「姉上っ!」
幾度目かの秀隆の呼びかけで、ようやく信長は彼の方を振り向いた。
感情が落ち着いてきたのか、険しかった表情は少し鳴りを潜め、今は怪訝な顔程度に落ち着いていた。
「――秀隆、何故追ってきた。葬儀の途中だぞ」
「喪主の姉上を一人で帰らせるなど、出来ません」
「あの葬儀は俺の仕切りではないのにか? まぁいい、ついてきたいなら好きにしろ」
そういう割には、気にしている様子もない……とは言わなかった。秀隆とて、言葉そのままの意味で姉の後をついていったわけではない。ただの口実だ。それを理解した上での言動だろう。
姉は、どうやら思ったよりも冷静であることを確認し、そのまま、姉の数歩後ろに、秀隆はついて歩きだす。
「……」
「お早いお着きでしたね」
「信勝の奴めが早馬を出しおった。全く、知らせずとも構わんというに」
「そうですか……どこまで」
「全部。聞かずとも凡そは分かる、あの程度ならな……分らんかったのは、一つだけだ」
数歩先の姉は、道端の石を蹴っ飛ばして歩いている。まるで、拗ねてしまった子供の様に。その内、思い切り、石を蹴っ飛ばしてから……彼女は空に視線を向けて、ぽつりと呟いた。
「親父殿が、なんで俺を当主に選んじまったか」
「……」
「ったく、信勝にしておけというに。聞いたときは正気を疑ったぞ」
少し驚いてしまう。
ため息一つを吐いて。自分は当主を望んでいない。信長は今、そう口にしているのだ。
兄も、自分も、姉が当主の器であることは疑ってもいない。しかし、当人はそんな事を知らん、とでも良いたげに、口にしたのだ。
――後ろからは、彼女の顔は見えない。
頭の後ろで腕を組んで歩く姿は、いつもの姉そのものだと、秀隆は思う。だが……その姿から零される声は、ほんの少しだけいつもよりも小さくて。裏で、彼女が今、葬式で見せた、あの顔をしていると、何となく感じた。
「……それが、抹香を叩きつけた、理由ですか」
「……」
「私からは、見えました。泣きそうになっていた姉上が」
「……そうか。見えていたか。隠してるつもりもなかったが、はっきりと言われると恥ずかしいもんだな」
はっはっはっ、と。乾いたような笑い声が聞こえる。
力と張りに欠けた、抜け殻の様な笑い方だ。
こんなに元気のない姉を、秀隆は見た事がない。では元気づけようかといえば、そうでもない。そもそも、姉を元気づけようと適当な言葉を繕うのは、むしろ逆効果ではないだろうか。
故に……その前に一歩、秀隆は踏み出すことにした。
「私は、姉上が当主になりたがらない訳は、分かりません」
「……」
「想像し、面倒くさい、柄じゃない、等々。姉上の言いそうな事を、並べる事くらいは出来ますが……それのどれも、今の姉上に当てはまるようには、思えません」
姉上らしくない、とは言わない。姉の事を全て理解している等と、親か、神の如き事が出来るのであれば、そうも言えるやもしれないが。
故に……秀隆は今、見えている信長の様子には当てはまらない、と言った。明らかに取り乱し、そして父の位牌に向けて激昂していた時の……何らかの逆鱗に触れたかのような、姉の様子には、到底足り得ない、と。
「……何故ですか」
「何故? はっ、分からん訳もあるまい秀隆。俺の耳の事を、それこそ信勝の奴めより気にしておったのは、お前だろう」
「それが何だと……」
「俺の耳は聞こえん。それに、俺が当主となるのを望んでない者は多い。当然、信勝の奴めを据えた方が、全て丸く収まるではないか」
……その信長の思いを否定する言葉は、秀隆からは全く出てこない。
信長がうつけ、と称されるのは、ここ最近の話ではない。
もはや何年経つだろうか。その間、家中に少しずつ、少しずつ積み重なってきた姉への反感や不信……悪感情は、重なり、つもりに積もって、最早山の如しであろう。
しかしそれでも。
「……兄上は、そういった声は、必ずや抑えると言っていました」
「ふん、信勝めはそう申すだろうな」
兄は、誰よりも姉を当主に据えたがっていたし。
「お前は? どうだ?」
「私は……姉上が、誰かの下で大人しくしていられるような、お方だとは……思えません」
「はっ、ずいぶんな事を言うな。お前も」
