ひょんなことから担当ウマ娘とデートすることになりました【短編集】 作:キビタキ
「トレーナーさま〜、実はお頼みしたいことがあるのですけれど〜」
特に変わり映えのない、ある春の夜。その日のトレーニングを終え、メジロブライトは何の前触れもなくそう切り出した。
にこにこと可愛らしい笑顔と、自由気ままに上下する耳は、これまで何度となく見た姿だ。
「先日竣工しましたメジロ家の別荘に、一緒に来ていただけないかと思いまして〜♪」
いそいそと、その場に落ち着かず、彼女はぴょんぴょんと飛び跳ねながら言った。それもそのはず、トレーニング終わりのストレッチ真っ最中なのだ。
「今度お披露目会を兼ねて招待されましたの。せっかくですし、トレーナーさまもご一緒しませんか〜?」
柔軟な四肢を気持ち良さそうに屈伸させつつ、こちらの顔色を伺う彼女。もちろん、誘ってくれたのは嬉しかったが、メジロ家ではない自分がそのような特別な会に参加して良いものか悩んでしまう。
即座の返答に窮している間に、彼女はうんと大きく背伸びをした。
「のびのび〜…えぇと、次のストレッチは何でしたかしら〜…? そう、思い出しましたわ。トレーナーさまが『一緒に行きたい』と仰ってくれる、魔法のストレッチですわ〜」
不意に突拍子もないことを言い出したかと思えば、くるくると優雅に回転し始めた彼女。
褐色のロングヘアと尻尾が遠心力に身を任せ、たおやかに舞う。こちらにちらちらと視線を飛ばして、その一言を待っているようだった。
どの辺りが魔法なのかは分かりかねたが、何としても連れていきたいという思いだけは確かに伝わってきた。
おそるおそる一緒に行きたいと告げると、彼女は両手を高く掲げて万歳のポーズ。
「わぁ〜い♪」
あどけないふんわりとした歓喜の声が、学園のトラックでのどかに響いていた──
お披露目会当日の朝。学園の正門に、もうじきメジロ家御用達のハイヤーが到着する予定だ。というわけで、正門前で待ち合わせているのだが…生来のんびり屋気質の彼女、プライベートなことに関しては約束の時間に遅れるのが常だった。
「お待たせいたしましたわ〜」
ふと、背中を打ったのは、聞き慣れたあのゆるふわボイス。意外にもこの日は五分前行動だった。
ようやく時間を守れるようになったのだと感心しながら、さっと振り返る。だが、そこにあった姿に、思いがけず目が点になった。
涼しげなノースリーブの膝丈ワンピース。それも、上半身のライン…くびれ辺りまではっきりと分かるタイトなワンピースだ。加えて、そのカラーはエレガントな漆黒。肩からかけた純白のカバンと健康的な白い肌との対比も相まって、鮮烈な印象を見る者に与える。普段見せるパステルカラーの淑やかなお嬢様風スタイルとは、明らかに一線を画していた。
「おはようございます、トレーナーさま。どうかされましたか〜?」
浅葱色の日傘を差しての優雅な登場。衣服が変わっても、彼女のまとう空気は、相も変わらずまったりとしていた。
「この服ですか? トレーナーさまとのデートですもの、とびっきりの物を着て参りましたの〜♪」
"デート"という言葉に思わず戸惑う。彼女の口からそんな言葉が出たのは初めてだった。もちろん、これまで二人きりで遊びに出かけたことは何度もあったが…。
「あら、お伝えするのをすっかり忘れておりましたわね〜。今日のお披露目会の出席者はわたくしたちだけですのよ〜。トレーナーさまとのデート、楽しみですわ〜♪」
日傘の中で、彼女の無邪気な笑みがあふれている。こちらもつられて幸せな気分になるくらいに。
「それより、どうですか〜、このブラックワンピース。なかなかおしゃれでしょう〜?」
ふわりと一回転してみせる彼女。つややかな太腿が一瞬だけ露わになる。
見慣れないファッションということもあるのだろうが、とても新鮮で素敵に思えた。
「ふふっ、ありがとうございます〜♪」
頬をこれ以上なく緩ませて、彼女はゆったりとしたステップを刻み始めた。ダンスレッスンで鍛えた足さばきは、今日も流麗で華やかだった。
「ふわ〜り♪ ふわ〜り♪ 喜びの舞ですわ〜♪」
