ひょんなことから担当ウマ娘とデートすることになりました【短編集】 作:キビタキ
「トレーナー、ちょっと頼みたいことがあるんだけど、いい…?」
クリスマスを明日に控えた、寒々とした昼休み。しんと静まり返った校舎裏で、メジロドーベルは何の前触れもなくそう切り出した。
折り入って話があるということで呼び出された、人気のないこの場所。右手人差し指にダークブラウンのロングヘアをくるくると巻きつけつつ、彼女はどこか虚空を見つめながら口を開いた。
「勘違いしないで聞いてほしいんだけどさ…明日は特に予定無いって言ってたよね?」
言い終えてもなお、こちらを見ようとしない彼女。垂直に逆立った耳はぴくぴくと定め無い。
顔が赤いだの、恥ずかしそうだの、その事実を少しでも茶化したらこっぴどく叱られてしまうことは、重々承知している。彼女の言った"勘違いしないで"とは、いわゆる"そういうこと"ではないという念押しなのだから。
彼女の真意はどうあれ、幸運というべきか、残念というべきか、その日の予定は未だに空っぽだった。
「良かった…まだ空いてたんだ。それじゃあ、これからアタシが言うことに絶対ビックリしないでよ。頼みたいことっていうのはさ…」
辺りをきょろきょろと見渡して、誰もいないことを確認する彼女。次いで、もじもじと上目遣いにも似た所作でこちらを見やった。
「アタシと、その…デート…してほしいんだよね…」
思わず目が点になり、困惑の声が漏れる。"勘違いしないで"とは一体何だったのか…そんな表情で彼女を見つめ返してしまった。
間髪入れず、怒気を含んだ慌て声が炸裂する。
「だ・か・ら!! 勘違いしないでって言ったでしょ! これにはわけがあるのっ…!」
だったら最初からそのわけを話せばいいのに…などと言えるわけもなく、低頭平身に徹する他なかった。デートを頼んできた時の恥ずかしげな顔は、物凄く可愛らしかったのに…。
「実はね…この前退院したアタシのおばあちゃんが、アタシと男の人のツーショット写真を見たいって言い出してさ…」
ますます顔がぽかんとなる。途端、むっとした視線に射すくめられたものの、彼女はとつとつと続けた。
「おばあちゃん、アタシが男の人を苦手なこと知ってるんだよね…そのことをずっと前から心配しててさ。アタシ、おばあちゃんにはとてもかわいがってもらったから…もう平気なんだよって、安心させてあげたくて…つい、嘘をついちゃったの。今度のクリスマスにデートするんだって…」
とっさについたその嘘から、『それじゃ今度ツーショット写真を見せてちょうだいね』…という流れになってしまった。それが大まかな経緯だそうだ。
ただ、彼女としては嘘で終わらせたくないらしい。というのも、おばあさんは重い癌からの奇跡的な回復だったらしく、一時は危篤状態に陥っていたことさえあったそうだ。それゆえ、おばあさんが元気なうちに、男性が苦手であることを克服したと、本気で伝えたいのだという。
「やるからには中途半端はダメ…! テキトーな写真で嘘がバレたりなんかしたら、それこそ目も当てられないし…」
そして、彼女なりに散々悩んだ挙げ句、クリスマス当日の、しかもデートスポットの写真なら納得してもらえるはずだと、そういう結論に至ったらしい。
「アタシの嘘に巻き込んじゃって、ホントに申し訳ないって思ってる。でも、こんなこと頼める男の人、トレーナーしかいないって、アンタならよく知ってるでしょ…」
ぷいっとそっぽを向きながらも、その口調はどことなくしおらしかった。
今でさえ、お世辞にも男性と接することが上手とはいえない彼女。そういったことを頼める人は、親族を除けば自分しかいないのだろう。
そういう事情なら引き受けるよ…と、首を縦に振る。安堵の表情を一瞬だけ浮かべ、彼女は続けた。
「待ち合わせは明日の午前十時、渋谷駅の"ウマ公前広場"ね。アタシが言い出しっぺなわけだし、デートプランはこっちで考えておくから…それと、ちゃんと様になる格好で来てよね」
すらすらと言い立てた後、やおら右手を側頭部へとやる彼女。その顔と視線を、バツが悪そうに別方向へと向けて。
「今日は、その…こんな頼み事聞いてくれてありがと。それじゃ、明日はよろしく…」
