URAファイナルズの予選、サイレンススズカは中山レース場で走り抜いた。
そして準決勝の舞台は、京都レース場に移る。そのため、サイレンススズカと柴波は、レース当日の2日前に東京から京都へと移動することとなった。
「うーん…」
新幹線の車内で、柴波はタブレットを眺めて悩みに満ちた唸りを洩らす。サイレンススズカがそのタブレットを覗き見ると、映っていたのはレースの映像だった。
しかし、自分が走っているレースではない。動画の上部には、『URAファイナルズ予選・中京』と書かれている。
「トレーナーさん、これは…」
「2週間前に中京レース場で開催された、URAファイナルズの予選だ。スズカと同じ、マイルレースのね」
URAファイナルズは、予選と準決勝は2つ以上のレース場で開催される。サイレンススズカが中山レース場で走った日と同じ日、または1日前に別の会場でも予選が開催される。この中京レース場での予選は、サイレンススズカが走った日と同じ日付だ。
そして、柴波が何故それを熱心に見ているのかと言えば、出走するウマ娘の中に有力候補がいるからだろう。
『先頭7番エンコーダー、華麗な走りで先頭をキープする。第3コーナー過ぎて第4コーナーへ。後方2番メジロドーベルが加速し始める。前方の4番ツウカアとの差は2バ身から1バ身半に縮まる』
URAファイナルズで、サイレンススズカのライバル候補に挙がっているメジロドーベル。あまり話したことはないし、練習でも見かけることはなかったが、彼女は確実に結果を残していると柴波は言っていた。
中京レース場は晴れで、ウマ娘たちは万全の状態で挑んでいる。そんな中で、差し脚質の彼女はレースの半分が過ぎてからも焦ることはなく後ろから4番目の位置で力を溜めて、第4コーナーへ入ろうというところで加速し始めた。
『先頭エンコーダーがキープしている、メジロドーベルが追いすがり残り600メートルを通過。メジロドーベルの内からモアザンエニシングも前を狙い始める。エンコーダー先頭をキープできるか、1バ身差でポルカステップ食らいつく』
メジロドーベルの前にはウマ娘が2人、ほぼ横の位置に1人いる。先頭2人はメジロドーベルのほぼ正面にいるため、彼女たちの外側を通らなければ前には出られない。
そこでメジロドーベルは、第4コーナーで曲がりつつ徐々に外側へと出始めた。
『メジロドーベル外側へ出始める、モアザエニシングは内から攻めようとしているようだ、第4コーナー過ぎて残り400メートル!メジロドーベルここでさらに増速する!』
メジロドーベルがさらに速度を上げて、前方にいる2人を追い抜こうとしている。以前映像で見た、エリザベス女王杯でのウマ娘たちをごぼう抜きにして1着に立ったのを思い出した。
そしてメジロドーベルは、そのまま勢いを殺すことなく前方にいた2人を追い抜いた。
『メジロドーベル先頭に立った!残り200メートル!エンコーダー、ポルカステップ必死に追いすがるがあと一歩届かない!もうすぐゴールだ!メジロドーベルが1着!メジロの令嬢の実力を示した!!』
勝敗が決し、電光掲示板に順位が表示される。
メジロドーベルが差し切ったのだ。
「…この走りは、中々強力だ」
映像を止めて、柴波は新幹線のシートに深く腰掛ける。サイレンススズカも姿勢を戻した。
今のレースでメジロドーベルは600メートル付近から加速し始めて、そのまま先頭にまで追い上げ、1着を勝ち取った。言うだけなら簡単だが、マイルレースは中距離以上のレースとは違いウマ娘の速さや力が重要になる。差し脚で挑んでも、その辺りがちゃんとしていなければゴールまでに先頭へ行くのが間に合わなくなってしまう。
それをメジロドーベルが成し遂げたということは、彼女のスピードやパワーは間違いなく仕上がっている。そこを、柴波は『強力』と評した。
「幸か不幸か、準決勝でも彼女とは戦わない。順当に行けば、メジロドーベルと戦うのは決勝だ」
「決勝…」
「URAファイナルズで、強敵との戦いを強いられるのはみんな同じだ。だとすれば、メジロドーベルは準決勝でも経験を積んで、より強力な走りを見せてくるかもしれない」
柴波が示し、サイレンススズカは頷く。
戦いを重ねることで戦術眼が磨かれ、より確実に勝利をつかみ取るようになるのはサイレンススズカも経験しているので分かる。それに加えて、こちらがメジロドーベルの走りを見ているとなれば、向こうもサイレンススズカの走りを研究している可能性が非常に高い。
「それでも私は、やるべきことは変わりません」
「そうだな」
