「初めまして。隻くん、だったかな? 私は〔CCG〕局長の和修吉時という者だ。よろしく」
そう自己紹介した男、和修は、柔らかそうな笑みを浮かべて隻を見る。
「……あ、ご親切にどうも、隻といいます。こちらこそよろしく……お願いします?」
突然現れた和修という男に、隻は困惑しながら挨拶を返す。先ほど「私共はこれにて失礼します……」と言いながら足早に部屋を出ていった二人の様子に、局長という肩書。彼はどこかの偉い人なのだろうか。
「ところで、その……和修さんは、俺にどういったご用件で?」
「いや、君がようやく目を覚ましたと聞いて、様子を見に来たんだ。それ以外にも、君にはいくつか聞きたいことがあったから、それを聞きにね」
「聞きたいこと、ですか? でも俺、自分のことすら全然覚えていないんですよ。質問に答えられるかどうか……」
「別に難しいことを聞くわけじゃない、安心して大丈夫だ。そうだね……まずは一つ目の質問だ。君は、“喰種”という存在に聞き覚えがあるかい?」
“喰種”――この世にはびこる絶対悪であり、人と同じ姿形を持ちながら、人を喰らうおぞましき存在。彼らは己の欲望のまま、なんの罪もない人々を殺めてその血肉を啜る。
そしてそれらを駆逐するために誕生したプロフェッショナルが、和修らが所属するCommission of Counter Ghoul、通称〔CCG〕である。
「“喰種”……人を食べる人……。聞き覚えがあるような、ないような……」
隻は失った記憶の中から、その存在を思い出そうとする。なんとなく知っているような気がするのだが、いまいち要領がつかめない。
――実際は何も聞かされていないのにもかかわらず、「“喰種”が人を食べる」ということを自然と口に出した時点で知っているということになるのだが、そのことに気づく隻ではなかった。
「ふむ、そうか……。それでは二つ目だが、君が憶えていないものと、憶えていることを教えてくれないかい?」
隻はまたも深く考える。彼が憶えているのは「隻」という自身の名前、そのほかには漢字や数字、「赤信号では止まり、青信号では進む」、などといった世間一般の常識くらいである。必然的に、それ以外はすべて忘れているということになる。
そうやって考えていると、突然彼の頭の中にとある景色が浮かび上がってきた。
「雨……」
「ん?」
「あの日、雨が降っていた……。その前も、そのさらに前も……」
思考の海に沈みかけていく中、隻は自分が彼からの質問に答えられていないことに気づく。
「……あ、すいません。二つ目の質問ですが、憶えているのは自分の名前と一般常識くらいで、忘れているのはそれ以外のすべて……です」
「……思ったよりも深刻だな。自分の家族のことや、それまで何をして生きていたのかもわからないのかい?」
「はい」
それを聞いた和修は顎に手を当て、何かを考え始めた。そして数分ほど考えたのち、再び口を開いた。
「……先ほど説明と思うが、君は5年間も昏睡状態にあった。その間にも私たちは君の身元を調べたのだが、何一つ手掛かりは得られなかった。それでいて君自身にも過去の記憶がないときた。未成年時に保護された以上、孤児という扱いにはなるのだろうが、君自身は年齢でいえば既に成人した大人になっている。つまり、この5年間での医療費などの支払い義務が生じるというわけだ」
彼からいきなり繰り出されたそんな話題に、隻は思わず顔を引きつらせる。自分が5年間も昏睡状態にあったという事実だけでも既にお腹いっぱいだというのに、次に宣告されたのは医療費の支払い義務、それも5年間分。当然払えるはずがない。もしかしたらあてがあるのかもしれないが、戸籍もなければ保険に加入してもいない自分に全額払うことはやはり不可能だろう。
そもそも過去が思い出せないくせに、どうしてこうした知識だけはすらすらと頭に浮かんでくるのだろうか。
「あの……、和修さん? 俺、一生かけても払える気がしないんですけど……」
そう返すことで精いっぱいの隻に、和修は彼の目を見て問いかける。
「そこで、だ。隻くん、最後の質問だが……」
男は今まで浮かべていた笑みを抑え、真面目な表情へと変える。それは今まで会話していた“和修”としての顔ではなく、〔CCG〕局長である“和修吉時”としての顔であった。