言い終えるが先か、踵を返すが先か、尻尾を大きく揺らしながら、担当ウマ娘はすたすたとその場から去っていった──
ホワイトクリスマスとは無縁の素晴らしい天気に覆われた東京都心。とはいえ、その外気は息を白く染める程度には冷え込んでいる。
約束の時間、その場所はやはりそれぞれのパートナーを待つ男女であふれていた。
そんな状況でも、ウマ娘を探すのは比較的容易だ。その特徴的な耳と尻尾を目印にすればいいのだから。
しばらくして、駅の出入口から出てきた人混みの中に、ちょこんと突き出たウマ耳が目に入った。見間違えるはずのない、ダークブラウンの細長く尖った耳だ。
小走りに駆け寄って声をかける。彼女はちょっとだけ驚いた様子を見せた。
「あっ、トレーナー。ごめん、待たせちゃったね」
そんなことない、こっちも今来たところ…と、無難な返事をしつつ、彼女の姿をまじまじと見つめる。言わずもがな、それは初めて見るコーデだった。
真っ白なセーターにベージュのファーコートを羽織った冬の装い。前を開けたコートから垣間見えるのは、ネイビーブルーの膝上フレアスカート。その下には、漆黒のタイツに覆われたしなやかな脚と、同じ色をしたエレガントなブーツ。見慣れた素足とは違う、どこか妖艶な魅力を確かに放っていた。
相手の服装に目が行っていたのは彼女も一緒のようで…。
「トレーナー、その格好…」
もしかして、これではまずかっただろうか…と、おそるおそる。
学園に赴任する前、元カノと付き合っていた時に着ていた服ゆえ、流行遅れだったかもしれない。
「ううん、そうじゃなくて…予想してたよりは、悪くないかな…って。学園だといつもおんなじ服ばっかり着てるし、あんまりファッションのこと気にしてなさそうだったから」
後半の容赦ない見解に苦笑いしながらも、ほっと白い溜め息をつく。彼女なりの褒め言葉がくすぐったく感じて、お返しとばかりに、ドーベルの服も凄く似合っていると伝える。
「え…そ、そういうのは別にいいから…! だってホントのデートなんだから、地味な服装なんかで来れるわけないし…!」
赤らんだ顔をこちらから背け、不機嫌そうに腕を組み、そしてぶんむくれる…それは何度となく見てきた姿。そう、精一杯の照れ隠しだ。
「言っとくけど、撮影の時以外はいつも通りでいいからね。これはデートだけど、ホントのデートとは違うっていうか…まぁ、そういうことだから」
そのままの姿勢で、彼女はすげなく言い放った。
しかし、さっきは「ホントのデートなんだから」と言っていたような気がするが…。
「…っ! ああもうっ、撮影の時だけホントってこと…! 今日はたくさん撮らないといけないんだから、さっさと行きましょ!」
勢いよく声を張り上げて、彼女は早足に歩き始めた。
慣れないシチュエーションに、いつになく気が立っているのは間違いないようだ。やはり恥ずかしさに耐えかねているのだろうか。
そんな彼女に気を使い、その少し後ろをつかず離れず歩こうとしたが…。
「ちょっと待って、それはナシ…!」
やにわに振り返って、彼女はこちらの隣につかつかと歩み寄った。
「撮影以外はいつも通りって言ったでしょ…! アンタはアタシの隣を胸張って歩いてればいいの…!」
つんつんした口調の中に見え隠れする彼女なりの気遣い。
慣れないデートにまごまごするその姿は、思いの外いじらしく見えた──
最初に訪れたのは、都心のど真ん中にある"ウマシャイン水族館"。「都心 デートスポット」と検索をかければ真っ先に出てくるくらい、ど定番のデートスポットだ。
数多の海洋生物が住まうその巨大水槽の真ん前で、自撮りツーショットに挑む一組のカップル。
「これでどうかな…?」
薄暗い館内で眩しさを放つ液晶画面。そこには、どこかぎこちない表情でピースをする、何とも言えない距離感の男女が写っていた。
正直に言って、二人ともあまり顔が笑っていないような気がした。
「そ、そんなこと言われたって、こんな状況で自然に笑うなんて難し過ぎ…」
でも、これじゃ信じてもらえないかも…と、不安だらけの仕上がりにそんな感想しか浮かばない。
「…うぅ、分かったわよ。誰が見ても違和感ない写真が撮れるまで、何回だって撮り直すから。その代わり、最後までちゃんと付き合ってよね」
