異体同心   作:プロッター

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第8話:日に異に

 最近、自分がおかしくなっている気がする。

 身体が常にどこかしら痛いとか、手足が動かないとか、肉体面に不具合はない。むしろ異常なのは精神面で、日夜心が誰かの手に掴まれているようで、それでいて痛みなどは感じず、変な感覚に苛まれている。

 トレーナーになってから、あらゆることに対して不安になったり、自虐的になって寝不足になったりすることはいくらでもあった。だが、こんな風に不安や恐怖を伴わない心の変化は初めて経験する。

 そして、その原因について探ろうとすると、必ずと言っていいほどある人物の姿が思い浮かんでくる。

 

「走り込み、終わりました」

「…あぁ、お疲れ様」

 

 ざくざくと雪を踏む足音とともに、サイレンススズカが歩み寄る。息を整える彼女に、柴波はスポーツドリンクを渡した。しかし、サイレンススズカはそれを受け取りつつも、柴波に不安そうな目を向けている。

 

「トレーナーさん、考え事ですか?」

「え?まあ、そんなところ」

 

 お茶を濁しつつ、計測したタイムを記録用紙に書き込んでいく。

 復帰戦のターコイズステークスで勝利してから、サイレンススズカも本来の走りを取り戻しつつある。URAファイナルズ予選までの時間はもう1か月もないが、この調子で行けば結果を残せるに違いない。

 

「そろそろ時間だし引き上げようか」

「分かりました」

 

 時計を見ると、17時を回ろうとしている。この時期になると日が沈むのも早くなり、既に周囲は薄暗くなっている。サイレンススズカが夜走るのも好きなのは知っているが、注意しなければならない理由もあった。

 

「やっぱり雪道を走る機会はそうないから、楽しかった?」

「ええ。真っ白な雪を見て走るのも、芝とは違う感触の踏み心地も、とても気持ちいいです」

 

 嬉々として語るサイレンススズカ。

 昨日の夕方頃から首都圏でも雪が降り始め、今朝になって積雪は10センチほどと中々に積もり、1日経ってもほとんど融けていない。朝のニュースでも、記録的な積雪と報じられていた。

 本来であれば、今週いっぱいは学園のプールでスタミナをつけるトレーニングをする予定だった。しかし、トレーナー室へやってきたサイレンススズカがご機嫌な様子で尻尾を振り、『今すぐにでも走りたい』と雄弁に語る目を見て、トレーニングをランニングに変更した次第だ。

 

「本当ならもう少し走っていたかったんですけれど…」

「暗くなると雪で足元を取られるかもしれないから、残念だけど…」

 

 この地域にここまで雪が積もり、そこを走るなどサイレンススズカにとってはまたとない機会だ。もっともっとと走ることを希望するのは柴波も予想できたが、ここは安全についての心配が勝った。怪我に繋がる可能性も捨てられないので、悪いが我慢してもらうことにする。

 サイレンススズカはシュンと元気をなくすが、柴波はその様子に良心が痛んだ。

 

「…今週いっぱい雪は融けなさそうだし、今週はもうランニングトレーニングにしようか」

「!」

 

 先ほどと打って変わって、サイレンススズカの表情が輝きを取り戻す。これでまたトレーニングのスケジュールを組みなおす羽目になったのだが、冬休み明けのランニングトレーニングをプールトレーニングに変えればいいだけだ。そこまで大した苦労ではない。

 何より、サイレンススズカがこうして嬉しそうな表情を浮かべているのを見れば、その程度の苦労などないも同然だ。自分は大分サイレンススズカに甘くなっている自覚はある。

 

(……)

 

 そこでまた、柴波の中の違和感が主張を始める。

 これこそが自分がおかしいと思う要素の1つ、というより最早原因だ。

 自分の中で得体のしれない異変について分析すると、決まってサイレンススズカの姿が浮かび上がってくる。自分がこうなったのはいつからか、その時何があったのか、それを突き詰めていくとやはり彼女に行き当たるのだ。特に、先日一緒に映画を観に行って、そのあと買い物をして以来、サイレンススズカを意識することが増えている。

 今朝もそうだった。起床して、カーテンを開けてから雪の積もった外を見て。

 

 ―――スズカはもう走りに行ったんだろうな

 

 真っ先にそう考えた。実際、サイレンススズカは確かに朝一番にランニングに出かけており、走ることが好きなサイレンススズカなのだからそう思うのは自然な流れともいえる。自分は担当トレーナーなのだから、そう思うことも責められないはずだった。

 それでもやはり、意識することが増えている気がする。

 しかもその度に、自分の心の中がやけに温かくなってしまう。

 

