100パーセントの恋愛小説です
本作品はpixivにも投稿しています。

1 / 1
ひと夏のワンダーランド

第一章

 

   〇

 

 八月某日、大学二年生の私は飛行機の窓側のシートに座っていた。私と名前も知らない沢山の外国人を乗せたその飛行機は真白な雲を横目に降下し始め、ヴィスビュー空港に着陸しようとしているところだった。色とりどりのライトが点いた滑走路が近づき、機内が揺れると臓器が浮き上がったような浮遊感に襲われ、その奇妙な感覚が遠ざかると禁煙のサインが消えた。

 飛行機が完全にその動きを止めるまで、私は引退表明をした日のことを思い出していた。それは六年前の秋のことで、落ち葉の散るのが見えるトレーナー室での会話だった。

「この後はどうするの?」と私が聞いた。

「そうだなぁ」彼はしばらく窓の外を眺めて、それから答えた。「海外に行って音楽やろうかな」

「は?」あまりに突拍子もない答えに、私は唖然とした。「本気なの?」

「ああ、まあ。音楽好きだし」

 実際に彼は宣言通り、私が引退した三週間後にスウェーデンに飛び立ってしまった。特段それが私に何か影響を及ぼしたかと言えば、答えはノーだった。元々引退すればトレーナーとウマ娘は疎遠になるのが一般で、それが日本に居ようがスウェーデンに居ようが大した違いではないのだ。

 隣の席に座っていた、紺色のシャツを着た男性が席を立ちあがり出口の方に向かった。私も立ち上がり、人の流れのままに出口へと歩いていった。

 私が出口をくぐる前、キャビンアテンダントの女性がとても素敵な笑顔を私に向けて声をかけた。

「Ha en trevlig resa. Farväl!(よいご旅行を。さようなら!)」

「Farväl(さようなら)」と、ほとんど分からないスウェーデン語で返した。

 

   〇

 

 空港を歩く最中にも、私は再び六年前の彼との最後の会話を思い出していた。大した記憶でも無いのに、私は今でもその事を鮮明に思い出すことができる。海外に行く、という話を聞いた時、私には驚きと、部分的な納得感のようなものがあった。その時の私の知っていた彼は、自由奔放な気質で、どこか同じ場所に留まっているというのが苦手な体質なのだ。夏合宿の最中に抜け出して私を夏祭りに連れだしたこともあった。

「どうしていきなり夏祭りなんて」淡々と前を歩く彼の背中に聞いた。

「夏と言ったら夏祭りだと相場が決まっているよ」彼は振り返り、当然のことのようにそう答えた。「それに花火もやるみたいだし」

 彼は自由気ままでありながら、一度決めたことは曲げないという厄介な側面も併せ持っていた。私はもう何も言うまいと決めて、仕方なく彼に付いて行った。

 随分と真剣な面持ちで金魚すくいの水槽を覗き込んだり、森で熊を撃ち殺さんとするスナイパーのように射的の銃を構える彼を見ている内に、私も何だか楽しくなっていった。

 私はあまり他人に気を許すのが得意な方ではないと思っていたし、それは二十年生きた今でも変わっていない。ずっと昔から、他人とは一線を引いて生きてきたのだ。しかし彼は、まるで国境を超えるように簡単にその線引きを超えてこちら側に入ってくる人間だった。全くどうしてこんな人と契約してしまったのだ、と自分に呆れることもあったが、契約を終えて、結果論的に言えば、彼と組んだことはプラスだった。

 彼との出会いは私の人生観のようなものに少なからず影響を及ぼしたし、もっと別の場所でも影響を及ぼしている。私自身、彼がいなければ、あるいはもっと違う出会い方をしていればどのように未来が変わっていたか想像できないのだ。

「もうすぐ花火が上がるね」

彼の言葉を思い出すと、私は六年前にいた。お祭りの屋台から少し離れた高台でたこ焼きを食べていた。彼が腕時計を見やって、それからゆっくりと視線を空へと移した。しばらくして花火が空で破裂した。「綺麗だね」

「そうね」

 その秋に私は引退して、彼はスウェーデンへ飛んだ。夏の終わりから秋の始まりにかけての記憶はまるで消し去ったように思い出せないが、その夏祭りと引退の秋の記憶だけが点として存在していた。時間は連続しているはずなのに、その間を繋ぐ線が無いのだ。

 

   〇

 

 卒業を間近に控えた、ある三月の放課後のことだった。学園から寮棟まで伸びる道の脇の植木は葉を落とし、いくつかの落ち葉がからりと乾いた風に運ばれて視界の隅へ追いやられた。とても冷え込んだ日だというのに、ターフに目をやれば何人ものウマ娘が走り込んでいて、ガタイの良い男性トレーナーや、細身で長身の女性トレーナーが声をかけているのが見えた。驚くべきことに、四年前までは自分も同じように走っていたのだ。しかし私にとってその光景は、まるで舞台と観客席くらい離れている、別世界のもののように思えた。四年という時間は、これほどまでに長いものだっただろうか、と私は思い返してみた。芝の匂い、風を切る音、脚の痛みが無くなる感覚、どれも四年前に感じていて、そういうものがあった、ということは覚えている。しかしそれらは知識になって、教えられたことのように実感が伴わなかった。芝とは一体どんな匂いがするものなのだ。風を切る音とは何に似ているのだろう。脚から感覚が消えていくというのはどれほど怖いのだろう。そういうことを考えていると、途端に私は急に恐ろしくなった。何もかも忘れていくことへの、漠然とした喪失感だった。それは例えるなら何もかも飲み込んでしまうブラックホールの前で自分の存在について考えているような感じだ。そして忘れたものを思い出すというのは、原理的に不可能なのだ。

 私は考えるのをやめて、足元を攫う冷風から逃げるように寮へ入っていった。靴を脱いで下駄箱に入れ、いつもの癖で郵便受けを確認すると、一封の封筒が入っていた。六年間寮暮らしをしてきて、そういったものが届くのは初めてのことだった。私は箱の中の埃を舞い上がらせないように丁寧にその封筒を抜き出した。

 少し茶色がかった白い簡素な封筒には、見慣れない切手が二枚貼られている。青いペンで「Dear Admire Vega(親愛なるアドマイヤベガへ)」と書いてあった。差出人を見ると、彼からだった。私はあまりの現実感の無さに、何度かその封筒の表と裏を交互に見てみた。しかし紙面の文字は変わることはなく、四年振りの彼からのコンタクトに他ならなかった。彼は四年間一度も連絡をしてこなかったが、彼と同様に、私もまた彼に一度も連絡をしようとは思い立たなかった。具体的にスウェーデンのどこへ住むか、なんて話は聞かなかったし、携帯も引っ越すと共に解約すると言っていた。そもそも今もスウェーデンにいるのかすら、分からなかったのだ。

 とりあえず。色々と考えるのは部屋に戻ってからにしよう、と決めた。私は手紙を持って、階段を上って部屋に戻った。

 

   〇

 

 トレセン学園寮は二つの棟からできていて、私の部屋は栗東寮と呼ばれる棟の西側にあてがわれていた。一人暮らしを始めた今から振り返っても、寮生活は悪くなかったと言える。学生寮でありながら、当番制でやってくる清掃係のお陰で設備は清潔に保たれていたし、夜は消灯時間を過ぎるとノイズキャンセリングのヘッドホンを付けたように静まり返っていた。過半数が現役のウマ娘なのだから、ほとんどは疲れて眠ってしまうのだ。

唯一問題があったとすれば、私が高等部に進学してからやってきた後輩のルームメイトの存在だった。元々、私が入寮してきた時には三つ上の先輩がルームメイトだった。お淑やか、という表現が良く似合う、髪が長い人だった。彼女は夕方になると毎日部屋の掃除をして、朝は早く起きてラジオ体操をした。お陰でその先輩が卒業するまでの三年間、私も朝早く目覚めるのが習慣になっていた。

 彼女が卒業してしまうと、新入生が入ってくるまでの一ヶ月ほどの間だけ私は一人暮らしになった。たった一ヶ月だけのものであっても、あるいはたった一ヶ月だと分かっていたからこそ、一人暮らしというのは良いものだった。消灯時間の少し後で、部屋の窓を開けて空を眺めるのだ。周りが夜間に電気が付かない施設ばかりなので、東京の中心に位置するトレセン学園からでもいくつかの星を見つけることができた。先輩が置いていってくれた電子ケトルで湯を沸かし、窓を開けたまま冷たい部屋で温かいインスタント・コーヒーを飲むと、少しだけ特別なことをしているような気分になることができるのだ。

