『どうして!? 今日は――』
闇の中から声が聞こえてくる。
『――、あなたは私たちの希望よ。いつの日か必ず、この世界をより良いものに変えられるわ』
『――と――を忘れないでくれ。お前は誰よりも強く、誰よりも優しい、俺たちの自慢の――』
再び何者かの声が闇に響く。しかし、雑音のようなものが入ってところどころうまく声が聞き取れない。それに声の主の姿も見えない。
『生まれた……! 生まれたよ、――! 元気な男の子だ!』
『ふふっ。ほんとう、かわいい男の子ね。どうかこの子の人生が、幸せでいっぱいになりますように』
依然として声の正体はわからない。だが、どこか懐かしい感じがする。
『……名前、呼んであげようよ!』
『そうね。私たちの大切なこども、あなたの名前は――』
その言葉を最後に、闇が晴れて眩い光が差し込んでくる。
「…………ん」
目を開けると、そこには見たことがないほどに真っ白な天井があった。首だけを動かして周りの様子を確認してみれば、ここがなにかの部屋で、自分以外に誰一人としていないということがわかった。それと同時に、自分がベッドに寝かされているということにも。
(ここは……どこだ? それに……なんで?)
次に頭に浮かんだのは素朴な疑問。自分はいったいどこにいるのだろうか、なぜこんなところで寝ていたのだろうか。考えようにもなぜか頭がうまく働かない。しかし。
(ここでじっとしているわけにもいかないよな……)
そう思って身体を起こし、ベッドから降りようとしたのだが――。
「――あれっ?」
次の瞬間、ベッドから床へと盛大に転がり落ちる。理由はわからないが身体をうまく動かすことができなかった。またも疑問に思い、目に見える範囲で自分の身体を確認する。そこには骨と皮だけとまではいかないが、かなり細くなっている自分の腕があった。立ち上がろうとしてみても、腕だけではなく全身に力が入らない。
しばらくどうしたものかと考えていると、部屋の外からかなりの急ぎ足でこちらへ向かってくる誰かの足音が聞こえてくる。先ほどベッドから落ちたときの音が思いのほか外まで響いたのだろうか。やがて足音は部屋の前で止まり、勢いよくドアが開けられる。
「え、嘘……。先生! 赤い髪のあの子が、彼が目を覚ましました!」
扉を開けた女性は、まるで信じられないものを見たかのように一言つぶやき、誰かを呼びに急いで部屋の外に出て行ってしまった。床に倒れたままの“赤い髪”の青年は起こしてもらえると期待していたのだが、自分を放置したままどこかへ行ってしまった女性を見て、うまく動かせない肩を落とす。
今の女性が看護師のような恰好をしていたことと、「先生」なる人物を呼んでいたことから、青年は自分が病院にいるのではないかと推測する。それにしてもどうして病院に、いったいいつから、などといった新たな疑問が次々浮かび、それについて考えていた青年だが、直後に最も重要で最も大きな疑問が襲い掛かってくる。
「そういえば俺って……誰だ?」
「彼が目を覚ましたって、本当かい!?」
「はいっ! たしかに起きて動いていました!」
先ほどの女性が、眼鏡をかけた初老の男性と共に青年がいる部屋へと走っていく。その尋常じゃないまでの興奮具合に、廊下をすれ違う人々はみな困惑している。やがて青年の部屋の前に着き、ドアを開けた二人の目の前には、床に倒れつつもこちらをじっと見つめる一人の青年の姿があった。
「君! 大丈夫かい!?」
「あ、忘れてた! ごめんなさい!」
そう言うと二人は青年の身体を支え、ベッドに寝させる。
「あの――」
「ああっ、点滴器が! それに――……いや、その様子だと心配なさそうだね。とにかく、今目が覚めたばかりだろう、水を飲むといい」
男性は部屋にある冷蔵庫からペットボトルを取り出し、蓋を開けて青年に飲ませた。10秒を過ぎたあたりで青年が苦しそうにしたため、慌てて口から離す。
「おっと、すまない」
「……はあ、ベッドの上で溺死するかと思いました。それよりも、ここは病院……ですよね? 俺はどうしてここで寝ていたんですか? それに俺は誰ですか?」
「なんと……。君は何も覚えていないのかい? あの日のことや、君自身が誰なのかも」
「あの日のこと? ……いや、さっぱりわかりません。でも自分の名前なら覚えてます。それよりも、俺はいったいいつからここにいるんですか?」
青年のその言葉を聞いて、目の前の二人は表情を曇らせる。これから彼に伝える真実はあまりにも残酷であった。目覚めたばかりで混乱しているだろう今、教えてよいのだろうか。しかしいずれは伝えなければいけない。男性は意を決して口を開いた。
「……君は5年前に、とある事件に巻き込まれたんだ。こちらが保護したときにはすでに昏睡状態で、すぐにこの病院に運び込まれたのだが、決して意識を取り戻すことはなかった。……今日までは」
「…………え、5年!?」
男性の口から語られたそれは青年にとってあまりにも衝撃的なものであった。まさか5年間も寝ていたとは。どおりで身体がうまく動かないわけだ。それでもまだ生きていられたということが信じられないくらいだ。
「そういえば先ほど、名前は憶えていると言っていたね。なんて名前だい?」
男性が名前を問いてくる。自分でも不思議だが、今までのことをほとんど忘れてしまっているのにもかかわらず、名前だけは憶えていた。
「セキ、です。漢字はたしか……“隻眼”の『隻』」
その名を言った途端、二人の表情が複雑なものになる。もしかして記憶を失う前はとんでもない犯罪者かなにかだったのだろうか、と邪推してしまう。
「……苗字はないのかい?」
「わかりません。そもそも今言った名前が苗字なのか名前なのかも……」
二人の表情が元に戻る。とりあえずなにかの疑いは晴れたようなので、青年は内心ほっとした。それにしてもどうして名前だけは憶えていたのだろうか。……おそらくとても大切にしていた名前なのだろう。きっと家族もいたに違いない。なんだかとっても申し訳ないことをしてしまったな、なんてことを考えていると――。
「彼が目を覚ましたというのは、本当かい?」
親しみやすそうな顔をした人が、新たに部屋に入ってきた。
「わ、和修局長!?」
そう呼ばれたその人は、先に部屋にいた二人に軽く会釈すると、ベッドの上で横になっている青年――隻の隣に立ち。
「初めまして。隻くん、だったかな? 私は〔CCG〕局長の和修吉時という者だ。よろしく」
柔らかそうな笑顔を浮かべ、そう言った。