「あ、そうだトレーナーさん」

「?」

 

 トレーナー室に戻り、トレーニングスケジュールを組みなおそうとしたところで、サイレンススズカに呼び止められた。振り返ると、サイレンススズカは机の上に置いてあった紙袋を手にしていた。今日トレーナー室に来た時から気になっていたそれは、ちょっとしたアクセントのリボンも付いている。

 しかし、今日が何の日かを考えると、それはすぐに分かった。

 

「クリスマスですし、その…日頃のお礼と併せてプレゼントを」

 

 やはり、そういうものだった。絶対にもらえると思っていたわけではないが、こうしてプレゼントを贈ってくれるのは嬉しい。差し出された紙袋を、柴内は受け取った。

 

「ありがとう。それじゃあ俺からも…」

 

 しかし、考えることは同じだったらしい。

 柴波もまた、自分の鞄からラッピングされた袋を取り出してサイレンススズカに手渡す。サイズは自分が受け取ったものより小さいが、プレゼントのチョイスに関してはそこそこ自信がある。サイレンススズカは、まさか柴波からもらえるとは思っていなかったのか、少しだけ意外そうな表情を浮かべつつも袋を受け取る。

 

「ありがとうございます。これって、中身は…」

「手袋。ランニング用にいいと思って」

 

 サイレンススズカが袋の中身を取り出すと、中から出てきたのはアスリート用の手袋だ。肌触りのよさや吸汗性を重視し、あまり蒸れにくい代物らしい。サイレンススズカはこの時期も走ることを止めないが、やはり冬の寒さは堪えるだろうから、そういえば持っていなかったと気付いて贈った次第だ。

 手袋を見て、サイレンススズカは柴波に微笑んだ。

 

「ありがとうございます。大切にしますね」

 

 その反応を見て、柴波は選択は間違っていなかったと思い、嬉しくなる。

 しかしやはり、そのサイレンススズカの微笑みを見ると、心臓がとくんと強く跳ね、心が温かくなってしまった。

 

 

◆ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 12月のGⅠレースで一際注目度が高いのは、中山レース場で開催される有マ記念だ。他にもホープフルステークスや阪神レース場の2週連続GⅠマイルレース等はあるが、この有マ記念は唯一の長距離レースで、クラシック級とシニア級の二世代が戦う場でもある。クラシック三冠レースや、春・秋シニア三冠レースといった激戦の末に参戦するレースなのもあり、毎年多くの観客も訪れる。

 その観客の中に、サイレンススズカと柴波もいた。

 

『最初のスタンド正面直線から第1コーナー、先頭は5番エクセレンシー、その後ろに6番エルコンドルパサー。内側からは11番シャバランケ、その横7番スペシャルウィーク…』

 

 中山レース場の2500メートルレースは、外回りコースの第3コーナー手前からスタートし、それから内回りのコースを1周して再び正面に戻ってくる。2度もスタンド正面の直線を通るのは、ファンからしてみれば圧巻だろう。事実、ウマ娘達がその直線を通ると観客たちが歓声を上げ、カメラのシャッター音があちこちから聞こえる。

 さて、今回の有マ記念で、実に4人ものサイレンススズカの友人・知人が参戦する。同期にして友人のマチカネフクキタル、同室で後輩のスペシャルウィーク、同じく後輩で自分をライバル視するエルコンドルパサー、グラスワンダーだ。

 サイレンススズカは、特定の誰かを応援しているわけではなく、全員の健闘を祈っている。誰もが実力を着実につけてきている粒ぞろいなので、誰が勝ってもおかしくはない。柴波も同じようで、レースの様子を静かに眺めている。

 そんな彼は、この間のクリスマスでプレゼントしたマフラーを巻いていた。

 マフラーを贈ったのは、この時期に自分のトレーニングに付き合ってくれている際、少し寒そうにしていることがあったからだ。それ以外にも、防寒具の類はコート以外持っているようには見えなかったので、それを選んだ。さすがに手編みというわけにはいかず市販のものだが、それでも柴波は十分に喜んでくれていた。それに、今日もまた着けてきてくれているのは気に入っているからでもあるのだろう。

 

(よかった…)

 

 柴波に何かを贈るのは、弁当、アロマオイルに続いて3つ目だが、今回は誰かに相談したりすることもなく、迷ったりもせず贈ろうと決めたものだ。それだけ自分も、人付き合いで成長できているということだろう。

 

 ―――今度の有マ記念、一緒に見に行こうか?

