「ターボばあちゃん?」
ぼちぼちセミも長い地中生活からおさらばしようと思う程度には、夏の兆しが太陽と空に現れ始めたころ、日本トレーニングセンター学園、縮めてトレセン学園の生徒会室ではそんな名前が話題に出ていた。
「あぁ、知っているか?」
話題を出したのは数少ない三冠ウマ娘という名誉の称号を持つ、生徒会副会長ナリタブライアンだった。一つの束ねた美しく長い黒鹿毛色の髪と、いつも加えている枝木が特徴的なウマ娘で、見る者に孤高の一匹狼を思わせる佇まいと、無駄な会話を嫌うようなクールな性格が女性ファンを引き付けて止まない。もちろん、口より実力で語る硬派なその姿を慕う後輩も多い。
そんなナリタブライアンが、流行りの噂という好みそうにない話題を出してきたので、向かいに座って作業をしていたもう一人の副会長であるエアグルーヴは驚くというよりも、何の意図があってのことなのか分からずに困惑に近い表情を出した。
「後輩が話していたな……たしか、近くの公園で夜歩いていると何処からともなく走ってきてどこかへと去っていく高速の老婆のことだったか、所謂都市伝説というものだな」
時代と共にすっかり廃れていったう幽霊や都市伝説の類であるが、このある意味広大な閉鎖空間とも言うべきトレセン学園内では一定数の勢力を持って今だ存在を主張している。理由としてはウマ娘という存在が普通のヒトとは違い、そそういうものを捉えやすい特殊な感覚があるからという説もあるが、実際の所は年頃の乙女が2000人ばかりいるからであるだろう。
「君にしては珍しいな。こういった類のものはあまり興味を示さないと思っていたが」
生徒会長であるシンボリルドルフも、書類へと向けていたその視線の方向を、その淡い藤色の瞳に興味の光を蓄えながら変更した。
「別にどうだっていいだろう。ソイツは速いのか?」
「速い……のではないだろうか? ターボとついているからには、それなりの速さがあるのだろう。牽強付会の彩があるとはいえ、火がない所には煙はとも言う」
「しかしなぜ敬称なのでしょうか? もっとこう、こういった噂には、言葉は悪いですが……ばばあ、とかじじい、とか付けられるものですが」
「わが校の生徒は行儀作法が行き届いている。と思いたいところだが……真偽は不明だな、ふふっ」
「ふふ、それもそうですね」
くすくすと笑い合うルドルフとエアグルーヴを他所に、ブライアンは口に加えた枝をゆっくりと上下させて天井を見やると、またすぐに視線を戻した。
「夜というのは何時ぐらいだ」
「何時? 流石に夜遅くではあるだろうが、噂が広がっているのをみるにまぁ門限は越えない程度だろうな。って、貴様まさか……」
「会いに行く」
なんてこともない口調と共にブライアンは立ち上がって背を向けた。エアグルーヴといえばやはり困惑の方が強い。興が乗ったといわれればそれまでではあるが、此処まで根も葉もない都市伝説の検証に自分から乗り出すようなタイプだったとは思えない。
「いったい何を考えて……そもそも我々生徒会は生徒の模範となるべき姿を見せる立場にある、許可のない夜間の単独行動など認められるか!」
「だから会いに行くと言った」
「それは許可をとるとはいわん!」
「エアグルーヴの言う通りだ、ブライアン。正当な理由がない以上、私としても許可は出来ない」
だが、ルドルフの言葉にも振り向かずに、枝木を咥えたウマ娘はそのままドアに手をかけた。もとよりこのウマ娘は許可などは必要としてない、ただ義理として報告しただけなのだ。その後どう処分されようが、このウマ娘には自身の事であっても関心はなかった。ただ少し、また姉貴からうるさく言われるな。という程度である。それほどに頑固でもあった。
「だから、私から君に正当な理由を送ろう」
その皇帝の言葉にブライアンは今度こそ振り向いた。
読まれていたか。