 その一ヶ月の間に一度だけ、この空の延長線のどこかで彼も空を見ているのだろうか、と考えたことがある。全くもってどうしてそんな考えが浮かんだのか分からず、まるで自分が彼を想っていたかのようで気味が悪くなった。彼がいつも空の写真を撮っていたのが悪いのだ、と私は結論付けた。彼は物を持ち歩くのが嫌いだ、と言っていたが、いつもフィルムカメラを首から下げていた。そしてたまに空の写真を撮るのだ。

「どうしてフィルムカメラなの」と聞いたことがあった。

「前にも言ったけど、綺麗だな、って思った瞬間を写真に残す為だよ」と答えた。

「私が聞きたいのは」と言いかけて、特別聞きたい訳ではないけれど、と心の中で付け加えた。「どうして普通のカメラでなくてフィルムカメラなの、ということよ」

「ああ、そうだな。ええと、温かい写真が撮れるからだよ」

「温かい?」

「そう。良かったらこれあげるよ」彼はそう言って、棚に置いてあった別のカメラを差し出した。角が丸まった、深いブルーのラインが入ったカメラだった。

「どうして?」と言ってから、私はその言葉が正しいものではなかったと気が付いた。好意でくれると言う相手を突き放す言葉は、あまり良いものではない。

「ダービー優勝のお祝い」彼は私の後悔を他所にそう答えた。

 フィルムカメラが寮の部屋に馴染んできた頃、寮長から同室のウマ娘について話があった。転入希望を出しているウマ娘がいて、転入試験に合格すればその娘が同室になるが、転入できなかった場合は来年度までのさらに一年間、一人部屋になるがそれでもいいだろうか、ということだった。私としては願っても無い提案だったから二つ返事で了承したのだが、その一週間後に同室の生徒が決まった、という話を聞かされた。やれやれ、と私は思った。

 

   〇

 

「カレンチャンです。よろしくお願いしますね」と新しいルームメイトは言った。

 荷解きをしている最中、彼女は次から次へと私に話しかけた。以前までの寡黙なルームメイトと比べると、夏の蝉のように煩かった。

 

   〇

 

 私が手紙を持って部屋に入ると、ルームメイトはまだ帰っていないようだった。部屋はしんとしていて、カーテンの開いた隙間からオレンジ色の西日が差し込んできていた。制服を脱いで洗濯籠に入れ、部屋着に着替えてから私は机の上に置いた手紙を手に取った。封筒の端々が汚れていた。私はこの手紙がどういった旅路でここへやってきたのかを考えてみた。スウェーデンから日本まで、地球を半分くらい周ってきたのだろう。海外へ行くというのは、一体どういう気分なのだろうか。風の匂いや空の見え方は違うのだろうか。私は封筒の端をはさみで丁寧に開け、中に入っているものを取り出した。一枚の薄い水色の便箋が一枚と、上質な紙でできた楽譜が二枚入っていた。

 手紙を読み始めて気が付いたことは、彼の文字を見るのは初めてということだった。思い返す限り、契約していた二年間で彼の書いた文字というものを見た記憶は無かった。彼は女性的な、細くしなやかな字を書いていた。万年筆のようなもので書いているのか、所々にインクが滲んでいる。

「先ず、お久し振りです。思い返せば四年も連絡を取っていないけれど、お元気ですか。」という書き出しで手紙は始まっていた。

 どうして今になって手紙なのだ、と私は訝しんだ。世の中には引退してからもたまに会うような関係を続けるウマ娘とトレーナーのペアがいることは知っていたが、私と彼はそういうものではなかった。文通をするほどの間柄ではない。文通をするなんて、まるで遠距離恋愛をしているようではないか、という考えが浮かんだ途端、私は必死に頭を振ってその思考を外側へ振り払おうとした。あんな軽薄な男と恋をしているなど、妄想にしても嫌気が差したからだ。もし仮に、いずれ恋をするにしてももっとましな相手としたいものだ、と結んで手紙を読み進めた。

「四年間の間、何度か君に手紙を書かないといけない、と考えていました。でも便箋を前にして万年筆を持つと、どうにも言葉が思い浮かばないんです。それでもこの手紙を書いているのは、もうすぐ卒業してしまう君にいくつか伝えたいことがあったからです。ここまで書くのに三日かかりました。あれほど蝶々しい僕が言葉に詰まるなんて馬鹿らしい、と笑って下さい。

 一つ目に、誕生日おめでとうございます。この手紙が丁度君の誕生日に届けばいいな、と思っています。

 二つ目に、卒業おめでとうございます。君の行く先がいつも光輝いているようにと願っています。」

 表面の文章はそれで終わっていて、裏面に続いていた。裏面には、数文字だけが並べられていた。

「プレゼントになるか分からないけれど、綺麗な歌が作れたので楽譜を入れておきます。暇なときに弾いてみて下さい。音楽は楽しいよ。」その言葉を最後に、余白があった。

 私がこの手紙を読んだのは、私が十八歳になった次の日のことだった。私は何とも言えない頭痛を感じながら、楽譜の方を見やった。それは私が知っている楽譜とは少し異なった体裁で書かれていた。気になって色々と調べてみると、ギター用の楽譜のようだった。楽譜の上に音符が並び、メモ書きのように歌詞が付いていた。音楽についてはてんで不案内だから、それが一体どんな音になるものなのか検討も付かなかった。

 

   〇

 

「あれ、アヤベさん。どうしたんですか? そのお手紙」お風呂から戻ってきたルームメイトが、私が机に放置したままの便箋と楽譜を指さして言った。

「彼が送ってきたのよ。私のトレーナー」

「へぇ。お手紙ってなんだか素敵ですね♪」彼女は好奇に溢れた視線を私に向けた。

「別に、ラブレターではないのよ」

「そんなこと言ってませんって。そういえば、アヤベさんのトレーナーさんって、どんな方だったんですか?」

「そうね」私は彼のことを思い出し、彼を言い表す的確な言葉を探した。「優しさを空回りさせることしかできない人よ」

「ふーん」彼女は私の言葉の意味を考えているようだった。「トレーナーさんのこと、大好きなんですね♪」

「……どうしてそうなるの」私は少し苛立って、彼女を睨みつけた。

「冗談ですって。今はどなたを担当してるんですか?」

「トレーナーを辞めてスウェーデンにいるらしいわ」

「えっ、どういうことですか、それ」

「私にもよく分からないわ」

 彼女の言葉で、もう一度彼について考えてみた。トレーナーになるというのは並大抵のことではない。中でも中央のトレーナーライセンス合格者ともなると、その数は医師免許所持者よりも少ないらしい。どうしてたった二年間でトレーナーを辞めたのか、手紙の返事を書くときにでも聞いてみよう、と思った。

 

   〇

 

 卒業式の前日、私はようやく荷造りに一段落をつけて、さっぱりとした部屋を見渡しながらインスタント・コーヒーを飲んだ。それを淹れるための電子ケトルは、余計な荷物になるから置いていくことにした。

「好きに使うといいわ。元々、私のものじゃないけれど」

「……ほんとにいなくなっちゃうんですね。分かってたけど、カレン寂しい」カレンさんが締め切った窓の外を眺めながら言った。

 私も窓の外を眺めた。三月の末の空が、果てしなく青く澄んでいた。スカイブルーの絵の具を伸ばしたようなその虚ろな空は、段々と夕陽に侵されて橙色に染まっていくのだった。そんな景色を見ていると、不意に私の胸がひどく締め付けられた。訳もなく悲しくなるのだ。

「そうね、寂しいわ」

「えっ」彼女は目を丸くして私を見た。「い、今寂しいって言いました?」

「……そうだけど、何」

「アヤベさん! カレンと離れ離れになっちゃうの、寂しいって思ってくれるんですね♪ 今日は一緒のお布団で寝ませんか?」

「しないから。そろそろお風呂行くわよ」

「えー、せっかくデレてくれたと思ったのに」

 離れ離れになってしまうのは寂しい。でもそれは、裏を返せばそれほどまでに素敵な関係を築けていたということだ。

私は着替えと入浴セットを持って廊下に出た。後からあわてて準備をした彼女もついてきた。

「それにお別れって案外悪いものじゃないよ」思い出したのは、彼の言葉だった。「それが悲しければ悲しいほど、過去の全部が美しくなるから」

 四年前、彼と別れたときに私は何を考えていただろう、と思い返す。あまりに唐突過ぎて、何も考えられなかったのかもしれない。

第二章

 

