彼にとって、母、兄、姉の三人は『寄る辺』であった。
自分を救ってくれた母。
絵に価値を見出してくれた兄。
そして……姉。
彼にとっての姉、吉法師は。文字通りの『気の良い姉』でしかなかった。
兄が言っている通りの『次期当主』でもなく。母が思う通りの『大うつけ』でもない。彼にとって……姉は、姉以外の何者でも無かった。
柿を投げてよこした時も。自分の思う未来を語っていた時も。そして、母との確執が少しずつ、現れて行った時も。
「――ん? なんだ、どうした?」
「あ、いえ何も……これとかは、最近の中で一番好きな奴です」
「おぉそうか、ちょっと見せてみろ」
こうして。自分の絵を見ている時も。存外と普通な姉なのだ。
姉は、普通に喜ぶし、怒りもするし。そして……母に疎まれているこの時は。
『……そうか』
普通に、寂しがりもする。その顔を見た事がある喜六郎は、姉を『うつけ』だの『稀代の才人』等と呼べなかった。
やっぱり姉は姉で、姉以外の何者でもないし、ならない。
だから、そもそも姉が当主になっても別に姉以外にはならないし。その辺りがどうなるかも正直な話どうでもいいとか思ってたりする。それを姉に伝えた所、『お前相当頭おかしいなさては』と言われたりした。
兎も角。彼にとって、姉は特別な人ではない、というのが全面的な認識だ。侮っているというか、それ以外に認識できないというべきか。
「おー、これは……信勝か」
「えぇ。家臣の皆様に色々言われて喧しそうにしてたのを、ちょっと」
「うーんこの嫌そうな顔。良く描けている。俺にはちょっと理解できんから、信勝の気持ちはいまいち分らんが」
――強いて、人と違う所をあげるとすれば。
「……相変わらず、聞こえませんか」
「ん? あぁ」
「左様で。まぁ兄上と私が居れば、なんとか意思疎通は出来ますから。良いんじゃないですか」
「勘十郎じゃちっとキツイだろ。彼奴は俺の言う事、微妙に理解しておらんし」
「しようと思えば出来ますよきっと」
「そうかなー……」
「姉上は、ご自分が思ってるよりも、周りが思ってるよりも、『普通』ですから」
「じゃあなんで聞こえんのか。俺の耳」
「さぁ?」
吉法師の耳は度を過ぎて『人の言う事が聞こえにくい』……より正確に言えば『人の言っている事が分からない』と言うのが近いようだった。
例にすれば。兄上が姉上に色々と話しかけている時も、その言っている事が殆ど聞こえない、らしい。のんびりしてる姉を描いている時に、ぽつりと零したのを聞いた。
聞こえない、という表現をするので、少し頭を捻ったのを覚えている。こうして会話できているというのに聞こえないとはどういうことか。
よくよく話を聞いてみれば、挨拶などは普通に返せる辺り、音が聞こえない訳ではないらしく、分からない、と言う方が正しい、との事だった。
故に、相手との話がかみ合わない。それだけではなく、自分の言っている事に首を捻られるのもしょっちゅうらしく。
そう言った部分が周りから『うつけ』と呼ばれる原因であるらしい。
では、喜六郎の声は聞こえるのか。
姉曰く『聞こえる』との簡潔な返事。兄の言葉が聞こえなくて、自分の言葉が聞こえる理由は良く分からなかった。
「ま、良いか……あっコレ楽しんで描いて無かったろ。線が悍ましい事になってるぞ。うわぁ気持ち悪ッ! なまじ上手い様に見せてるから余計に気持ちが悪いな!」
「自覚はしてます。でもこういうのも練習になるんで良いんです」
「失敗するならもっとガッツリこけろよなー。こういう風に、変にこぎれいにコケるのはあんま好まんぞ」
「それ結構派手にこけてるんですけどね。分かりませんか、姉上には」
「なんだとー。よーし分かってやる」
「頑張って下さい、姉上」
まぁ。喜六郎としては、聞こえるなら聞こえるでそれで理由なんて気にしない。最悪聞こえなくても、まぁそれも姉だろうと思って接していただろうから、多分だが気にしていなかったと喜六郎は思う。
別に相手の事を理解できない位で、姉が姉足り得ない訳はない。という弟的な信頼が彼にはある。根拠は一切ない。
強いて根拠を言うのであれば……たとえ話を聞いていなくても、姉は兄を愛しているのを知っている事くらいだろうか。
姉は、兄への情がきちんとある。
それは理解できない兄の言葉をそれでも暇そう聞いている辺りからも分かる。情が無ければ話も聞こえない相手と何時も一緒には居ないし、付いて来るなら追い払うどころか無視するだろう。