だが、サイレンススズカはそう告げる。柴波も異存はないようで、すぐに頷いてくれた。
確かにメジロドーベルの差し脚は強力だ。だからと言って、サイレンススズカは走り方を変えたりはしない。強いて言えば、差し切れないほどの速さで走るぐらいだ。もっとスピードとパワーを成長させて、より速さを追求する。それが最善だ。
「しかし、京都レース場とはな…」
柴波が残念そうに、不安そうに言葉を捻りだす。
不安がる理由はサイレンススズカもわかる。京都レース場には高低差4.3メートルの『淀の坂』と呼ばれる急勾配がある。全ての距離のレースでこの坂を攻略する必要があり、サイレンススズカが出走する1800メートルのマイルレースでも当然避けられない。
淀の坂を上りきるのに力を出しすぎれば、逆にそれ以降で力を失い、逆に力を抑えすぎると失速して再加速が難しくなる。その配分をどうするのかが肝になる。
京都レース場で走るのはサイレンススズカも初めてではないが、強敵が集うURAファイナルズとなれば依然と同じ調子でレースを進められるとも言えない。
「…頑張ります」
だが、選出されたレース場にケチをつけるつもりはない。選ばれた場所で、サイレンススズカは最善の走りをする以外にない。柴波もそれはわかっているらしく、頷く。
「あと気がかりなのは、バ場状態だな…」
タブレットで天気予報を見ながら柴波は語る。
レース場がある京都の明後日の天気は雨。しかもそれなりに雨量が多いようで、十中八九バ場は『不良』になる。そうなれば、思うように走るのは難しくなるだろう。その翌日が打って変わって快晴というのもまた憎い。
「坂はともかく、天気ばかりは、当日次第だ…」
その言葉の最後のあたりは、柴波自身の欠伸によって尻すぼみとなってしまった。そして、サイレンススズカに断りを入れてくる。
「ごめん、ちょっと仮眠をとらせてもらうよ」
「あ、はい。わかりました」
「京都が近くなったら、教えて…」
それだけ言って、柴波は後ろの席に人がいないのを確認してから、席のリクライニングを倒して目を閉じる。やがて数分も経たないうちに、柴波は寝息を立て始めた。
「……」
その姿を見て、サイレンススズカは胸が寂しくなる。
ここ最近、柴波はいつも以上に忙しそうにしていた。URAファイナルズの予選を勝ち抜けたのは確かにうれしいが、それですべてが終わりなわけではない。むしろ次の準決勝で、より強力なウマ娘と戦うことになるのだから。口や表情に出さずとも、不安はより一層濃くなっているだろう。
勝ち進めば、強敵と戦う機会も増える。負けてしまう可能性だって、万に一つもないとは言えない。だからこそ、その負ける可能性を少しでも無くそうと、トレーニングの方法や作戦を一緒に考えてそれを実行している。
柴波が疲れ気味なのは、サイレンススズカも傍で見てきたから分かっていた。こうした移動中のわずかな時間で少しでも体調を整えようと眠ることは、とても責められない。
(今だけは、ゆっくり休んでください…)
その寝顔を見ながら、サイレンススズカは心の中でそう伝える。
窓の外の景色を眺める。凄まじい速さで流れていく景色だが、それは曇り空と相まってやや暗い。
サイレンススズカも少しだけ目を閉じて、自分の心を落ち着かせる。
多少なりとも緊張しているのは、サイレンススズカも同じだった。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
残念なことに、レース当日は予報通り雨だった。降雨量は『大雨』とは言わない程度だが、前日も雨だったためにバ場は芝もダートも『不良』という有様。これでは、それぞれポテンシャルを全て引き出せるかどうかが微妙なところだ。
(雨…空気が冷たくて走りやすそう)
パドックに立つサイレンススズカは、雨の降る空を見上げる。
バ場の状態は確かに気になるところだが、天候は大した問題にはならない。雨の日は体が冷えるため長時間走れないものの、晴れの日とは違って昼間でもやや暗い景色が新鮮で、独特の匂いを嗅ぎながら走るのもまたサイレンススズカは好きだ。
「ひどい天気だけど、ちゃんと走れるかな?」
「どうだろう…みんな厳しそうだ」
「やっぱりサイレンススズカでもちょっと厳しいかも…」
パドックには多くの観客たちが集い、これから走るウマ娘たちの様子を吟味している。やはり彼らもこの天候が足手まといになると思っているらしい。あまりポジティブな評価は聞こえてこない。