いつでもどこでもマイペースな彼女。その姿を見る度、心はいつもほっこりとした──
「もう三日後ですわね」
別荘に到着する少し前、ハイヤーの後部座席でのこと。彼女は唐突にそんなことを口走った。
わずかに開いた窓からは、森の匂いを含んだ微風が流れ込んでいる。
「選抜レースのことですわ。トレーナーさまも、ついにチームをお組みになられますものね」
それは一週間ほど前、急遽取り決めたことだった。
彼女をスカウトしたのは三年前。そう、まだ駆け出しだった頃だ。当時は右も左も分からない新米トレーナー…複数のウマ娘を担当するなど考えられない時期だ。しかし、あれから様々な経験を積み、余裕も出てきた。トレーナーの責務として、より多くの生徒を輝かせなければならない。だからこそ、今度の選抜レースで新しい娘と契約することに決めた。当然、そのことは彼女にも打ち明けていて、「トレーナーさまにとって、とても良いことだと思いますわ。生徒の導き手として、大変素晴らしい志ですもの…」と答えてくれた。
流れ行く緑色の景色を見やりながら、彼女は独り言のようにささやいた。
「わたくしにも、チームメイトができますのよね…」
どことなく寂しげな様子にも、うとうととまどろんでいるようにも、どちらにも見えた彼女。その両耳はぴくぴくと、何かを求めているような気がした──
一時間ほどの旅路を経て辿り着いたその場所。
山々に囲まれた湖のすぐ側に建てられたそれは、モダン且つ西洋風の木造建築。メジロ家のお屋敷とまではいかないが、その荘厳な佇まいは見る者に感嘆の溜め息をつかせるのに十分だった。
「それでは早速、お散歩に参りましょうか〜」
ハイヤーから降りるや、彼女は日傘を広げながら言った。
意表を突かれ、思わず首を傾げる。てっきり別荘の中に入るのだと思っていたが、彼女いわく、建物はもちろんだが、その周辺のロケーションも素敵なのだという。
「うふふ、ランチも用意していますわ〜。景色の良い場所でお弁当を広げましょうね〜♪」
肩からかけたカバンをさすりながら、その足は颯爽と湖畔へと歩み始めていた。
「トレーナーさま〜、早く参りましょう〜」
十メートルほど向こうで催促の声が飛ぶ。彼女が率先して前を歩きたがることに驚きを覚えながら、そろそろとその後を追った。
綺麗に整備された遊歩道。それは湖を一周するように敷かれているらしい。
澄み渡る青空に、綿菓子のような雲がぽつりぽつり。春のぽかぽか陽気に自然と気分も晴れ、心が癒されていく。
「ふんふふ〜ん♪ ら〜らら〜♪」
彼女の鼻歌がとめどなく流れてくる。日傘の中の表情は、大層ご機嫌なものに違いない。
「と〜ってものどかで、美しい湖ですわね〜」
唐突に歌が終わり、ひょっこりと顔を覗かせた彼女。
その視線の先で、コバルトブルーの水面が静かに揺れていた。
そして、ランチタイムは唐突に。
彼女が何かに誘われるように赴いた先は、芝色をした小高い野原。
「ここなら湖を見渡せますわ〜」
彼女の言う通り、お弁当を広げるには最高の場所に思えた。
お弁当箱の中身はサンドイッチ、卵焼き、ソーセージ、にんじんサラダといった定番メニュー。
「わたくしが手作りして参りましたの〜。いつもお世話になっているトレーナーさまに、ぜひ召し上がっていただきたくて〜♪」
両手をぽんと合わせて、彼女は得意満面に微笑んでみせた。
次いで、いただきますと言い終えたタイミング。
「あら…わたくしとしたことが、食器を一人分しか持ってきていませんでしたわ〜」
口に手を当てて、それは何となくわざとらしい口調。
食器がないとなると、サンドイッチはともかく、他のものは難儀するかもしれない。
「そうだ♪ トレーナーさまの分は、わたくしが食べさせて差し上げますわ〜」
特に考える素振りもなく、流れるように彼女はそんな提案をした。
普段から状況を飲み込むのに時間がかかる彼女。それゆえ、その機転の利かせっぷりは幾分不自然に見えたが…。
それを訝しがる猶予も与えないかのように、彼女は唯一のフォークを卵焼きに刺し、ゆっくりとこちらの口元へと運んだ。