 

 今日のレース観戦を誘ってくれたのは柴波の方だ。その前からサイレンススズカは観に行く予定だったが、1人で行くのが2人になっただけで特に支障はない。それどころか、柴波と一緒に行けるのであればそれはそれで嬉しいのだから。

 

(……)

 

 今、無意識にサイレンススズカは、柴波と共に出かけることを『嬉しい』と感じていた。

 親しい誰かと一緒に出掛けることを、サイレンススズカは不快と思ったことはない。後輩のスペシャルウィークや、友人のエアグルーヴやマチカネフクキタルと出かけるのは楽しいし、柴波との外出もそうだった。

 だが、柴波と出かけることに関しては、他の面々と出かけるのとはまた違う、嬉しい・楽しいという気持ちがより強く感じる気がした。

 

『第3コーナーから第4コーナーへ差し掛かる。6番スペシャルウィークと7番エルコンドルパサーが前方で競り合う、後方からは1番マチカネフクキタルが早めに仕掛け始めた。さらに後方2番グラスワンダーはじっくり様子を伺っている。第4コーナーに差し掛かる!』

 

 熱が籠り始めた実況と、盛り上がりだした歓声に、サイレンススズカの思考が引き戻される。

 いくら自分が出走していないとはいえ、レースの最中に全く別のことを考えていたことはなかったのに、一体どうしたことだろうか。

 だが、せっかく自分にとっては大切な友人や後輩が出走するレースだ。結末まで見逃すわけにはいかない。

 勝負は最終盤、後輩のスペシャルウィークとエルコンドルパサーが先頭争いをしている。外側からは差し脚質のマチカネフクキタルが追い上げてきているが、ペースが若干早いようにも見える。中山の最後の直線が短いのを見越してのことだろうか。

 そして第4コーナーへと集団が突入したところで、大きな変化が起きた。

 

『さあここで後方外側から2番グラスワンダーが増速し始めた!先頭はスペシャルウィークとエルコンドルパサー、そしてマチカネフクキタルの3人が競り合っている!最後尾の10番メジロブライトもここから伸び始めてきた!』

 

 ずっと集団の後方で力を貯めていたグラスワンダーが、ここにきて前へと出始めた。そのさらに後ろにいるメジロブライトも速度を上げてくる。レースの集団は第4コーナーから最後の直線に差し掛かり、ここまでくると勝負はあっという間についてしまう。

 観客たちは口々に応援の言葉を投げ、サイレンススズカも柴波もレースの行方に注目する。

 

『グラスワンダー後方から驚異的な追い上げ!メジロブライトも負けていない!先頭スペシャルウィークとエルコンドルパサー、わずかに失速が見える!マチカネフクキタルは踏ん張る!最後の直線最後の上り勾配、激しい先頭争いだ!』

 

 あ、とサイレンススズカの口からか細い声が漏れたのがわかる。

 スペシャルウィークの速度が、確かに落ちていた。恐らく、第3コーナー付近から力を出しすぎたのが原因だろう。菊花賞よりも短いレース距離とはいえ、自分の力配分を間違えばこういう事態に陥る。

 

『メジロブライトも追い上げるが、先頭はグラスワンダーだ!グラスワンダーが1着!!』

 

 そして、凄まじい勢いでまとめて差し切ったグラスワンダーが、そのまま1着に輝いた。後続のメジロブライトは、グラスワンダーの後ろにつき、スリップストリームで風の抵抗を最小限に抑えて、2着にまで喰らいついた。マチカネフクキタルも、最後の最後で力を振り絞り、3着にまで食らいついていた。

 そして。

 

「スぺちゃん…」

「頑張ったんだけどな…」

 

 スペシャルウィークは6着、彼女と先頭争いを繰り広げていたエルコンドルパサーは7着まで落ちていた。どちらも、ペース配分を誤ったのが敗因といえるだろう。

 激戦に沸くスタンドからも、スペシャルウィークが無念の表情を浮かべているのが見える。その表情を見ると、サイレンススズカの中にもつらい気持ちが湧いてきた。柴波も、スペシャルウィークとは浅からぬ関係があったためか、残念そうだ。

 

「グラスワンダーも、アルゼンチン共和国杯のインタビュー通りだったな」

 

 柴波の呟きで、忘れかけていた記憶が蘇る。

 自分の走りがどういうものか、周りにどのような影響を与えているのかを知るために観たレース。その勝利者インタビューでエルコンドルパサーは、グラスワンダーは強くなって有マ記念に参戦するだろうと予想していた。それは、こうして彼女がウマ娘たちをごぼう抜きにして勝利を収めたのを見ると、正しかったと思わざるを得ない。

 

「…でもまだスぺちゃん達にはシニア級があります」

「ああ、その通りだ」

 