パドックにいるウマ娘はサイレンススズカだけではないが、他のウマ娘たちもこの天気を憂いているらしく、表情はあまり明るくない。サイレンススズカに次いで2番人気のウマ娘、ウォーキートーキーも少々不安そうだ。
サイレンススズカは、いかなるバ場状態でも自分の走りを見失うことはない。と言っても、『良』バ場状態の方がいいタイムを残せるのは確かだし、クラシック級の神戸新聞杯は『重』でマチカネフクキタルに敗れている。雨に加えて『不良』バ場ともなれば、自分に対して不安に思う人もいるだろう。
「……」
パドックを見物している観客たちを見渡す。
その中で、青いレインコートを着る柴波は割とすぐに見つかった。向こうもサイレンススズカの視線に気付いたらしく、軽く手を振ってくれる。
サイレンススズカも、マチカネフクキタルに敗北を喫して以降、不良バ場を想定してのトレーニングは経験している。今更バ場状態で勝敗を左右するような走りをするつもりはないし、天候がどうであっても自分の走りは変わらない。
柴波に向けて、サイレンススズカは微笑んで見せた。
URAファイナルズ準決勝の盛り上がりは、素人目に見ても予選やGⅠと変わらないように見えるだろう。
しかし柴波は、緊張感が予選よりも増していると感じられる。パドックを囲う観客たちも、パドックに立つウマ娘たちも、それぞれがこのURAファイナルズという戦いの舞台の段階が一つ上がったことに対して緊迫している。この舞台に立つまでに、既に何人ものウマ娘たちが涙を流して一線から退いているのだ。そうなるまでの経緯、背景にある努力が実を結び、あるいは水泡に帰してしまっている。だからこそ、この場に漂う緊張感は濃い。決して、重苦しい空気は雨のせいではないだろう。
(スズカは大丈夫そうだな…)
レインコートを着て、雨に打たれながらサイレンススズカの様子を窺う。
良くも悪くも他人からの影響を受けにくいサイレンススズカは、やはり準決勝のパドックでもそこまで緊張した様子はない。雨、不良という状態が悪い中でもメンタルはブレていないでいる。
と、その時。サイレンススズカが、こちらに気づいたような素振りを見せた。
何もしないでいるのも不愛想に見えるので、軽く手を振る。するとサイレンススズカは、微笑みを返してくれた。
(…本当に、大丈夫そうだ)
その笑顔を見ると、自分の思い込みではなくて、本当にサイレンススズカは万全の状態だと分かった。
◇ ◆ ◇ ◇ ◇
昨日今日と降り続ける雨のせいで地面がぬかるみ、思うように走れない。
だが、それはウォーキートーキーのみならず全てのウマ娘も同じ。レースは出走から800メートルを通過しており、先頭集団と後方集団に分かれている。
そして差し掛かるのは、京都レース場名物『淀の坂』。
(予想はしてたけどキツイ…!)
雨に打たれ、緩い芝に苦労しながら坂を上る。差し・追込脚質のウマ娘たちと距離を離したのは感覚で分かるが、それでもまだ足りない。
先頭には、あのサイレンススズカがいる。これだけ悪いバ場状態にもかかわらず、サイレンススズカの走りはさほど衰えていない。
だが、ここでムキになって速度を強引に上げるのは悪手だ。淀の坂を上り終えてすぐにゴールだったらいいのだが、それからまださらに1000メートル近く走らなければならない。下手に力を使うと、上り切った後でほぼ確実にスタミナが持たずにばててしまう。
「あああああ…!」
そんなことを考えていると、横を8番のストレートバレットが苦しそうに追い越していく。ちらっと見えた表情からは無理をしているのが窺えた。サイレンススズカに引き離される恐怖からか、ペースを上げてしまったらしい。あれでは上り切った後でペースを保つ分のスタミナがあまり残らないだろう。
だが、今走っているのはURAファイナルズ準決勝。他人のペースを心配している場合ではない。
第3コーナーに差し掛かるが、1800メートルのマイルレースは外回りのコースを走らなければならない。よってもう少し上り坂は続く。そうして第3コーナーを過ぎたあたりでようやく上り坂が終わり、後は緩やかに下りつつ、最後に少し上りを挟んでゴールだ。
「っ!」
下りに差し掛かったタイミングで、ウォーキートーキーはスピードを上げる。この勢いで少しでもサイレンススズカとの差を縮める。如何に桁違いの走りを見せる彼女であっても、淀の坂でのスタミナ消費は避けられまい。であれば、温存したパワーをここで解放して距離を詰める。
案の定失速したストレートバレットを追い抜き、下り坂に入る。後方から差しウマ娘たちが加速し始めるのを横目に見つつ、第4コーナーへと入った。
(ここでさらに仕掛ける!)
