。実際には、お互いにそんな関係ではないのに、交換チケットを渡してきた相手が相手なだけに変な想像が思考に滑り込んできてしまう。

 

(冷静になれ、冷静に…)

 

 駅に着くと、柴波は頭を振りながら電車を降りる。自分たちには疚しいことなど何もないのだ。それなのに動揺するなどバカバカしい。

 さて、映画館の最寄りの駅に着いたわけだが、プラットホームが地下にあるので改札のある地上階まで上っていかなければならない。トレセン学園でウマ娘のトレーニングに付き合っていると自然に体力がつくという話はよく聞くが、それでも長い階段を上るのは苦労する。かといってすぐにエスカレーターに頼るのも何だったので、階段を地道に上ることにした。

 

「あっ、トレーナーさん」

 

 そして階段を上がり、改札を出た先でサイレンススズカは待っていた。

 装いは白のニットに紺のデニム、そしてベージュのキャスケット帽。夏や秋とは趣が若干違い、温かさをキープできるような服装だ。年の瀬が迫り寒くなった今、如何に走るのが好きなサイレンススズカと言えども冬の寒さには勝てないらしい。

 

「ごめん、待たせたかな」

「いいえ、ついさっき来たところです」

 

 いくら気心知れた仲とはいえ、寒い中待たせてしまったのは申し訳ない。急いで駆け寄るが、サイレンススズカは気にしていない様子だ。しかし、そんな彼女の額に若干汗が浮かんでいるのに気づく。

 

「…スズカ、寮から走ってきた?」

「…はい」

 

 訊くと、気恥ずかしそうにサイレンススズカは頷く。ここからトレセン学園までは、ちょうど2~3駅分の距離がある。その程度の距離であれば、ウマ娘なら走った方が速いと言う人も多い。しかもサイレンススズカは走るのが好きだからこそ、その程度の距離は走ろうという結論に至ったのだろう。

 

「何か、ごめんなさい…」

「いや、いいよ。怪我とかしなかったのなら何よりだ」

 

 ウマ娘は身体が資本だ。怪我をしたり変な事件に巻き込まれたりしなければそれで十分。柴波はサイレンススズカの肩をぽんぽんと叩き、映画館へと向かうことにする。

 映画館は商業施設の1~2フロアを占めたもので、そこまでの道は店舗が軒を連ねるプロムナードになっていた。今日の天候は曇りと少々心許ないが、休日なのでやはり人はそれなりにいる。

 

「スズカ、今更聞くのもなんだけど…」

「?」

「映画、どうして俺と観に行きたいって思ったんだ?」

 

 映画館までの道すがらに訊ねる。本当ならそれは提案されたタイミングで訊くべきだったが、誘われたのが意外過ぎて聞くのを忘れてしまったのだ。

 サイレンススズカは、視線を道のわきにある店舗に向ける。クリスマスが近いのもあってか、ショーウィンドウにはリースが飾られていた。

 

「私の脚が治ったのは、トレーナーさんのサポートあってのことだと思ったので…。完治祝いというのであれば、トレーナーさんも一緒の方がいいと思ったんです」

「…そっか」

「それにトレーナーさん、最近は忙しそうでしたから」

 

 そう言われて、確かにここ最近は残業や家に仕事を持ち帰ることが多いと感じる。それもまた仕方のないことだと思ったが、サイレンススズカは気を遣ってくれたのだ。

 以前は人の考えや心を推察したり、気を遣ったりするのが苦手だったはずなのに、今となってはそれもかなり改善されている。その事実に、担当トレーナーとして嬉しい気持ちでいっぱいだ。

 

「…気遣ってくれてすごく嬉しい」

 

 柴波が告げると、サイレンススズカは小さく頷いた。

 そして、そうこうしているうちに映画館へとたどり着く。案の定ここも混んでいたが、ここまで来て別の場所へ行くわけにもいかない。

 

「さて…スズカは何か観たいのある?」

 

 上映中の映画のポスターを見比べながら訊く。サイレンススズカの希望を第一に、ということを念頭に置いていたので、最初からこれを見ようとは決めていない。

 今のところ上映されているのは、時代劇もの、昔の洋画のリメイク、青春系、アニメ映画等々ジャンルは豊富にある。今まで走ることしか知らなかったサイレンススズカの琴線に触れるのはどれか、というのは少し楽しみだった。