もちろん…と、グーサインで応じる。彼女が納得いくまで寄り添うことは、担当トレーナーとして、もはや手慣れたものだった。
時計の長い針が四分の一程度進んだ頃だろうか。何十回と行われたリテイクの末、ようやく満足のいく写真を撮ることができた。
幻想的なアクアブルーを背景に、顔をしっかりと寄せ合い、混じり気のない素敵な笑顔を浮かべる男女…誰が見ても楽しい水族館デートにしか見えない、完璧な一枚だ。
最初の一枚と比べると、それはまさに雲泥の差。案外、彼女は写真モデルに向いているのかもしれない。
「周りの人たち、絶対アタシたちのこと変なカップルって思ってたよね…」
水族館を出てすぐ、そわそわと落ち着かない様子で彼女は耳を折り曲げた。
同じ場所で何度も自撮りを繰り返す二人の姿は、確かに怪訝や奇異の目で見られていただろう。しかし、それを乗り越えて得られたものは、紛れもなく二人の努力の結晶だ。
「それって慰めてるつもり? でも…二人の努力の結晶か…意外に、トレーナーの言う通りかもね」
静かな声をどこか満足げに響かせた彼女。
最初こそ硬かった表情も、いつしか見慣れたそれへと変わり始めていた。そう、とても愛らしく、月明かりのように淡い穏やかな笑顔へと──
露出した肌を容赦なく責め立てる清冽な空気。すっかり夜の帳が下りた街は、クリスマスらしく見渡す限り七色の光にあふれていた。
デートスポットをいくつか経て最後に辿りついたのは、真下からだと首を垂直に上向けるほどの巨大なクリスマスツリー。
クリスマス当日だけの特別なイルミネーションが行われていて、まさにこの日来た甲斐がある場所だった。
ツリーにあまりにも近過ぎると、逆に写真に収まり切らない。というわけで、数十メートル離れたところから撮影を試みるが、それでもツリー周辺は相当な人であふれかえっていた。
窮屈な人混みの中、ベストショットを狙って何度も撮影を繰り返す。この人の多さが、写真のリアリティをより高めてくれるだろう。
その日最後のシャッターが押されたのは、それから数分後のことだった。
「ふうっ…お疲れさま」
ツリーからさほど離れていない歩道の隅で、彼女は深く溜め息をついた。
今日撮った写真を二人で確認したが、それはどこから見ても、そして誰が見ても、仲睦まじい男女の一幕。お互いに納得のいく出来栄えだった。
「今日はホントにありがとね…」
辺りのざわめきにかき消されないぎりぎりの声量。
いつものように右手を側頭部にやり、少しだけ俯き加減の彼女が、そこにはいた。
こちらこそありがとう…と、反射的に答えた。
「とうしてアンタがお礼を言うのよ。アタシの頼み事に付き合わされて、大変だったでしょ…」
彼女はそう言ってくれたが、役に立てたことは単純に嬉しかったし、色々な場所を二人きりで巡ることができたのはとても新鮮だった。
「そっか…だったら、アタシもトレーナーと色んなとこ行けたし、ちょっとは楽しかったっていうか…気分転換にはなったかな…」
いつの間にか、彼女は大きく目線を逸らしていた。それが向けられた先は色鮮やかな巨大樹。その頬を、ほんの少しだけ紅色に染めながら。
心地良いしじまの中、彼女は顔に手を当て、逡巡に身を落としているようだった。
しばらくして、その手がそっと降ろされた時。
「…レースを引退したメジロ家のウマ娘が、次にするべきことって何か知ってる?」
何の脈絡もない一言によって、沈黙はおもむろに破られていた。
突然の質問に頭が回らなかったが、何とか答えを捻り出す。一般的には、やはり第二の人生となる仕事探しだろうか。
「うん、まぁ、それも当然あるけど…」
少しばかり目を伏せて、彼女はそのつややかな尻尾をゆらゆらと波打たせた。
「お見合いとか縁談とかの話が舞い込んでくるの。要は…結婚だよね」
彼女の口から発せられるとは思えなかった、意外過ぎる一言。
重々しさと気恥ずかしさ、どちらも内包したような難しい顔をして、彼女はおもむろに腕を組んだ。
「今どきそんなの古いかもしれないけどさ、メジロ家では当たり前のことなんだよね…それ。お母さんも、おばあちゃんも…皆そうやってメジロ家を繋いできたんだもの」
