二〇九五年四月三日 午前一時 八王子市 ヒロト宅
ヒロトの自宅は国立魔法大学附属第一高校から徒歩十数分の閑静な住宅街にあった。司波家ほどではないにしろ、一般的には立派と言える部類の一軒家である。外から見ただけでは分からないが地下室も備わっている。
国防海軍に所属していた父から相続した中学生が持つには大きすぎるお金で一年前にヒロトとヒロトの妹が購入した。諸々の手続きは生前のヒロトの父の友人だった軍人がヒロトたちの未成年者後見人となり、済ませてくれた。今は残った財産と国防軍人の弔慰金と遺族年金で生活している。
そんな自宅の自室でヒロトは明日(厳密に言えばすでに今日だが)の入学式に備え、ベッドに横になり、眠りについた…。
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少年が薄汚れた布をかぶって路地裏で横たわっている。すでに空は完全に暗くなっており、路地裏から一歩外に出れば、街灯や電光掲示板が爛々と輝いている。
周りには似たような状態の浮浪者が幾人か、また酔っ払ったサラリーマンらしき男が自分の吐いた吐瀉物の上で泥酔している。
地面には日本であれば、もはや絶滅危惧種となり一部の愛好家しか使用しない、紙媒体の新聞が、なんらかの液体を染み込ませてぐしゃぐしゃになり落ちていた。
もしその新聞をよくよく観察してみたならば書いてある言語が日本語ではなく中国語であることがわかるだろう。ここは大東亜連合有数の大都市として栄える上海市であった。
上海市、大亜細亜連合有数の大都市として栄えるこの都市は様々な役割を持っている。商業施設や富裕層向けの娯楽施設から庶民向けのデパートや博物館、大亜連合最大の繁華街、そして大亜連合海軍の海軍基地。
この上海は二十一世紀初頭、二千万人を超える常在人口を誇り、それに見合う経済規模を有する都市であった。しかし、急激な寒冷化による食糧不足によって生じた治安の悪化、第三次世界大戦と呼ばれる二十年に及ぶ世界大戦よる旧来の体制の崩壊、中華世界の分裂、などの影響を強く受け二十一世紀中頃にはかつての繁栄は見る影もなくなってしまっていた。
だが、二〇六四年に大亜連合が中華統一を果たした事により徐々に治安は安定しする。そして、沖縄海戦が生じた二〇九二年には二十一世紀初頭の面影を取り戻しつつあった。
視点を先程のの路地裏に戻そう。少年は近づいてくる二人に気づき、彼らを路地裏にあるこじんまりとした一室に案内していた。彼らも少年と同様に本来ならまだ中等教育を受けているはずの年齢であり、体格も少年とほぼ同じであった。
路地裏の一室で三人はこの後行う任務の最終確認を行う。侵入する施設の最新の情報を共有し合うと、三人は任務に赴くための装備に着替える。
刻印型魔法が施された防弾チョッキ、腰についた二つのホルダーには拳銃型の特化型CADと拳銃の武装一体型CAD、さらには左腕の汎用型のCAD、それらが共通装備でありその他の装備は三人それぞれ微妙に違う物を付けている。
着替えが済むと三人は和んだ様子でしばらく談笑に興じていた。彼らの服装に目をつぶればなんら変哲のない中学生のようだ。
もしも彼らの容貌をしっかりと観察できる第三者がこの場にいたならばあることに気がつくだろう。三人全員が目立たない程度、だがしっかりと印象が変わるほど化粧を施されていることに。
着替えている間にしていたわけではないから、ここに来た時点で変装していたようだ。
そして、もしその化粧を落とした姿も見れたのなら、全員血縁関係がある、などでは説明できないほど顔が似通ってることに気付くだろう。
任務開始の定刻になる。三人は顔を引き締め、首周りを保護するため巻かれている布を持ち上げ、鼻まで覆う。さながら忍者のようである。