 

「これが…気になります…」

「じゃあそれにしようか」

 

 そう言ってサイレンススズカが指さしたのは、青春系と思しき映画のポスター。真っ直ぐに伸びるターフ、その先にたたずむウマ娘。なるほど、どうやらウマ娘或いはレースを題材にした作品らしい。同じウマ娘としてか、あるいはポスターに惹かれてだろうか。

 柴波は、サイレンススズカの希望に頷いた。

 

「トレーナーさんは、どれが観たいとかはないんですか?」

「あぁ、今日はスズカの観たいのに合わせるつもりだったし」

「でも、もし面白くなかったりしたら…」

「それも一つの思い出になる」

 

 サイレンススズカも映画の内容は知らないらしい。

 ちらっと、客席の空き状況を確かめる。過半数は埋まっているようで、それなりに人気もある様子。全くの駄作という感じでもないだろう。それに、たとえ観た映画が面白くなかったとしても、それはそれで教訓の一つになる。

 

「では、これにします」

「よし、分かった」

 

 サイレンススズカの意思が固まり、観る映画が決まる。交換チケットを鑑賞券に引き換えて、座席を選ぶ。幸いにも、すぐ上映する回の席が取れたので、座席は隣同士で空いていた後方にし、にんじんジュースも買っておく。

 柴波も映画館で映画を観るのが割と好きだし、ここ最近は来る機会も少なかったので、この空間に足を踏み入れることに内心ワクワクしているところだ。何故か女性客やカップルが多いような気もするが、まずは映画を楽しむことにしよう。

 

 

◇ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◇

 

 

 映画は面白かった。

 大雑把な話の流れは、生まれつき泣き虫で虚弱体質のウマ娘が、素質を見出したトレーナーとともにトレーニングに励み、最後には世界の強豪が集うジャパンカップで優勝するというもの。

 サイレンススズカは、この手の娯楽的なものの関心が薄いため、ジャンルはいわゆるスポ根だろうと何となく思っていた。

 だが、映画の中で描かれるトレーニングの様子やレースの緊張感、競争ウマ娘の世界の厳しさは、トゥインクルシリーズに身を置くサイレンススズカから見ても再現度が高いと思った。スタッフクレジットに『協力:日本ウマ娘トレーニングセンター学園』とあったのも、その所以の一つだろう。

 総じて、トレーニングやレースの描き方()()()()()再現度が非常に高く、面白みがあった。

 

「……」

 

 しかし、映画館を出て、洋食屋でオムレツをつつく柴波の表情はあまり良くない。

 サイレンススズカは、一旦トマトスパゲティを食べる手を止めて、事情を聴くことにした。

 

「あの…大丈夫ですか?映画館を出てから、具合が悪そうですけど…」

「いや、平気…具合の方は大丈夫だよ」

 

 言いながらアイスコーヒーを飲む柴波。

 しかし、そうなってしまう理由はサイレンススズカも分かっていた。

 

「やっぱり、映画のあのシーンですよね…」

「…バレてるか」

「それは、まぁ…」

 

 おずおずと告げると、柴波も苦笑する。

 あの映画、単純なスポ根ものではなく、トレーナーとウマ娘の恋愛要素も絡めていた。それこそ、普通の付き合っている男女がするような、キスシーンまで。流石にベッドに行くシーンはなかったが、それでも十分に破壊力があり、劇場内でもほかの人たちが息を呑んでいたようだった。ああいうところが、カップルや女性客に好まれる要素なのだろう。

 ところが、ここにいる2人はウマ娘と現職のトレーナー。おまけに、片方は実際に担当ウマ娘に恋しているトレーナーの相談を受けた身。動揺するなという方が無理だった。

 

「…まさか、あんなシーンがあったとは」

「で、でもあれは映画ですから…」

「まさに映画みたいなことが現実で起きかけてるんだけどな…」

 