ここでウォーキートーキーは、雨で緩んだ地面をものともせず、脚に力を込めてスパートをかける。悪路でのトレーニングは十分にこなしているし、今は下り坂で勢いも増しているので、もはやぬかるみは苦ではない。
自分の脚が芝を蹴り、サイレンススズカとの距離が少しずつ縮まっていく。
だが、第4コーナーから最後の直線に差し掛かろうとしたところで、観客の歓声がひときわ大きく聞こえた。
(サイレンススズカ…ここからまだ伸びるの…!?あの淀の坂をあのペースで走ってたのに…!)
縮まり始めていたサイレンススズカとの距離が、また開き始めた。
自分の速度が落ちた感覚はない。サイレンススズカが増速したのだ。この悪天候と、悪路と、淀の坂での消費を感じさせないようなペースで。
サイレンススズカが最終コーナーからさらに速度を上げる走りをするのは既に知っている。だからウォーキートーキーは、今日の天候の影響を考慮して先に仕掛けた。
しかしながら、サイレンススズカはまるで晴天の良バ場と何ら変わらない走りをしている。
「く…あああああああ!!」
たまらずウォーキートーキーは、力をさらに出そうとして声を上げる。
下り坂を過ぎて、最後の緩やかな上り坂に入る。勢いはまだ残っているため、それを利用して脚に力を込めて、少しでも速度を上げようとする。
しかしそれでも、サイレンススズカとの距離は縮まらない。
どころか、サイレンススズカとの距離は開いていくばかりだ。おまけに、後ろから差し・追込ウマ娘の気配まで感じてくる。
(本当に…敵ながらあっぱれだ…!)
勝敗が決した時、一周回って、笑みがこぼれてしまった。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
「…すごかったわ。まさか、あそこからさらに延びるなんてね」
「えっと、私も、行けるかどうか分からなかったけれど…後ろから迫ってくるのに気付いたから、仕掛けなきゃダメかなって」
予選に続き1着に輝いたサイレンススズカは、4着のウォーキートーキーと話をしていた。お互いに全力を出し尽くしたレースの後で、髪や肌に汗水がついているが、何よりも互いの健闘を称え合うのを優先したようだ。
そしてその様子を、柴波は三歩引いた場所から静かに眺めていた。
レース後半に、ウォーキートーキーがサイレンススズカの後方につき、速度を上げた時には柴波も『マズい』と思った。淀の坂や悪天候といった悪いコンディションで、思うように走ることができないサイレンススズカももしかしたら、とは考えていた。
だがサイレンススズカは、柴波の予想を上回る走りを見せた。雨と不良バ場でサイレンススズカ独特の走りの精度は幾分か落ちる、と思っていたが、サイレンススズカは最良のコンディションと同じような走りを終始貫いた。これには柴波だけでなく、観客たちも興奮し、彼女がゴール板を通過する前後には大きな歓声が上がっていたものだ。
「お待たせしました、トレーナーさん」
そんなことを考えていると、話が終わったらしいサイレンススズカが近づいてきた。いったん柴波は思考を止めてタオルを取り出す。
「おめでとう、スズカ。これで決勝進出だ」
「ありがとうございます」
サイレンススズカが笑う。柴波は、タオルでサイレンススズカの髪についた雨水を、優しく撫でるように拭き取る。サイレンススズカも抵抗せずに、拭き取られるのを待つ。
「彼女も強かったな。抜かれるかもしれない、って思ったよ」
「私も走ってるときに、あの子の気迫を背中に感じました」
「でも、あの悪いバ場であれだけの走りができるのはすごかった」
やはり走っている間にも、サイレンススズカは背中で気配を感じていたらしい。それでもなお勝利を収めたことを褒めると、少し困惑したような笑みを見せた。
「あの子のことは全然知らなかったんですが、急に話しかけられてびっくりしちゃいました」
サイレンススズカからすればウォーキートーキーは初対面だったらしく、柴波も同じだ。それでもサイレンススズカに話しかけたのは、向こうが人と話すのが好きだったからかもしれないが、それ以外の理由もあると柴波は思っている。
「…きっと、スズカの走りに惹かれたんだと思うよ」
「?」
「雨の中で、あれだけの走りをして見せたスズカは、担当の俺から見ても目を見張るものだった。観ている人たちも沸き立っていて、それだけ多くの人たちを感動させた」
