ひょんなことから担当ウマ娘とデートすることになりました【短編集】 作:キビタキ
「マスター、一つ相談したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
夏合宿期間の真っ只中…その日のトレーニングを終え、合宿所の休憩室で過ごしていた時のこと。ミホノブルボンは何の前触れもなくそう切り出した。
トレーニングのことかと問うと、彼女はすぐさま首を横に振った。
「カテゴリー上、プライベートな相談です」
見慣れたポーカーフェイスから発せられたのは、やはりいつもと同じ抑揚のない声だった。
普段から自分のことをあまり話さない彼女。トレーニング以外のことで相談してきたのは、覚えている限り、これまで片手の指で数えられるくらいしかない。とはいえ、その内容のほとんどは、触れてしまった電気機器の故障なのだが…。
今回も合宿所の電気ケトルやドライヤーの故障だろうか…そんな風に軽く身構えていたこちらに放たれたのは、あまりにも意外過ぎる言葉だった。
「明日の休日、私とデートしてほしいのです」
寝耳に水。これほどまでに、この状況に似つかわしい表現はないだろう。声にならない声が思いがけず吹き出し、彼女の顔を二度見する。
無表情ながらもどこか精悍な面持ちに、ブルーサファイアのごとく澄んだ青い瞳。それは何度となく見てきた凛々しい姿。そう、嘘偽りとは無縁の、本気の表情だ。
彼女と二人きりで食事や遊びに出かけたことは、これまで何度かある。広義ではそれもデートと言えなくもないのだろうが、彼女の口から直接その言葉が飛び出したのは、間違いなくこれが初めてだった。
「…承諾頂けませんか?」
耳をわずかばかり倒伏させて、彼女は再度尋ねた。
すかさず、デートというのはこれまでのお出かけとは違うのかと問う。
「はい、違います。お出かけではなく、デートを希望します。辞書による表記、"男女が日時を決めて会うこと"です。もちろん、合流から解散まで二人きりです」
恥ずかしげもなくすらすらと言い立てる彼女。周りに誰もいなかったのが救いだった。
どうして急にデートを…と訊く直前、彼女は付け加えるように口を開いた。
「ステップアップエラー…すなわち、伸び悩みの原因を特定したいのです」
ますます意味が分からない。目を白黒させながら、彼女の無機質な顔を見つめ返すことしかできなかった。
確かに彼女の言う通り、最近はトレーニング中も何となく冴えず、どちらかといえば本調子とは言い難い状態だった。夏合宿も終盤…連日の猛暑で夏バテ気味になっているのが原因と考えていた。
だが、彼女が言うにはそうではないらしい。伸び悩みとデートに、一体どんな関係があるというのだろうか。
とはいえ、今日まで根を詰めてトレーニングしてきたことは確かだし、さすがに気分転換も必要な頃合いだ。ゆっくり羽を伸ばす機会として、彼女の望みを聞き入れてあげるのは、トレーナーとして当然のことに思えた。
了承の意を伝えながら頷いた瞬間、天を衝くがごとくぴんと逆立った両耳。赤茶色の尻尾はふわりと舞った。
続けざま、彼女は眉一つ動かさずデートプランを説明した。
「出発時刻は外出可能となる午前八時。場所は合宿所から車で約五十分の距離にある"ウマヶ崎キャンプ場"を提案します。もちろん、キャンプといっても日帰りです。魚釣り、バーベキュー、ハイキングなどのアウトドアを楽しむことが目的となります。ミッション、"マスターとキャンプデート"です」
既に計画を練っていた周到さに思わず舌を巻く。これまでのお出かけは街に繰り出すことがほとんどだったゆえに、新鮮に感じることは間違いない。自然と、明日への期待も高まっていく。
「ご快諾ありがとうございます、マスター。明日はよろしくお願いします」