蒸した夜の暑さが辛うじて風によって紛らわされる薄暗い公園の中、口の中で舌打ちをしながらブライアンはベンチに座ってその時を待っていた。この森が生い茂った広い自然公園に点々と一定間隔で設置されている街灯には、どこを見ても時折ランニングや、夜の散歩を楽しむ人々が通るだけで、いっこうにターボおばあちゃんなる怪異は姿を現す気配はない。時間はもうそろそろ門限が近くなっており、もうそろそろ出てこなければ、明日へ持ち越すことになるだろう。そもそも怪異が存在すれば、だが。
「お疲れ様、出てきた? ターボおばあちゃん」
そこへ、一人の男性が冷たいジュースを持ってやってきた。背が高くおさまりの悪い髪をしていて、人の良さそうな顔には常に微笑みがありかけている眼鏡も相まってか、お人好しが服を着て歩いています。というような雰囲気を漂わせている。ゆえにこの男がナリタブライアンという硬派で煮えたぎった油よりも熱い闘争心を持つウマ娘のトレーナーだと言われても信じない者は多い。
「いや、まだだ」
そう答えて、ブライアンはトレーナーからスポーツ飲料を受け取ると、暫くその冷たさを手の中で堪能してから口に含んだ。
「今日はもう来ないとか?」
「いや、来る」
空の闇を溶かして染めたような髪色のウマ娘は断言した。脳裏にあるのは生徒会長の言葉だ。
『とある生徒から相談があってね。いきなり友人が毎日門限近くまで外出をしては、ジャージを汚して帰ってくるという。理由を聞くと、ターボばあちゃんに会いに行くとだけ言ったらしい。君に調査を頼みたい、ただし夜間活動になるのでトレーナーと共に行くことが条件だ』
それを聞いたとき、ブライアンは自分が何を目的にしているのか見抜かれていると直感した。それは自身の感覚を信じる彼女にとっては一つの確信に近い。
「アイツ、私がこの話題を出した時から分かっていたな」
呟いたウマ娘の口には少しの忌々しさがあった。無論ルドルフとしては適任だからこそブライアンを選んだのだろうが、やられた方としては一杯喰わされたような気分になる。
実の所同じような相談を受けたのである。なので情報を得るための会話だったがいつの間にか、道もゴールも用意されていた。過保護もいい加減にしろと皇帝に言いたくなる気分だった。
「ブライアン? 何か言った?」
「いや。それよりアンタはもう帰れ、後は私だけでやる」
その反論を受け付けないような口調は、彼女を知らない者には冷徹な響きに聞こえたかもしれないが、彼女を良く知る男にとってはそれはむしろ優しい音色として心に染み入った。
「大丈夫だよ、仕事はもう片付けてるから。明日は休みだし」
「……フン」
トレーナーの笑顔がほころんだのを見て、ブライアンは目線を逸らして呆れたように鼻を鳴らした。少女はこの男とこういったやり取りをするたびに、どこか子供のころ姉と過ごした時のような懐かしい、あたたかな気持ちになる。それは自身の闘争本能を満たすものではなかったが、不思議と嫌いになれなかった。そう、嫌いではない。
「トレーナー」
ふと、ブライアンの綺麗な耳が暗がりの方を向いてぴくぴくと動いた。声をかけられたトレーナーは耳に手を当てて目を閉じてじっとしていたが、暫くして口を開いた。
「二人……歩幅からするに、一人は140㎝後半。もう一人は……少し高いかな。走っているね、ペースは遅めだが……一人は間違いなくウマ娘だ、多分」
「アンタがいうなら間違いない」
それを聞いてブライアンはベンチから腰を上げて屈伸を一つすると、ぐっと足に力を込めた。方向は舗装された道ではなく、その先にある木々とヤブの中だった。
「まだか?」
「……今!」
瞬間、ブライアンが影さえも追いつけないようなスピードで走り出すと、木々が立ち並ぶ道なき道へと飛び込んだ。やがて数秒ほどすると、
「わぎゃーっ!」
という声と共がして、やがて黒鹿毛のウマ娘は小脇に一人の少女を抱えて戻ってくる。
少女はウマ娘であった。特徴的な青い髪をツインテールにしてなびかせていて、じたばたと暴れるさまは活発を過ぎてもはや小さな怪獣にも見える。
「はーなーせー! はーなーしーてー! うわぁ~ん! ターボを食べたって美味しくないもんーー!」
