「とはいえ、どういう風に描こうかな……ん?」
吉法師の絵を描くにせよ。女性らしい姉などそもそも見た事もない。ならばせめて本人を目の前に描くのが良いのではないか……そう思っていた所である。
ふと、遠くに件の姉の姿が見えた。どうやら出かける直前の模様で。折角なので引き留めて少し時間を貰おうと思った。が、しかしながらここから声を掛けても届くかどうか。
結局、迷っている間に吉法師は外へと繰り出してしまい……機を逃した、と一つ溜息をついた。
ならば帰って来るのを待つしかない。仕方なしと息を一つ吐いて。元服したからと言って姉はやはりそう変わらぬものだな。そう考えて、少し安心すらしてしまう位にいつも通りのお出かけである。
「さて、何時お戻りになられるか」
兄には急ぎと言われていないので構わないが。
精々じっくり考えてやろうではないか、と踵を返した……ふとその時。
「――ん?」
そこに、見覚えのある人影を見た。
少し自分より離れた場所から、外に出ていく吉法師を、自分と同じように見ていたのだろうその人物の赤い瞳は……喜六郎にとっては見間違えようもない。
「母上?」
土田御前は、誰に声をかけるでもなく、静かに。しかし、ずぅっと吉法師の方を見ていたのだろう事は容易に想像し得た。眉をしかめる訳でもなく、静かな表情で。そんな風に吉法師の事を見つめるのも、喜六郎としては驚きで。
兄の言っていた事は、本当だったんだろう、と。そう思えて、改めて胸の底に溜まっていた不安が晴れていくような気がした。
そう思って……母の表情を見た。しかし、その直後喜六郎の胸に沸いたのは、決して温かな物ではなく……
「――ふ」
……その表情を見た時だった。
それは、間違いなく笑顔だった。何時も無表情だった母が、笑ったのだ。間違いなく。それだけで驚きだった。
優しい、慈しむ様な笑顔だった。あんな風に母が笑ったなら、喜六郎も釣られて笑うだろう。そう思う位に、優しい笑顔だった。なのに。
あの目は誰に向けられているのだろうか。
喜六郎は、それが分からなかった。と言うよりもあの目は今、どんな誰にも向けられていない様に見えたのだ。
それは、ただの勘にも近かったが。
「……」
背中が冷えた。
思わず、出て行った吉法師の方を見てしまった。その笑顔を見た時……何故か思い出してしまったのだ。あの――悪夢の中で見たものを。母の笑顔と悪意の笑みとが、
似ても似つかない筈なのに。しかし、何故かあの笑顔が頭に思い浮かんで。どうしてそんな事を想ったのか。今思い出してしまったのか。
そんな勘十郎の言葉が思い出された瞬間だった。彼は、改めて自室に足を向けた。しかし違うのは、先程よりも早い足取りである事、そして……その用が絵ではなく、鍛錬用の木刀を取りに行く事。
嫌な予感がした。
その予感が外れて欲しいと、強く願った。
「……何処だっ……何処に行った!?」
見つからない。吉法師の姿が。出てからそう時間が経っている訳でもなく、馬を使ったという様子もない。であれば、近くにいると踏んでいたのだが、しかし。何処にも吉法師の姿は見当たらないのだ。
「姉上……!」
となれば後は手当たり次第だが……喜六郎に姉の考えている事をピタリと充てられる訳もない。故に、本当に何の指針も無く、今の足取りが正しいかどうかも分からない、不安で胸が潰れそうなまま、走りまわるしかない。
誰かに声をかけようか、とも思ったがしかし。そんな時間も惜しかった。今すぐに行動しなくては間に合わない気がしたのだ。
しかし、声をかければ良かったか、と泣きごとの様な物が漏れそうになる。誰か他に居れば、その分、早く、見つけられるかもしれないのに。
仕方ない。兎も角、今は止まっている場合じゃない。道なりでも良いから、兎も角先へ進まないと……と、思っていた時だった。
「あれ?」
今向かおうとしている道。
見覚えがある。あの夢に出てきたその道の、そのままの形である事に気が付いて……更に背筋が冷えてくる。まるで、あの夢をなぞっているかのようじゃないか、と。
「……い、いいや」
そんな訳がない、と否定したい。だが、足取りはそれを否定できないと証明するかのようにその先へと歩みを進めていく。導かれるように。悪夢の様に、その道を行く。
バラバラと地面に散らばる小石。脇の草。その全てがまるで同じである事を、進めば進む程に理解していく。遠くに見える景色、道のうねり方まで全てが、一つ一つ、歯車を当て嵌めていくかのように全てが。
