洗面所からフラフラと出てきたヒカルを、再び美津子が呼び止めた。ヒカルの様子を見て、慌てて駆け寄ってくる。
「ちょっとヒカル、どうしたの? ……顔色悪いわよ? 体調悪いの?」
「……」
いつもとは違う様子の息子に、美津子は戸惑った。元気が取り柄のようなヒカルのこんな姿を見たのは、初めてだったのだ。
そんな美津子に、ヒカルは声を震わせながら小さく呟く。
「悪ぃ、母さん。今日学校休んでいい?」
「休むって……熱でもあるの? それともお腹が痛いとか?」
「……」
無言で頭を振るヒカル。美津子は困ったようにヒカルを見た。
調子に乗りやすく、人様に迷惑をかけることも多々ある息子。だが、嘘だけはつかない息子だ。
熱でも腹痛でもないと言っているが、何かもっと深刻なことがあるのだろう。美津子はそう判断し、ヒカルを不安にさせないように微笑んだ。
「わかったわ。学校には連絡しておくから、ヒカルは上で休んでなさい」
「……ありがと、母さん」
一言お礼を口にし、部屋に戻っていくヒカル。
そんな姿を見送り、今日はやけに素直ねぇ、と感じながら受話器を手にする美津子。
学校への欠席の電話を済ませた美津子は、もう一度受話器を手に取った。いつも一緒に小学校に通っている、ヒカルの幼馴染の家に電話をするために。
「もしもし、藤崎さんのお宅ですか? そうです、進藤です。朝早くにごめんなさいね。えぇ。えぇ。実はうちのヒカルがですね、体調を崩しまして。今日は一緒に登校できなさそうで。……はい。……えぇ。……えっ!? あかりちゃんも!? 体調は? ……そうですか、熱とかじゃないんですね、良かった。……元気がなさそう、ですか。えぇ、うちのヒカルも似たような感じでーー」
「これからどうすんだ?」
ベッドに横になり、一人呟くヒカル。
朝起きたら過去の自分になってました、なんて言われても困ってしまうだけである。理由も理屈も、何をすればいいかもわからない。第一その前にーー
「前と同じように生きないとマズいのか?」
逆に前と違うように生きたらマズいのか? とも自問する。答えは出るはずもなかったが。
部屋に戻ったヒカルは、まず現在がいつなのか確認した。
1998年12月ーー
藤原佐為と出会った季節である。
それに気がついたとき、沈んだ心に光が差した気がした。同時に天命を受けたようにも感じたのだ。もしかしたらオレは佐為と再び会うために過去に来たのではないか、と。
だがーー
「……。あかり……」
自分が消えてしまったであろう現代に、何も言えずに残してきてしまった最愛の妻を想うと喜ぶことはできなかった。
何時しか佐為を超え、ヒカルの心の大部分を占めるようになったあかり。楽しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、苦しいことも。そのすべて二人で乗りこえてきたのだ。その喪失感は計り知れない。
(……。もちろん、この世界にもオレと同い年のあかりはいるはずだけどーー)
それはヒカルの知ってるあかりではない。
共に愛を育んできた、最愛の妻でもない。
その事実が、ヒカルの気持ちを更に沈ませるのだった。