   〇

 

 一人暮らしを始めるにあたって借りたのは、文京区の小高い丘の途中にあるアパートの一室だった。駅とスーパーから多少離れていることに目を瞑れば、理想的な借家だった。私は一人暮らしに合わせて、レースの賞金と実家からの仕送りでいくつかの家具を買った。長らく買い替えるようなものでもないから、せっかくだし良いものを買った。

 その年の四月は、まず間違いなくその年で一番忙しい月だった。部屋の段ボールをちょうど全て開け終えたタイミングで大学の入学式があり、その後は大学生活に慣れなければいけなくなった。しかし幸運なことに、現役を引退してからもランニングを続けていたからか疲労は少なく、体調を崩すことも無かった。そして月末に同じ学部の友人ができた。内向的で眼鏡のよく似合うその友人は、どうやら現役時代のファンだったらしい。ありがたいことだ、と私は思った。

 

   〇

 

 私が彼の手紙に返事を書かなければいけないな、と思い出したのは、五月が半分を過ぎてからのことだった。部屋の掃除をしていた時に、偶然彼の手紙を入れたままの封筒を見つけたのだ。私は実に二月もの間手紙のことをすっかり忘れていたことになるのだが、それに対する罪悪感のようなものは一切無かった。何せ四年間も連絡の無い人なのだ、その内二月が伸びたり縮んだりした所で、それはコーヒーゼリーの上に乗っているのがソフトクリームか生クリームか程度の違いしかないはずだ。あるいは返事が返って来なかったとしても、彼は気にしないような気さえした。しかし仮にそうであっても、彼は二年間を共にしたパートナーであり私にダービーをくれた人なのだから、返事を書かないというのは正しくない。その日は火曜日で、ちょうど大学も休みだったから、私は買い物のついでに便箋と封筒を買ってこよう、と決めた。

 小さな雲が空を覆っていて、その隙間から青空が覗いていた。幸いなことに梅雨らしいじめじめとした空気はまだやってきておらず、晩春の昼下がりは快適な気候だった。今時便箋というものは、一体どこに売っているのだろう。私は最低限の荷物を持って、駅の方まで歩くことにした。

 便箋を売っているような店を探しながら散歩していると、私は学生時代のことを思い出していた。その頃の私は随分と、何かに追われているように生き急いでいた。常に走っていたし、そうでない時は勉強をしていた。時間の無駄になることが嫌いだったのだ。

「無駄なものなんて一つもないよ」と彼は言っていた。「急いだからといってゴールに早く辿り着ける訳じゃないし、ゴールだって人それぞれな訳だし」

 その言葉を聞いたのが正確にいつだったかは忘れたものの、それに限らず彼の言葉は、いつもふとした瞬間に脳に浮かんできて、それからしばらく頭の中で反響する。どうして自分でもそんなことを覚えているのか不思議でならないようなことすらも、脳のどこかの引き出しに潜んでいる。そしてそれらの言葉は、幼い私を否定できる機を伺っているのだ。

 普段通らない道を歩いていると、住宅街の内側の、とても入り組んだ所に寂れた古本屋があるのを見つけた。外側から見える範囲だけでも本がびっしりと詰まっていて、それらは今にも雪崩の様にこちらに押し寄せて来るように思えた。もしかしたら便箋を売っているかもしれない、と思い、私はその静かな古本屋に入っていった。

 

   〇

 

 店内には古本の紙の匂いが染み込んでいて、ほとんど物置と見分けのつかないカウンターには、老年の男性が座っていた。

「いらっしゃい」老人はこちらを見ると、低い声でそう言った。嗄れているが聞き取りやすい声だった。

「こんにちは。便箋はありますか?」

「ああ、勿論あるさ」

 老人はゆっくりと立ち上がると、カウンターの横の机を漁り、そこから便箋の束のようなものを取り出した。

「十枚がセットで、百円だよ」

 私は財布から百円玉を取り出して、トレイの上に乗せた。

「はい、どうぞ」老人は便箋の束を紙袋に入れて、丁寧にテープで封をして私に手渡した。「お嬢さん、もし差支えなければ、誰に手紙を書くのか教えて貰えないかな」

 私としては特に差支え無かったから、「昔私を担当していたトレーナーさんに送るんです」と答えた。老人は驚いたように目を見開いて、それから嬉しそうに顔の皺を歪めた。

「それはいい、きっと素晴らしい手紙になる」

 私はそれから、一体古本屋とはどのようなものなのだろう、と店内を歩き回ってみた。軽く見て回っただけで、親指の長さほどもある分厚い資料集から、国内外の小説や図鑑、何かのアルバムなんかも見つけることができた。しかしそれらの本のどれにも埃を被っているものが無く、店主の手入れが行き届いているのが分かった。

「差し出がましいかも知れないけれど」老人がカウンターの中から声をかけた。「何か気になった本はあったかな」

「そうですね……」私が小説の棚に目を向けると、その視線はカウンターの横に立て掛けられたギターの方へ吸い寄せられた。

「ギターを弾くんですか?」

「ああ、これかい? そうだよ、たまに弾くんだ」老人はそう言うと、腰を屈めてフィンガーボードを握り、いくつかの音を出し始めた。

 老人がゆっくりと弦を弾くと、乾いた音が鳴り古本の隙間に吸い込まれていった。そして時々左手が弦を滑る音が鳴ると、それは店の外へ逃げて行った。音楽が分からない私にとって、それが上手な演奏なのかは判別できなかったが、その間私は本を見ることを忘れ、また自分が古本屋にいることも忘れてその演奏に聴き入っていた。

「音楽が好きかい?」いつの間にか老人は弾き終えたようで、私にそう問いかけてきた。

「はい」

「楽器は何か弾けるかな」

「いえ、何も弾けません」

 その会話の最中、私は彼の手紙に入っていた楽譜のことを思い出していた。その楽譜はピアノとは異なった体裁の紙で書かれていて、気になって調べてみるとそれはギター用の楽譜のようだった。

「もし君が望むのなら、君にギターの弾き方を教えさせてくれないかな」

 その提案に、私はちょうど考えていたことを見透かされたようで狼狽した。

「ギターの、ですか?」

「音楽が好きなら、楽器は一つくらい弾けるといい」老人は大切そうにギターを撫でた。「どうだい?」

 音楽というものは、以前から興味があったのだが、それまでの私には、音楽よりも優先してやるべきことが沢山あった。走ることや、学ぶことがそうだった。しかしちょうど春なのだ、と私は思いついた。

「春はいいね」と彼が言っていた。「何かを始めるのに丁度いい季節だ。何かが終わって、余ったエネルギーみたいなものが空中に漂ってる」彼が言っていたのは、こういう時のことなのかも知れないな、と私は思った。

 ひょんなことから、私はその古本屋で毎週火曜日の午前中にギターを習うことになった。手紙に同封されていた楽譜のことを話すと、次に来るときは持ってくるといい、と老人は言った。素敵な音楽が楽譜のまま眠っているのは勿体ない、だそうだ。

 

   〇

 

 スーパーで買ってきたものを冷蔵庫やキッチン下の収納に入れ終えてから、古本屋で買った便箋を机の上に置いた。白紙のそれを見つめていると、書き始めるという行為がひどく難しいことのように思えてきた。真白なその紙には取っ掛かりのようなものが無く、一体どこから、どのように文字を書けばいいのかすら、少しずつ分からなくなっていった。彼もそんな風に思っていたのだろうか。私は一分くらいペンを持ったまま固まっていた。ともかく何かを書かないことには始まらない、と思い、私は宛名から書くことにした。封筒の表の右端に、彼から送られてきた手紙の住所を書き写すのだ。気になったのは、海外の住所の書き方の作法だった。広い範囲から少しずつ狭めていく日本の書き方と対照的に、彼の手紙に書かれていたのはその逆を取っていた。つまり、「日本東京都文京区白山一丁目」に対して、「ヴィスビュー・ゴットランド・スウェーデン」なのだ。住所の書き方一つ取っても、日本と海外では細やかな違いが溢れていた。