胸に手を当てながら、淡々と一礼する担当ウマ娘。その真後ろでいそいそと、それは気持ち良さそうに揺れている気がした──
夏合宿期間中、週に一度設けられる休日。厳しいトレーニングから解き放たれた生徒たちは、自由な一日を思い思いに過ごす。
そんな中、担当トレーナーとウマヶ崎キャンプ場に赴いた生徒は、おそらく彼女一人だけだろう。
「マスターのステータス…"わずかな動揺"を確認。私の衣服に何か問題がありますでしょうか?」
出発前、朝一番の挨拶直後。彼女は真顔でそう問いかけていた。
そんなステータスに陥ってしまった原因は、彼女の推察通り、その衣服だ。いわゆるラフで素朴な私服が多かったこれまでとは、明らかに異なるファッションだったのだ。
黒いボウタイのついた薄手の白ブラウスに、やや短めの紺色キュロットスカート。膝上からスニーカーに至る素足には、眩いほどの肌色が広がっている。夏合宿で何度となく見ているはずのそれも、そのコーデによって全く違う印象を受けた。
そもそも、制服を除けばスカート姿を見ることさえ初めてだったし、少なくとも、アウトドアに出かける服装にも見えなかった。
「先輩からファッションの助言を頂いたので、そちらを参考にしました」
耳をぴくぴくさせながら、自信ありげにそう話す彼女。
いつの間にこんな服を用意したのか…思い返せば、前回の休日に買い物に出かけていたが、その時だろうか。
ちなみに、全てが終わった後に聞いた話だが、彼女にデートのアドバイスしてくれた先輩は、彼氏と共通の趣味がアウトドアらしく、キャンプ場へのデートはそこから着想を得たものらしい。そして、それとは別件で、デート時の服装についてもアドバイスを受けていた。もちろん、アウトドアとその服装に関連性はなく、本来別々のものを彼女が取り合わせてしまったため、このようなことになってしまったようだった。
猛暑日が続いているということもあるのか、キャンプ場は思いの外閑散としていた。日帰りではあるものの、せっかく来たからにはとことん楽しむつもりで、ログハウスを借りて過ごすことにした。
「ミッション、"マスターとキャンプデート"を開始します。時間以外の制限なし。マスターと夕刻まで楽しく過ごすこと…内容は以上です」
虚空に向かって高らかに宣言するや、彼女はやにわにこちらへと向き直った。
「マスター、滞在中に何か行いたいことはありますか?」
唐突な問いかけに言葉が見つからず、いや、特に…と応じると…。
「それでは、私の考えたプランを提案します。本日の天気は、午前は曇り時々晴れ、午後からは曇り、低気圧の接近により昨日ほど気温は上がらないそうです。以上のことから、まずは釣り道具一式をレンタルし、渓流にて魚釣りを行います。続いて、広場にてバーベキューを行い、昼食とします。ログハウスで休憩後、運動を兼ねてハイキングへと向かいます。以上の内容でよろしいでしょうか?」
すらすらと、一切途切れることなく説明し終えた彼女。その姿に圧倒され、静かに首を縦に振っていた。
普段、自分からこうしたい、ああしたいと言うことが少ない彼女が、率先してデートプランを立ててくれた。言わずもがな、それはこれまでの彼女からは考えられない意外な一面だったし、その好意は単純に嬉しかった──
楽しい時間というのは、あっという間に過ぎ去っていく。もちろん、それはこのデートも。
アウトドアという、二人にとっての新境地。電子機器の扱いこそ苦手だが、ことアナログな作業に関して、彼女には目を見張るものがあった。
その視界は特殊なモニターにでもなっているのか、川底に潜む魚を瞬時に捉え、精密機械のように繊細な美技で次々と釣り上げていく。この日の釣果は、全て彼女によってもたらされたものだ。
