私がトレセン学園に努めてから初めて夏を迎えていた。
体験した事の無いジメジメとした暑い日本の夏。
11月の日本しか知らない私の体が悲鳴を上げている。
通勤途中は全身から清涼感の無い汗が止まらない。
ホームの階段が重たい。
昨夜、つい今年の春のレース結果の分析から
秋のレースの展開予想につい熱中してしまった
睡眠時間を削った事も重なったのがより苦しい。
菊花賞で復活してきたトウカイテイオーを
自分ならどう攻略するか?
今の私には無意味な空想に夢中になってしまった。
不快さの中でふと思う。
私はまだ未練を捨てれそうにない。
フランスにいた頃からそうだった。
生まれ故郷のアメリカから
父の故郷であるフランスに家族で移り住んで
私はそこでレースデビューをして
凱旋門の夢を見ながら、ひたすら走り続けた。
それなのに、2年以上かけても
たった一度の勝利しか得る事ができなかった。
そんな私を父と母が受け入れてくれたのは
負け続けた事よりも辛かった。
娘としては愛してくれたけど
選手としては期待していない。
二人ともレースは教養の一つだと考えている。
ウマ娘にとって。いや、私にとって
競い合い、勝利する事が自分を証明する
たった一つのやり方なのに。
両親と意識が食い違う中
私は一人だけでアメリカに戻る事を決めた。
たった一度だけ味わえた勝利を忘れられず
私は生まれ故郷に救いを求めた。
私の身を案じた両親は一人ぼっちの帰郷に反対したけど
妹だけは応援してくれたのは嬉しかったな。
幸運にも私の脚はフランスの芝よりも
アメリカの芝と相性が良かった。
転入先の学園長が直々に指導してくれた事もあり
私は2度目の勝利を渡米してすぐ飾る事ができた。
私が重賞、しかもG2レースを勝てるなんて
フランスで負け続けた頃には考えもつかなかった。
それでも、G1の壁は厚かった。
最高の走りをしても、アタマ差で負けた。
あのG1レースは少しでも展開が違えば負けなかった。
この前のレースだって休養明けの調整不足が響いただけだ。
今回は最高のコンディションで挑めている。
だから、今度こそ私が勝つ番なんだ。
そう自分に言い聞かせて挑んだ2度目のG1レース。
そこに彼女がいた。
私は先頭を走る彼女を追い詰めかけた時
彼女はいきなり脚を緩ませて口を開いた。
「さぁ、ミーとやろうよ!」
その時だと思う。
人生の中で一番の怒りを覚えた時は。
ふざけているのか。
私はお前と競い合いに来たんじゃない。
勝ちに来たんだ。
これはお前のレースじゃない。
私のレースだ。
それでも、彼女を追い抜くことはできなかった。
ゴールを目前で並びかけた時
彼女は前を向いたまま。
私と競い合ったクセに、私じゃなくて
最期までゴールだけを見ていた。
心がぐちゃぐちゃのままゴールを駆け抜けて
大勢の前で泣きじゃくる私に貴女は
「楽しかったね!また一緒に走ろ!」
なんて言いながら手を差し伸ばしたね。
本当は弾いてやりたかったのに
その手を私は受け入れてしまった。
なんでだろうね。
走っている最中は貴女をあれだけ憎んでいたのに
走り終えた時、私はサニーの事が――
あれ?私はどうして、こんな時に
過去を振り返っているの?
気が付くと目の前に階段が視界全体に広がっていた。
そうか。
私は走馬灯を見ているんだ。
異国の地で脚を踏み外して亡くなる。
無名じゃないけど、有名じゃない私の死は
テレビのニュースを5分だけ支配して終わり。
私には相応しい最後かもしれない。
たった一度だけでも不相応な栄光を掴めた
私の人生は幸福に違いないよね。
ねぇ、サニー。
「危ない!」
誰かの叫びと共に左手に痛みが走る。
声のする方へ顔を向けると
暗めの鹿毛をした小柄のウマ娘が
私の左手を必死に掴んでいた。
やっと自分の状態を理解する。
階段で転倒しそうになった私を
目の前の娘が助けてくれたんだ。
急いで体制を立て直し、彼女に頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとう。
危うく大怪我をするところだった」
「いえ!そんな!
当然の事をしただけ……
って!貴女はもしかして
オベイユアマスターさん!?」
仕事の時を除けば知らない誰かに名前を呼ばれるのは
ナリタブライアンと初めて会った時以来だった。
私たちはひとまず階段を降り終え
人が少ない場所に移動した。
「よく気づいたね。
こっちでは普段と違う姿で走っていたのに」
「そのお綺麗な金と青の髪でわかりました!
こんなところでお会いできるとは!
ジャパンCは二回とも生で見ました!!
とっても、カッコよかったです!!」
尻尾を振り回しながら彼女は喜んでいる。
こういう反応は慣れてないけど
私はいい気分になってしまっている。
「助けてもらったお礼をしたい。
応援してくれていた分も含めてね。
連絡先を教えてくれたら、後日――」
「いえ!そんな!トンデモないです!
でも!よろしければ……!」
「なに?言ってみて」
「サインをいただけますでしょうか!!」
彼女は可愛らしい手帳とペンを差し出した。
「うん。私のでよかったら
書かせてもらうね」
「あ、ありがとうございます!」
左手で手帳を受け取った時
少しだけ痛みが走る。
その表情を彼女に見られてしまった。
「すみません……
私が強引に引っ張ったから……」
「貴女が私の手をとってくれたから助かったんだよ。
それにサイン書くくらいなら大丈夫」
私は手帳のメモ欄に自分のサインを書こうとした
けれど、手が止まってしまう。
心配そうに彼女が見ている。
「少し待っててね。
サインはあまり頼まれた事がなくて」
私は緊張で震える手を動かして
彼女の手帳に自分の名を残した。
上手く書けたか分からない。
「ごめん。少し不恰好かも」
「そんなことないです!
すごくカッコよくて、気品のある字です!
本当にありがとうございます!
一生の宝物にします!」
彼女は真っ赤な顔を素早く深く下げて
頭を上げた途端、走り去ろうとした。
「まって。貴女の名前を教えて」
「名乗るほどの者ではございませんので!
それでは!!」
彼女は名前すら残さず消えてしまったけど
私の左手には痛みと温もりが残り続けていた。