それは、きっと姉の気質を、少しでも理解していたからだろう。
姉は当然の様に兄をこき使っていたし。誰かにへりくだる、という事から最も遠い性格をしている。そんな事ができるのであれば、そもそも我が道を行く、今の姉は存在してすらいないだろう。
信長という存在は、誰かの下についていられない、というのが信勝と秀隆の共通の考えだ。さらに言えば、兄の下で姉が働く姿など、まったくもって想像すらできない。逆ならいくらでも想像できる。
という事で、秀隆としては、姉を誰かの下につけるのは、無理というか。適材適所の真逆を行く行為だと思っている。
「姉上が本当にうつけなのであれば、兄上が上についても構わなかったでしょうが」
「……誰の意見も聞こえぬうつけに間違いはあるまい」
「だとしても。兄上が上についたところで、ずっと姉上の意見を聞く様にするのは変わりないでしょう」
今だとて、あれだけ姉を慕っている兄が、もし姉の上についた程度で、今までの構造を変えるだろうか。いや、絶対に変えない。
「言い方を選ばなければ……うつけの言葉をうのみにして為政を行う暗愚な男と、兄上は姉上以上に侮られるやもしれません」
「……嫌な想像させるな~」
「事実です。そうならないと、断言はできますか、姉上」
「ありえん……と言い切れんのが、なんとも因果よなぁ」
苦笑いを浮かべる信長。もし、兄がもう少し真っ当に当主を望んでいたのであれば。又は姉が誠にただのうつけであれば。話もまた違ったやもしれない。
だが信秀は、信長を選んだのだ。この乱世、織田の家を任せられる存在として。明確に。
話は、そこに尽きる。
もはや誰もそこを覆す事は出来ないのだ。
「……お気持ちは分かります。ですが姉上、我々が我々である以上、貴女以外は、当主足り得ない、というのが……私の、正直な感想です」
「そうは言うがなぁ。母上が許さんだろう」
「母上も、そろそろ止まらざるを得ないでしょう。父上が明確にお言葉を残されたのですから。ここが、限界です」
だが。
「――くく」
「なんですか」
「いや。少し、な。あぁ……哀れ、哀れよな秀隆……お主は、『愛』という物の本質を知らずに育ったのであろうな」
唐突にこちらへと振り向いた信長は、笑っていた。
仕方のない子供を見るかのように。少し困ったように。
哀れ、等と。姉にそのような事を言われるのは初めてで。些かと、戸惑ってしまう。
「哀れ……私の、どこが」
「母上は、決して止まらんよ。俺には分かる」
信長の眼は、目の前の自分を見ているのか。
否、秀隆には、そう思えない。
自分の後ろ……葬儀場の方であろうか。否、もっともっと向こう。今、彼女の真紅の瞳が一体何を見ているのか。秀隆には、分からない。
「行きつくところまで突っ走るだろうよ。全く、因果な家系に生まれたものよ」
「姉上。何を……何が、姉上には見えているのですか」
「お主は母上についてやれ。流石に、お主に母上を裏切らせるのは、忍びないからの」
姉は、そう言って再び踵を返す。
「あ、姉上」
「見送りはここまでで良い。後は自分で帰る……のう秀隆」
「……はい」
「俺が、今も、あの時も、どうして母上を糾弾しなかったのか。その
その言葉に、息が詰まる。
あの日、母が姉を狙ったのを、信長は凡そ感づいていた。にも関わらず。彼女は何もせず、あの一件をうやむやにしてここまで来た。
兄は、それを気にしていない訳もない。正直な話。兄が、この葬儀に乗ったのも。その一件があってこそ、だから姉を呼んで母を押さえつけようとしたのだと思う。
だがその時は、兄は感情を抑えたのだ。
狙われた信長本人が口に出して止めたのが大きい。そこから、姉弟の誰も、母に問いただす事もなかった。
「確証が無かった、というのは、当然あるがそれ以外にもある。そこを、よく考えてみるといい」
「――それは」
「強く愛されているならば……又は、憎まれるからこそ、知れる事がある。それを覚えておくとよい、秀隆」
――彼女は、何かを知っているからこそ。
命を狙われて尚。
こうして頭を飛び越える真似をして尚。
姉は、なぜ何も言わないのか。
去っていく姉を見ながら、秀隆はそれに思い至ることができなかった。
難産で虚無る。