とつとつと言葉を紡ぎながら、ひっきりなしに行き交う人々を見やる。そのほとんどはカップルか家族連れだった。
「アタシの競技者生活ってさ、長くても後数年でしょ? もしその時が来たら、それをちゃんと果たさないといけないんだって、分かってはいるんだけどさ…」
弱々しく語尾をすぼめる彼女。
男性が苦手な彼女にとって、それは大きな不安なのかもしれない。おばあさんが抱いている心配も、きっとそこから生まれたものなのだろう。
「…って、何でこんなことアンタに話してんだろね、アタシ」
彼女らしからぬ苦笑い。適正の壁に阻まれ、望んだレースへの出走が叶わなかったウマ娘のような…そんな儚い空気をまとわせて。
ドーベルなら大丈夫だよ…と、すかさずフォローする。彼女のことをよく理解し、それでいて彼女が心を許せる男性は、この広い世界にきっといるはずだし、現にこうして男性とデートできているのだから、と。
「そ、そりゃ…トレーナーは特別だし…」
やはりどこか遠くを見つめて、彼女はそのダークブラウンのロングヘアを右の手櫛でといていた。
「おばあちゃん、多分もう長くないんだよね…いつ癌が再発してもおかしくないって。その時治療に耐えられる体力もあるかどうか…だから、会う度にいっつも言われるの。あなたのウェディング姿を生きてるうちに見たいって…」
物憂げな声が冷気を伝う。それは彼女とおばあさんの切なる願い。もちろん、彼女のトレーナーとして叶ってほしいとは思うが、おばあさんの健康を祈るくらいしか、今の自分にできることはなさそうだった。
そんな時、不意に背後から声がした。
「あの、すみません。写真を撮っていただけませんか?」
声をかけてきたのは、赤ん坊を抱えた若い女性…それもウマ娘だ。そのすぐ側には夫と思しき男性も。
男性の方は、女性と同じ色の尻尾をふわふわと揺らす二歳くらいの女の子を、女性の方は、今年生まれたばかりであろう天使のような男の子を抱えている。見るからに幸せいっぱいの四人家族のようだ。
「撮ってきなさいよ。アタシのことはいいから」
こちらにしか聞こえない小さな耳打ち。彼女の白い吐息が、耳に優しく吹きつけていた。
促されるまま快諾の意を伝える。ちらりと彼女を見やると、両親に抱っこされた幼子に、慈愛に満ちた眼差しを送っているようだった──
あまりの人の多さと、子供たちの虫の居所の悪さによって、思いの外撮影に時間がかかってしまった。
人混みを縫うようにして、急ぎ足で戻る。元いた場所に辿り着いた時、彼女はスマホとにらめっこしていた。
そろそろと近寄るが、なぜか彼女は全くこちらの存在に気がつかない。いつもなら敏感なウマ耳ですぐに気配を察知するのに、人々の喧騒のせいなのか、あるいはよっぽどスマホに集中しているのか、無防備とさえ思えるほど、ただただ小さな画面に食い入っていた。
右手人差し指が小気味よく左右にスライドしている。どうやら今日撮った写真を振り返っているようだった。
「何だか…ホントのカップルみたい」
微かに聞こえた独り言。それはさらに続いて…。
「アタシ、どうしたら素直になれるんだろ…というか、あの人も相当鈍いし…」
刹那、彼女の耳がくるりと半回転した。普段の鋭敏さを、この時だけ急に取り戻したかのように。
確かにこちらの存在を認識したであろう彼女は、続けざま、びっくりしたように振り返った。
「っ…!? ちょ、ちょっと…!? いつの間に戻ってきて…っていうか、もしかして、今の聞こえて…!?」
あからさまにうろたえる彼女。口に手を当て、目をぱちぱちとしばたたかせる。
どうやら聞かれたくなかったらしいが、聞こえなかった振りをする演技力に自信もなく、正直に全部聞こえていたと白状した。
「な、なに盗み聞きしてるのよ! 今のは忘れて! 記憶消してっ!」
そんな無茶な…と、物凄い剣幕にただただ気圧される。そもそも、どうしてこんなにあたふたしているのかも分からないのだが…。
「べ、別にさっきの独り言に深い意味なんてないから! 今日撮った写真をただ眺めてただけ…! "素直"とか"あの人"とか、アンタには全然関係ないっていうか、全部単なるアタシの妄想っ…!」