料理の腕も見事なもので、川魚を難なく捌き、バーベキューの準備を瞬時に済ませてみせた。こちらのたどたどしい手つきが、恥ずかしく感じるほどだった。
「マスター、お味はいかがですか?」
辺り一面に漂う香ばしい匂い。ほどよく焼き上がったそれを頬張ると、口内に広がったのは想像通りの味だった。
すかさず美味しいと伝えるや、彼女はそのポーカーフェイスを確かに綻ばせた。
「ステータス…"美味"。完璧な仕上がりです」
同じものを口に運び、平坦な声ながらも豪語する彼女。初めて見たドヤ顔じみたそれに、思わず笑いが込み上げていた。
いつものお出かけと変わらない和やかな雰囲気。違うところをもし挙げるとすれば、いつになく尻尾が盛んに揺れ動いているような…そんな気がすることだった──
葉々の隙間から覗く鈍色の空。
夏といえばやはり海だが、夏合宿で飽きるほどそこで過ごした反動か、木々が鬱蒼と生い茂る山中の方が新鮮味にあふれていた。
登山道を歩む二人の前を、やにわに鳥影が横切った。次いで、それは高い枝に止まり、静かに羽休めを始めたようだった。
「サーチモード起動…あの鳥は"オオルリ"です。スズメ目ヒタキ科オオルリ属に分類されます。繁殖のため四月頃から日本に渡ってくる夏鳥で、さえずりが特に美しいことから、日本三鳴鳥の一つに数えられています」
"ウマペディア"の一文をそのまま引用したような解説。目を凝らすと、鮮やかな瑠璃色が確かに見えた。その美しいさえずりにも期待したが、残念ながら羽繕いに忙しいようだった。
昼食を終え、二人が向かった先は、深緑に埋め尽くされた登山道。登山道といっても、彼女の服装でも全く問題ないほどに舗装されており、むしろそれは遊歩道と呼んでも差し支えないもの。ハイキングと聞いて身構えていたこちらが拍子抜けするほどだった。
「マスター、ハイキングは楽しいですか?」
こちらの思考を感じ取ったのか、彼女は心なしかおそるおそる尋ねていた。
もちろん…と即答する。それは混じり気のない本心。彼女と過ごす時間をつまらないと感じたことなど、ついぞなかった。
「実は…伸び悩みの原因について、お話ししたいことがあります」
いかにも改まった態度で、彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばした。
このデートは、伸び悩みの原因を特定するため、彼女自身が提案したものだ。その真相が今明らかになろうとしている…こちらも神妙な面持ちで応える。
「マスターをデートにお誘いしたのは…」
そこまで言いかけた時だった。
不意に、冷涼な空気が全身をかすめた。それが意味することを、多くの人は経験則で知っている。
大雨が降り出す予兆。しかも、山の天気は特に変わりやすい。気がつけば、オオルリもどこかへと飛び去っていた。
ぽつぽつという雨音が響き始め、その音量は加速度的に増大していく。じきに本降りになることは容易に想像できた。
とりあえずログハウスへ戻ろうか…そう告げて踵を返した時には、微かな雷鳴も耳に届き始めていた。
そこから先は、勝負所のラストコーナーよりも目まぐるしい変転具合だった。幾重にも連なる葉々さえ貫き、容赦なく降り注ぐ大粒の雨。雷光と雷鳴の感覚がどんどんと狭まり、禍々しく迫り来るどす黒い暗雲。
万が一、雷に打たれでもしたら大変だ。豪雨よりも、雷から逃れるために足を動かす。何なら、足が速い彼女には真っ先にでもログハウスへ避難してもらいたかったくらいだった。
しかし、どういうわけか彼女の足取りが重い。大丈夫かと近くで問いかけても、答えは何も返ってこない。あまつさえ、視界を遮るほどの雨と、俯き加減に伏せた顔…その表情すら満足に見えないのだ。少なくとも、彼女が正常でないことだけは間違いなかった。