「うるさい。静かにしろ。やっぱりお前だったか」
「やぁ、ツインターボ。君か!」
担当が連れてきた人間の姿に、トレーナーが目を丸くすると、サファイアを溶かして染めたような髪のウマ娘は、サメの歯めいた口を大きく開いた。
「あれ? ブライアンのトレーナー? じゃあ、ターボを捕まえたのは妖怪じゃないの?」
「妖怪はお前だ」
ブライアンの呆れた声にやっとターボは自分を捕まえた者の顔を見る気になったらしい、顔を上げて元々くりくりとしてまん丸い小動物のような目をさらに丸くした。
「あ! ブライアン! どうしてここにいるの?」
「それも私が聞く方だ。何故こんな時間にいる」
捕まえたウマ娘をベンチに座らせながら、ブライアンが聞くとツインターボの方はえへへと笑って指先を合わせたきり何も言わなくなってしまった。
「どうした、何か言わないと分からないだろうが。毎度ここいらで走っているのは目撃されている、それこそターボばあちゃんなんて呼ばれてながらな」
クソ、まるで姉貴みたいだな。とブライアンは心の中で愚痴った。今の状況は昔やんちゃして姉から窘められている自分を未来から見ているようだった。といっても彼女の姉、ビワハヤヒデはもっと優しく、諭すような言葉遣いだったが、そこまでは模倣しきれない。
それでも彼女自身が自分らしくないとまで思うようなことをするのは、ひとえにこのツインターボというウマ娘をブライアンが気に入っているからであった。最初から大逃げで飛ばしていくその姿は、大博打のようで魅了されるファンも多いが、シャドーロールの怪物とまで呼ばれたウマ娘にとっては、一つの恐怖も感じさせないようなその走りは自身の靄を晴らすようでもあるのだ。それに、負けても負けても挑んでくるその気力は、彼女と競いそして恐怖して避けていく者の多さを見れば関心さえする。
「ツインターボ? ブライアンも怒ってるわけじゃないんだ、何かわけがあるなら話してほしい。こんな遅く、しかも舗装もされていない道で走るなんて危ないからね」
「…………」
ブライアンに続けてそのトレーナーも援護するようにツインターボを諭したが、それでもこの大逃げ娘はじっと黙ってしまったままになっていた。どうしたものかとため息をつくと、ふと二人が出てきた道からもう一人、遅れて出てくる姿があった。
「その子を叱らないでおくれ!」
息を切らしながら、出てきたその人間はまたもやウマ娘だった。しかし、ターボと違って次は見るからに高齢でまさにおばあちゃんと言った風貌だった。足も細く腰も少しばかり曲がっていたが、しかし深く刻まれた皺のある顔には、若者に負けないほどの闘志を持った目が備わっていた。
「私が悪いんだよ! その子を付き合わせたのは私なんだから!」
「ばあちゃん!」
ターボがベンチから飛び上がると、その老婆まで駆け寄っていって手を貸した。ブライアン達は何がなんだかわからないという目をしていると、老婆はベンチに座るとふぅ、と息をついた。
「私のワガママに付き合わせてしまったんだよ」
老ウマ娘はそう言った。彼女曰く、自分は近くに住んでいるウマ娘で、今は見る影もないが、昔はレースで腕ならぬ脚を鳴らしたトップ選手の一人だったらしい。その老婆はそれを誇りに思っていたし、家族にも自慢していた。その時、ウマ娘の孫から運動会の出し物の一つである、親子レースなるものに出てほしいと頼まれたのだ。本当は母親などと出るものだったが、祖母の武勇伝を聞いて育った孫は、母よりも祖母と走りたいと強請った。すぐに二つ返事で受けたもの、昔のように走れるわけも行かず、練習しようとも家族からは心配して止められる。隠れるようにしてこの広い公園の隅で練習していたところ、出会ったのがツインターボであったらしい。
「ちょうど転んだときに助けてくれてねぇ。私も逃げウマ娘だったからかねぇ気が合って、ついついその話をしたらじゃあ一緒に練習してあげるって……学校があるから夜に待ち合わせてね。臨時コーチってやつかねぇ。たった1000mなんだけどねぇ、この年になると……」