顔をうんと真っ赤にして、それでも彼女の口は機関銃のように動き続けた。
「それにしたって、戻ってくるの遅かったかったじゃない…! そういえばさっきの子たち、めちゃくちゃ可愛かったよね…! ちょっと前までの妹と弟を見てる気がして、何か懐かしいなって…そんなこと考えてただけっ…!」
何の脈絡もない話が飛び出すほど動転している。これ以上は見るに忍びなくて、さっきのことは綺麗さっぱり忘れた体で、彼女の話題転換に乗っかることにした。確かに、両親に抱っこされたあの子たちはとても可愛らしかった。
「やっぱりちっちゃい子の可愛さって特別だよね…! 母性本能をくすぐられるっていうか…」
実は彼女には十歳ほど年の離れた弟妹がいる。だからこそ、先ほどのウマ娘親子を見て感じることもあったのだろう。
「そういえば、トレーナーは子供好き? 子供の相手とかしたことは…?」
不意に飛び出した思いがけない質問。わずかばかり間を置いて、少しだけ…と、返す。
子供と接すること自体は好きが、そもそもそのような機会がほとんど無い。強いて言えば、前回の帰省で二歳になる姪っ子と遊んだくらいだ。
「まぁ、保育士さんとかじゃないとなかなかね。実はさ、アタシって赤ちゃんだった妹にも弟にも、やけに泣かれてさ…だから撮影もアンタに任せたの」
突然打ち明けられた事実に目を丸くする。しかし、残念ながら彼女の期待に応えることはできず、撮影直前から子供たちは泣き声の大合唱だった。
「そうだったんだ。何か意外だね、それ」
本当に意外そうな顔で、彼女は言う。そんな風に思われていたことが、一番の驚きだった。
「それで、結局泣き止むまで撮影を待っててあげたってことでしょ? アンタってやっぱりお人好しだよね。まぁ、この人混みで夜も遅いし、多分疲れて眠たかったんだと思うけど…」
それはまさに推察通り。すやすやと眠り始めたその幼気な寝顔は、愛くるしさにあふれていた。
「うん、子供の寝顔って、見てるこっちも幸せになるよね…昔から妹と弟のお世話をしてきたから、あの可愛さはよく知ってるつもり。よその子でもあんなに可愛いんだから、自分の子供だったら目に入れても痛くないくらい、ホントに可愛いんだろうね。まぁ…アタシがちゃんとしたお母さんになれるかは、正直かなり不安だけど…」
その不安が結婚に対するものなのかは分かりかねたが、彼女をよく知る身として、その不安は杞憂としか思えなかった。あがり症ではあるものの、本当は芯が強く心優しい彼女…いつか素敵な男性と結ばれて、立派な母親になるに違いない。
ただ一言、何も心配いらない、ドーベルは強くて優しい娘だから、きっと良い人が見つかるよ…と、エールを送った…までは良かったのだが。
次の瞬間、彼女は不機嫌そうに鼻を鳴らして、いかにも当て付けがましく顔を背けた。
(もうっ…どうして………のよ………バカ…)
何かぶつくさと聞こえてくる。心の声と相違ないほど微弱過ぎるそれは、残念ながらきちんと聞き取ることはできなかった。
「何でもないっ…! 撮影も済んだんだし、さっさと帰りましょ…!」
そう言い放つや、つややかな尻尾がふわりと翻る。
つかつかと歩み去る彼女を、慌てて追いかけていた──
肩を並べて歩く一組のカップル。そこには和気あいあいとした和やかさも、そぞろに浮き立つ初々しさもない。肌で感じるほどの、剣呑な雰囲気だけが漂っている。
「ホントに何でもないからっ…!」
何を聞いても、彼女はその一点張り。なぜかは分からないが、最後の最後に機嫌を損ねてしまったようだ。
彼女がそんな態度を取り続けることは、過去何度かあった。何かに対して強い不満や怒りを持っている時だ。しかし、今回ばかりは原因からして分からない。
もし何か気に障ったのなら謝りたい…と、必死に頼み込む。
「…別に怒ってない」
素っ気なくささやき、決して目を合わせようとしない彼女。それなのに、隣同士歩いてくれる状況が不思議でならなかった。
それでもめげずに声をかけ続けると…。
「それじゃ…これから"練習"に付き合って」
出し抜けに、彼女はそんなことを口走った。トレーニングのことかと尋ねると、すぐさま首を横に振った。
「もし付き合ってくれたら、アタシも機嫌直すから。それと、一つ約束して。絶対に逃げたり、変な声出したりしないって」