「トレーナーさま、あ〜〜〜ん」
もはや拒否権などない。それを頬張る以外の選択肢はどこにもないようだった。もちろん、嫌な気などせず、むしろ嬉しいくらいだが。
彼女の好意に甘えつつ、手作りランチをのんびりと堪能する。愛情という調味料を振りかけているのか、どれも絶品に感じられた。
「ふふっ♪ トレーナーさまに喜んでいただけて、わたくし何だか、胸がすっごくふわふわいたしますわ〜♪」
美味しいと告げる度、彼女は天真爛漫な子供のように喜んでいた──
「まぁ、トレーナーさま、あちらをご覧になって。大きなにんじんが浮かんでいますわ〜」
彼女が見やった先…大きな窓の向こうには、夕焼けに照らされた細長い二等辺三角形の雲。その周りには橙色に覆い尽くされた大空があり、さらにその下には同じ色の湖が広がっている。それらを臨みながらの晩餐は、とても風情にあふれていた。
別荘内のダイニングルームは学園の教室三つ分くらい広く、その特等席を二人で貸し切り状態。最高の食事と景色を同時に堪能することできた。
しかも、テーブルに並べられた料理は、全て彼女が調理したものだという。川魚のムニエル、鴨のロースト、山菜の天ぷらなど…どれも手がかかっている。
「あら、わたくしとてメジロの娘ですもの〜。どんなお料理でもお茶の子さいさいですわ〜」
得意げに言い放って、彼女は再び雄大な景色に視線を送った。
(本当はシェフが横についていましたけれど〜…)
心の中の声が、おそらく無意識に外へと漏れ出ていた。これは特に珍しいことではなく、彼女自身気づいていない癖の一つだった。
デザートのさくらんぼゼリーに舌鼓を打っていた最中、不意を突くように発せられたのは、あまりにも突飛な質問だった。
「トレーナーさまは、意中の女性はいらっしゃいますの〜?」
あわや、さくらんぼの種が吹き出しそうになる。にこにこと、目を細めながら答えを待つ彼女がそこにはいた。
しばらく考えて、今は特にいないと伝える。学園に赴任してからは多忙の毎日。職場に年齢の近い女性こそいれど、とても色恋沙汰に発展する余裕なんてなかった。
「まぁ、そうだったのですね〜。うふふ、でも何となく存じていましたわ〜。忙しない毎日を送っておられることは、わたくしが一番知っていますもの。少し意地悪な質問でしたわね。でも、もしお付き合いなさるなら、やはり料理上手な女性がよろしいですわよね〜」
彼女らしからぬマシンガントーク。いかにもご機嫌そうに、すらすらと。
その真後ろで、褐色のそれはいつになくふわふわと波打っていた──
「ほわぁ…黄金色のお煎餅みたいですわ〜」
ベランダにもさもさと足を踏み入れた彼女は、開口一番、絶妙な例えで夜空に浮かぶ天体に目を奪われていた。
頭上一面に敷かれた紺色の絨毯。鏡面のごとく淡黄色の光をたたえる湖。それらを一望できるベランダで、彼女と二人、他愛のない話に花を咲かせていく。
ほのかな月明かりのせいか、すっかり見慣れたと思っていたワンピース姿も、心なしか大人びてあでやかに見えた。
「トレーナーさま、今日のデートはお楽しみいただけましたか〜?」
もちろん…と、迷いなく首を縦に振る。
彼女の可愛らしい姿に癒やされたし、何より数々の美味しい手料理が嬉しかった。
「わたくしも、トレーナーさまと一緒に過ごせて楽しかったですわ〜。あ〜んなに美味しそうに召し上がってくださって…ふふっ、これ以上の幸せはありませんもの〜♪」
耳も尻尾も嬉しげに震わせて、彼女は手の平同士をぽんと合わせた。
「そうそう♪ 先ほど良いことを思いつきまして〜。毎週ここに遊びに来るというのはいかがですか〜?」
何も憚ることなく彼女は言った。
さすがに毎週は行き過ぎだと思うが、数ヶ月に一度くらいならちょうど良い息抜きになるかもしれない。その時は新しいチームメイトも誘おうか…と、口にした時、彼女はあからさまに言葉を詰まらせた。
「えぇと、そのぉ…そうですわね。その方がたくさんの方に喜んでいただけますわよね」
彼女お得意の泰然自若…とはどこか異なる悄然とした雰囲気が漂う。それをかき消すように、彼女はこつこつと軽快な足音を立てて、ベランダの奥の方へとスキップした。