 柴波の口から吐き出された重々しい溜息がオムレツにかかる。サイレンススズカのフォローも空振りに終わってしまう。

 先ほどの映画の中でのそういうシーンは、それこそ『映画』だからまだ許されるのだ。しかし、柴波の同期はあんな感じの関係に片足を突っ込みかけている。気に病むのも仕方がないと言えば仕方がない。事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ。

 だが、そこで慌てたように柴波が顔を上げる。

 

「…って、ごめん。せっかくの休みの日にスズカが誘ってくれたのに、俺がこんなで」

「いいえ、トレーナーさんの悩みは尤もですから…」

 

 謝る柴波だが、その必要はこれっぽちもないと思う。

 とにかく、何とか落ち込んでしまった柴波には元気になってほしい。せっかくの休日に2人で出かけているのだから、せめて楽しんでほしい。自分が普通の休日の過ごし方を熟知しているとは言えないが、少なくとも自分といる時は笑っていてほしい。

 柴波の落ち込む様子は、見たくない。

 

「ええと、この後はお買い物でもしませんか?私も色々見てみたいので…」

「うん…そうしようか」

 

 この気まずい空気を区切るために提案すると、柴波は頷いてくれた。しかし、気を取り直せたものの、まだ少し元気がない様子だが。

 マチカネフクキタルには申し訳ないが、占いは外れたようだ。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇

 

 

 洋食屋を出た後は、来る途中で通ったアーケード街へと戻る。映画館のある商業施設にも店舗は割とそろっていたが、空気に当たった方が、気分もすっきりするだろうと思ってのことだ。

 先ほどまで空に広がっていた雲は晴れ、冬にはありがたい日差しが降り注いでいる。休日と天気が回復したことで、人手が午前よりも増えている気がする。サイレンススズカにとっては少しハードルがやや高めだ。それでも、落ち込んでいる柴波を励ますためには、この程度のことで尻込みしていられない。

 

「スズカは何か見たいものが?」

「ええと、新しいアロマオイルが欲しいなぁ、って」

「使ってくれてるんだ?」

「はい。トレーナーさんからの大切な贈り物ですし」

 

 アーケード街に並ぶ店舗は、どれもお洒落な雰囲気のする店ばかりだ。ファストフード店一つとっても景観を崩さないスマートなデザインだし、ファッションやコスメでも同じ系列の店舗が複数軒を連ねている。どちらかといえば女性向けの店舗が多い気もした。

 その中で、以前柴波と訪れたのと同じブランドのリラックス用品店を見つけて、そこへ入る。店の広さはそこそこだが、品ぞろえの良さに変わりはない。

 

「トレーナーさんの言った通り、アロマの香りを嗅ぐと落ち着いた気持になるんです。スぺちゃんも、いい香りって喜んでますし」

「そっか。力になれているのならよかった」

「たとえるなら、山を登っていて周りの木々を見上げた時のような…」

 

 アロマオイルのコーナーに向かい、色々と種類を見てみる。柑橘系、ハーブ系、南国風のものからスパイス系なんてものまで揃っていた。こうなると、また以前と同じアロマを買うのが少しもったいないような気もしてくる。

 すると、サイレンススズカの隣で柴波も商品棚を眺め始める。

 

「俺の部屋にも置こうかな…?」

「トレーナーさんは持ってないんですか?」

「まぁ、ね。元々そういうリラックス効果があるってのは知ってたけど、男が自分のために買うってのも少しな」

 

 自嘲気味な柴波を見て、サイレンススズカはふむと考える。

 

「トレーナーさん。よろしければ、私がトレーナーさんのアロマを選んでもよろしいですか?」

「え、いいよそんな…悪いし」

「でも、トレーナーさんがいつも私のために頑張ってくれているのは分かってますから。トレーナーさんもリラックスできるように…」

 

 言いながら、さっそくどのアロマを贈るかを考える。近くには、どのアロマにどんな効果があるのかをまとめたパネルがあったので、それを参考に調べることにした。集中力を上げたり、心身のバランスを整えたりと、なかなか興味深い。

 その時、サイレンススズカの思考がほんの少し横に逸れる。

 この間の弁当と言い、今回のアロマと言い、誰かに対してこうも真剣に考えて物を贈るのは初めてな気がする。それは柴波に対して、今までの感謝の念を抱いているからなのはもう分かっている。

