父との記憶はそう多い訳ではない。とはいえ、武家に生まれた三男坊など、存外そんな物だ。全ての父子の絆が厚い等、それこそ相当に珍しいだろう。
特に、父は上の二人……姉と兄に、目を掛けていたというのもあって、自分に目が行く事は、まぁ少なかったと思う。
こんな事があった。
兄と姉が父の前に呼び出され、家を守るのに何が必要なのかを聞かれた。
その時秀隆はと言えば、何時もの如く姉からの依頼の絵を描いていた。それを後で見せた所、姉は大喜びしていたので満足だった。
要するに、秀隆は三姉弟の内で、唯一省かれたのである。兄からは『後から呼ばれたとかじゃなかったのか!?』と驚かれたが、そんなことはかけらもなかったのです。
秀隆としては、ある種納得も出来た。国を引っ張る器を持っているのは、兄と姉だ。自分ではない。寧ろ、自分と大して会っても居ないのにその辺りを見抜いている父を初めて尊敬したのである。
父との関係など、彼にとってそんな物だ。
そんな父が――死んだ。
「……大往生、か」
衝撃ではあったが、しかし。感情が乱れる程でも無かった。
そんな大して仲がいいわけでも無く。付き合いが長いわけでも無い。そんな実子の中でも異質な存在だった秀隆だったからこそ、今こうして、少し冷えた頭で葬儀全体を見渡せているのだと思うし……気付いた事もあった。
葬儀に慣れている訳ではない。
そんな秀隆をして尚、この葬儀にどれだけの金がかかったのかは想像出来た。
棺や位牌を見るだけで凡そ。恐らくはこの場にある全てが、間違いなく金に糸目を付けずに仕上げられたのであろう、と。
大名家の当主が死んだのだ。それも当然――と、秀隆が素直に思えなかったのは、それが余りにも露骨過ぎたためか。
率直に、秀隆がこの葬式の場を見た時に思ったのは、『無駄』のただ一言である。
「……」
葬儀に金をかけるのが悪いとは言わないが、しかし。別に金は湯水の如く湧いてくるものではない。姉も、金の重要性は何時も口にしていたのを思い出す。そんな姉に触れていたからか、この葬式の豪奢さに、違和感を覚えてしまったのだろう。
即ち……これを、誰が取り仕切っているか、だ。
喪主は、姉だ。次の当主として、それを取り仕切る立場にある。
だが、この葬式を見ている限り、姉がこれを取り仕切った様には思えないのだ。もっと上手に金をかけるのではないか……こんな下手なやり方はしないのではないか。
言い方を変えれば『無為な金のかけ方』をする訳がない。
「……殿……!」
「殿ッ……ぐっ……!」
「泣くな……泣くな馬鹿者ッ……」
秀隆が、周りの者ほど取り乱していない事が、棺ではなく、ある一点……恐らく、この葬儀を実質取り仕切っている相手に視線を向ける要因にもなっていた。
――恐らく、この葬式で涙を見せていない数少ない人物。
悲しみの中でも気丈に振舞っているのだろう事は間違いない。されど、この葬式を、喪主である姉の代わりに仕切る事で『上手く利用』している事も間違いない。
母、土田御前。
恐らく、父の葬儀について周りに令を出しているのは彼女だ。姉の仕切りになる所を頭を飛び越えて、その権限を奪うかの如きやり方で。
本来、姉が座るべき席に、先ず兄上が座り。その隣に母が座っている辺り、ほぼ間違いないとは思う。姉を貶め、兄を持ち上げる。それを、葬儀の場すら利用して行っているのだ。父への愛情も当然ある、その上で。
思う所は多いがしかし……先ず、先ず強かだとは思う。実に。
……否、強かにならざるを得ないのか。
こんな無理矢理なやり方をしたのには、理由がある。
父が死んだ事で、当然ながら家中は揺れた。
その中で、一体誰が次の当主になるか……家中にはその話題も出ていた。しかし、そこに、父はあらかじめ一手を打っていたのだ。
『次の当主は信長に』
父は、それを遺言として近い家臣に遺していたのだという。死者からの遺言、前当主からの指名だ。覆す事は、ほぼ不可能と言って良いだろう。
兄、信勝が当主になる可能性は、ほぼ消えた。
母は明確に焦っているのだろう。姉が式を整える前に葬儀を断行。無理矢理に姉を省いた挙句、自分達の仕切りで手柄にしようとしている……ならば。
それを兄が良しと思っているかどうかは、兎も角として。秀隆としては兄が参加しているのが、疑問だった。姉をあそこ迄慕っている兄が、この様な暴挙を許してこの場に居るのかが。