路地裏にすら張り巡らされた監視カメラに捉われないように、窓から一人づつ身を乗り出して、屋根の上に登っていく。外は小雨が降り始めている。任務に好都合、というよりわざわざ雨が降る時間帯を狙っていた。
そして三人全員が自己加速魔法を使い、屋根から屋根へ飛び移っていく。魔法を行使しているのに都市中にあるサイオンセンサーは魔法を検知しない。三人の魔法技能のレベルの高さ故だ。
三人は自動車並の速度まで加速していた。
目的地は、大東亜連合海軍上海基地。
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上海海軍基地内は騒然としていた。警報が鳴り響き、どたどたと兵士たちが忙しなく走っている。
大亜連合でここ数ヶ月で頻発している政府高官や高級将校の暗殺を受けて、上海海軍基地も事前に最大限の警戒態勢が敷かれていた。そのような状況で基地の司令官が暗殺されるという異常事態に多くの将兵が混乱していた。
そんな中、先程の少年は任務を完遂し、基地内から脱出しようと、基地内の通路を走っていた。対象を殺した時点で他の二人とは別れていた。その時点ですでに警報が発令されてしまっていた。ゆえに注目を分散させ、一人でも脱出できるようするためだ。
少年はすでに何度もハイパワーライフルを装備した兵士と会敵している。そのたびに最小限の手間で排除していたが、塵も積もれば山となる、という諺の通りに脱出計画の遅延を余儀なくされていた。そして、その無名の兵士たちの文字通り命がけの足止めは、実戦魔法師の現着という少年にとって最悪の結果をもたらした。
少年は遠くから感じていた獰猛な獣のようなオーラが直ぐ近くまで接近しつつあるのを把握していた。会敵は不可避と悟った少年は迎え撃つ覚悟を決め、左腕のCADを叩き、事前にいくつかの魔法を発動する。
数秒も経たないうちに通路の曲がり角から白い中華風の甲冑を身に着けた男が飛び出してくる。少年たちの事前のブリーフィングで上海基地にいることが確認されていた大亜連合特殊工作部隊のエース、
見つめ合い口上を述べる、というドラマのワンシーンのようなことは当然起こらない。少年は敵を視認するより先に、事前に構えていた拳銃の武装一体型CADのトリガーを連続して引いていた。
発動した魔法によって、仮想領域でさらに加速し威力を増した弾丸は大砲のような威力で、通路を曲がって現れた呂に直撃する。しかし呂は踏みとどまって耐え、次々と襲ってくる弾丸を見切り、少年へと襲いかかる。
少年は事前に発動準備していた、床を振動させるだけの一工程の振動魔法、音波振動系統の爆音を鳴らす魔法、サイオンの衝撃波をぶつけて戦闘不能にする無系統魔法、など様々な魔法を呂に向けて発動する。
しかし呂は「
少年は魔法によって遠距離から倒すことを諦めたのか武装一体型CADを捨て、ナイフを取り出し格闘戦の構えを見せる。
それを見て、呂は内心喜んでいた。近接格闘ならば即座に殺せるからだ。魔法を受け続けても負けるとは思わなかったが、侵入者がまだ二人残っていることを考えればできるだけ手短に終わらせたかった。また呂は自身に対して近接格闘を挑むことから、相対する敵の脅威度を一段階下げる。
近接格闘戦に移行した二人の戦いは圧倒的に呂優位で進んでいった。呂は当たれば即死に近い攻撃を手足から繰り出すが少年はそれを避け続けるしかなかった。壁や天井すら利用して回避に専念し続ける。
しかしそんな状況がいつまでも続くわけがない。とうとう少年が体勢を崩した隙に呂の繰り出した掌打が少年の腹を殴打する。少年は吹き飛び廊下の端の壁に激突して停止した。
呂は手応えに違和感を感じる。どうやら少年はインパクトの瞬間に何らかの魔法を行使して衝撃を削いだようだ。殺すつもりで殴ったが、もしかしたらまだ生きているかも知れない。