「トレーナーさま、どうかそこにお立ちになってくださいまし…♪」
手すりのすぐ側に陣取って、彼女は淑やかな所作で手招きする。そのエレガントな衣装と相まって、どこか魔女のような妖しささえ感じられた。
誘われるまま、目で合図された場所に直立する。そこは彼女から一メートルと離れていない、手すりの真横。
特に何かが起こるでもなく、彼女は優しげな眼差しを湖へと向けた。
「少し…寒くなって参りましたわね」
露出した両腕をさすりながら、彼女はぶるぶると震え出した。それも、明らかに演技だと分かる大げさな動きで。
その行動の意図が読めず、立ち尽くすしかできないこちらを、彼女は何度もちら見する。何かを待っていることは確かなようだが…。
考えてもなお、これだという答えが出ず、部屋の中に戻ろうかと提案する。
途端、彼女の両耳がぺたんと折れ曲がった。
「おかしいですわね〜。ライアンお姉さまのお話では、ここで上着を羽織らせてくれるはずなのですけれど〜…」
人差し指を口元に当て、腑に落ちない様子の彼女。それは誰の耳にも届く声量だった。
「はわわ…! わたくしとしたことが、うっかり口を滑らせてしまいましたわ〜…」
いつもなら焦りと無縁の彼女が、珍しくおたおたしている。何だか申し訳なく思えてきて、さっきの言葉は聞こえなかった振りをした。
「まぁ、そうなのですか。てっきり聞こえていたものと勘違いしておりました〜」
ほっと一息ついて、こういう時はしっかり地に足をつけて臨んだ方が良いと、それとなくアドバイスする。
「仰る通りですわね。慌てず、騒がず、まったりと〜。ふみふみ〜」
謎の動きで軽やかに足元を踏みしめる彼女。毎度のことながら、こうやって真に受けるところはいつ見ても可愛らしい。
しばらくして、ようやく準備が整ったのか、彼女はこちらに無垢な視線を送った。
(えぇと…この後わたくしは、トレーナーさまの手に触れて…)
その独白は心の中だけでつぶやいているつもりに違いないが、上の空に漏れるそれははっきりと聞き取れていた。
「トレーナーさま、あちらをご覧になってくださいまし。綺麗なお星様がたっくさんですわ〜」
こちらの真横へ歩み寄り、手すりに手を置いて湖の方へと向き直る彼女。こちらを…いや、正確にはこちらの手をひっきりなしにちら見しながら。
おそらく同じように手すりに手を置いてほしかったのだとは思うが、彼女の視線が逆に気になり過ぎて、突っ立ったままそうだねと相槌を打つことしかできなかった。
(あら…これも失敗してしまいましたわ…えぇと、この場合どうすれば良いのでしょう…)
耳がぴくぴく、尻尾がふわふわ、定め無く揺れ動いている。
(そろ〜り、そろ〜り)
さらに距離を詰めてきた彼女。こちらにもたれかかるように肩を寄せた…ところまではよかったものの…。
「あっ、あわわ〜」
バランスを崩し、転倒こそしなかったが、勢い余って盛大にたたらを踏んだ。
「もぉ〜、全く上手くいきませんわ…やはり、わたくしは何とも思われていないのですわね…」
ここまで上機嫌だった彼女が、あからさまにしょげた顔を見せる。少しのことでは全く動じないのに、この時ばかりは確かに参っているようだった。
「トレーナーさま、申し訳ございません。わたくしのせいで興が醒めてしまいましたわね…」
ついには謝り出す始末。先ほどからの不思議な挙動に加え、今日の彼女はどこかおかしい。
さすがに放っておけず、何があったのか事情を問い質した。
「それは…」
意味深に言い淀んで、彼女はこちらから目を逸らした。
「ライアンお姉さまから、素敵な少女漫画を読ませていただきましたの。すっかりそのお話に魅せられてしまって、その…真似事をしたかったのですわ…」
胸に手を当て、目をつむって、童話の語り聞かせのごとく、彼女はそのストーリーを綴っていく。
「真夜中の湖畔に、主人公と王子様が二人きりで佇んでいますの。二人はとっても仲良しで…寒そうに腕をさする主人公に、王子様はそっと上着を被せますの。湖を臨む二人の手がそっと触れ合って、そのまま肩を寄せて、二人は…お月様に永遠を誓い合いますの…」