 

   〇

 

「手紙をありがとう。私は東京の大学に通うために一人暮らしを始めました。手紙の返事が遅れたのは、その生活の変化についていくのに精一杯だったからです。

 ギターの楽譜を貰ったけれど、私はギターを弾けません。でもこの便箋を買った古本屋の店主が、親切なことにギターを教えてくれると言ってくれました。誕生日プレゼントをありがとう。」

 そこまで書いて、私はペンを置こうとした。米をといで炊飯器のスイッチを入れようと立ち上がる前に、便箋に余白が残っていることが気になった。別に手紙を書くときは便箋の八割以上を文字で埋めなければいけない、という決まりがある訳ではないけれど、私はその余白にまだ何か書くべきことがあるような気がした。再びペンを握り、深く考えずに頭に思い浮かんだ言葉を並べてみた。

 

   〇

 

「あなたがくれた歌を弾けるようになったら、また手紙を送ります」

 さっきまで空白だった右端には、そんな言葉が書いてあった。それを書いてしまうと、私の中にあった不可思議な収まりの悪さのようなものはなくなった。つまり、彼への手紙の返事と手紙を書くのならば、あの楽譜の感想を伝えないことには不完全なものになってしまうという懸念があったのだ。完全な返事を用意する時間は伸びたものの、私はもう一度彼に手紙を書くことになった。

「例えば、階段から落ちそうなおばあさんを見つけた時」と彼が言った。「考えるより先に助けに行こうとする、みたいにさ。無意識に取ってしまう行動こそ、その人が本当に望んでいることだよ」

 彼に言わせれば、私はもう一度手紙を出すことを、本当に望んでいるらしい。でもそれはあり得ないことだ。なぜならこの四年間、私は一度たりとも彼に手紙を書きたいなどとは思い立たなかったのだ。それがどうして彼からの手紙一枚で変わるというのだろう。私は二合の米と水を炊飯器に入れ、スイッチを押した。

 

   〇

 

 日曜日の朝、私は深い泥の中から這い出るように目を覚ました。大概の夢がそうであるように、何か夢を見ていたことだけを覚えていて、その内容をまるっきり思い出せない奇妙な感覚に襲われていた。泥濘に足を取られているようにゆっくりと歩いて顔を洗い、トイレに入り便座に座ると、断片的な夢の景色が浮かんできた。あるいは私は座ったままもう一度夢を見ているのかもしれない。

 それは針葉樹が空を突き刺すように高い、どこかの森の中だった。私は獣道のような舗道を歩いていて、どこかへと向かっていた。分け入っても分け入っても青い山だけが続く。この先に何があるのだ、と考えている間にも、私はどこかへと歩いていた。鬱蒼と茂る草木からは嗅いだことのない香りがして、そういうことに気を取られていると、道の先に白い背の高い建物が見えた。それは小学校ほどの大きさの建物で、何かの施設のようだった。一体私は何の夢を見ているのだ? すると景色は歪み、私はトイレットペーパーに手をやっていた。そういえばトイレに入っていたのだ、と私は思い出し、カラカラとそれを丸めて股を拭いた。

 

   〇

 

 日が落ち始めてから家を出ると、じめじめとした不快な蒸し暑さが体を包んだ。梅雨が来たのだ。歩いていれば少しはましになるかと思ったが、ぶつかってくるのは湿ったぬるい風だけだった。お陰でショッピングモールに着くころには、まだ五月の末だというのに汗だくになってしまっていた。

 ショッピングモールの中は冷房を効かせていて、半袖では少し肌寒いと感じるほどだった。私はエスカレーターに乗って二階に上がり、壁一面にギターがずらりと掛けられている楽器店に入った。

「いらっしゃいませ」近くで戸棚の商品を並べていた若い男の店員が声をかけた。「何かお探しですか?」

「ギターはありますか? やったことはないから、初心者向けのもので」

「そうですねえ」店員は歩き始め、いくつかのギターを指さしながら説明を始めた。「ギターにも色々あります。まず、電気を使うものと使わないものに分けられて、使うものはエレキと呼ばれます。エレキはアンプで音を大きくすることを前提に作られているので、機材を揃えないといけません。ですから初めてのギターであれば、電気を使わないものをおすすめします。電気を使わないものは、アコースティックとクラシックに分けられます。アコースティックに対してクラシックは、ネック幅が大きくやや太いギターです。女性でも扱いやすいとなるとアコースティックがおすすめですね」と店員は事細かに説明した。

 最終的に案内されたのは、くすんだ青のアコースティックギターだった。宵の口の空のような色をしているそれは、どこか昔の勝負服に似ていた。

「こちらになります」

「ありがとう、考えます」

 店員が戸棚に戻って行ってからも、私はしばらくそのギターに向かい合っていた。ずっと見ている内にその表板が黒く染まっていくような気がしたのだ。しかし実際には、いくら待った所でギターはギターのままそこに存在していた。

「すみません、あのギターを買います」

 店員に促されるまま、私はそのギターに合わせてギターケースと、それから楽器を拭くためのクロスと手入れ用の小道具を見繕った。全てをレジに通すと、中々の値段になった。やれやれ、節約していこうと思っていたのに。

「ぶつけないように、お気をつけて」

「ありがとうございました」

 私はその親切な店員に軽くお辞儀をして楽器店を出た。雑踏をかき分けてショッピングモールを出ると、西の方に太陽が光っていた。街路樹に停まっていた鳥の群れが一斉に飛び立ち、しばらくその周辺をせわしなく飛び回った。

 

   〇

 

 次の火曜日に、私は新品のギターと楽譜の入ったギターケースを背負って家を出た。UmaTubeでギターの練習用の動画を見たお陰で、最低限音と呼べるものは出せるようになった。しかし成果らしいものはそれだけだった。そのことを老人に話すと、とても嬉しそうに笑った。

「普通は二日三日で音なんて出せない。筋が良いんだ、俺が教えることなんてすぐになくなるなあ」

「アコースティックギターを買いました」

「へえ、いい色だねえ」

 楽譜を渡すと、老人はカウンターの脇に置いてあった眼鏡を手に取り、それをかけた。じっと、まるで虫眼鏡で黒い折り紙を焦がす実験をしているみたいに楽譜を見つめていた。

「そんなに難しくないね。まずはこの曲が弾けるようになるまでやってみようか、良い曲だなあ」

「どんな曲なんですか?」と私は聞いた。

「それは言えないな」と老人は言った。「俺の口からは説明できない。だってこれは君に向けたラブソングなんだろう?」

「そういうものではないと思います」

「ふうん」

 老人は丁寧に手本を見せながら私に楽譜の読み方と弾き方を教えた。段々と音が繋がっていくと、それらしい曲のように聞こえてきた。ちょうど二行の終わりまでの指の使い方を習った所で、昼の十二時を知らせるチャイムが町中に響いた。

「お嬢さん、昼ごはんはどうするんだい?」

「家で食べます」

「そうか、それじゃあまた来週おいで」

 受講代として持ってきた菓子折りを置いて、私はその古本屋を出た。相変わらず本は雪崩のようで、客は一人としていなかった。

 

第三章

 

   〇

 

 彼から送られてきた楽譜がそれなりに満足できるくらいに弾けるようになったのは、七月の頭の、梅雨が明けた頃だった。いつも通り火曜日の午前中に古本屋に行くと、オーニングに風鈴がぶら下げられていた。店に入ると、それがチリンと音を立てて揺れた。麦茶の氷が解けて崩れたような音だった。

 三か月の間に、私は老人と実に色々なことを話した。私のおかしなトレーナーの話や、大学生活の話、老人の妻が数年前に他界していて子供はいない話、ギターを教えるのは思いがけずやってきた幸せな余生だという話、など。

「上手いなあ」と、老人はその日の演奏を評した。「それにしても良い歌だ、歌詞もね」

 楽譜にはメモ書きのように歌詞が書かれていて、弾き語りができるようになっていた。人前で歌を歌うのは、ウイニングライブが最後だった。軽口で現実を皮肉るような歌詞をポップなメロディに乗せて歌っていると、私は普段は言えない悪辣な言葉でも挨拶のように言えた。そしてそういう瞬間は、彼の手紙の最後にあった「音楽は楽しいよ。」の意味が分かる気がしたのだ。