 シニア級とクラシック級が入り混じった戦いの有マ記念。シニア級のウマ娘にとってはこれで全てのレースを終えることとなるが、クラシック級のスペシャルウィークたちにはまだもう一度このレースに参加するチャンスがある。

 おそらくは、この時の雪辱を果たすためにも、また来年参戦するだろう。

 スペシャルウィークは、落ち込んでいた顔を上げ、何かの決意を決めたような表情に変わっている。その表情に、サイレンススズカも少しだけ安心した。

 

「きっと、彼女やトレーナーが、次こそ勝つために努力するだろう」

「ええ」

「俺たちも、URAファイナルズまで時間があまり残されてない。やれるだけのことはやろう」

「はい」

 

 柴波の言う通りで、サイレンススズカはGⅠレース以上の難易度を誇るURAファイナルズに参戦する。選りすぐりのウマ娘たちの集うレースがどれほど厳しいものかは未知数だが、柴波の言う通りやれるだけのことは全てやる。

 戦い終えたウマ娘達に、周りの観客が健闘を称えて拍手を贈る。サイレンススズカも手を叩きながら、それを再認識した。

 

 

◇ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 最近、自分で自分のことが分からなくなってきている。

 不調に気づけないわけではない。不安の種だった脚は問題ないし、むしろ今まで以上に調子がいい。風邪をひいたりすることもなく、身体は至って健康だ。

 問題なのは心の方。走ることが好きなのに変わりはないし、今朝も近くの山の中腹にある公園まで走ってきた。太陽の光を浴び、朝の冷たい気に触れ、霜柱が立つ大地を踏みしめる度に、心が穏やかになっていくのを感じられたものだ。

 しかしそれでもなお、自分の心にはつかえが残っている。ただし、それが不快なものかと言われるとそうじゃない、どう説明すればいいのかも分からないもの。

 

「ふぅ…」

 

 サイレンススズカは、25mプールを2往復ほどしたところで、一度水から上がる。それを見計らって、柴波がタオルを持ってきてくれた。

 

「お疲れ、こっちの方も大分仕上がってきてるよ」

「ありがとうございます」

「少し休憩を挟んだら、もう2セット行ってみようか」

「分かりました」

 

 タオルで髪や身体を拭きながら、アドバイスをもらう。

 年が変わり、いよいよURAファイナルズまでの時間もなくなってきた。お正月明けで新鮮な気分もほどほどに、サイレンススズカは柴波と共にトレーニングを始めている。年末に雪が降り、ランニングトレーニングを前倒しで行ったため、今週は屋内プールでスタミナをつけるトレーニングだ。外は身を切るような寒さだが、屋内プールはかなり暖かくなっているため、トレーニングに支障はない。

 サイレンススズカは、柴波から受け取った水を飲み、トレーニングで昂った心身を落ち着かせる。

 その時、柴波の視線を感じたのでそちらを見ると、柴波はなぜかサイレンススズカに背を向けた。

 

「トレーナーさん、何か気になることでも?」

「ああ、いや。大丈夫、何でもないよ」

 

 だが、サイレンススズカが訊いても歯切れの悪い答えを返してくる。そして、『ちょっと外の空気を吸ってくる』と言ってプール場から一度出て行った。よそよそしい感じがしたが、プール内の籠った空気で少し気分が優れないのだろうか。

 考えながらも、視線を逸らされたことに対する若干の寂しさを抱きつつ、サイレンススズカは壁際にぺたんと座る。彼の言動は気になったが、言われた通り休憩は挟まなければならない。

 

(気づけば、トレーナーさんのことばかり気にしてる…)

 

 柴波には、何度もお願い、というよりわがままを言っている自覚はある。本能として刻まれているほどに、自分は走ることが好きだ。そのために、天候やコンディションが整っていれば、柴波に断りを入れて走りに行くことが多い。

 そんなわがままな自分のことを、柴波は笑って受け入れてくれる。自分のことを考えて行動をしてくれている。それが仕事だから、とは何度も聞いたが、それでも優しいと思う。

 

(……)

 

 そんな柴波のことを思うと、心が締め付けられるような感覚になる。

 誰かのことを考えて、こんなにも胸が痛くなるのは初めてな気がした。

 もしかしたら、自分に3年近く付き添ってきた柴波だからこそ、今の自分の心の変化に気づいて心配しているのかもしれない。外へ出て行ったのも、サイレンススズカに心を落ち着かせる時間を与えてくれたのかもしれない。

 

「スズカさん?」

 

 そんな自分の頭上に、声が掛けられる。無意識に落ちていた視線をあげると、そこにはスペシャルウィークがいた。心配そうな顔で、こちらを覗きこんでいる。

 