生け捕りにすることができれば昨今大亜連合で起きている暗殺事件の背後関係を聞き出すこともできる。今までの暗殺事件でもあと一歩で下手人を捕獲できるというところまで行くことがあったのだが、毎度下手人は捕まりそうになると自身に人体発火魔法を発動していた。そのため容姿どころかDNA情報すら判明していなかった
呂自身は十中八九、小日本の仕業だと確信していたが、国内の組織である可能性も否定できなかった。呂はそれを明らかにすることができると思い、近づこうと考える。まずは、戦闘で止まっていた息を整えるために深く息を吸う。
が、その瞬間、呂は膝から崩れ落ちる。呂は薄れそうになる意識を気合で保ち気道を閉じる。おそらく化学兵器によるものだとあたりをつけた呂だが、少年が吹き飛んだ方向から間髪入れずに飛んできた衝撃波にさらに少量の空気を吸い込んでしまう。
呂の意識が本格的に危うくなる。しかし、このまま意識を失えば高濃度の化学兵器に汚染された空気に晒されることになり、死亡する可能性が高い。呂は息を止めてなんとか移動する。
移動した先でぼやける視界で呂が確認したのは、少年が倒れていたところには誰もいないという事実だった。
少年がやったことは単純だ。倒すことを諦め、事前にオゾンと窒素酸化物を生成する魔法を継続的に一定の領域で発動し、十分な量が生成されるまで戦闘を引き延ばしただけ。そして、戦闘が終わってからそれを解放する。収束と発散と吸収の二系統三種の工程を含んだ魔法だった。
それでも戦闘中に吸った少量のオゾンと窒素酸化物が体に残り、倦怠感を起こしていたし、なにより呂から受けた掌打が多大な影響を体に残していた。
しかし、一刻も早く基地の外に逃げなければ少年に待っているのは死に他ならない。少年は自己加速術式で体を無理やり動かし、目に入った敵を悉く殺して施設の外に出る。侵入したときには小雨だった雨だが、今は豪雨になっていた。遠くからも銃声と爆音が鳴り響いている。他の二人も脱出のために必死の戦闘をしているのだろう。
少年自身も次から次へと降ってくるハイパワーライフルの銃弾と魔法の数々を、障壁魔法、領域干渉、情報強化、自己加速術式を駆使して防ぎ避けつつ、敵の足元の地面を川のように流れる雨水を対象に特化型CADで魔法を発動し、水蒸気爆発を起こす。
即座に千七百倍にまで膨張した水は付近の人間を物言わぬ肉片にし、弾け飛んだコンクリート片が周囲の人を殺傷する。非魔法師であれば強化人間であろうと、わざわざ直接肉体に干渉しなくてもこれで即死する。
この魔法の難易度は易しくはないが、決して特定の人物しか使えない属人的な魔法でない。ただし規模と威力は魔法の干渉力によって左右されてしまうが。
少年が次々と特化型CADで魔法を発動すると、周囲は悲鳴と爆発音で阿鼻叫喚となった。第一線級の魔法師がいなかったこともあって、この隙に少年は基地の外への脱出を果たす。
基地からは未だに轟音がやんでいない。
基地の外にもいる軍人や警官から適宜魔法を使いながら、隠れて移動する。上空も緊急発進した無人ドローンまみれで上空からの監視が厳しい。おそらく赤外線カメラや高性能カメラで基地襲撃の下手人を探しているのだろう。少年はなけなしのサイオンで自身から発せられる赤外線のベクトルをすべて下に向ける魔法を発動する。
少年は予定通り、茂みの中に事前に隠していた真っ黒の厳ついケースから変装用の衣装を取り出し、装備を入れる。そしていくつかの手順を踏んでケースを起動させる。そうすれば、装備はすべて焼却されるという寸法だった。
あとは他二人と事前に決めていた合流地点に行くだけである。しかし予定の合流場所に行く途中、ほぼ同時に二人からの霊子の波動を知覚する。
これは少年が少年の上司にも、同僚にも伝えたことがないことであるのだが、少年の同僚たちは感情が昂ぶると精神次元を通じて少年にその情念を一方的に送ってしまう。おそらく同僚の出生と少年の特異な事情が関係していた。