「手紙を出すんだろう、その彼に。弾けるようになったのだから」私の演奏が終わった後で、老人が言った。

「ええ、そうするつもりです」

「また楽譜を送ってくれたら教えておくれ。顔も知らないけれど、その彼の音楽が好きだよ」

「お返しに楽譜をくれたら、また持ってきます」

 

   〇

 

「正直、あの手紙に返事が来るなんて思っていなかった。でも返事を書いてくれて、あの曲をきっかけに君が音楽を始めたことを、とても嬉しく思います。僕が作った歌を君が歌ってくれるなら、また音楽を作ってもいいかな、なんて思えるくらいには嬉しかった。スウェーデンと違って、日本はこれから暑さが厳しくなっていく頃ですね、お体に気を付けてお過ごしください。

 楽譜を入れておきます。夏らしい歌が出来たと思う。音楽は楽しいよ」

 三枚の楽譜と共にそんな手紙が届いたのは、八月の半ばのことだった。

 彼の送る楽譜を弾けるようになると、私が返事を書いて、そのしばらく後に彼から新しい楽譜と共にその返事が来る。そういうサイクルを私はその年の間続けていた。大学の長い夏休みが終わり、そしていつの間にか冬休みが始まろうとしている頃だった。

 秋らしい落ち着いたメロディの歌を歌い終えた後、私はいつものように手紙を書いた。彼に手紙を書くのは、これが五度目になっていて、最初の頃に比べれば手紙の書き方もそれらしくなっていた。

 私はその年の冬休みの間実家に帰った。元々寮生活をしていたから、以前までの帰省と大して変わらなかったな、などと考えながら東京に帰ると、休む間もなくすぐに大学の講義が始まった。そして目に留まった時に郵便受けを開けるようにしていたが、ひと月の間彼からの返事は届かなかった。段々と春が近づいてきて、気が付けば大学二年生になっていた。季節が一巡したのだ。そしてとうとう返事は来なかった。

 

第四章

 

   〇

 

 二月の真ん中の週の月曜日に、私は指をガラスで深く切ってしまった。落として割れたグラスの掃除をしているときに、大きな破片が残っていることに気が付かなかったのだ。すぐに破片を取り除き、タオルで圧迫して止血しようとしたが、その小さなタオルを赤黒い血液が真っ赤に染めていき、尚もぽたぽたと鮮血が滴ってきていた。私はタオルを替えてより強く人差し指を圧した。どれくらい時間が経ったのだろう、ようやく血が止まってみると、右手首が人を刺し殺した後のように血に覆われていた。

 幸い大学は春休みに入っていたし、それから再び血が出ることもなく傷口は塞がっていったから病院に行く必要も無さそうだった。しかし右手が使えないことで日常生活は大きく制限を受けることになったし、ギターは当分の間弾けなくなった。

 

   〇

 

 翌日、私は約束通り古本屋に向かったが、どうせ弾けないのだから、とギターは持って行かなかった。

「それはそれは」と老人は言った。「病院に行かなくていいのかい?」

「ええ、もう血は止まっているから」

「そうか、治ってこないようだったらすぐに病院に行くんだよ」

「大丈夫、そのつもり」

 ギターが弾けないとなると、私はそこで何をしていいのか分からなかった。店内には相変わらず他の客はおらず、本棚の隙間から前の道を歩く人たちが見えるだけだった。

 適当な本を持ってきてページをめくっていると、老人が聞いた。

「そういえば、彼からの手紙は届いていないのかい?」

「届いていません。四か月くらい」

「四か月」と老人は繰り返した。それから何かを考えるように押し黙ってしまい、眠っているのか判別できなかった。

「その彼は、スウェーデンにいるんだったかな」と、目を開けた老人が言った。

「ええ、おそらく」

「であれば君はスウェーデンに行くべきだ。それもなるべく早いうちに」

「……どうして?」

「老いぼれの勘でしかない。ただ」老人はゆっくりと椅子に座り直し、それから目を合わせて口を開いた。「君は彼の住所を訪ねるべきだ、と私は思う。それがまるっきり無駄足になったとしても、きっと価値のあるものになるだろうから」

「でも、」と私が言いかけると、それを遮るように老人が話し始めた。

「ここでアルバイトをするといい。お給料を出すから、そのお金でスウェーデンに行きなさい」

 スウェーデンに行くということについて、私も何度か考えたことがあった。元々海外へはいずれ行ってみたいと思っていたし、それは大学生の内に行くのが丁度いいのだろう、と思っていた。しかし現実的に海外へ行くとなると、一通りではない金銭面での問題があったのだ。

「どうして彼は返事を書かなくなったの」と私は独り言のように呟いた。

「あるいは書けないのかも知れない」

「書けない?」

「それを確かめるために行くべきだ、という話さ」と老人が言った。「その彼を少しでも愛しているならね」

 人を愛す、というのは一体どういうことなのか、私は考えてみた。例えば私は彼を愛しているのだろうか。少なくとも一年前までの印象と大きく変わったイメージを持っていることは事実だった。音楽を通して見た彼の姿は、それまでの私の認識の中の彼とは異なっていて、そしてそっちが本当の姿だった。悩みなんて無さそうな彼は悲痛に悩み、それを言葉にして歌にしていた。

「俺にとって歌詞を書くという行為は、自分の血で文字を書いているような感じです。」彼はいつかの手紙でそう書き綴っていた。

 愛しているのだろうか、そもそも愛するという行為が何をすることなのだろうか、私には何も分からなかった。

 

   〇

 

 ある水曜日のこと、私は彼の手紙に書かれていた住所について調べてみた。彼はスウェーデンに属する大きな島の、小さな街に住んでいるようだった。ゴットランド島のヴィスビューという都市には長い歴史があり、その過程で建てられた城の城壁がほとんどそのまま残っているということだった。写真で見るだけでも分かることは、初めての海外旅行にしては些か上等過ぎるくらいに良い場所だ、ということだった。

 

   〇

 

 大学二年生の春から夏にかけての数ヶ月、私は店主の好意によって古本屋でアルバイトをさせて貰うことになった。カウンターに座り、たまに──本当にごく稀に──やってくる客の会計をして、本棚の埃を払ってまたカウンターに座るだけの仕事だったが、給料が恐ろしいほどに高かった。

「こんなに受け取れない」

「相続できる人もいないのだから、死んだら国庫に収まるだけなんだよ、それなら君のスウェーデンへの資金にして欲しい」

 人生で初めて働いて手に入れたお金がこれでいいのだろうか、という懸念は私に付きまとった。あぶく銭を受け取っているような気がして、何度も給料を減らして欲しいと頼んだのだが、そのたびに老人は悲しい顔をした。私はとうとう頼まなくなって、夏休みが来るまでにはそれまでのレースの賞金や仕送りの貯金と合わせて、スウェーデンに一週間は旅行できる金額が集まった。

 

   〇

 

 空港に着いたのは、朝の八時だった。コンビニで適当なパンの類を買って、ベンチに座って食べていた。私はその日の十時四十分に日本を立つ便に乗る予定で、それまでのおよそ二時間半の間、私はその静かな空港で時間を潰すことになった。

 着替えの入れたキャリーケースとギターを預け身軽になってから、私はその空港内のある喫茶店に入った。滑走路に面した窓があり、私はアイスコーヒーを飲みながら発着する飛行機を眺めていた。そのグラスが空になるまでの間、その滑走路から七機の飛行機が飛び立った。それらがどこへ行ったのかは分からないが、想像を膨らませるのは楽しかった。ある飛行機は国境を越え中国へ、またある飛行機は避暑のために北海道へ向かっているのかもしれない。そんな妄想をして、退屈な機内をやり過ごすために買った本を少し読み、また飛行機を見て二時間が経った。私は席を立って、搭乗口へ向かった。人生で初めて海外へ行くことに、胸を躍らせていた。

 

   〇

 

 目的地のヴィスビュー空港まで直通の便は無く、十時間かけてフィンランドのヘルシンキ・ヴァンター国際空港へ飛び、そこから二時間で到着するプランだった。持ち物を全てトレイに乗せ、搭乗ゲートをくぐり抜けた。私はチケットと案内看板を何度も交互に見て、自分の乗る飛行機の搭乗口を見つけた。