彼女の腕をしっかりと掴み、必死に下山する。その間、彼女は尻尾をずっと太腿に巻きつけていた──
水の中に飛び込んだのと相違ないくらいびしょびしょになりながら、何とかログハウスへと辿り着く。
中に入るなり、彼女はその場にうずくまるようにして身をかがめた。途中から気になっていたが、それは自らの尻尾を隠すための所作であることに、ようやく気がついた。
窓を打ちつける大量の雨粒。
刹那、一際眩しい閃耀と、地響きのごとき鳴動。それは目と耳、どちらも塞ぎたくなるほどの威力だった。
床にへたり込み、彼女ははっきりと見て取れるほど体を震わせていた。ぺたんと伏せられた両耳と、頭を抱え込むその姿は、まさに恐怖におののく幼子の様相だった。
それを見て、以前彼女が「雷様は尻尾を取り来ます。お父さんからそう教わりました」と話していたことを思い出した。
雷様にへそを取られるという俗説は聞いたことはあるが、尻尾を取られるというのはもちろん初耳だった。雷は高いところに落ちるゆえに、尻尾も低くして身をかがめるべきだという意味があるのかもしれないが。何にせよ、建物の中にさえ入れば一安心だ。
彼女の側に座り、背中をさすりながらもう大丈夫と優しくなだめる。きっと、お父さんがブルボンをおどかすために言った冗談だと、少しでも明るい口調に努めながら。
「違います…マスター。違うんです…」
今まで聞いたことのない弱々しい声が、俯いて何も見えない顔から漏れ聞こえてくる。彼女は別のことを恐れているようだった。
「ミッション失敗です…マスターに楽しんでもらいたかったのに、プラン設計を誤りました。しかも、こんなみっともない姿を見せてしまいました…とても…情けないです…」
そんなことないよ…と、すかさず。
彼女なりに楽しませてくれようと努力してくれたことは本当に嬉しかったし、衣装も含め初めて見るその姿はたまらなく素敵だった。雷を怖がってしまう姿さえ、自分にとって新しい一ページだった。だから落ち込むことなんてない…ありのままの気持ちを彼女へとぶつけた。
その言葉に少しは気持ちが和らいだのか、窮屈そうに隠していた尻尾が、ひょっこり顔を出す。次いで、ゆっくりと頭を上げると、その物憂げな表情は、ほんのりと赤みを帯びているように見えた。
「ありがとうございます…マスター」
雨のせいか、潤んだ瞳で真っ直ぐにこちらを見つめる彼女。びしょ濡れになった赤茶色の髪からは、未だ水滴が垂れている。白い薄手のブラウスはぴっちりと肌にくっつき、健康的なそれをフィルター越しにしどけなく露わにする。そこから透かし見えた二つの膨らみに、思わず恥ずかしさがほとばしり、すぐさま目を逸らす。
彼女のそれが比較的豊かであることはもちろん知っていたが、こんな時に何を考えているのだろうかと、自分が少し嫌になった。
そして、そんな一瞬な所作さえ、彼女はやはり見逃してくれなかった。
「マスターの顔に赤みを確認…雨による免疫力低下、それに伴う発熱の可能性があります。体温を確かめさせてください…」
距離、時間、風速…レースに重要なそれらを寸分の狂いなく計測できる彼女。実は温度も手で触れただけで測ることができる。
こちらの額に手を当てようと腕を伸ばしてきた、その瞬間。
「…!?」
目をくらませるほどの閃光と、耳をつんざく迅雷。それは今日一番の轟音だった。
一瞬の出来事に理解が追いつかない。視覚と聴覚が失われ、平衡感覚を麻痺させる。
どれくらい経った頃だろう。気がつけば、彼女はこちらに全身を預けるようにもたれかかっていた。こちらの服を、まるで幼子がその小さな手で袖を引く時のように、か弱く握りしめながら。
「マスター…怖いです…」