少年の頭に流れ込んできたその情動は、
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少年が最後に感じ取ったのは二人が自分自身に向けてなんらかの魔法を発動した気配だった。
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──またか……。これは、しかも最後のやつ……。しかし、よりによって今日か……。
ヒロトは何かが動く気配を感じて意識が覚醒する。おそらくヒロトの妹のカイナが起床したのだろう。時計を見ると時刻は午前四時ちょうどを指していた。
定期的に見るこの夢はヒロトにとってあまり愉快なものではない。自身の業を強制的に見せつけられている気分になるからだ。しかし同時に感謝もしていた。
──ああ、分かってる、忘れないさ。忘れるはずがない。忘れてたまるものか。俺は彼らの
ヒロトは鬱々とした感情を抱えながらも、体を起こして、気持ちを切り替える。いつまでもグダグダと引きずってもいられなかった。
顔を洗うなどして、簡単に身だしなみを整えると、迷彩柄の軍服のような運動着に着替える。そしてすでにカイナが待っているであろう地下室へ向かった。
階段を下って地下室に行くと、ヒロトの予想通りカイナがすでに準備を終え待っていた。
地下室というよりかは地下闘技場というほうが適切なのかもしれない。床は柔道などのスポーツの競技場でよく見る、低反発のゴム製の畳が敷き詰められていた。ところどころ傷んでいるところを見るに相当使い込まれていそうだ。
「おはよう、カイナ」
「おはよ、ヒロト」
カイナ、と呼ばれた女性はヒロトに似た柔和で朗らかな印象を受ける、ショートカットの少女だった。それ故、今着ているヒロトと同じ迷彩柄の服がカイナには不釣り合いだった。身長は一六五センチくらいか。中学三年生女子としては大きほうだ。
ヒロトと二人で並んでいたら、よく似た兄妹だと思われることだろう。
しかし世間一般で言う血縁というものは二人の間に存在しない。どちらかといえば『親子』のほうが実際の関係に即した表現かもしれなかった。
「それじゃ、早速だけど始めよっか」
「うん、分かった」
カイナがそう了承すると、カイナが唐突にヒロトに襲いかかる。しかし、ヒロトは顔色一つ変えずに対応していく。
ヒロトはカイナの攻撃を軽くさばきながら、適度に反撃していく。見る人が見るれば二人の動きの中に軍隊格闘術の面影があるとこに気がつくだろう。
次第に二人の格闘はヒートアップしていく。お互いに一撃一撃が速く、重くなっている。だがカイナの拳や蹴りがヒロトに受けられ、流されているのに対し、ヒロトの拳や蹴りはカイナに届いていた。男女の体格差がある以上、当然のことと言えば当然である。
徐々にカイナにダメージが蓄積していく。そしてついにカイナの腕が絡め取られ投げ飛ばされる。そこそこ広い地下室の中央から端の方まで飛んでいったカイナは、着地の衝撃を吸収させながら受け身を取る。
そしてすぐにヒロトの方を見ようと顔をあげる。
するとカイナの視界に映ったのは顔面に迫り来るヒロトの蹴撃だった。
このままでは回避が間に合わないことを察したカイナは、即座に自己加速術式を使用し大きくヒロトから離れ、回避する。
今までの格闘を児戯に等しくするようなカイナの速度に、ヒロトは顔に微笑を浮かべるのに対し、カイナが浮かべるのは無表情である。しかし、二年の時間を共に過ごしているヒロトからすれば、その無表情の中に焦りと緊張が含んでいることは容易に見て取ることができた。
「よし、じゃあウォーミングアップは終わりにしよう」
ヒロトの言葉に、了解、とカイナは体を起こしながら言う。そして地下室の隅に立てかけてある刃を潰してある小太刀の武装一体型CADと小型の携帯端末型CADを取る。また自己加速術式を常時発動できるよう待機状態にし、臨戦態勢をとる。