「行ってらっしゃいませ」とキャビンアテンダントの女性が言った。

 私は軽く会釈して飛行機に乗り込んだ。

 

第五章

 

   〇

 

 実に十二時間以上飛行機に腰掛けていた影響で、歩くたびに背中が軋んでいた。ヴィスビュー空港に着いたのは夜の十一時を過ぎていて、私は回転ずしのように回っている荷物を回収して空港を出た。

 背筋を伸ばして目を閉じると、風の匂いがした。それは六年前にいつものように感じていたターフの匂いにそっくりだった。目を開くと、遮るもののない夜空が見えた。黄色い光が見える。星か飛行機だろう。景色についてそれほど細かく感想を抱くのは久しぶりだった。この世界は、慣れてしまうと見えなくなるものだらけだ。現に私は、あの古本屋が外から見るとどんな風に見えたのか、思い出せなくなっていた。

 キャリーケースを引きずって、私は空港の近くのホテルに向かった。予約を取っていたお陰で比較的スムーズに──といってもスウェーデン語が分からないから英語の話せる受付に繋いでもらうようなことはあったけれど──チェックインを済ませることができた。

 203号室という扉にカードキーをかざすと、ピピ、という細かい音の後でドアロックが外れた。キャリーケースとギターケースを置くと、私はベッドに寝転がった。重力が十倍になったみたいに私の上にのしかかり、そのまま眠ってしまいそうになった。しばらくうとうととして、それから不快感だけを原動力に起き上がり、服を脱いでシャワーを浴びた。立ったまま眠ってしまいそうになるほど、私は疲れていた。

 

   〇

 

 その日は空全体を灰色の雲が覆っていて、私は朝の八時半に目を覚ました。起き上がると、見慣れない壁が目に飛び込んできた。手元を見てみれば見知らぬベッドで眠っていて、いつの間にかバスローブを着ていた。そうだ、スウェーデンに来たのだ、と思い出すまでに多少の時間を要した。

 

   〇

 

 せっかく海外へ来たのだから、彼を訪ねる前に観光をしよう、と思い立った。邪魔になる荷物は全て部屋に置いて、財布とスマホだけバッグに入れ、フィルムカメラを首から提げてホテルを出た。

 白い石レンガの舗道を歩いている音さえも、東京のアスファルトのそれとは異なっていた。耳を澄まして歩いていると、街ゆく人たちの足音も聞こえてきて、それらはそれぞれ微妙な所で異なっていた。

 地図を頼りに歩き、いくつかの曲がり角を曲がり、また歩く。そうしている内に、私は黄色い石の壁の建物に辿り着いた。

 ゴットランド博物館。

 ヴィスビューの街では当たり前のようだけれど、その街は隣り合う建物の壁が基本的に接続していて、また商業施設であっても派手な装飾だったりを施していないものの方が多い。お陰で私はそこが博物館である、ということに気が付くまでにその周辺を一周していた。

 観光業が盛んな都市ということで、博物館のチケットマシンは幅広い言語に対応していた。私は日本語で難なくチケットを購入し、館内へ入っていった。

 ヴィスビューは小さな都市だったが、スウェーデン王国の最南端であるという立地から、宗教と政治が複雑に絡み合った長い歴史が流れている。ちょっとした短編小説くらいはありそうな説明文と共に、昔の衣服や武器、防具、絵画や彫刻、果ては化石や標本までもが展示されていた。

 そういった全く異なる世界のものを見ていると、私がこれまで日本で見てきたものの数々がとても限定的なものだったように思えてきて、それは確信へと変わっていった。

 

   〇

 

 博物館を出て近くの喫茶店でコーヒーを注文して飲んでいた。残念なことにコーヒーの味は、日本で最後に飲んだ空港のアイスコーヒーの方が何倍も良かった。私は店を出て、舌にひりひりと残る酸味を感じながらまた歩いて何枚か写真を撮って、また歩いた。

 不思議な形をしたベンチも、川に架かる石造りの橋も、平凡な街並みも、フィルムが許す限り撮ってみた。昼過ぎになる頃にはいよいよフィルムの残りが少なくなって、最後に海を撮ってホテルに戻った。

 フィルムカメラのカバーを丁寧に開けて、その中からフィルムを慎重に取り出してプラスチックケースに入れた。フィルムカメラは生ものだから、こういう面倒な作業が必要なのだ。私はそのプラスチックケースを部屋に備え付けの冷蔵庫に入れて、もう一度外へ出るためにバッグを手に取った。ギターケースを背負い、彼の家へ。

 

   〇

 

 時々、彼は私がヴィスビューを訪れるのを待っているのではないか、と考えることがあった。彼は何らかの理由があって日本を離れる必要があって、しかし同時に日本へ帰りたいと思っている。その橋渡しとして暗に私を呼んでいる、という妄想だった。考えてみればそんな風に言える証拠は一つも無くて、それはただの妄想の域を出ないのだけれど、そういう妄想の類が実際に起こることがこれまでの人生で何度かあった。例えば、彼からの手紙が途絶える少し前から、彼は手紙を書くのをやめるのではないか、と考えていた。その理由について明確な推測があった訳ではなく、ただぼんやりとした予想にも満たない思考の断片だったが、実際に彼は手紙を書かなくなった。そしてそうすれば、私が彼を訪ねることを彼は予想していたのではないだろうか、ということだった。

 ヴィスビューの中心から少し外れ、住宅街のような通りにやってきた。私は彼の住所をメモした紙を検索ボックスに入れて、Googleマップを起動した。空港で貸し出しのWi-Fiを借りてくるというちょっとした手間だけで、海外でもこれだけ便利なものが使えるのは有難かった。それを頼りにしばらく歩くと、白い壁の家に辿り着いた。小さな一軒家だった。私は何度か住所を確認して、間違いないな、と扉を二回叩いた。木製の扉は低く鳴り、しばらくの沈黙の後、その余韻が消えた。反応は無かった。

 私は時間を置いてもう一度同じことをしてみたが、結果も同じだった。

 カーテンが閉まっていて、留守にしているのかの判別が付かず手持無沙汰になってもう一度扉を叩いてみた。

 それからしばらく近くのベンチに座っていたが、その通りには文字通り誰も通りかからなかった。私の視界の中で一番動いていたのは、街灯の影かもしれない。

 どれくらい時間が経っただろう、日が沈み始めて茜色に染まっていく空を見ていると、不意に私の頭を嫌な想像が横切った。それは黒猫を踏んでしまった時のように避けられないもので、同時に不吉な予感を覚えずにはいられないものだった。彼は、あの家で自殺しているのではないだろうか。

 私はベンチから飛びあがるように立ち上がり、彼の家まで大急ぎで走った。距離にして五十メートルもない所を走っただけなのに心臓が激しく脈打ち、血が勢い良く流れていった。その流れの強さに耐えかねた血管が破裂してしまうのではないかと思う程だった。私は杞憂であってくれと願いながら、金属製のドアノブに手をかけた。それは染み込むような冷たさを帯びていて、傾けると軋む音を立てながら、扉が開いた。鍵がかかっていなかったのだ。私はいよいよ恐ろしくなって、視界は点滅を始め、ビービーと警告音のようなものが頭の中でうるさく鳴り響いた。その暗い家の中に入ると、そこには誰もいなかった。

 

   〇

 

 室内はじとり、と染み込むような湿気があって、私はひとまずは安堵した。室内をぐるりと見渡すと、そこには家具以外本当に何もなくて、ショウルームの内見をしているようだった。そんな中にぽつんと、机の上に紙が置かれていた。その横には万年筆が立てられていて、近寄って見てみると、見慣れた彼の文字だった。

「ようこそ、俺の家へ。と言っても、俺はいないけど。」という書き出しで始まっていた。

「この手紙を読んでいるのがおそらく君だと思って、僕はこの手紙を書いています。アドマイヤベガ。

 色々と言わないといけないことがあるけれど、何の連絡もなく手紙を送らなくなったことをとても申し訳ないと思っています。そしてその謝罪すらも送らずにここへ残していることも、どうか許して下さい。

 君がここを訪ねてくることについて、僕には直感的予想のようなものがありました。それは僕の希望とかが多分に含まれているもののような気がするけれど、今君がこれを読んでいるということは的中したということです。ピース。

 僕は今この家には住んでいません。というか、住めなくなりました。他人の声が聞こえてくるのが怖くなってしまったんです。僕は今、ここから少し離れたヴィスビュー・サナトリウムという所で暮らしています。精神病院みたいな所です。