「スぺちゃんも今日はここでトレーニングだったのね」

「はい。春の長距離レースに向けて、スタミナをつけようってことで」

 

 言って、スペシャルウィークは横に座る。

 有マ記念で勝利を逃したスペシャルウィークは、当日寮に帰った後かなり落ち込んでいた。スタミナ配分を間違え順位を落としてしまったのは、他の誰でもなく自分自身のミスだから、余計気にしていたのだろう。

 だが、彼女は長い間落ち込んだりはせず、こうして春のレースに向けて張り切ってトレーニングを始めている。それは彼女の気持ちの切り替えの仕方や、彼女のトレーナーが励ましたのだろう。

 そんなスペシャルウィークが次に出走する予定のレースは阪神大賞典。芝3000メートルの長距離レースで、春の天皇賞も視野の前段階として参戦するウマ娘も多いらしい。スペシャルウィークもそうで、そのためにスタミナをさらにつけているとのことだ。

 

「スズカさんも、もう今月の後半にはURAファイナルズが始まるんですよね?」

「ええ…」

「私、応援しますね!スズカさんが有マ記念やジャパンカップを応援してくれた時みたいに!」

 

 屈託のない笑顔で告げられて、サイレンススズカも少しだけ気持ちが晴れる。

 だが、スペシャルウィークはそんな自分の変化を見逃さなかった。

 

「あれ、スズカさん…何か元気なさそうですけど…」

「そう見える…?」

「はい。いつもよりも少し…」

 

 指摘されて、誤魔化そうか悩んだが、結局話すことにする。と言うのも、スペシャルウィークとは同室なので話さないでいればずっと彼女は心配するだろうし、柴波だけでなくサイレンススズカにまで心配をかけるのは良心が耐えられなかったからだ。

 

「…実はここ最近、何だか胸が苦しくなることがたまにあるの」

「えっ、もしかして何か病気とか…?」

「ううん、すごく痛いとかそういうのはないけど…そのせいでトレーナーさんにも心配を掛けちゃってるみたいで」

 

 曖昧な表現しかできないサイレンススズカだが、それでもスペシャルウィークは真剣に考えてくれている。

 

「もしかしたら、スズカさんも緊張しているのかも。URAファイナルズが近いから…」

「緊張…」

 

 スペシャルウィークの言葉に、一度自分の心をイメージしてみる。

 URAファイナルズはGⅠレースよりも厳しいという話は何度も聞いているし、そこで見られる『景色』はまた格別のものだろうと、サイレンススズカは考えていた。だが、サイレンススズカも無意識のうちに緊張していたのだろうか。

 では、柴波のことを考えると胸が苦しくなるのはなぜだろう。それはもしかしたら、URAファイナルズで結果を残せず、今まで自分を支えてくれていた彼を裏切るのを恐れているからだろうか。

 

「そのこと、スズカさんのトレーナーさんには伝えたんですか?」

「いいえ、トレーナーさんも何か気分が優れないみたいで…」

「そうですか…もしかしたら、()()しているのは、トレーナーさんも同じかもしれませんね」

 

 言われて、はっとする。

 柴波だって、無駄にポジティブではないし底知れないほどネガティブでもない、メンタルの強さは人並だ。

 そんな彼も、URAファイナルズが近づいたことで緊張しているのは十分に考えられる。

 だったらなおのこと、サイレンススズカ自身が不安になっている場合ではない。柴波のことを考えると胸が苦しくなる、おおもとの理由についてはまず置いておく。今自分がなすべきことは、URAファイナルズで勝利を収め、柴波の不安には及ばないことを示さなくては。

 

「…ありがとう、スぺちゃん。やるべきことが見えたわ」

「本当ですか?」

「ええ。だから、えっと…」

 

 スペシャルウィークにお礼を告げる。

 それから、1つ提案をした。

 

「今度、一緒にご飯食べない?」

「え…」

「その、相談にも乗ってくれたし、スぺちゃんも頑張ってるからって思って…」

 

 有マ記念の後から、サイレンススズカは自身のことだけでなく、スペシャルウィークのことも気にしていた。気持ちの切り替えに関しては大丈夫だと思ったが、少なからず落ち込んでいるのを見て何とかしたいと思った末に、一緒にご飯でも食べて気分転換をさせてあげようと思ったのだ。

 それも、去年のジャパンカップ前に、サイレンススズカと一緒に出掛けることで気分転換になると言っていたことがきっかけになっていた。少し烏滸がましいかもしれないとは思ったが、相談に乗ってくれたお礼をしたいと考えているのは本当だし、スペシャルウィークを励ましたいと思っていたのも本当だ。