彼女の落ち着いた言葉から並々ならぬ思いを感じ取り、ただ黙って頷く。小刻みに揺らめくその耳は、まるで武者震いでもしているようだった。
そして、その"練習"は突然始まった。
その内容を簡潔に述べるなら、"彼女によって手がいきなり奪われた"…そんな表現しかできない出来事。何が起きたのか、一瞬理解できなかった。
そう、それはいわゆる手を繋ぐという行為。思いを寄せ合う二人が行う、気心の知れたコミュニケーションだ。
思わず漏れそうになった声を喉元で何とか抑え込み、おそるおそる真横を見る。すると、彼女はこれ以上なく顔を真っ赤にして…。
「か、勘違いしないで! これは練習だから…! 手も繋げないなんて、それってやっぱり男の人からしたら嫌でしょ…! だから、その練習…!」
呆然となるこちらに目もくれず、明後日の方向にまくし立てていた。
お互い手袋をしているがゆえ、手の感触や温もりは伝わらない。ただ、彼女がこちらの手をぎゅっと握り締めていることだけは、確かに感じ取れた。
「それに、トレーナーとなら、別に見られたってそんなに恥ずかしくないっていうか…ほ、ホントは恥ずかしいけど…! これだけ周りにカップルがいたら、アタシたちが手繋いでたってそんなに目立たないでしょ…! だから、アンタを練習台にさせてもらっただけっ!」
恥ずかしさを紛らわそうと懸命な彼女。耳も尻尾も、別の魂が取り憑いたかのように忙しない。
男性と話すのでさえやっとなのに、無理をしているのは誰の目にも明らかだった。しかし、競技者生活を終えたその先…メジロ家の新たな未来に向けて、それは大きな第一歩に違いなかった──
数分の後、最寄り駅の出入口に辿り着いた二人。彼女のトークは終始止むことはなかったが、さすがにある程度は慣れたようで、今はもう平静を保っていた。
後は電車に揺られて学園に帰るだけだ。
「トレーナー…その…今日はアタシのわがままに付き合ってくれて、ホントにありがと…あの写真を見せたら、おばあちゃんもきっと安心してくれると思う」
どこか名残惜しそうに手を離して、彼女はこちらへと向き直った。その顔はやはり紅潮したままだったが、凛々しい面持ちは達成感にあふれていた。
しかし、それは一瞬のうちに物悲しさを帯びた。
「…でもさ、よく考えてみたら、これってその場しのぎっていうか…本当の意味でおばあちゃんを安心させてあげられるわけじゃないよね。これじゃ、ただそれっぽい写真を撮っただけ…」
真っ白な重たい息を吐き出す彼女。一拍の空白を経て、やにわにまなじりを決した。
「だからさ、アタシ…もうちょっと頑張ってみる。メジロ家に生まれたウマ娘として、果たすべきことを果たしたいの」
それならばと、すかさず応じる。担当トレーナーとして、協力できることがあれば是非手伝わせてほしい…と。
「"トレーナーとして"…か。うん…やっぱりアンタらしいわね、その絶妙に人が好いところなんか、特に。そこはトレーナーとしてじゃなくてさ…」
ほんの少しむくれた顔をしながら、唐突に言い淀んだ彼女。次いで、わざとらしく首を横に振ってみせた。
「ううん、何でもないっ…そこはアタシが何とかしてみせるから」
ふと、二人の間を吹き抜けた微風。ダークブラウンの髪がさらさらと舞い、彼女は右手でそれを抑えた。指の隙間からあふれ出る一本一本は、あたかもビロードのようにあでやかな光沢を放っている。
その可憐な姿に、なぜかこの日は少しだけドキッとした。
「あのさ…一つお願いがあるんだけど、いい? せっかくクリスマスに、こんなところまで来たわけだし…」
わずかな静寂がお互いを包む。やがて、大きく冷気を取り込む音がした。そこには、決意を秘めた紫紺の瞳が確かにあった。
「もう少し一緒に歩かない…? イルミネーションが綺麗なとこ、近くにまだいっぱいあるから…」
そして、まるで握手のように、そっと差し出された小さな手。いつものように、少しだけ視線を逸らしながら。
「勘違いしないで。もう…練習じゃないから…」
頬をほのかに赤らめて、彼女は精一杯に紡ぎ出していた。ツーショット写真のようなはにかみ顔と、白くて愛らしいささやきを。