彼女の微弱な体温が、濡れた衣服を通じてほのかに伝わってくる。もちろん、彼女とこんなにも体を寄せ合ったことは一度たりともない。どきどきと胸を突き破らんとするほどの脈拍が、体温をも巻き込んで確かに上昇していく気がした。
しかし、今はそれに浸っている場合ではない。どうすれば彼女の恐怖を拭ってあげられるだろうかと、慌てて知恵を絞る。
容赦ないどしゃ降りが、ざあざあと地鳴りのような音を立てている。さらには、絶え間なく不意打ちを仕掛けてくる瞬間的な爆音。黙ったままでいれば、その荒波に飲み込まれてしまいそうだった。
何か言葉を発さなければ…その思いが脳内を駆け巡った時、ぱっと口にしていた言葉。そう、ハイキングの途中、思いがけず途切れてしまった話の続き。どうしてデートに誘ってくれたの…と。
やがて、胸元で小さな声がした。
「ステータス、"心拍数のエラー"…その原因を突き止めたかったのです…」
初めて聞いたその言葉を、思わずオウム返しのように問い返す。
すると、いかにも彼女らしい論理的な答えが、そこには待っていた。
「マスターの近くにいると、心拍数が上昇する現象のことです…一般的に、胸のざわつきと表現されます。トレーニング中、なぜかマスターのことばかり思考してしまい…集中力が欠け、練習効率が落ちるのです。原因は全く分りません…最近は、近くにいなくてもマスターのことばかり考え、その状態に陥ってしまいます…」
彼女が話している最中にも、とめどなく襲いかかる雷音。その度に言葉は途切れ、こちらを掴む手がぎゅっと力を増す。それでも、彼女はとつとつと続けた。
「それだけではありません…胸の奥が疼いて、苦しくなる時があるのです。マスターが他の生徒と話しているのを見かけた時は、特にです…こちらもずっと頭に残り続けて、練習効率を下げる要因になっています。一体どう対処すれば良いのか…内在するメモリーにも、ナレッジにも、リファレンスマニュアルにも、解決策は見つかりませんでした…」
水分を含んだ尻尾が、どこか息苦しそうに揺らめく。
出し抜けに、彼女は昔のことを口にした。
「マスターが私に初めてアドバイスしてくれた…あの夜のことを覚えていますか…?」
迷うことなく頷く。それは決して忘れることなどできない、彼女と踏み出した第一歩だった。
元々別のトレーナーにスカウトされていた彼女。それはスプリンターとしての才を見出されてのことだったが、彼女の真の夢はクラシック三冠…路線変更をそのトレーナーに納得させるため、当時無謀ともいえた二千メートルをへとへとになりながら駆けていた。しかし、そんな無茶が上手くいくはずもなく、そのままでは怪我を負いかねない状態だった。そんな彼女に長い距離を走るアドバイスをしたのが、彼女と仲を深めるきっかけだったのだ。
「あの時、私にとってマスターは…バグのような存在でした。契約済みの私の前に突然現れ、毎晩のように門限ぎりぎりまで指導をする…普通に考えれば、何の得にもならない行為です…」
とても放っておけなかったから…と、あの頃を振り返りながら答える。
それは結果として、前任のトレーナーと契約を解除した彼女と、改めてクラシック三冠を目指す礎となった。
「マスターと契約した時から…いえ、あの夜から、極微量ではありますが、胸のざわつきを感じていました。それまでメモリー内のどこにも存在しなかった、カテゴライズ不可の感情です。それは日に日に大きくなり、ついにはトレーニングに支障をきたすまで膨れ上がりました。その原因は全くの不明ですが…マスターとの物理的な距離及び他者の排他に相関性が認められたため、今回のデートを提案したのです。マスターと二人きりで楽しく過ごせば、その原因が分かるのではないかと…」
全身を弛緩させ、こちらにもたれかかったままの彼女。毒りんごを口にしてしまった白雪姫のような…そんな雰囲気さえ漂わせて、それでもこちらを真っ直ぐに見上げていた。