 最初は意表を突かれたようなスペシャルウィークだったが、やがて笑顔を取り戻す。

 

「はい、是非!」

 

 その笑顔を見て、サイレンススズカも自分の心に言い聞かせる。

 柴波に心配を掛けさせないよう、URAファイナルズは何としても勝とうと。

 

 

 柴波が()()している、というスペシャルウィークの指摘は、中らずと雖も遠からずだ。

 

(何考えてんだろう、俺…)

 

 柴波は、建物の壁に頭を擦り付けて、強く強く自分の行動と思考を恥じる。

 先ほど、プールから上がったサイレンススズカに見惚れてしまった。

 別にそんな姿を見るのは初めてではないのに。夏の強化合宿では、ほぼ毎日のように見ていたはずなのに。どういうわけか、水が滴るサイレンススズカの栗毛や、照明に照らされるすらりとした四肢と身体が、艶めかしく見えた。

 その姿、抱いた感想を思い出し、もう一度壁に頭を打ちつける。鈍く痛むがこれぐらいが丁度いい。

 

(バカか俺は…冷静になれ、冷静に…)

 

 失態を演じた自分に言い聞かせる。

 何故そんな目でサイレンススズカを見てしまったのかはともかく、自分は1人のトレーナーだ。担当ウマ娘をそんな目で見てしまうなど、トレーナー失格。しかも、その視線をサイレンススズカが不快に思えば、信頼関係など一瞬で崩壊する。柴波自身も下心で眺めたわけではないのだから、疑われるような言動を自分からしてはならない。

 深呼吸をして自分の中にある雑念を吐き出す。

 もうすぐ一世一代のURAファイナルズが始まるというのに、トレーナーの自分がこの体たらくとは嘆かわしい。脚が治り、今まで通りかそれ以上にしっかりとトレーニングを頑張ってくれているサイレンススズカにも申し訳ない。

 自分に言い聞かせ、自分を恥じて、プールへと戻る。

 もう二度と、サイレンススズカに対して変な感情を抱かないように。

 

 

◇ ◇ ◆ ◇ ◇

 

 

 自分の中で何かが変わりつつあるのは感じられたが、URAファイナルズの日取りに変わりはない。

 かくして、URAファイナルズの予選当日はあっけなくやってきた。レース会場は中山レース場、天候は曇り、バ場の状態は『稍重』と、条件はそこまで悪くない。

 サイレンススズカは柴波と共に、朝早くに会場入りを果たしたが、入場ゲートに既に多くの人々が待っているのが見えた。恐らく、立見スペースなどの良い場所でレースを間近に見るためだろう。GⅠレース開催日であればそこまでするのも分かったが、今日はURAファイナルズを除けば開催されるのはいずれもオープン戦だけだ。誰か有名なウマ娘が参戦するという情報もないので、必然的に彼らの目的はURAファイナルズの予選と言うことになる。

 

「観に来た人たちは、URAファイナルズの予選が気になって仕方がないみたいだ」

「でも、どうしてそこまで気になるんでしょうか?まだ予選なのに…」

 

 控室で準備をする間、サイレンススズカは柴波に訊いてみた。普段からあまり観客の数やレースのグレードを細かく気にする性質ではないが、少し気になったので訊いてみる。

 

「URAファイナルズは、ファン投票やレースの戦績で選ばれたウマ娘たちが集まるレースだ。名を上げたウマ娘が出るだけじゃなくて、そんな彼女たち全員が同じレースに出るんだから、それは注目もされるだろうよ」

 

 説明しながら、柴波は何かしらの資料を読んでいる。傍目に見る限り、それは出走するウマ娘たちのデータのようだ。

 この中山レース場の予選には、柴波が有力候補として挙げていたメジロドーベルは出走しない。別のレース場で、同じ距離の予選に参戦する。逐一彼女の戦績を記録している柴波にも言われたが、彼女のキレのいい差し脚は脅威になるとのことだ。

 だが、今日彼女と当たらないにしろ、ここで結果を残さなければ次へ進むことはできない。気合を入れなければ、すぐに足元を掬われてしまうだろう。

 

「大丈夫か?」

 

 声を掛けられ、視線をあげる。

 柴波は不安そうな目をサイレンススズカに向けていた。少しだけ、息を吐いて心を緩ませる。

 

「少し…緊張してしまっているみたいで」

「まぁ、無理もないよ」

 

 先日スペシャルウィークに指摘されて、自分もこのURAファイナルズに対して緊張しているのが分かった。レースの時間が刻一刻と迫るたびに、心の中で重石がどんどん大きくなっているのが分かる。柴波も、そうなってしまうのは仕方がないとばかりに、無理矢理に励ますことはなかった。