「続き、やろうか」
カイナの準備が整ったことを確認したヒロトは、そう言うと引き続き無手のまま構える。余裕をひけらかしているわけではない。これはカイナの訓練であるのと同様にヒロトの訓練でもあるのだから、よりお互いの実力が拮抗するようにハンデをつけるのは当然であった。
そして再びカイナが最初から自己加速術式が使われた攻撃を仕掛け、第二ラウンドが始まった。
● ● ●
ヒロトとカイナの都合が合うときに不定期で行われてきた組み手は今日はいつもより短い時間で終わった。今日はヒロトの高校の入学式があるからだ。時間があれば一日中訓練をしている事がある二人だが、今日の組み手は実戦形式のみで一時間弱しかかかってない。
その組み手の結果といえば、地面に仰向けで倒れながらCADを操作し自身に治癒魔法をかけているカイナと、壁に背を預けながらも目立った傷はなく、立ちながら息を整えているヒロトを見れば一目瞭然である。
「強くなったんじゃないか? 今までより随分と動きや立ち回りが良くなってる」
そう言いながら、ヒロトはカイナからCADを強奪し、カイナの体に治癒魔法をかける役割を代わる。ついでに二人の組み手で熱気がこもった地下室の気温を下げ、水蒸気を集めて凝縮させる魔法を発動した。
「ヒロトには手も足も出ないけどね」
カイナはちょっとムッとしながらも、上半身を起こしてこたえる。治癒魔法で痛みは引いてきたらしい。もともとヒロトは手加減していたし、この後の活動に支障が出るような怪我をさせないように務めていた。
「そりゃ、そうさ。実戦経験が雲泥の差だし」
「私だって、定期的に本部で実戦形式の訓練に参加しているんだけどなぁ」
「俺も本部の訓練は毎度毎度死ぬかと思うような目にあってきたけど、死ぬ可能性はほとんどないだろ? 実際に死ぬかもしれない戦闘の経験は何にも変えられないものがあるんだよ」
「ふーん」
ヒロトが実際、死の危険に溢れた戦場を転々としてきたという経歴はカイナもよく知るところであったし、その中で何人もの仲間を喪っていることも知っていた。あまりこの話を深掘りしないためにカイナは話題を転換しようとする。
「それにしても、今日いつもより厳しくなかった?」
「ああ、久しぶりに人喰い虎と戦闘したときの夢を見てね」
カイナは話を逸したつもりだったが、なぜか話が戻っていた。ヒロトに気にした様子はないが、この話題を続けるのはカイナが嫌だった。
「なるほどねー。
じゃあ、私はこれで上がるけど、ヒロトは?」
「俺はまだ残るよ」
「りょーかい。お疲れー」
「お疲れさま」
カイナはシャワーを浴びに階段を上がっていった。
カイナに治療を施したり、お喋りしたりするために、床に胡座座りしていたヒロトも起き上がって、自身の携帯端末型の汎用型CADを取りに行く。
そしてヒロトは目をつぶり、CADを叩きいくつもの起動式を呼び起こしては、発動直前でキャンセルしていく。
ヒロトが行っているのは状況に応じた魔法を瞬時に選び、より速く発動する訓練だ。目をつぶりながら仮想敵を想像している。
ヒロトはこの訓練法があまり効果があるとは思っていなかったが、なにもやらないよりはマシである。
ーーできれば、俺も本部で実戦形式でやりたいんだけどな……。勘が鈍っちゃいそうだし。
ヒロトは頭の片隅で最近めっきり会えていない一応の部下であり仲間たちを思い出して、アンニュイな気分になる。まだ今朝見た夢の影響が残っているらしい。
本部は飛行機か、船に乗らなければ行けないところにあり、軽々しく行けるところではない。ましてや、高校生活が始まれば今まで以上に忙しくなるだろう。
ーーいつになったら、帰れるんだろうな……。
気にしても仕方ないか。さて、気合い入れ直そ。