ただ一つ。違う事があるとすれば。夢の時と違って、空にはまた爛々と翠の光が輝いている位だ。
その輝きは。今こそが最高潮と言わんばかりに、道に喜六郎の影を落とす。それはまるで自分の背中を押している様で……そして、同じように、そうやって必死になっている自分を嘲笑っている。
紅い巨大な鬼の手の中に。
自分が囲われている。真っ赤な、生き物とは思えぬ鋼の如き、固い両の手の中に。そしてその中に、足からうずもれて行って。
そんな景色を、見た。
そんな事は一切ありえない。、
そう感じているのが幻覚である事を、喜六郎は嫌と言うほど分かっている。あの空の向こうにあるモノは、自分を見ながらも、自分の行動に一切何をして来た事もない。只あの空で、異様な迫力を放っているだけで。
「……なんであんな景色を見せた」
だが、今朝の夢だけは別だ。明確に向こうからの干渉だ。
態々、アレが自分に見せて来たという確信を今になって得る。あんなにも異質な夢と、此処まで同じ光景。ここを通った記憶なんて何度もある……なんて陳腐な言い訳など通じない程に、まるで今、見ている光景は同じものだ。
まるで、予知でもしたかのようだった。
空に向けてもう一度問いかけようとしたけれど。でも、上から答えが返って来る訳もないのだから。アレが此方の呼びかけに応える訳がないのだから。喜六郎は、顔を伏せて再び走り出す。
「ああ、畜生……」
もし。
夢の通り、姉が襲われて居たら?
助ける以外に選択肢は存在しない。倒せるかどうかは分からないけど。頑張れば一緒に逃げられるかもしれないんだからと。寧ろ、戦う必要だってない。一撃入れて。逃げ出せばいい。
後は家に逃げ込めばいい。逃げ込めば、良い筈なんだと言い聞かせる。
だけど。
「……母上」
あの微笑みが、頭から離れない。
家に逃げ帰って来た吉法師を見て、母が浮かべる顔を想像する。もしそれが……
「いいや、関係など無い」
その先を、無理矢理打ち切った。信じてはいる。関係ないから大丈夫だと、言い聞かせた。
そもそも姉だってなんにもないだろう。襲われてる訳がない。きっと無事だ。
そう思っているなら家で待っていれば良かった。こうしてここへ来る事も無かっただろうにと、頭の何処かが自分に言っている。
煩い。
煩い。
煩い。
ぐちゃぐちゃだ。喜六郎の頭の中はもう。
落ち着いて考えるなんて出来ない。今は不安に従って走る。立ち止まる事だけは出来ない。知らず知らずの内に、木刀を握る手に力がこもっていた。
手元を見て思い直す。細かい事は、今は気にしない。先ずは姉の事を優先しないと。考えられないなら、考えない。必死になって、喜六郎は視線を先に向けて……
――道に滴る、紅を見た。
「――っ!!!」
知らない内に足の動きが早まる。
血が点々と落ちるその先へ。急げ。急げ。急げ。
口から荒い息が零れ落ちた。止まるな。走れ。息を切らして、その先へ。
犬の如く、地面を這いつくばる勢いで辿る。
これは、証拠だ。これは、あの悪夢からの、贈り物だ。信じたくない等と、甘い事を言っている俺に。なら、ならどうすれば……
「死ねやぁっ!!」
耳に届いた叫びに、顔を上げる。
声の主は、既に、その襤褸の刀を振り上げていた。目の前には――肩口を紅く染めた少女の姿。姉だ。見た通りの光景だった。
下卑た笑顔。死の予感。そして……絶望的な、距離。致命的な遅れ。
止めろ。
声は、間に合わない。手は、届かない。思いは、届いた所で――
止めろ。止めろ。止めてくれ。
喜六郎の頭を埋め尽くしていく叫び。それが……限界まで達する。
姉が死ぬ。その事実を認めたくなくて。それが――誰の手によってか。その答えを認めたくなくて。
石のように固まった口から――
「――とまれぇぇえええええっ!!!」
飛び出した咆哮。
それが呼んだかの如く、翠の輝きが――視界を、埋め尽くして体の中を外も中もズルズルはいずり回って肩から腕から腿から足先まで止まらなくて何処を通る答えは体の中の細い管に満ちて行って体が音を立ててねじれて変わって行くのが分かって手も足も犯していくのが分かって自分じゃなくてこれはなにものかが
ガチン
頭の中で。
何かが。
組み合う音が聞こえた。
侵食される描写をどうすればいいのか悩み過ぎて虚無る。