退屈そうに、それでも兄上が話しているのを眺めているのは、そんな事情を覆って余りあるほどに、兄へのちゃんとした情がある、と言う事……だと喜六郎は思っている。
相手を理解しなくては愛してはいけない、等という法も決まりも存在しない。
誰かを普通に愛している姉だから。喜六郎は姉が好きだ。たかが相手の事を分からない位で、彼は姉から離れる事はしないと思った。当主の争いは投げ捨てて、ただ姉への親愛のみで動こうと思った。
というか、喜六郎にとっては、あの時の事と比べればこの世で起こる大抵の事はそんな大した出来事でもない。なので気にもならない、と言うのが正しいのだろうか。
――あの日の、空に比べれば。
「――んー」
「どうしました?」
「いや、何でもない。お前こそ天なんぞ睨んでどうした」
「えっ?」
「お天道様がどうかしたか?」
気が付けば。喜六郎は、障子の先に広がる空を睨んでいた。姉の方を向いて話している積りだったのだが、しかし。どうやらそうでもなかったらしい。
「そ、そうですね……すみません、ちょっと、日差しが眩しかったもので」
「今日曇っておるな」
「……」
吉法師の言葉に、その先の言葉を詰まらせた。誤魔化すつもりだったのが、一発で分かってしまったようだった。というか、その辺りを探るために『お天道様』という言葉を出したのだろう。抜け目ない。
吉法師の目が、先程迄と違い、冷えた物になるのが分かった。姉は、時々こういう視線になる。見た物を容易く見通す、そんな目になるのだ。人が『稀代の才』と呼ぶのはこういう部分なのだろう。
「お主の目が腐っているのか……それにしては、空を睨む目には明確な光が見える。しかし同じくらい、随分と濁って、ドロドロとしてた」
「そう、でしたかね」
「最近そう言う事が多い」
「……」
「俺には見えない何かをお前は見ているのか? 喜六郎」
その眼に見据えられて。
喜六郎は、すこし、曖昧に笑うしかなかった。
廊下を歩く。曇りの……『姉から見れば曇っている天』を見上げた。
喜六郎には。
天の全ては、一面に翠の輝きが満ちている様に見えていた。灰色など欠片も無く。天の光ではない何かに満たされていた。見えて居れば、恐らくは余人の目を焼くのではないか、と思うほどに。
まるで晴天が如く眩い輝き。ただし、その光は此方を祝福する物なのだろうか。少なくとも喜六郎には……そうは見えない。禍々しいものに見えていた。
そして、その中心には。
ぎぎ ぎぎぎぎ ぎぎ
不気味な音と共に、黒い孔が天を裂いて、その口を開いて行っているのが見えた。それは幼い頃に見た、あの『傷』に相違なく。
ここ最近は、そこから零れ落ちた光がこうして天を翠で満たす事も多かった。
「――」
その奥には……ああ、見える。見えてしまう。
目だ。大地にも匹敵しようかと言う大きさの。金色に爛々と輝く、瞳無い無機質な目が此方をじぃっと見つめている。喜六郎には分かる。アレは……暗い天の底から、まるで蟲の様に小さい自分を間違いなく見ているのだと。
子供の頃よりも、世の中という物を知り。だからこそ天のアレがどんな存在なのかが分かってしまった。だから……感じる物は桁が違うのだ。本当に。丹田に無理矢理に力を込めて歯を食いしばって。必死になって体の奥からよじ登ってくる衝動に耐える事が出来るだけでも、成長だと個人的には思う。
母や、姉、兄と出会った後。しかし、アレが姿を消す事は無く、空に傷は刻まれたままだった。しかし、誰に信じて貰える訳でもない……と言う事は、喜六郎だって分からざるを得なかったのだ。
だから……だから。
目を逸らす為に必死だったのだ。
兄や姉の為に努力した、と言うのは間違いない。学びが楽しかったというのも、嘘ではないだろう。しかし……幼き頃、絵を始めたきっかけ、もう一つの動機は今までも決して変わった事は無かった。
アレに耐える為の、絵の努力。転じて、アレを気にせぬ為の、勉学の努力、武の努力でもあった。結局の所、喜六郎の中で利害が一致したのだ。天から目を逸らす為に、彼は地の上で泥を啜る様な努力を繰り返した。
此方を見つめるその眼をもう一度睨みつけ。
喜六郎は自分の自室に向けて踵を返した。
絵を描くのだ。絵を描けば、きっとアレの事も忘れられるだろう、と。そう信じて……
ノッブの聞こえ方を考察するにあたり、『なんか音はしてるけど良く分からん』的な事っぽいので、挨拶だとかまで理解できない訳ではないっぽい、という結論に至っていやどんな聞こえ方? となって虚無る。