――木刀を振る時に意識するのは、絵を描く時の筆だ。
筆の先に見立てた切っ先で、目の前の景色を墨で塗りつぶすような意識で振り下ろすのだ。すると切っ先は真っすぐブレず、ストンと下まで振り下ろせる。
無駄に力んだりせずに動かし、そして最後にピタリと止める。絵筆の扱い方と、剣の道には一種通じるものがある。絵の腕が仕上がると共に、剣の腕も上がって行くようになったのは一体何時ごろだったか。
「……九百八十一」
ある意味助かったとも言える。
絵の腕だけでは、家中の者共にも軽んじられていたかもしれない。こうして、孤立して居て尚、三男坊としての面目を保てているのは、剣の腕もあってこそだ。
二つが連なり、比翼が如く鍛えられれば、後は学問だけを自力で頑張ればいい。彼は学問自体はそこまで得意という訳ではないので、努力の比重を傾けられるのは幸いだった。
姉と、兄と。
双方との仲を決して変えない。幼き頃からの、兄弟、姉弟としての距離を変えない。そうして生きて来た事の代償ではあるのだから、当然と言えば当然か。
もう姉弟、皆が次期当主を争う様な年になった。
皆が元服を迎え、一つの節目を迎えた。それは一人の武士として認められると同時に家の状況に大きく巻き込まれる年になったことも表していた。
兄を支持する母と姉との確執はさらに深まっていって、いよいよ姉を支持する者、母と兄の側につくそぶりを見せる者。はっきりとその形は分かれていったのである。
「九百、九十ッ……!」
普通なら何方か一方を支持する動きを見せるのが普通だろう。
だが、秀隆はその常道に沿わず、ずっと何方にも良い顔をしていた……様には周りにも見えただろう。何方が沈もうとも何方かに乗り換える。そんな卑劣な男に取られる事もあったかもしれない。
更に言えば。どっちつかず、というのは、何方が当主の椅子に座っても疎まれる立場になるのは間違いない。そんな不安定な立場に望んで立っている秀隆に近寄るというのは、自分から立場を悪くしに行くのと同等だ。
「――九百九十九」
要するに。彼はそう意識した訳でもないのだが、まるで『蝙蝠』の如き男だと家中の者の不興を買って、結果、孤立を深める事になっている。
それが困っているか、と言えば。別に秀隆は一切困っていない。
兄と姉が居ればその他はどうでもいい……と思っている訳ではないが。別に他者と交わらねば人間死ぬわけでも無い。印象は、これから変えて行けばいい。
こうして武士として一人前の年になったのだから、働きで幾らでも見返す事は出来るだろうと、実に前向きに彼は生きていた。
それに、彼にとって、周囲からの孤立など慣れたものだ。更に言えば。自分のこの景色を本当の意味で理解してもらえる者が居ない以上は、自分は『独り』である事を変えられないとも、最近思う様にもなった。
「千……ッ!」
そうなった時、結局は『個』の力しか、秀隆には頼るものがない。
秀隆にとって、武士の誉れだなんだというのはあまり気にならない。しかし、鍛えたこの剣が兄と姉の役に立つのであれば。それに勝る喜びはない。母と姉の確執が行きつき所まで行った場合……最後には、きっと力による勝負になるだろう。
その時、自分が弱ければ何もできやしない。そういう世の中だ。秀隆が生まれた時代というのは。
どこまで我を通せるかはわからないが。
それでも何もしないよりはよっぽど、よっぽどマシだと思って鍛えてきた。
それに。鍛える理由は、それだけではない。
天を仰ぐ。
今日も、青い筈の晴天の空を塗りつぶし、翠の極光は秀隆に降り注いで、そしてその大本の存在は自らが太陽か何かであると勘違いしているかの如く、堂々と天の彼方に座すばかりである。
アレを見れるのは、秀隆だけであり。
アレからの影響を受けるのも秀隆ただ一人だけである故に。
負けないようにに、必死になって鍛えているのだ。一人でも負けぬように。強くあれば、何も揺らぎはしない、と信じて。一人、強くなろうと腕を磨いている。
加えて言えば。
一人でいるというのは、決して悪いことばかりでもない故に、一人である今を維持している、という側面もある。
「ふぅ」
縁側に腰を下ろす。素振りに区切りをつけた汗だくの体を、手拭いで軽く拭きながら。横目で見つめるのは、庭に面した廊下だ。そこを二人の男が歩いて行くのが見えた。