立ち見スペースでレースを見ていた柴波だが、サイレンススズカが最後の直線で再加速し、ゴール板を通過した瞬間、背中に強く感じるほどの歓声がスタンドから上がっていた。この悪天候をものともせずに最高に近い走りを見せたサイレンススズカに、誰もが感動していたのだ。
「そして、スズカの走りを一番間近に見ていたあの子もそうだと思う」
サイレンススズカを追い抜くことは叶わなかったが、それでもその走りをずっと近くで見て、目の当たりにしていたのだ。そこか何かを感じ取った、と考えてもおかしくはない。
柴波は、サイレンススズカの首にタオルをかけて、視線を合わせる。
「本当に、この不利な状況でよく頑張ったよ。スズカ」
素直に、混じり気の無い称賛をサイレンススズカに伝える。
サイレンススズカは、頬をわずかに赤く染め、視線を下に逸らした。
「あの、トレーナーさん」
「?」
サイレンススズカが首に掛けられたタオルを掴んで、話しかけてくる。
「帰りの新幹線は明日、ですよね」
「ああ。大事をとって、学園にも連絡してある。今日はゆっくり休むといいさ」
こうした遠方でレースを行う時、柴波はレースの当日の夜も現地で宿泊するようにしている。遠距離での移動では、時に疲れやストレスを伴うこともあるからだ。サイレンススズカがそういった長距離移動でストレスや疲れをあまり感じないにしろ、念のためにそうしている。なので今回も、学園には明日まで戻らない旨を伝えてあった。
「でしたら明日、1か所だけ観光したい場所があるんですけど…よろしければご一緒に行きませんか?」
「ん?それぐらいなら別にいいけど…」
「明日は晴れるみたいですし、それにそこは回るのが楽しい場所みたいで」
「そっか…楽しみにしてるよ」
新幹線の切符は自由席を取ってあるので、何時に帰らなければならないということはない(終電だけは考慮しているが)。なので、レース後にちょっとばかり観光をしてから帰るという選択をしても問題はないし、そうするウマ娘も割と多いのが実情だ。
ただ、サイレンススズカがそういったことを言い出すのはほとんどなかった。あったとしても、『近くに走りやすそうな場所があるから』とか『走るのが気持ちよさそうな、景色がいい場所に行きたい』など、やはり走ることに直結していて、一般的な観光地巡りとは少し違ったものだ。だからこうして、走るのではなく純粋な観光目的で言い出すのは珍しいし、何よりサイレンススズカが変わったのが嬉しい。
そして、明日の観光を心待ちにしているサイレンススズカの様子を見ると、自然と自分の表情もほころんだ。
◇ ◇ ◇ ◆ ◇
サイレンススズカが観光したいと言った場所は、京都の中心地から少し離れた場所にある神社だった。
知る人ぞ知る穴場、ではない。むしろ、テレビでも取り上げられることが多く、知名度の高い場所だ。しかし、前日の雨と、平日なのもあって人の多さはそこそこに落ち着いている。
柴波もまた、この神社のことは知っていた、幾重にも並ぶ鳥居が有名なのも分かっていたが、サイレンススズカがそこを訪れたかった理由はまた別にあったらしい。
「ちょっとした登山だな」
「はい。なので、いいなぁって」
境内の地図を眺める柴波の言葉に、サイレンススズカが頷く。
よくテレビで取り上げられ話題になるのは鳥居だが、この神社は境内の大半を山が占めており、その参道はちょっとした登山道のようになっている。標高はおよそ200メートルとそこまでではないものの、普通の参拝感覚で訪れたら面食らう規模だ。
だが、これでサイレンススズカがこの場所を訪れたかった理由が分かった。元々サイレンススズカは、トレーニングと山頂の景色を眺めるのを目当てに、プライベートで登山することがあり、柴波も前に一度誘われたことがあった。観光するだけでなく登山もこなせるから、ここへ来たかったのだろう。
「それでは、行きましょうか」
「ああ」
本堂は境内の中でも標高が低い位置にあるので、ここは特に問題なく参拝できる。柴波はサイレンススズカがこれから先、元気に走り続けられるよう、心の中で祈った。サイレンススズカの祈りの内容は、聞かないでおく。
参拝した後は、鳥居のトンネルとも評される場所を通って、いよいよ山道へと入る。
季節によって景色が変わるその場所は、テレビ番組などでも流れることが多い。観光客も少ない今、幸いなことにこの場所にいるのは柴波とサイレンススズカだけだ。