 

「トレーナーさんこそ、緊張しているみたいですけど…」

 

 だが、サイレンススズカが告げると、柴波はばつが悪そうに視線を逸らす。サイレンススズカも3年近く柴波と一緒にレース人生を歩んできたために、感情の変化も何となく掴めるようになってきた。

 そして柴波は、今日だけでなくここ最近はURAファイナルズのプレッシャーに圧されているように見える。実際に走るのはサイレンススズカだが、担当だからこそ同じかそれ以上に不安なのだろう。

 

「…ああ、緊張しているよ。流石にここまで厳しいレースは初めてだからさ」

「ですね…最近のトレーナーさん、ずっとそわそわしているようでしたから」

 

 柴波は少しだけ唇を緩める。

 サイレンススズカは立ち上がり、柴波へ歩み寄る。

 

「…トレーナーさんがどれほど緊張しているのかは、私に全部は分かりません」

 

 言いながら、サイレンススズカは柴波の手を取る。

 

「だから私にできることは、私の走りでトレーナーさんの緊張を、不安を解くことだけです」

 

 自分よりも大きな柴波の手からは、体温の他、極々わずかな震えが感じられる。それはやはり、これから始まるレースに向けての緊張か、不安だろう。だからこそ、それを取り除くように、サイレンススズカは両手でその手を包み込む。

 

「必ず、勝利して見せます」

 

 自分の中の確固たる決意を伝える。

 唇が引き締まる一方、柴波の手から震えが消えた。

 

「…ありがとう」

 

 そう言って柴波は、もう片方の手で、サイレンススズカの手を包み返してくる。

 

「スズカの走り、信じてるよ」

「はい」

 

 包み込む柴波の手は、とても暖かかった。

 

 

◇ ◇ ◇ ◆ ◇

 

 

 今回の予選でのサイレンススズカは2枠3番、2番人気とそこそこの前評判だ。

 しかし、サイレンススズカにとって、自分がどこの枠に収まりどれだけの人気があるのかというのは、些末なことだ。ただ自分は先頭の景色をこの身体全てで味わうのが生きがいなのだから。

 

 ―――一度自分の中にある、自分が目指すものを見直してみるんだ

 

 以前柴波が、スペシャルウィークに告げていたアドバイスがフラッシュバックする。

 サイレンススズカが目指すものは、今の段階では勝利すること。

 だが、それ以前にサイレンススズカが求めているものは、先頭の景色をこの目で見ることだ。

 

(やることは変わらない…この脚で、先頭に立つだけ)

 

 柴波の言葉通り、緊張してしまうのは仕方がない。けれど、自分の中にある明確な目標や願いを改めて考えれば、不思議と緊張が薄れてくる。

 

 ―――スズカの走り、信じてるよ

 

 そうして自分の気持ちを改めて思い起こしてみると、柴波の姿が浮かび上がってきた。

 今、自分の心には柴波の存在がはっきりと在る。

 それを認識すると、薄まりつつあった緊張感は完全に消え失せ、代わりに得られるものは高揚感だ。それ以前に度々経験していた、柴波のことを考えると胸が詰まるような気持ちになる、と言うことはない。代わりに、先ほど両手で感じていた柴波の手の温かさが蘇ってくる。

 

(ファンファーレ…もうすぐ出走ね)

 

 音楽隊のファンファーレの生演奏はGⅠ限定だったが、このURAファイナルズは特別らしく、予選でも音楽隊が演奏していた。

 サイレンススズカを含むウマ娘たちがゲートに向かう。

 スタンドには大勢の観客が集まり、誰もが今か今かとレースが始まるのを待っているのが分かる。その中にはやはり柴波もいるのだろう。

 デビューしたばかりの頃は、出走前に柴波のことを気にすることなどなかった。ターフの中に入れば、担当トレーナーがウマ娘にしてやれることはもうない。それはサイレンススズカも分かっていたし、だからこそかつては『外』を顧みることはなかった。

 けれど今は、柴波のことを考えてしまう。それだけでなく、あの秋の天皇賞では、自分の脚が不調に陥った時、聞き取れるはずのない柴波の声に励まされて持ち返した。

 今や自分のレース人生にとって、柴波は切っても切れない関係にある。

 それは、自分の担当トレーナーだから、という理由だけではない。自分を支えてくれるから、励ましてくれるから、案じてくれているから、というだけでもない。

 何故だろう?それを考えると、自分の心の中が温かくなる。やはり、胸が苦しくはならない。

 苦しさを感じず、心の中に温もりや昂りを覚えるのは、どうしてだろう。

 