ちら、と兄を見る。目が合った。
しかし……寧ろ兄は誇らしげに胸を張った。
姉を差し置いて、等と悩んでいる様子には見えない。
あの姉好きの兄が、である。となると……自然と答えは出てくる気がする。兄は別に何もしていない訳じゃない。寧ろ、この母の策略に乗じて何か企んでいるのではないだろうか。先ほどの顔も『黙って見て居ろ』位の表情だ。
「――何を企んでいるのか……」
そう思っていたその時だった。
パァン、と何かがぶつかるような音が葬儀の場に響く。
皆が振り向いた。そこには、寺の戸がある。そこが開いていた。その先にに立っていたのは……姉の姿。
白装束ではない。普段のままの姿で。
ぎろり、と睨んだのは……兄と、母の方向。それを見て、兄はうやうやしく、いっそ不敵な態度で、姉に向けて頭を下げた。
「これは姉上。申し訳ありません、この様に勝手な事を……しかし、母上が是非に、と申すものですから」
……白々しい、と思った。
そこで分かった。要するに、兄は既に姉に全てを知らせていたのだろう。そして勝手に仕切りをさせていた母を糾弾させるつもりなのだ。姉を省いて葬式を行おうとしていたのは明確だ。そこで、行動を起こした所で首根っこを押さえさせようと、此処に呼んだ。
一見して、この葬儀を開いたことで、兄を姉が出し抜いたようにも見えるだろう。だが、それは何も知らないから出てくる感想だ。
しかし、姉の事を本当はどう思っているかを知っている側からすれば、最早これは茶番と言ってもいい。信勝の彼女に対するあの慕い方、というのは家中でそこまで周知されていない。でなければそこ迄持ち上げられはしないだろう。
彼からすれば、自分が姉に睨まれているこの状況すら『姉が当主としての器を示す機会』位にしか思っていないだろう。母からすれば、味方だと思っていた信勝から背中を刺された形である。
「……信長、貴様」
「……」
このまま姉に糾弾を受ければ、母にとっては大きな失態になる。こう言う悪だくみというのは公に糾弾を受けるのが、最も効果的なのだ――だが。
「このような勝手をしてしまいまして……一旦仕切り直しましょうか、姉上」
「必要ない」
「……えっ?」
姉は、兄の方から直ぐに顔を、目の前の父の位牌の方に向けて、ずかずかと葬儀の参列者の間を通り抜け……否、左右に無理矢理押しのけて、棺の置かれている祭壇の前まで歩みを進め。
母を糾弾するでもなく、寧ろ気にする様子はなく、姉はそのまま焼香でもするかのように、位牌の前に堂々と立った。
……皆が静まり返っていた。
突如として乱入して来た姉の一挙手一投足に、全員が集中している。空気が、張り詰めていくのを感じている。喉が渇いていくのを感じた。
秀隆のいる場所からは、姉の横顔が見えている。
姉は、位牌を睨みつけていた。目を見開いて、人でも殺せるのではないかという程だ。
「――え?」
だが一瞬だけ、その顔が歪んだ。まるで今にも
「……ふんっ!!」
直後の事だった。
一気に顔を怒りに歪めた姉が抹香を収めた器に手を突っ込むと、砂状のソレを掴み取った。
全員がその様子を目を丸くして見つめていたがしかし、それでは終わらない。
固く握りこんだそのこぶしを頭の後ろまで思い切って振りかぶって――抹香を位牌に叩きつけたのだ。全力で。
石造りの濃い灰色を染める、白い色。霧の様に散った抹香が宙を漂うのを、秀隆のみならず、葬儀場の誰もが見ている。坊主も、参列した将も、そして信勝の後ろあたりに控えていた勝家も、だ。
全員が、呆然とその景色を眺めていた。それだけの出来事だった。
死者の事に対する冒涜、どころの騒ぎではない。葬儀にて最もあり得ない……否、そんなことをするとすら思われていなかったとんでもないことを、信長はやったのだ。
一瞬、完全に思考を持っていかれていたのも束の間、姉はそのまま踵を返して、開け放たれた入口に足を進める。
その時――秀隆は、真っ先に行動を起こした。
「あっ……姉上ッ! お待ちください!」
それは、姉に対する偏見の無さか原因だったのか。
姉をうつけと思うなら、『驚き』と『嘲り』から納得して追わず。
姉を才人と思うのであれば、『驚き』と『期待』からやはり納得して追いはしない。
姉が『普通の人』だと思っていた秀隆だけが、『疑問』を以て追いかけたのだ。
姉の真意を、確かめるために。
信秀殿との距離感を失念していて虚無る。