「スズカ、写真1枚撮ってもいい?記念に」
「あ、はい。いいですけど…」
周りの状況を把握し、柴波がお願いをした。サイレンススズカは、鳥居を抜けようとしたところで足を止めて、柴波の方を振り返る。
スマートフォンを取り出して、柴波は宣言通り1枚だけ写真を撮る。
「うん、やっぱり綺麗な絵になった」
言いながら、柴波は撮った写真をサイレンススズカに見せる。
鳥居の朱色にサイレンススズカの栗毛、さらに昨日の雨で濡れた石畳に、偶然にも人が切れて周りに誰もいなくなった瞬間。この機を逸してはならないと柴波は咄嗟に思い、写真に収めようとしたのだ。勿論、被写体のサイレンススズカが半目とか変な顔とかいう失態は犯さない。
見せた写真に、サイレンススズカも心がわずかながらに動いたのか、自分のポシェットからスマートフォンを取り出す。
「…では、私も撮っていいですか?」
「ああ、もちろん」
同じく写真を撮るというので、柴波はその場をどいて撮影するのにいいポジションを譲ろうとした。
だが、サイレンススズカは柴波に向けて手を招いている。
「一緒に、撮りませんか?」
「俺も?」
「はい。こうしてトレーナーさんと一緒に写真を撮るなんてそうありませんし…今ならほかの人も少ないですから」
柴波もそう言われては断れないので、サイレンススズカの横に立ち、彼女が構えるカメラに入るように屈む。横では、サイレンススズカが変装用のキャスケット帽を脱ぎ、隠していた髪がふわりと広がった。
こうして写真を撮ろうと言われるのも珍しいな、と呑気に思っていたが、途中から心臓がバクバクと高鳴り始めたのに気付く。
(…落ち着け)
サイレンススズカが自分のすぐそばにいる。これほど距離が近いのも初めてな気がした。
そのせいで、サイレンススズカの整った顔立ちや、栗毛から仄かに漂う甘い香りを間近に感じ、視界がゆらゆらと揺らめきだしてくる。
単なる担当ウマ娘としてみていれば、別にそこまで意識することなどないはずなのに。
今の自分は、完全にサイレンススズカを異性として意識してしまっている。
「トレーナーさん?大丈夫ですか?」
「…ああ、大丈夫」
だが、サイレンススズカに問われたことで、意識が現実に引き戻される。
そして笑顔を取り繕い、サイレンススズカのスマートフォンに向けてぎこちなくもピースをした。
「…いい写真が撮れました」
撮れた写真を見て、サイレンススズカは満足げな表情を浮かべている。
だが、その写真を柴波は見る気になれない。自分が写った写真を見るのは何となく恥ずかしいし、何よりその写真を見ると、シャッターを切る直前に感じたサイレンススズカの女性的な面を思い出してしまいそうになるから。
(どうしてだ…)
自分で自分に問う。
URAファイナルズは準決勝を抜けて、後は決勝を残すのみ。心配事がまた1つ消化された、心に若干の余裕が生まれたはずだ。なのに、その生まれた余裕を見逃さず埋め尽くすかのように、サイレンススズカのことが自分の心に入り込んでくる。
それを疎ましくは思わない。思えるはずがない。
だが、なぜこうなってしまうのか。
その理由は、決して短くない人生を歩んできた中で、最早気づいているも同然に等しい。
それでもその理由を、簡単には認められなかった。
写真を撮り終えた後は、山頂を目指して歩き出す。昨日の雨や、今が冬と春の間となのもあって空気は程よく冷え、猛暑の中で登るよりは断然いい。
そんなサイレンススズカの手には、柴波がプレゼントしてくれた手袋がある。貰った日以降、走る時に常に嵌めているそれは、商品のカタログにあった通り着け心地がとてもいい。
それにこの手袋を嵌めていると、柴波の温もりを常に感じられるような感覚がして、それもまた好きだった。
サイレンススズカは、後ろを歩く柴波を気にかけつつ脚を進める。サイレンススズカ1人だけならずんずん山を登って空気と景色を楽しむところだが、柴波が一緒の今はそうもいかない。ウマ娘とヒトの身体能力には大きな差があるし、柴波と一緒にここへ来た意味もなくなる。
「トレーナーさん、疲れてませんか?」
「まだまだ、これくらい…」
途中で茶屋を見つけたところで話しかける。だが、サイレンススズカはまだ疲れていないし、柴波もそう言うので今はスルーする。しかしながら、柴波の息は若干乱れ始めているので、もう少ししたら休憩した方がいいだろう。
「あっ、トレーナーさん…見てください」
「おぉ…」