 だが、本当にそこにあるのは感謝や尊敬の念だけなのだろうか。そこが頭の中で引っかかっている。

 横を見ると、柴波は柴波でアロマを眺めていた。その様子は、先ほどと比べて大分持ち直しているように見える。

 視線に気づいたのか、柴波がサイレンススズカを見る。

 

「どうかした?」

「…いえ、トレーナーさんはどういうのが好きかなって」

「んー…スパイス系はちょっと嫌いかな。それ以外で、スズカが選んでくれたものならどれでもいいよ」

 

 そして、優しくて、楽しそうな笑みをサイレンススズカに向けた。

 

「俺のことを考えてスズカが贈ってくれるものなら、何でも嬉しいし」

 

 柴波の言葉に、心を掴まれたような感覚を覚えた。

 サイレンススズカは陳列棚に視線を戻す。

 柴波の言葉に随分と顔が熱くなってきたが、それでも自分の分と柴波の分を真剣に考えて、レジで会計を済ませる。

 

「どうぞ」

 

 買い終えたアロマを柴波に渡す。選んだのは、リラックス効果と安眠効果のあるカモミールだ。自分のトレーニングなどの計画を練るのに日ごろから苦心し、度々寝不足になりがちなのをサイレンススズカは知っている。なので少しでも、それらが軽減できるようにと願ってこれを買った。

 さらに、クリスマス間近ということで、キャンペーンで特別なデザインの紙袋に入れてもらった。これで名実ともにプレゼントになるだろう。

 柴波は、サイレンススズカにお礼を告げてくれた。

 

「ありがとう、使わせてもらうよ。トレーナーなのにここまでしてもらうのは何か申し訳ないんだけど…」

「トレーナーさんだからですよ。いつも私のために頑張ってくれていますし…」

 

 アロマの詰まった紙袋を抱える力がほんの少し強くなる。

 

「…私のために頑張ってるトレーナーさんを、少しでも労ってあげたいと思うのは…ダメですか?」

 

 顔色を伺いながら、聞いてみる。

 柴波は、視線を横に逸らしながら答えた。

 

「…ダメじゃない、です」

 

 どういうわけか敬語になってしまっていたが、サイレンススズカはそれが可笑しくてつい吹き出してしまった。

 先ほどの映画の後で感じた気まずさはもうない。代わりに、それ以上の優しくて暖かい気持ちがサイレンススズカの心を満たしている。

 その気持ちが『幸せ』だと気づくと、やはりマチカネフクキタルの占いは当たっていたようだと思った。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◇

 

 

 アロマオイルをプレゼントしてもらった後は、適当にウィンドウショッピングを続ける。レース用品店に立ち寄って新しいシューズをサイレンススズカに試してもらったり、洋菓子店でケーキを食べたりと、しばしの間楽しい時間を過ごす。

 柴波は、もう先ほどの映画で抱いた気まずさや心苦しさは感じていない。サイレンススズカが自分を労わるためにアロマオイルを贈ってくれてから、心が軽くなった気分だ。個人的な感情のせいで情けない姿を見せてしまったのは恥ずかしいが。

 それに何より、サイレンススズカが自分のことをしっかりと考えてくれていること自体が嬉しいのだ。サイレンススズカのために頑張っていたことを認めてほしいわけではないが、それをサイレンススズカがちゃんと見て、そのうえで気遣ってくれるというのはとても喜ばしいことだから。

 そうして一緒に買い物を進めていると、アーケード街にある時計が17時を知らせる鐘が鳴った。

 

「そろそろ帰ろうか」

「はい」

 

 アーケード街での買い物は順調に進めることができた。アロマオイルはもちろん、新しいシューズも見ることができた―――要検討のため買ってはいないが―――しかし、他にも色々と見て回って楽しい時間を過ごせたことこそが一番価値がある。

 

「俺は電車で帰るけど、スズカは?」

 

 今朝待ち合わせをしていた駅まで戻ってから、確認する。

 と言っても、行きを走ってきたサイレンススズカのことだから、帰りもまた走るだろうとは予想している。例えルートが同じでも、時間帯が変われば見える景色も変わり、それらを見るのが楽しいと以前サイレンススズカが語っていたから。