「ツインターボが……」
ブライアン達の視線に、羞恥心が刺激されたのか顔を真っ赤にしながら定まらぬ視線をあっちこっちへとやっていた。
つまり、この二人が練習で走っているところを見た人間が広めたのがターボばあちゃんだったわけである。確かにウマ娘の走りである老女であったとしてもその速さは同年代の人間と比べるとかなりの速さを誇るだろう。しかしそれ故に、ブライアンのトレーナー二人を止めなければならなかった。
「それは、素晴らしいことですが。私としては止めざるを得ません」
「えーっ! なんでー!」
抗議するように立ち上がったターボの頭をブライアンが抑えた。
「当たり前だ。それで怪我をしたりしたらどうする、転んだりしただけでも大変だろうが……チッ、また姉貴みたいなことを……」
「でも! でも後もうちょいなの! お願いあともう少しだけ練習させてよー! いーでしょー!? ちゃんとイクノ達には伝えたもん、ターボ、ばあちゃんに会いに行くって!」
「ターボ、ばあちゃん。……ここに誰かさんがいたら、まさしく『捧腹絶倒』だろうな」
ブライアンが脳内で笑い転げる生徒会長を夢想して、少しだけ頭に痛みを走らせた。
「ターボちゃん。お友だちもみんな心配しているから、ね? 私はもう大丈夫だから……」
「やーだー! 一緒に練習するの! 一緒に練習して一位をとるって約束したもん! ねぇブライアンいいでしょ! ブーラーイーアーンー!」
どうやら説得しているつもりらしい、涙を溜めて自分に纏わりつてくるツインターボを見て、ブライアンはため息を吐いたが、このターボも自分と似てどこか頑固だとは知っていた。態度としては正反対であるが、根本的には何処か一緒なのだ。そう思うと、どこか大目に見てやりたくもなる、だが危険なのは確かなので、
「おい」
と、隣のトレーナーへと一言だけそんな声をかけた。それはツインターボとは違う、彼女だけができる甘え方だった。
かけられた方といえば、その言葉だけで彼女が何を欲しているか理解したらしい。笑顔で頷くと、ターボの頭を撫でながらこういった。
「では、どうでしょうか。トレセン学園にいらっしゃいませんか?」
「へ? 私がかい? バカ言っちゃいけないよ、私がスカウトされたのはもう数十年前だよ、入れるわけないさ」
全盛期が過ぎ去って懐かしいウマ娘はそう笑ったが、トレーナーは首を振りながら続けた。
「入れますとも。昔のトレセン学園を知る貴重なお人ですから、トレーニング研究の一環としてお呼びします。自由に見て回れるまではいけませんが、時間があるときは生徒と触れ合う時間もできるでしょう。俺も、ブライアンの練習の合間でいいなら見ることもできるでしょうし」
「えっ……どういうこと?」
ツインターボが首をかしげると、老婆が代わりに説明した。
「次は私もあの懐かしい学校に行けるってことよ」
「じゃあ、ばあちゃんトレセン学園で練習できるの!? ホント? ホントのホントに!?」
トレーナーが笑顔で頷くと、唖然とする老婆にしがみつくようにしてターボの喜びの声とダンスが乱舞した。
ブライアンはその様子を見て少しだけ微笑んだが、それを見ていたトレーナーに気づいて、すぐにそっぽを向いて照れ隠しのように老婆の方へと進んだ。
「私とも走ってもらうからな。昔ウマ娘の走り方を見てみたい……よく、また走ろうと思ったな」
「きっと、貴方が私の年になっても同じことを考えると思うわよ。この年になっても走れると思うと不思議と、力が湧くの。だって、私達は……」
その年おいたウマ娘は、しかし年老いてもウマ娘だと思わせるそんな意志を籠った目を空へと向けた。
「走るために生まれてきたもの……」
その数日後、小さな地域新聞に運動会の親子レースに参加した老女が好成績を収めたという記事が載り、いつの間にかターボばあちゃんの都市伝説は他の噂に飲み込まれるようにして、他の噂と同じく消えていった。
少し長めではございますが、楽しんでいただけると幸いです。