(…トレーナーさん、見ていてください)

 

 誘導員に促され、サイレンススズカは2番目にゲートに入る。

 自分の中で柴波がどういう存在なのかはともかく、今は目の前のレースに集中しなければならない。ここで結果を残さなければ今までの努力も報われずに終わる。それに、柴波を心配させるものかと、レース前にもああ言ったのだ。ならば、このレースで自分の走りを貫き通し、本当に心配には及ばないことを証明する。

 自然と拳が握られる。

 全てのウマ娘がゲートに入り、誘導員たちがゲートを離れ出走準備が完了する。

 そして、ゲートが開いた。

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◆

 

 

「お疲れ、スズカ」

 

 控室に戻ってきたサイレンススズカを、柴波は温かく迎える。

 結果は1着、文句なしに予選突破だ。今回はまだ予選、喜ぶにはまだ早すぎる、と言いたいところだが、柴波としては喜ばしい気持ちを抑えきれない。

 サイレンススズカは、走り切った後だが、とても満ち足りた表情を浮かべている。レース前とは違い、緊張感も抜けたようだ。

 

「予選でも、URAファイナルズの景色はやっぱり違った?」

「ええ、とても…」

 

 レースの時に感じた全てを思い出すように、サイレンススズカは目を閉じる。

 スタンドから走りを見ていた柴波も、サイレンススズカの走りには別段異変は見受けられなかった。スタートから半分も経たないうちに先頭へと出て、そのまま先頭をキープし続けて勝利した。ペース配分も申し分なく、終盤に追いつめられることもなかったので、上々の走りと評価できる。

 

「…レース前は、心配をかけてごめん」

 

 そうして思い通りの走りをサイレンススズカができたのを見た後、柴波は罪悪感を抱いていた。

 レースを走るのは担当するウマ娘。なのに、自分が緊張してしまった上に、サイレンススズカにそれを悟られ逆に気を遣わせてしまった。それはトレーナーとして恥ずべきことだ。トレーナーは担当のウマ娘を支えるのが最重要事項、自分の緊張が担当ウマ娘に伝わってコンディションを左右するなど、あってはならないのに。

 

「いいえ。おかげで私も、十分な走りをすることができましたから」

「…『おかげ』?」

 

 サイレンススズカは嫌な顔一つせずに微笑む。だが、その言い回しが奇妙で、思わず訊き返す。

 

「レース前に、私は自分の中で大切にしていることは何かを考えていたんです。以前、スぺちゃんにトレーナーさんがアドバイスをした時のように」

 

 スペシャルウィークへのアドバイス、と聞いて思い出すのは、あの水族館に行った日のことだろう。確かにその時は、彼女にアドバイスをした。

 

「私は、先頭の景色を見ること、風を感じることを強く願って走り切ることができました。でもその時、トレーナーさんのことも思い浮かんできたんです」

「俺が?」

 

 自分がサイレンススズカにとって大切なもの。

 現実味が持てずに、阿呆のような顔で問い返してしまうが、サイレンススズカは冗談を言っているわけではないらしく、真剣に頷いていた。

 

「トレーナーさんを安心させたい。トレーナーさんに自分の走りを見せたい…トレーナーさんのことを思うと、自分の中から緊張が消えて、力が込み上げてきたんです」

「……」

「だから私にとって、トレーナーさんもとても大切な人なんです」

 

 胸の中が熱で満たされ、目頭までもが熱くなってくる。レース前の緊張など忘れてしまうぐらいに、脳が言葉の意味を理解しようと回りだす。

 自分がスカウトした時から、サイレンススズカにとっては走ることが全てだった。それ以外のことに対しては気持ちがあまり向かないと、彼女自身も自覚していた。

 しかし今、自分という存在はサイレンススズカにとって大切なピースの一つだと、そう言われたのだ。それはレースに勝利したこと以上に嬉しくて、トレーナーとしてそれはどうなんだと疑いたくなってしまう。

 

「…ありがとう」

 

 柴波は、ただそれだけ返す。

 

「でも、もうサイレンススズカに心配はさせないよ」

「…はい」

「ただ自分の走りを全うしてくれればいい。そして、サイレンススズカの中に、少しでも俺のことを置いてくれればそれでいいんだ」

 

 自分がサイレンススズカ以上に緊張して、不安にさせるような真似はもうしない。

 そしてサイレンススズカにとって自分が大切な存在であるのなら、それは否定しない。ただ、担当トレーナーの自分が心の大部分を占めているのは少し気が引けるから、片隅にでも自分の存在を意識してくれればそれで十分だ。

 それだけ伝えると、サイレンススズカも笑ってくれた。

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