数日前に、信勝の近くで見た事がある男共だ。向かう方向は……母、土田御前が居る部屋である。その辺りで『何かしらの内緒事か』と当たりを付けた。
この後は、母に会いに行かねばならない。
母の様子を探り、万が一の場合は止めねばならないだろう。周りから蝙蝠とは思われて居ようとも、未だ彼は、母の元を離れた事は無い。というより、母の側からは『信勝側』に初めから付いている様しか見えない様に行動している。
周りに何方かについている味方が居ない、という事は、自分一人の目で、何方かに寄った意見に左右されず、物事が見えるという事でもある。兄も姉も、何方も支える積りの秀隆にとって、母の動向や、家中の勢力図を俯瞰で見られる今の位置は、まさに理想と言えば理想だ。
最悪、姉に母の動向を知らせる、間者の如き真似も覚悟していた。
「……全く、母上も元気な事だ」
秀隆にとっての理想は、姉である信長が無事当主の座に座り、母が信勝が当主になる夢を諦める事だ。
実際、兄が姉を当主とするべき、という意思を持っており、自分では務まらないと零しているのだからそれが自明の理だ。そもそもやるべきではないと当人が言っているのにそれを無理矢理押し上げようとするのが不思議ではあるのだが。
母のそれは、些か度を越している。
それを止めるには、些かと強引だが……敗北という強い劇薬で、大人しくさせるしかないという確信があった。
生中な事ではきっと母は止まらない。止まれない。ならば最悪、自分が泥を被っても母の望みを終らせなければならない。
愛されている兄ではダメだ。母は余計に躍起になる。
憎まれている姉でもダメだろう。敵では当然無理だ。
だから他者からの仲裁が必要なのだろう。彼女にとって二人に遠く及ばぬ存在からの言葉が、彼女を冷静にさせる。
「全く、憎まれも、そこまで愛されもしないからこその役割とは」
面白いではないか、と彼は笑う。
彼は母を心から『家族』として愛している。だが、母にとって自分はただ一人の『子供』でしかない。兄の様な『愛する子』ではない。
他者であり、しかしながら身内だからこそ、口にしやすい立場にある。
――もう終わりにしないか、という言葉を。
他の家臣ではなく。
自らが救い、そして彼女の意に沿うと思っている、自分からの言葉であれば。恐らく一番冷静になれるのではないだろうか。
感情ではなく、冷静に『引き時』と考えられるのではないか。
今更ながら。彼は、自分の役割という物に因果を感じざるを得ない。
最悪の破滅を迎えそうだった所を母に救われた自分が、今度は母の最悪の破滅を回避する為に動くというのは。
恩を漸く一つ返せるのではないか、と思う。
「まぁそう思えば、骨を折るのも苦でもない、か」
腰を上げる。
自分にやれる事は決して多くない。それでも全てが大人しく着地するように、祈りながら母の下を訪ねようとして……
「――秀隆様!」
「ん……勝家殿か」
だがその前に、自分を呼び止めた声に振り返る。此方に走りながら声をかけて来たのは兄の側近である勝家であった。
「何用か」
「狼藉を働く賊の討伐を行うので。秀隆様もその一勢に加わる様にとの命が」
「――承知した」
どうやらその前に、仕事が一つ増えたらしい。
頷いて、自分の部屋に向けて踵を返した。出陣なのだから流石に木刀で殴り倒す訳には行かない。賜った刀を持ってくる必要があった。
障子戸を開け、部屋の中に足を入れる。
筆や、紙が散乱する中を蹴散らかし。壁にかかったそれを掴み取る。
銘も知らない刀だが、切れ味は悪くない。頑丈で、実戦で使うのであれば最適と呼べるような刀だ。実際――人を切るのに、支障をきたした事は無い。
引き抜けば、手入れされて鏡の如き刃が顔を写す……兄や姉よりも、些か老けている様にも見える、自分の顔が。
「……良し」
パチリ、と刀を収め。
そこから改めて抜刀。虚空を切り払う。
振り切った剣の軌道に微塵も揺らぎはない。問題なく一撃で相手を切り伏せられるだろう。調子は悪くない。
一つ
少しばかり震える、刀を携える手を見て、ため息を一つこぼした。
兄と姉を両方支えようとすると必然とこうなってしまって虚無る。