今日のデートで、その答えは見つかったのかと…そっと尋ねてみる。
「…残念ながら、まだ分りません。ですが…これまでで最も大きな胸のざわつきを、今感じています。とても…止みそうにありません…」
どこか苦しそうに、それでいて心地良さそうに…どちらも内包した表情で彼女は言う。
ここまで聞いて、その答えが分からないほど無粋ではない。それと同時に、気恥ずかしさがどこからともなく込み上げてくる。そんな風に思ってくれていた彼女が急に愛おしく思えてきて、瞬く間に顔が火照っていく。
だが、今はトレーナーとして…いや、一人の男として、彼女を導かなければならない。
意を決して、片手を彼女の背中に回し、もう片方で濡れた頭を撫でながら、優しく抱擁する。
途端、赤茶色のそれが、ぶおんと音を立てる勢いで波打った。
これで胸のざわつきはどうなっただろう…そう問いかけるや、彼女はこちらの胸に耳をあてがうようにして顔をうずめた。
「はい…先ほどよりも二十パーセント増大し、最高記録を更新…いえ、さらなる上昇を感知。私だけでなく、マスターも…」
彼女のか細いささやきが直接胸に響く。
今自分が感じているものと同じものが、彼女の心にも宿っている…それだけで嬉しくてたまらなかった。
胸がざわつく原因、そして、心拍数が上昇した理由、それはお互い同じなのだと告げる。
それは何ですかと、おそるおそる顔を上げて、儚げな面持ちで訴えかけてくる彼女。
真実をはっきりと伝える。そう、それは相手を愛おしく思う心。決してエラーでもバグでもない、特別な人に対して抱く、ごく自然な感情がそうさせているのだと…。
わずかばかりフリーズした後、彼女はどこか恥ずかしげに眉を八の字にした。
「了解です…それが胸のざわつきの正体なのですね。どうすれば、それをコントロールすることができますか…?」
ぴくぴくと、答えを求めて小刻みに揺れる両耳。
庇護欲を駆り立てるその上目遣いに、鼓動がまた強さを増していく。
それはどんなトレーニングより、どんな走り方のコツより、どんなレースの駆け引きより、教えるのが難しいことに思えた。
一拍の逡巡を経て、制御する必要なんてない…と、つぶやく。それはきっと、これからどんどん強く、大きくなるに違いないからだ。呑み込んで、受け入れて、身を任せて…その方が、ずっと楽になる…そう伝えながら、彼女を抱き寄せる力をぐっと強めた。
目の前にある瞬きが、息遣いが、耳の震えが、まざまざと彼女の機微を伝えてくる。そこにあったのは、普段の無機質で平坦な様子からは考えられない、あどけなく純真な少女の姿だった。
エラーの正体を知ったことに安堵したのか、彼女の体の震えはいつの間にか止まっていた。もうトレーニングに支障は出ないだろうか…その質問に、彼女はやおら頬を緩ませた。
「はい、大丈夫です…」
再び顔をうずめる彼女。こちらを握る手に力を込めながら、ゆっくりと。
「マスターと私…同じ気持ちであることが分かりましたから。とても…心地良いです…」
肌を通じて伝うお互いの鼓動。二人は寄り添ったまま体温を確かめ合う。
彼女の頭を撫でる度、尻尾はゆらゆらと定め無く舞った。もう、雷なんて怖くなかった。
不意に訪れていたしじま。あんなにも激しかった雷雨は、気づかぬうちに遥か彼方へと消え去っていた。その残滓張りつく窓辺からは、いつしか眩い陽光が差し込んでいた。
「マスター…」
胸の中で、彼女はそっとささやいた。それは、とても小さく、穏やかな声だった。
「現在のステータス…"幸せ"です…」
雨上がりのつぼみが天に向かって花開くがごとく、しずしずと顔を上げた彼女。
透き通るような青い瞳に、紅潮した頬…それはまさに、窓辺の日差しのような微笑みだった。