 親切な君なら、もしかしたら僕を訪ねてくれるかもしれません。でも一つ忠告しておくと、君は君の為に色々なものを使う権利があります。それだけ。この家は自由に使って下さい。家の鍵は二つ目の棚の中です」

 私はその手紙を読み終えると、ヴィスビュー・サナトリウムという施設について調べてみた。そこはここから一時間歩いた山奥にある精神病院のようだった。

 安堵と疑問が一緒くたになって腸の中から全身に広がった。自殺していなかったのは幸いだが、手紙を読む限りではかなり複雑なことになっているようだった。私はその手紙をバッグに入れて腕時計を見やって、二番目の引き出しから鍵を取り出して、今日のところは一旦帰ろうと家を出た。空はすっかり青黒くなって、星が見えた。あるいはそれは飛行機だった。

 

第六章

 

   〇

 

 翌朝、私はギターケースを持ったままホテルの近くのレストランで朝食を済ませると、その足でヴィスビュー・サナトリウムに向かうことにした。調べた所途中まではバスが出ているようだったから、まずバス停に向かった。

 日本でも電車に比べるとバスは時間にルーズだけれど、ヴィスビューのバスはもっとルーズだった。予定時間を十五分過ぎてもとうとうやってこなかった。私はその間、飛行機で読んでいた本の続きを読んでいた。丁度ページをめくった所でバスがやって来て、行き先を確認してそれに乗った。その停車場から乗ったのは私一人だけで、私の他に乗客は三人だった。

 その三人は途中で降りて行き、その間誰もそのバスに乗らなかったから、乗っているのは私だけになった。バスはそんなことはお構いなしに畑の見える道を進み、山の比較的緩やかな所を登っていった。

 私を降ろしたバスは、また山を下りる道へ走っていった。一応舗道と言えなくもない道が山の奥の方へ伸びていて、近くに看板があった。

「Visby sanatorium(ヴィスビュー・サナトリウム)」とだけ書かれた簡素な木製の看板で、その道の方を指していた。

 手入れがされていない割に、雑草が伸び切っているというわけではなった。針葉樹が空高く伸びている影響で、辺りに太陽の恵みが届かないのだ。そのためじめじめとしていて、苔が至ると所からむしていた。私はその不快な湿度の中を道なりに進んでいった。

 不本意なハイキングをしている途中、私は彼について考えていた。精神病院に入る原因についてだった。何か人生を変える劇的な変化があって、そこからいつもの生活を取り戻せなくなってしまったのか、元々どこかに撒かれていた種が時間をかけて根をはっていったのか、あるいは他の理由があったのか。考えた所で、彼自身にしかそれは分からないのだ。もっと言えば、彼にすら分からないのかもしれない。

 彼と会って何を話すのか、それを決めるよりも先に白い施設が見えてきた。ヴィスビュー・サナトリウムは、見晴らしのいい山の上で太陽の光をいっぱいに浴びて存在していた。

 

   〇

 

 大きな庭があって、そこでは色々な野菜が栽培されているようだった。さらに施設の裏手にはグラウンドのようなものもあり、数人がバスケットボールをしているのが見えた。精神病院というよりは児童館のような場所に見えた。

 私がその施設の受付のような場所へ行くと、私に気が付いた一人の職員が寄ってきて話しかけた。

「God eftermiddag…ああ、日本の方ですか。こんにちは」

「……こんにちは」

その受付の女性は、私の顔を見て流暢な日本語に切り替えて話した。外国人とは思えないほど流暢に話すので、私は一驚した。

「日本語で大丈夫ですよ、昔住んでいたんです。今日は、どのような用で?」

 正直、英語ですら意思疎通が怪しかったから日本語が話せる職員がいたことにほっとしていた。彼の名前と、その彼と面会をしたいという旨を伝えると、彼女は横の棚から資料のようなものを取り出し、パラパラとめくった後顔を上げて話し始めた。

「この施設のことは、どうやって知りましたか?」

「手紙で、ここに入院していると聞きました」

「なるほど」と呟いた後彼女は黙り込み、しばらくしてから再び話し始めた。「ここは少々特殊な施設です。一般的にイメージする精神病院とは異なっているかも知れません」

「特殊?」

「案内します。付いてきて下さい」

 彼女はそう言って受付を出て歩き始めた。

「まず、精神病院と言っても狂人のような人たちで溢れかえっている訳ではありません。どんなイメージをお持ちか分かりませんが、意外と社会性を持っているし、この病院内で社会と呼べるコミュニティが存在しています」

 彼女は窓の外のグラウンドや、扉の開けられたままの部屋の中を眺めながら言った。グラウンドでは相変わらずバスケットボールが行われていて、開放的な部屋の中では数人の女性が手芸のようなことをやっていた。

「例えるなら海と川ですね」と彼女が言った。

「海と川?」

「ええ、外の世界が海で、この病院の中が川です。その間に大きな違いはなく境界線も曖昧ですが、それらは確かに別物です。海では頻繁に災害が起こります。津波、高潮、異常潮。そういう荒波に耐えられなくなってしまった人たちがここには大勢います。そして再び海に戻るために、塩水に慣れる訓練をするんです」

 彼女は淡々と説明しながら階段を上った。

「着きました、ここがそのお部屋です。それでは」

 彼女は三階の西側の扉の前で止まり、深々とお辞儀をして帰っていった。私は何も言えずにその背中を見送りながら、海と川の違いについて考えていた。

 その扉を二回叩くと、奥から物音が聞こえてきて、足音が近づいてきて扉を開けた。

「アドマイヤベガ」

 扉を開けた彼は、私が知っている姿よりもずっと痩せて細くなっていた。

「久しぶり」

「わざわざ来てくれたのか。ありがとう、立ち話もなんだし、どうぞ」と彼は言って、私を部屋の中に招き入れた。

 部屋の中はホテルのようになっていて、ベッドやチェストなどの家具が置かれていた。部屋に入って気になったのは、その生活感の無さだった。乱雑になっているものは一つも無く、全てが収まるべき所に収まっていて、完全な不完全といった具合だった。

 私が手を洗っている間に、彼は小さなキッチンで湯を沸かしていた。彼はそれをインスタント・コーヒーのフィルターに注ぎ、二つのマグカップを机の上に運んだ。

「座ってよ、話そうよ」

 私は窓際の椅子に腰かけた。その窓からはヴィスビューの街を一望できて、おまけに海まで見えた。

 

   〇

 

「いくつか聞きたいことがあるのだけれど」と私が言うと、彼はゆっくりとマグカップを持ち上げ、窓の外を眺めながらそれを傾けた。

「どうぞ」

「手紙で聞き忘れたのだけれど、どうしてトレーナーを辞めたの?」

「うーん」彼は相変わらず窓の方を向いていて、その空がゆっくりと雲を流すのを観察していた。「当時付き合ってたガールフレンドがいてね、死んだ」

「死んだ?」

「そう、車にハネられて死んだ。大切な人が死んだのは、両親と祖父を合わせて四人目だった」

 私は彼がそんなことを淡々と話しているのが信じられなかった。彼の両親と祖父が亡くなっていたことも、ガールフレンドが亡くなっていたことも初めて知った。しかしもっと驚いたのは、それほどまでに大きなことをまるで歴史の出来事を説明するように語る彼の話し方だった。そこには感情の起伏みたいなものが一切感じられなかったのだ。

「で、日本にいると彼女のことを思い出しちゃうから、いっそどっか行っちゃおうと思ってヴィスビューに来た」

「どうしてヴィスビューなの?」

「どうして?」

「つまり、それだけなら他の場所でも構わないでしょう? 例えば中国とか、ノルウェイでも」

「ああそれは」と彼は言った。「何でだっけな」

 彼はそれ以上そのことについて言及しなかった。話したくないことなのか、本当に忘れてしまったのかは定かではないが、それ以上聞いても無意味だという確信があったから掘り下げて聞ことはしなかった。

「どうして手紙を書かなくなったの?」

「ああ、ごめん。それについては謝らないとって思ってたんだ」

「別に怒っている訳でも責めている訳でもないわ。義務ではないんだから」

「五人目が死んだ」と彼は言った。

「五人目?」

「ヴィスビューで友達ができた。中々気が合う男で、毎日のようにパブでピーナツを食って酒を飲んで話してた。で、病気になって死んだ。その時に色々どうでもよくなって、自殺しようとして失敗した所を警察に見つかってこの病院に入れられた。ポストは街に降りないと無いから、中々手紙を出せなかった」