 

「帰りは…私も電車で帰ります」

 

 しかし意外にも、サイレンススズカはそうしなかった。

 その答えに柴波は驚くが、真っ先に脚の不調を感じ取る。

 

「もしかして…また脚が痛んできたとか…?」

「あ、いえ…そうではなくて。脚は問題ありません」

「だったら、なんで…」

 

 心配で訊くと、サイレンススズカは慌てて手を振る。

 あれだけ走ることが好きで、今朝もそうしていたのに、そうしないのはなぜか。改めて問い直すと、照れるように視線を斜め下に移した。

 

「…トレーナーさんと一緒に帰りたいから、です」

 

 窺うように視線を上げてきて、胸が打たれたような気分になった。

 しかしそれは、決して不快なわけではない。

 

「…そういう、ことなら。うん、いいけど」

「ありがとうございます」

 

 断る理由が無かったので頷くと、安心したようにサイレンススズカは小さく笑った。

 その笑顔に、柴波は先ほどアロマオイルをプレゼントしてもらった時のことを思い出す。

 

 ―――私のために頑張ってるトレーナーさんを、少しでも労ってあげたいと思うのは…ダメですか?

 

 あの時も、柴波は同じようにサイレンススズカの言葉を受け、顔が熱くなった。

 言うなればそれは、ときめいた、というものだろう。

 

(いや。いやいやいや…)

 

 だが、必死に頭の中でそれを否定する。

 トレーナーが担当のウマ娘にときめくとは、どういうことだ。今までこんなことはなかったというのに。いや、弁当を作ってもらった時も同じような感じになった気がする。だが、ここまで自分の心が揺れたのは初めてだ。

 改札を通り、階段を並んで降りるサイレンススズカを見る。彼女もまた、心なしか頬がわずかに赤くなっているように見える。それは決して、駅の中の空気が冷えているからではないのだろう。だとすれば、原因は何だろうか。

 その時、地下のホームを電車が通過したからか、下方から少し強い風が吹いた。その拍子に、サイレンススズカが被っていたキャスケット帽が宙を舞い、階段の上の方に飛んでしまう。

 

「おっと」

 

 柴波は直前までの思考を切り捨て、反射的に帽子を掴む。

 

「大丈夫?」

 

 キャスケット帽を返そうとサイレンススズカを見ると、弱まった風に彼女の栗毛が靡き、僅かに潤んだ瞳が柴波の姿を捉えて離さないでいる。

 

(…まずい)

 

 サイレンススズカはお礼を言って帽子を被り直し、再び下へと向かう。

 だが、柴波は横にいるサイレンススズカの存在を今まで以上に強く認識し、先ほど切り捨てたはずの考えが再度頭の中に浮かんでいる。

 サイレンススズカを、改めて異性として認識しだしてしまっていた。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◆

 

 

 天候は晴れ、バ場は『稍重』。復帰戦としては少々不安な状態で、ターコイズステークスの日を迎えた。

 サイレンススズカは、ファンファーレの音を聞きながらゲートに入る。周りには10人近いウマ娘がいて、そのほとんどが自分に注目しているのを感じた。

 それは、自分の脚が完治して初めてのレースだからだろう。その走りがどれほどのものかと、判断が付かなないのだ。

 しかしながら、サイレンススズカは迷わない。この日までに調整は終え、ランニングのタイムも静養前と同じかそれよりもさらに縮まっている。トレーニングは怠っていないので身体面で問題はない。

 そして、思い浮かべるのは先日柴波と映画を観に行った日のことだ。

 勇気を出して柴波を誘い、そしてプレゼントを贈ったあの日は、色々な意味で忘れられない1日だ。その中でも、柴波から受け取った言葉と笑顔が、サイレンススズカの心を落ち着かせてくれている。

 彼の姿を、言葉を、笑みを思い浮かべると、自分の中に力が満ちるかのようだ。

 

(…今まで支えてくれたトレーナーさんのためにも、このレースは…)

 

 最後の1人がゲートに収まる。

 それから少しして、ゲートが開いた。

 

 