言い終えて、そっと開かれたまぶた。こちらの世界に引き戻されたその表情は、いつになく儚げだった。
「本当に…憧れてしまうほど素敵な情景で、そうなったら嬉しいと心から思っていましたわ。でも…現実は上手くいかないものですわね〜…♪」
ふっと、わざとらしく微笑んでみせた彼女。それがいつものおとぼけではなく、強がりなのだということはすぐに察した。
単に少女漫画の真似事をしたかっただけではないだろう。きっと、他に何か思うところがあるのだ。それくらいのことはさすがに分かる。伊達に三年間も一緒にはいないのだ。
胸に秘めた本当の思いが何なのか、優しく問いかける。彼女のブラウンの瞳を、じっと見つめて。
やがて彼女はしゅんとした顔を浮かべ、観念したように打ち明けた。
「…トレーナーさまが他の娘をスカウトされると聞いて、焦りましたの。もう、わたくしだけを見てくださる時間は終わってしまうのだと…ですから、ライアンお姉さまとドーベルに、どうやってわたくしの気持ちをトレーナーさまにお伝えしたら良いか、相談しましたの。今日のプランは、お二人が考えてくれたものですわ…」
なるほど…と納得する。二人は確か少女漫画が好きだったはず。このどこかドラマチックなロケーションやシチュエーションは、二人の考えた筋書きだったというわけだ。のんびり屋の彼女にしては積極的というか、出来すぎた展開に思えたのは、やはり気のせいではなかったのだ。
しかし、それは言い換えれば、このデートには彼女の思いの丈が全て詰まっているということだった。
マイペースで、おっとりして、そよ風に身を任せる野花のような彼女が、まさかそこまでして思いを伝えようとしたなんて…そのことに、ただただ驚きが隠せなかった。
少し一人にさせてほしい…そう告げて、穏やかな湖面に目を落とす。
「分かりましたわ…」
しずしずとその場を去っていく彼女。今にも泣き出してしまいそうな、そんな雰囲気をまとわせて。
それからしばらくの間、物思いに耽っていた。
前のめりに手すりへともたれかかり、助けを求めるように満月を見やる。今度の選抜レースのことを、考え直すべきなのか…。
その時だった。
不意に、後ろからそっと二つの手が伸びてきた。それは華奢な白い腕。こちらをふんわりと包み込み、優しく抱きついてくる。
背中にほんのりと伝う温もり。次いで、静かな声が脊椎を通じて体全体に駆け巡った。
「トレーナーさま…一生のお願いですわ…どうか、わたくしだけをずっと見ていてほしいんですの…」
とても彼女のものとは思えないか弱い声。顔を見ずとも、その瞳に浮かぶものが容易に感じ取れた。
「わたくし、もっと勝てるように必死に努力しますわ…! トレーナーさまが望むなら、どんなトレーニングだってこなします…! ですから…どうか見捨てないでくださいまし…」
ぎゅっと、しがみつく力を強める彼女。突然の出来事に大きく揺らぐ、この心を必死に繋ぎ止めるように。
ここ最近、彼女の成績は不振だった。いつも一着を期待されながら、入着止まりになることが多くなっていたのだ。
だが、それは彼女の責任ではない。レースの高速化に伴い、彼女の走行スタイルがトゥインクル・シリーズ全体の環境にそぐわなくなってきているだけだった。決して、勝てなくなった彼女に愛想が尽きたり、見限ったつもりはこれっぽっちもない。
今回、新しい娘のスカウトを決めたのは、彼女が心身共に成長し、しっかり結果を残してきたからこそ。新しいメンバーが加わってもチームの先輩としてやっていけると、心から信頼してのことだった。
しかし、肝心の彼女の気持ちをちゃんと擦り合わせていなかったのは事実だった。この話を伝えた時、彼女はおっとりとした笑顔の下で、相当なショックを受けていたに違いない。けれど、その異変に全く気づくことができなかった。ただただ、そのことが情けなくて仕方なかった。