そこで振り返ってみると、ちょうど木々の間から綺麗な景色が見えた。サイレンススズカが指差すと、柴波も驚き、感動したように口から声を洩らす。
麓の街並みや遠くに見える中心街、さらにその先の山々まで見える。自分たちがかなりの高さまで登ってきたのだと改めて実感し、青空も相まって達成感を抱く。さらに優しく吹く風は、ここまで来るのに消費した体力が少しでも回復するような感覚がして、とても心地よい。
「きっと、頂上から見る景色はもっと綺麗だと思います」
「そうだな」
達成感は確かにあるが、まだ半分も登っていない。
今見た景色は胸にしまい、さらに歩を進めることにする。
「頂上まで、あとどれぐらいかな?」
「あと…20分ぐらいみたいですね」
歩きながら時間を聞いてくる柴波。道の脇にある標識には、確かに『頂上まで後20分』と書かれている。ウマ娘の身体能力なら半分程度で行けるだろうが、柴波もいるためペースを併せれば大体それぐらいの時間になるだろう。
だが、サイレンススズカがその標識を尻目に登山道を進もうとしたところで、足が滑った。
「あっ―――」
「危ない!」
倒れる、と思った直後に柴波の声が響く。
その直後、右手を掴まれる感触がした。
「…大丈夫?」
「はい、何とか…」
右手を柴波に掴まれ、左手を地面につけることで、どうにか顔から地面に倒れてしまうのは避けられた。
そしてゆっくりと脚に力を入れて前へ出し、体勢を立て直す。見れば、昨日の雨のせいか、サイレンススズカが踏んだ石が僅かに濡れていた。足が滑ったのはそれだろう。
そこで、柴波と手を繋いでいることに気づく。
「…ちょっと休憩しようか」
「ですね…」
そこで気恥ずかしくなり、他の参拝客の邪魔にならないように、登山道を少しずれる。安全柵が設置されていたため、山の斜面を転げ落ちることもない。
「怪我はない?」
「はい、どうにか…」
「そっか。それで十分だよ…」
ほっとしたように柴波が息を吐く。
だが、サイレンススズカはさっきまで柴波と手をつないでいた右手を見る。手袋が嵌められていたので、柴波の体温までは分からなかったし、柴波もサイレンススズカの体温などほとんど分からなかっただろう。
しかし、手を離す直前、自分の手がひどく熱を持っていたのは覚えている。それは転びかけたことによる焦りから来たものか、それとも柴波と手を繋いでいると意識してのことなのか、両方か。
分からないが、柴波と手を離してしまったことを名残惜しく思っているのは事実だった。
「大人なのに不甲斐ない…」
考え込んでいると、柴波が悔やむように大きく息を吐く。大人なのに、ここまでの道のりで息が上がってしまったことを気にしているらしい。サイレンススズカは、右手への意識をいったん捨てて話しかけた。
「でも、これだけ険しい道ですし、時間はまだありますから」
「でも、スズカだってもっと速く行きたいだろうし」
慰めるも、息を整えながら申し訳なさそうに言う柴波。
だが、彼の意見は間違っていた。今日の参拝、もとい登山で、サイレンススズカは『早く頂上へ辿り着きたい』と思ったことは一度もない。
「私は、トレーナーさんと一緒にここへ来たかったんですから」
ここに来た理由には、確かにこの山を登ってみたいという気持ちがあった。だが、柴波と一緒にこの場所へ行きたいという気持ちも多分にある。だから、柴波に合わせてペースが落ちることなど少しも気にしていない。むしろこうして一緒にいられるだけで十分だ。
「…そう言ってくれると、嬉しいよ」
だが、柴波はそのサイレンススズカの言葉に、それだけ答えて顔を背けてしまった。何か気に障るようなことを言ってしまったのだろうか。
真偽を確かめるために声を掛けようとしたが、それよりも早く柴波が『あまり遅くなっても何だし、行こうか』と、安全柵を軽くたたいて登山道に体を向ける。追求しようという気はサイレンススズカには起きなかったので、サイレンススズカはまた柴波と並び、再び登山道を歩き始める。
しかしその瞬間、柴波の顔が耳まで赤くなっているのを目の端で捉えることができた。
「……」
あの反応を見るに、柴波は気を悪くしてはいないのだろう。照れているのか、嬉しいのかもしれない。あれだけ分かりやすい表情であれば、サイレンススズカでも理解できる。
だが、その表情を見ると、サイレンススズカの中から不安が消えるとともに、嬉しい気持ちが心の内で噴出する。サイレンススズカの言葉で柴波は嬉しい気持ちになった、と言うことが嬉しいのだ。