「私たちと共に、〔CCG〕で働いてみないかい?」
その日の夜、和修に〔CCG〕に勧誘された隻は、ベッドの上で今日起こった出来事を整理していた。和修が帰った後、隻が目覚めたということが病院内で広まり、多くの人が病室に押しかけてきたのだ。彼らから自分が眠っていた間のことをいろいろと教えてもらえたことは幸いだったが、何しろ5年間分であったために情報量が多く、目覚めたばかりの彼の頭にはきついものがあった。
(〔CCG〕で働く、か……)
和修は〔CCG〕について隻に軽く説明したあと、『5日後に答えを聞きにまた来るよ』と言っていた。それと同時に『もし〔CCG〕に来てくれるのなら、ある程度の生活は保障しよう』とも。当然〔CCG〕の仕事が安全ではないということは理解できたが、隻にとって“生活の保障”という言葉はとても甘い響きであった。ついでに新たな戸籍まで用意してくれるのだとか。既に隻には断る理由は存在しない。とりあえず生活するあては見つかりそうだ、と安心してふと見た窓の外の世界には、夜なのに眼が眩むほどに明るい東京の街があった。
目覚めたときはまだ昼過ぎ頃であったが、気づけばもう夜になっていた。今日はとても疲れた、もう寝ようと思ったところで、ある不安が頭をよぎる。
「俺、明日も起きられるのかな……?」
次に目が覚めたらさらに5年後でした、なんてことが起こるかもしれないし、もしそうなってしまってはせっかくのチャンスを逃してしまう。たしかに眠るのは少し怖いが、恐れていても仕方がない。なにより、そんなことを考え続けるほどの体力すら、今の隻には残っていなかった。
――数分後、暗い部屋の中では一人の寝息だけが聞こえていた。
それから4日後、病室のベッドの上には漢字辞典を読む隻の姿があった。
彼は目覚めた翌日からその日の新聞や雑誌を持ってきてもらい、それらを読んで今の世の中について学ぶという生活を送っていた。5年ぶりの社会にいきなり出たら困惑するに違いないだろう。……まだ頻繁に身体を動かすことができないため、それくらいしかすることがなかったというのもあるが。
彼は今、漢字辞典にて自分に合いそうな漢字を探していた。というのも前に部屋に来た先生に、『いつまでも名前が「隻」だけでは不便だろう』と言われたからである。たしかにこれから社会に出るにあたって名前は必要不可欠であるだろうし、彼自身も名前が欲しいと考えていたところであった。
このことを和修に伝えたところ、名前に関してはこちらで自由に決めていいと返ってきた。そのため、今に至るまでありとあらゆる書籍を読み漁っていたのだが――
「いいの見つかんないなあ……」
といった状況である。これまでにいくつかは良さそうな漢字を見つけられたのだが、いずれも自分の中で没となっている。このままでは埒が明かないと感じた隻は、読んでいた漢字辞典を側に置いて新たに別の本を読み始める。
(ん?)
突然、本のページをめくっていた彼の手が止まった。今読んでいる本の題名は、『世界の偉人・名言集』。そこにあった一つの言葉に目が釘付けとなる。
「力強い勇気は、万人の心を打つ……」
正確には、“勇気”と“心”という言葉に思うものがあった。ありふれている言葉のはずだが、自分にとってはどうしてか特別な言葉であるかのように感じられた。
すぐさま辞書を開き、その二つの意味を調べる。ノートを開いてペンを取り、その二つの漢字を組み合わせたものを書き留めて、
「――よし、これに決めた!」
「やあ、調子はどうかな隻くん? 前よりも動けるようにはなったと聞いたんだが」
「はい、それなりには動けるようになりました」
隻が目覚めてから5日後の昼、約束通りに和修が再び病室に来た。
「……では、君の答えをきかせてくれないか?」
和修が真剣な表情で隻に問いかける。それに対して隻は、
「はい。俺を〔CCG〕で働かせてください!」
今までで一番大きい声での返事で返した。和修は一瞬驚きの表情をしたが、すぐにいつもの柔らかそうな笑顔に戻した。
「わかった、歓迎しよう隻くん。改めて、私は〔CCG〕局長の和修吉時だ。これからよろしく。それでは、君の新たな名前を教えてくれ」
「はい! 俺の名前は今日から隻
どちらが先だっただろうか、二人はお互いに手を差し出して固い握手を交わす。
ここに隻の、隻