ヒロトは他にも一人でできる様々な訓練を淡々とこなしていった。
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ヒロトは訓練を終え、シャワーを浴びて制服に着替える。リビングに行くとカイナが朝食の準備を終えたところだった。
料理などの家事をHome Assistant Robott、通称HARに任せるのはヒロトが嫌がっている。ヒロトはパブリックネットワークであっても通信傍受を恐れて、可能な限りネットワーク機器を家に持ち込みたがらないのだ。
ヒロトはヒロトが率いる部隊にも同様に、秘密回線であろうと、機密情報をネットワークを通してやり取りしないことを可能な限り要求していた。
時刻は六時過ぎ、いつもの時間である。食卓に並んだ食事を二人は一緒に食べ始めた。
食事が終わった二人はリビングのソファーで食後の団らんを楽しんでいた。
「じゃあ、『ヒロト』って名前、適当につけたんじゃじゃなかったんだ」
「そ、比べるにお風呂の呂に都で比呂都。たまたま志那少佐から志那って名前をもらえたからね。ちょっと凝ってみたくて。ちなみにカイナは改めるに七ね」
ヒロトのその言葉を聞いて、カイナは顔を歪める。
志那少佐とは二人の父であった。実際は、戸籍上の、という前置きをするべきであるのだが。
志那少佐は沖縄海戦に伴う地上戦でゲリラに殺されたということになっているため、生前の階級である中尉から二階級特進をして少佐になっている。
「言われなくても自分の名前の由来くらいわかるよ。
それよりあいつの名前出すのやめてもらえない? 気分が悪くなるわ」
カイナは自分の名前がヒロトに適当に名付けられていたという事実ではなく、父親の苗字が自分の苗字になっているという事実に不快感を感じていた。ちなみにヒロトに付けられた『カイナ』という名前をカイナ自身は割りと気に入っている。
「気持ちはわかるけどね。でもあいつが未成年淫行に買春、挙句の果てには祖国を裏切った売国奴のクソ野郎だったお陰で俺達の戸籍を作れたわけだし」
「別にうちの本部は法務省に協力者がいたでしょ? そいつに一から私たちの戸籍情報を作ってもらえばよかったのに」
「いくら慎重に改竄したって、鼻のいい連中は嗅ぎつけてくるからな。一から作るぐらいだったらすでにあるものを利用したほうが賢い。DNA検査の結果をごまかすほうが楽だし。しかも本部の予算だったら絶対にこんな家には住めてないよ」
「それもそっか」
ヒロトの説明に納得したのか、カイナは落ち着いた様子でうなずいた。
またカイナはそんなことよりこれからのヒロトの任務のほうが心配だった。
「それにしても、任務の方は大丈夫なの?」
「さあ?」
「さあ? って……」
「司波達也の監視だろ? カイナと課長にも伝えた通り、俺の予想だともって半年じゃないかな」
「それって、ヒロトの言ってた司波達也がもってるっていう精霊の眼のせい?」
「それもあるけど、彼の自前の情報網と背後にいる組織のせいかな。相当慎重に動く予定だけど多分そいつらに勘付かれるのは時間の問題だよ」
「それが心配なんだけど……」
ヒロトはカイナに肝心の情報を伝えないようにはぐらかす。いつものことなのだが、いざとなったときにカイナだけでも助かるようにとのヒロトの配慮だった。カイナからすればそれが不安なのだが…
「まあ、監視任務がバレたときに即消されるってことがないようにうまく立ち回るよ」
「だけどさ……」
カイナが不満をにじませる。
「それとも、司波達也の関連の情報で俺が握っているもの全部知りたい?」
「いや……、そんなつもりじゃ……」
カイナはヒロトが自分のことを気遣って諸々の事情を話していないことに気がついていた。だからこそ、その気遣いを無にするようなことをわざわざしたくなかったのだ。故に言葉に詰まる。