(…そう、なのかしら)
柴波の横を歩きながら、サイレンススズカは目に見えない自分の心に意識を向ける。
一緒にいると安心する。優しい表情を見て温かい気持ちになる。楽しい時を共有したい。安心させたい。
これらの気持ち1つ1つは、柴波に限らず他の誰かと一緒にいても抱くものだった。
だが、全ての気持ちを1人と一緒にいるときに抱く、と言うことは柴波以外にない。彼と一緒にいる時になると、必ずと言っていいほどそういう気持ちになってしまう。
それは果たして、気の迷いなのだろうか。
だが、自分の心は違うとはっきり否定し、その答えを示している。
走ることしか知らないような自分なのに、愛おしく思う気持ちが宿っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◆
登り始めてから、大体40分ほど。
「着きました…!」
「ふぅ、疲れた…」
サイレンススズカと柴波は、無事に山頂に到着した。途中に急な階段や傾斜のきつい坂道などがあり、サイレンススズカはいいトレーニングにもなったが、柴波の息は若干上がり気味だ。結局、あれ以降一度も茶屋に寄ったりなどして休憩は取らなかったため、そうなるのも無理はない。
そして頂上から見る景色は、やはり格別なものだった。先ほど見た中腹付近で見たものよりもさらに景色が開けており、麓の町並みはより小さく見える。何より、透き通るかのような青空が広がっていて、レースを走り抜いた時のような達成感も尽きない。
「これは…登った価値があるなぁ」
隣に立つ柴波も、景色を眺めて感嘆の言葉を洩らす。どうやら感じるものは同じらしい。
サイレンススズカは、ここまで来られたこと、この景色を見られたこと、そして登山で火照った身体を冷やすような風を感じていることを、柴波も一緒に感じていると改めて強く実感する。初めて登山に誘い、登り切ったときはそこまで意識していなかったのに、やはりここでも柴波の存在を意識してしまっている。そうして意識し続けているとどうにかなってしまいそうな気がしたので、山頂にある社に参拝をすることにした。結局は柴波も一緒に参拝するので、大した打開策にはならなかったが。
山頂にある社は、最初に参拝した麓の社殿よりも控えめな造りで、神社の関係者らしき人はいない。それでも賽銭箱に小銭を入れて、2人で参拝する。願うのはもちろん、URAファイナルズでの優勝だ。
「あれ、おみくじがある」
参拝を終えて下山しようとするが、そこで柴波が気づいたように横を指さす。見れば、そこには確かにおみくじの筒があった。しかも無料とのこと。
「引いていく?」
「そうですね、記念に…」
促され、サイレンススズカもせっかくここまで来たのだからと、おみくじを引くことにした。ただし、ここは普通のおみくじとはシステムが違うらしく、筒から出てきた棒に書かれた番号を確認し、傍にあるおみくじの結果一覧表で運勢を確認する、というものだそうだ。
初めにまず、サイレンススズカがおみくじを引いてみる。そして、出てきた番号をもとに運勢を確認してみると。
「…大大吉」
「え、大吉より上?」
「みたいです…」
一覧表では確かにそうなっている。一般的なおみくじでは大吉が一番だと知っていたが、その上があるとは思っていなかった。改めて一覧表を見ると、どうやらここのおみくじは運勢の数が多いらしい。内容を見ても、いずれもポジティブな内容が書かれており、占いを100パーセント信じるわけではないが、それでもいい気分だ。マチカネフクキタルが見ればきっと両手を挙げて喜ぶだろう。
「ではトレーナーさんも…」
「ああ」
おみくじの箱を柴波に渡し、同じように箱を振って棒を引く。
だが、一覧表の運勢を見た柴波は眉を顰めた。
「…吉凶未分末大吉」
「え?」
確かに柴波の引いた番号はその運勢だったが、あまりにも長いので思わずサイレンススズカも聞き返す。内容は『今がいいか悪いかわからないがいずれは良い方向に運が向く』とのことだ。
少し間、その内容を読んだ後、サイレンススズカと柴波は一緒に吹き出した。
「…それじゃあ、行こうか」
「はい」
ここでしか経験できない、2人で来なければ経験できなかったことに対して満足感を抱きながら、サイレンススズカは柴波とともに下山した。
多分、これほどまでに楽しいレース後のひと時は、初めてだと思う。