今思えば、トレーナーとしての責務にこだわるあまり、変化を急ぎ過ぎていたのかもしれない。よく相談しないまま進めようとしたことが、あまりにも愚かに思えてくる。のんびりと構えることの大切さを、彼女は幾度となく教えてくれたというのに…。
謝りたい…その一念に動かされ、彼女の腕を優しく手に取り、そっと解こうとする。
「駄目ですわ…! トレーナーさま…今はまだ…その…こんなはしたない顔、とても見せられませんもの…」
彼女の力がさらに増す。けれど、目と目を合わせず謝るなんて、そんな不誠実なことなどできはしない。
何とか彼女を落ち着かせようと、思いつくまま質問を投げかける。後ろから抱きついたのは、プラン通りだったのかと…。
「いいえ、違いますわ。これは…体が勝手に動いてしまったんですの。トレーナーさまが、どこか遠くへ行ってしまわれるような…そんな気がして…」
とつとつと、彼女はその思いを吐露していく。本心からの行動だったことが、とても嬉しかった。
ありがとう…その一言を静かに伝える。そして、ちゃんと謝りたい…ありのままの姿が見たい…と。
再び彼女の腕に触れて、やおら引き離す。彼女は何も言わなかったし、抵抗もしなかった。
振り返った先にあったのは、目と顔を真っ赤にして、少しばかり顔を背ける彼女。目尻に浮かぶ雫は、もう何度も頬を伝い落ちた後のようだった。
泣かせてごめん…と、何度も頭を下げる。気持ちをきちんと考えていなかったことも、深く反省した。それでも、彼女の沈んだ面持ちは変わらなかった。
いつの間にか訪れていた重苦しい静寂。それを破ったのは、意外にも彼女の方だった。
「トレーナーさま…わたくしも、わがままが過ぎていることはよく存じていますわ。ベテラントレーナーが複数の生徒を担当に持つのは、ごく自然なことですもの。それはもう、お止めできないこと…よく理解しております。ですから…」
覚悟を決めた瞳が、そこにはあった。メジロ家の令嬢…その誇りとプライドを秘めた、たくましいブラウンの双眸だった。
だが、その光はまぶたによって永遠に隠されてしまった。そして、一筋の雫が、彼女の頬にありありと透明を描いていく。
ふと、涼やかな夜風が褐色のロングヘアをふわりと揺らした。見ただけで彼女のものと分かる、少し癖の強い美しい髪の毛。とても良い香りがする、誰よりもつややかな髪だ。
「えっ…トレーナーさま…?」
はっと目を見開いた彼女の口から、戸惑いと驚きの入り混じった声が漏れる。
まぶたを閉じたままだった彼女に、そっと上着を被せてあげたのだ。
目を白黒させる彼女の片手を取り、優しくこちらへと引き寄せる。白く小さな手は、ずっと握りしめていたいほど柔らかく、ほのかに温かかった。
二人の眼前に広がるのは、浩々たる明媚な光景。星々が散りばめられた幻想的なカーペットに、それをくっきりと映し出すミッドナイトブルーの鏡…改めてその美しさに息を呑む。
「とっても…綺麗ですわ…」
彼女の愛くるしい声が、鼓膜を優しく撫でていく。彼女の望みを叶えてあげたい…そんな気持ちが胸いっぱいにあふれてくる。
意を決して、選抜レースのある日だけど…と、切り出す。
「…?」
きょとんとした顔がこちらを見上げている。
彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて、ためらうことなく告げる。また二人きりでここに来よう…と。
しばらくの間、彼女はぽかんとしていた。けれど、それはやがて笑顔に変わる。何度となく見てきた、あの可愛らしく純真な微笑みに。
「ほわぁ…それは…それは本当ですの?」
すぐさま頷くと、今度は見る見るうちに顔をくしゃくしゃにして…。
「わぁ…トレーナーさま…トレーナーさま…」
母親と再会した迷子のように、こちらへと抱きついていた。
よしよしと、背中をさすりながら彼女の全てを受け止める。
「喜んで…喜んでご一緒いたしますわ…」
体をこちらに預けたまま、嬉しさを帯びた涙声を、彼女は何度も響かせていた。
「わたくし、誓いますわ…トレーナーさまと…ずっと…永遠に…」
胸元で、ふわふわと揺れる両耳。
彼女お気に入りの洗髪剤の、とても良い香りがした。