 秋の天皇賞でのサイレンススズカの走りは、誰もが感動を覚えたものだった。途中でペースが落ちたにもかかわらず持ち直し、最終的に1着をもぎ取ったのは揺るがない事実だ。

 しかしながら、迎えたターコイズステークスで、サイレンススズカは最終的に3番人気に落ち着いた。

 理由は分かっている。サイレンススズカが脚に不調を抱き、1ヶ月以上もの間レースに出ず、その半分以上は走りもしなかったのだから、誰もがその脚は衰えていると思っていた。これまでのようなキレのある逃げを見せることはないだろうと、半ば諦めに近い評価だ。

 

『第2コーナーを回って下り坂。先頭は依然サイレンススズカ、後方4番オボロイブニングとの差は3バ身。その横8番アニマアニムス』

 

 サイレンススズカは、出遅れることなくゲートが開くや否や先頭に飛び出し、半分の800mを過ぎるまで先頭をキープしている。そこまでのリードや走りは、今までのレースと変わりはない。

 問題は、第3コーナーに差し掛かってからだ。レースでは大体この辺りで先行・差し脚質のウマ娘が増速し始める。特にこの中山レース場は最後の直線が短いうえ、1600メートルレースでは大外回りのコースで第3コーナーと第4コーナーがほぼひとつながりになっている。気が付けばあっという間に最終直線に入るレースを、柴波は静かに見守る。観客たちもまた、落ち着いて動向を見守っていた。

 

『まもなく第3コーナーから第4コーナー、最後の直線に入る。先頭サイレンススズカがやはり抜きんでている。差は5バ身半まで広がった、4番オボロイブニング巻き直せるか。後方から様子を窺う3番リーフリーフ差し返せるか。さぁ最後の直線入った!中山の直線は短い!』

 

 実況に熱がこもり始める。

 サイレンススズカの脚は、まったく衰えていない。それどころか、むしろ速度が上がっている。最後の直線でブーストがかかったわけではなく、基の速度が上がっているのだ。今までのどのレースよりもいいペースで走っているのは柴波も見て取れたし、観客たちもそれに気づいたのか徐々に盛り上がり始める。

 

『サイレンススズカが先頭を譲らない!最後の上り勾配でもなお速度は落ちない!オボロイブニングとリーフリーフが熾烈な争いにもつれ込んだ!サイレンススズカとの差は6バ身!』

 

 やがてウマ娘たちがゴール板を通り過ぎる。

 

『決まった!サイレンススズカだ!あのサイレンススズカが、レースに戻ってきた!!』

 

 サイレンススズカは、2着のオボロイブニングに6バ身半の差をつけて1着に輝いた。歓声が最高潮に達し、それを一身に受けているサイレンススズカは、肩で息をしながらもスタンドに向けて手を振っている。

 

「いやぁ、やっぱりいいねぇ。彼女の走り」

 

 柴波の横でレースを見ていたフジキセキが、満足げに頷いている。

 彼女の存在に気付いたのは、ファンファーレが鳴った直後だ。本当にただの友人のように『どうも』と肩を叩いて微笑んできた。男の自分から見ても、末恐ろしいウマ娘だと思う。

 そんな彼女は、サイレンススズカの走りを見て満足げだ。実際に模擬レースで共に走り間近で見ていたからこそ、その走りの魅力を再認識できるのだろう。

 

「帰ってきた、か。それだけ皆、彼女の再起を待ち望んでいたんだろうね」

 

 実況の言葉を借りるフジキセキ。世間から見れば、秋の天皇賞後に当面の間静養すると発表して以来、何の音沙汰もなかったのだ。ファンも待ち望んでいたようだし、そう表現するのも無理はないのかもしれない。

 

「…そうみたいだ」

「何だい?その他人事みたいな返事は」

 

 苦笑しながらフジキセキが肘で付いてくるが、柴波はサイレンススズカから視線を逸らさない。

 惰性で走りながらトラックを引き返し、ターフビジョンの前で手を振る彼女は、微笑んでいた。

 その微笑みを見てトレーナーは、安堵の息を吐くと同時、確信する。

 彼女なら、URAファイナルズで優勝することができると。

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