「……そうだったのね」

 彼は空を眺めていた。私ももう一度空を見てみると、さっき見た時とはその模様や色が微妙に変わっていた。

「誰からも愛されずに生きていくことは恐ろしいよ」数分の沈黙の後、彼は唐突にそう言った。「愛されている君には分からない」

 その言葉を受けて、私は再び愛について考えてみた。やはりその定義は曖昧としているように思えてはっきりとした形を捉えることはできなかったが、確かに私は愛されていると思った。

 しかし、彼にはそれが無いのだ。私は私の身の回りの大切な人が全員事故や病気で亡くなってしまうことについて考えてみた。両親やトレセン学園時代の友人や、大学の友人、それからあの古本屋の店主さえも残らず亡くなってしまった先に何が残るだろうか。あまりの現実味の無さに私は上手くイメージすることができなかった。しかし彼はそこにいるのだ、と私は目の前の彼を見た。

「じゃあ、私が愛したらあなたは怖がらずに生きていけるの?」

 口をついてそんな言葉が漏れた。脳の中を一度も通らずに出てきたような感じで、口にしてから私自身が驚いていた。しかし段々と落ち着いてきた頭で考えてみると、それは私が本当に望んでいることのように思えてきた。

「えっ?」と、彼も驚いていた。

「私が愛するなら、怖がらずに生きていけるの?」ともう一度聞いた。

「ええと」彼は頭を掻いて、数度瞬きをして私を見た。「それは義務感だろう? 同情は愛情じゃない。それに、もう大切な人は欲しくないんだ。失うのが、怖い」

 窓から見える遠くの海が日光を反射してきらりと光り、鬱蒼とした森の部屋まで届いた。

「なら、私とデートをして」

「デート?」

「私はあなたの大切な人になってみせるから、あなたは私に愛されるようにエスコートをして」

 振り返れば、恋愛映画でも言わないような大層な台詞で告白したのだな、と顔が赤くなる。

 いつから彼のことが好きだったかについて考えてみても、その境界線は曖昧に存在していて分からなかった。しかし少なくとも、このときには既に彼を愛していた。ある人が死ぬことがたまらなく惜しく、共に生きてほしいと願うことを、愛という言葉以外で何と表せばいいのだろうか。

 

第七章

 

   〇

 

 彼と共にサナトリウムを出たのが、午前の十一時くらいだった。ギターケースを背負って山を下ると、街に着くころには耐えがたい空腹感に襲われた。

「昼飯にしようぜ」

「そうね」

 私達は近くのレストランに入った。シックな音楽が流れていて、床板が暗い木材だからなのか、落ち着いた雰囲気のある店だった。メニュー表に写真が付いていないせいで私はその店が何の店なのかも分からなかったが、彼はスウェーデン語をすらすらと読めるようだった。注文を待っている間、私がここに来るまでの経緯を詳細に話していた。

 丁度羽田空港でアイスコーヒーを飲んでいた所まで話し終えると、料理が運ばれてきた。それを軽く食べえて、食後にコーヒーを飲みながらサナトリウムまでの経路を順番に話した。彼は私の話を聞いている間一言も口を挟まず、声帯を奪われたかのように静かだった。

「どうしてギターケースを持ってきたの?」と彼に聞いた。彼は施設を出るときに自分のギターケースを持ってきた。私のものよりも一回り大きいそれを、彼はよろけながら背負って歩いてきたのだ。

「君も背負ってるじゃないか」と彼は言った。私もホテルを出るときに持ってきたのだ。「同じ理由だよ」

 それから私は、青空のヴィスビューを彼に続いて歩いた。大きな広場では市場が開かれていて、不思議な形のアクセサリーや変わった色の服を売っていた。それからまた歩いた。家々の玄関先にはフラワーボックスが飾られていて、色とりどりの花が咲いていた。薔薇に浸食されている家もあった。それらを横目に、また歩いた。喫茶店に入って、私はここ最近コーヒーしか飲んでいなかったような気がして紅茶を注文した。彼はコーヒーを頼んだ。店を出てまた歩いて、海辺の道路まで来た。日は水平線の向こうへと落ちていき、華やかなヴィスビューの六時を染め抜いた。

 彼は波の打ち付ける音まで聞こえるベンチに座った。つられるように私も座って、彼の横顔を見た。

「流石にちょっと疲れたな。こんなに歩いたのは久しぶりだ」

「大丈夫なの?」

「体は至って健康だからね」彼はそう言うと、背負っていたギターケースを前に回し、ギターを取り出した。真っ黒な表板のそれは、これからやってくる夜をそのままそこに映しているように見えた。彼は弦を何度か弾くだけでチューニングを済ませてしまった。

「音感があるのね」

「多少ね」

 彼はゆっくりとギターを持ち上げて、脚を組んだ上に置いた。長く爪の伸びた指で丁寧に弦を鳴らし、手のひらで弦を叩いてリズムを取った。喉ぼとけを上下させて掠れる声で歌い出した。それは手紙にあった歌のどれでもない、聴いたことのない曲だった。それを聴いていると、海が砂を攫う音もたまに通りかかる車がエンジンを吹かす音さえも音楽になり、滑るように落ちていく太陽はスポットライトになっていくように感じられた。音楽は彼の内側から染み出すようにその周辺の世界に広がっていき、私はそのミュージックホールの観客席に座っていた。

 彼はその曲だけを歌い終えると、ギターをケースにしまって私を見た。君の番だ、ということらしい。私は、──それは本当に照れ臭いことだったけれど──自分で書いてみた曲のことを思い出してそれを歌った。古本屋でアルバイトしていた時に、あまりにも手持無沙汰で書いていたものだ。それを書いていると、音楽を作るということがどれだけ大変なことか、その断片が分かった。音楽を作るという行為は、深いぬかるみに手を伸ばして、その中から何度も様々なものを取り出すような感覚なのだ。そしてそのぬかるみから出てきたものについて考えを巡らせて音にして歌詞にした。ようやく完成したと思って弾いてみるとそれはひどい音が鳴って、そしてそのまま引き出しの中に記憶と共にしまっていた。私はその曲のフレーズを手が動くままに弾いてみた。歌い終えてから目を開くと、どんな風に何を歌っていたのか、さっぱり覚えていなかった。

「良い曲だった」と彼は言った。

 

   〇

 

「私は、あなたの大切な人になれた?」と聞いた。空はもうすっかり黒く染まり、街灯の下に羽虫が集まっているのが見えた。

「ああ、思い返せばずっと大切だった」

「怖い?」

「怖い。俺の中で君が占める割合が大きくなればなるほど、失った時により大きな穴が開く」

「なら」と私は彼の手を握った。「私はあなたより長く生きる。あなたが死ぬときにもこうして手を握ると約束する。それなら怖くない?」

 彼の手は氷のように冷たく、私はその手を強く握り、熱を伝播させていった。彼は戸惑うように握った手を見て、しばらく黙っていた。波が三度寄り返し、彼は突然何かが溢れたように泣き始めた。嗚咽がほとんどのその泣き声は、何かを叫んでいるようにも聞こえた。私はほとんど反射的にうずくまるその背中を抱きしめた。私よりも一回り大きいはずのその背中は、小さな子供のようだった。

 

   〇

 

「それじゃあ、また」と言って私は空港へ戻った。彼は大きく手を振っていた。

 精神的な病というのは、一朝一夕で治るものではない。けれど一度快方へ向かうと、それからは意外と素直に治っていくものだ、とサナトリウムの職員が言っていた。

「そう遠くない内に東京に帰るよ」

「そう。思い出すのは、怖くないの?」

「怖い。でも、君と一緒に暮らせたらな、って思うから」

「そう、楽しみにしてるわ」

 空港を前にして、どちらからともなく私達は近づいて、強く抱擁を交わした。この一週間の間に、私の中で彼はかけがえのない大きな存在になってしまっていた。体を全て彼に預けて、私は彼の胸の中で目をつぶった。

「もう飛行機が出る時間だよ」

「……もう少し」

 私はどうしようもなく、彼を愛してしまっていた。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。