「ごめん、意地悪な言い方だったね。
まあ、あんま深く考えすぎないでよ。できる限りのことは俺がするからさ。
だけど報告書に関しては……ね?」
「はいはい。ヒロトがこれから提出する報告書の口裏合わせをすればいいんでしょ。課長にはうまく言っとく」
「ありがとカイナ、恩に着るよ」
「もう……」
ヒロトもカイナも仲間、同僚のことは深く信頼し、信じていたが、だからといって上層部まで信頼しているわけではない。彼らはいざとなれば自分たちをたやすく切り捨てる、ということを特にヒロトは痛感していた。
ヒロトの沖縄侵攻と佐渡ヶ島侵攻に関する報告を握りつぶしたどころか、口封じのために仲間たちとまとめて死地に送り出した前歴がある上層部を信頼しろという方が無理だった。そしてそんなヒロトをカイナは誰よりも信頼している。
二人の間に和やか空気が流れる。偽装のものとは思えない、本物の家族のような団欒が再開した。
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午前七時過ぎ、ヒロトは徒歩で第一高校に向かっている最中である。入学式が始まるのは九時半、何も予定がない新入生が行くには早すぎる時間だった。傍から見れば緊張しすぎて早く家を出てしまった、これからの高校生活の期待を胸にいだいた新入生といったところか。
しかし、ヒロトはこれから始まる高校生活に複雑な感情を抱いていた。
ヒロトには誰にも打ち明けていない秘密がある。自身にいわゆる前世の記憶というものがあり、そこでこの世界を舞台にした小説を読んだことがあるということだ。
故にヒロトはこれから起こるであろう事件や出来事、監視対象である司波達也の事情のすべてを知っている。
だからといって、これからの高校生活を無邪気に楽しみに感じるほど順風満帆な人生をヒロトは送っていなかった。
ーー原作の物語はここからはじまる。正直言えば、何も考えずにこれから始まる物語を一人の傍観者として楽しみたい。
ーーだけど、カイナや今の仲間たち、そしてなにより、今は亡き仲間たちの最期の
純粋にここから新しい物語を始めるようと考えるには、俺はあまりに多くのものを背負いすぎている。
ヒロト自身が今世で背負ったものの大きさは、相対的に前世の記憶の重みを軽くしていた。
ーーま、俺の知識が当てになるとも限らんか。実際、原作に俺達の存在は描かれていなかったし、今まで会ってきたやつらだってほとんどがそうだ。しかも主要国の要人を暗殺したり紛争を意図的に起こしたりもした。少なくとも蝶の羽ばたきよりかは世界に影響を与えるてるだろ。
そんなふうにどこか達観した風に考えようとしているヒロトであるが、ほどなくして第一高校に到着する。そして第一高校の校門から講堂の方に進んだとこでなにか会話をしている男女を見つける。司波達也と司波深雪だった。
司波兄妹は、言い争いつつもイチャイチャしているバカップル、にしか見えない。
ヒロトは表情や雰囲気や目線、挙句の果てには想子や霊子に至るまで、違和感を周囲に与えないようにコントロールすることに長けていた。これは天性の才能と言っていい。
この能力を利用して、司波達也と親しくなり、その行動を逐一報告しろというのがヒロトが上司から命じられた任務だった。上司の指示に唯々諾々と従うつもりもなかったが、もし少しでも反抗的なところを見せれば、結果はヒロトだけの処分では収まらない。
だからといって、上司の命令通りに行動しても、ヒロトたちに待っているのは達也にばれて、処断される未来である。
ヒロトは内心で、あまりの不条理な現状に嘆きつつ、しかし、原作の冒頭部分を実際に見ることができたことに喜んでもいた。
そんな自分の現金さに呆れつつ、事前に考えていた通りに行動を開始する。
こうして、志那ヒロトの魔法科高校の諜報員としての日常が始まった。