目撃
尾張国は、応仁の乱を経て、二つの勢力に分かれた。その二つの内、大和守の傍系たる弾正忠家を躍進させた織田信秀。その三男として……織田秀孝、幼名喜六郎は生を受けた。
武家の三男という立場は、そこ迄注目されるモノでも無く、傍に付けられた乳母と、しっかりと立てる様になるまで、実に、実に穏やかに日々を過ごす。
母と会った事も無かったが、大名の子として恵まれた生き方をし、何一つ苦労する事も無く。まるで平凡な日々を過ごして来た。
――転機が訪れたのは、雲一つない、何処までも晴れ渡った晴天の日の事だった。
「喜六郎さまー、何方にいらっしゃいますかー」
自分を探す声を聞き流し、彼は縁側に座り込んで、空を見上げていたのだ。昼時、誰も居ない誰も見ていない、そんな場所で、一人きり。それは何時もの事で、彼にとってはなんて事の無い、普通の一日になる筈で。
ふと、空を見上げた。何時もと違うのは、ただそれだけの事だった。
「あぁ、此方にいらっしゃいましたか。お食事の時間ですよ」
「――ばあや」
「はい。どうなされました」
「おそらに、おおきなきずがあるよ。あれは、なんなの」
気になった事があったのだ。
青空に見えた緑の線。畝って、枝分かれして、揺らぎながら伸びる。長い、一本の輝きの様な何か。それを見た時、彼にはそれが大きな大きな、空に出来てしまった、不思議な傷に見えたのだ。
指差して、自分を世話してくれる乳母に、あの辺りにあるのだと示した。
「傷……?」
「そうだよ。すぅって、のびてる」
「……喜六郎様」
「あんなおおきな、みどりのきず。みたことないよ。すごいきれいだねぇ」
それは酷く、彼の目を惹きつけた。
一人きりで、どうにも寂しかったり、詰まらなかったりする、そんな日々で。初めて見つけた、とてもとても綺麗な、何か。それを誰かと共有したくて。
「そんなもの、見えませぬよ?」
「……え?」
「何かを見間違えたのでございましょう。さ、ご飯にいたしましょう。行きますよ」
けれど。
そんな物は見えないと。
でも、彼の目には写っているのだ。翡翠に輝きながら、ほら今も。木漏れ日の様に緑の輝きを漏らす、大きな大きな空の傷が。幾らそう言っても、何も信じては貰えず。最後には嘘を吐くと閻魔様に叱られますよ、等とたしなめられて。
しぶしぶ、言うのをやめたけれど。
「(――あるんだ、あそこに。ほら、あんなにも、おおきくて、どこまでも、どこまでもつづいていて。どうして?)」
だからと言って、その傷が消えたわけではない。光を放って、何処までも続いて。寧ろ、さっきよりも、ギラギラと、輝きを増したようにも見えて。それが少しまぶしくて。思わず彼はその傷から目を逸らしてしまった。
それくらいに、あの傷は『そこにある』事を示しているというのに。当たり前の様にそこにあるというのに。どうして、彼女には見えないんだろう。それが、不思議で不思議で、しょうがなかった。
その日は、それで事は終わったけれど。
彼にとって『傷』の事は、その日だけの事で終わる事も無いくらいには、実に不思議でならなかったから。それくらいに、その『傷』の存在感は、大きかったから。その不思議な傷について、知りたくなったから。
――彼は、次の日から空の彼方を眺める事を、日課にする事にした。
何時も、自分の部屋の近くの縁側から。遠くの空を眺め、その傷が何かを教えてくれるのを待った。雲の形が入道の如くに変わっても。空の青さが変わっても。そもそも雨雲が空を隠したとしても。それは、変わらずに空に有った。
揺らぎ、降り注ぎ、そして消えていく傷から降り注ぐ緑の光は、太陽の光とは明らかに違いうねり、曲がり、流れていく。風にも、雨にも、雲にも遮られる事も無く。
しかし、何処までも永遠に、という訳ではなく。最後には消えていく。薄らいでいくのではなく、ぱったりと。
「(おそらにきらわれているみたいだ)」
何時見ても傷の入った空が、翠と蒼で彩られて綺麗なのは間違いなくて。ずっと飽きもせず見て居られたのはそのお陰だったろう。
でも……そうやって来る日も来る日も見つめていても。穴が開く程に見つめていたとしても。流れていく雲の行き先、空の色。それは幾らでも分かっても、空の傷が一体どんな物なのか。結局は、何時まで見つめていても、分からなかったのだけれども。
――ふと、何時ものように、空を見つめていた時の事だった。
その日は、やはりどこまでも蒼くて、珍しく雲一つすらなくて。見ていると、自分が吸い込まれてしまう様な。そんな透き通った、空。子供ながらに、こんな日は何か起きるのかもしれない。なんて思って、いつも以上に目を皿の様にして。
ぎ
そんな、音がした気がした。
それは、廊下を誰かが歩いて来る時の音にも似ていた。誰か来たのだろうか。と思って周りを見渡しても誰も居ない。立ち上がって、廊下の向こうまで見渡してみても。誰も居ないのである。
気のせいか。
そう思い、もう一度空に視線を向ける。緑の光はやはりどこまでも伸びて、しかし何時もの辺りを超える事も無く……と、思って居た時の事だった。
「……あれ?」
消えない。何時もより、長く、伸びている。劇的に長くなっている、という程ではないけれど。子供ながらに、ずっと変わらぬ空を眺めて来た彼には分かった。長い。伸びている。何時もと、少しだけ違う。
何か、他に違いは無いか。思わず、軒下から抜けだして庭に駆けだして。もっと見やすい場所で見ようと必死に目を凝らした。
ぎ
そんな時、再びその音が聞こえた。今度は、間違いない。気のせいではない。
一応、見回してみても。やはり誰も居ない。今日は、何か不思議な事が起きている。と思って。でも、空とこの音。何方を気にするか、と言えば、やはり空で。
空の傷に目を向けて。ふと気付く。
ぎ ぎ
この音は、空の方から響いているのだ。あの傷の方から、この音は聞こえてきている。間違いない、と心が躍った。今日は、あの傷が何かを自分に教えてくれる日なのだろう。
思わず手を振った。嬉しくて。傷に向けて。
振り返して欲しかったわけじゃなくて。何となくそうしたくて。
それに合わせるように、ドンドンと、翠の光はその伸びる長さを増している様に見えた。
ぎぎ ぎ ぎ
それにしても、何だろう、と思う。この軋む様な音は。少し耳に残るような、僅かに嫌な音は。どうしてこんな音がしているのだろうか……その答えに気が付いたのは、しばし傷の方を見つめた、その後の事。
ふと、蒼と翠の風景に、もう一つ色が混ざっているのが分かった。
翠の傷の間に、ほんの僅か。混ざった黒。一筋だけ混ざった黒。そんなものが、傷の間に現れるのは、本当に初めての事で。
「あっ」
声を出して驚いたのは、それだけが理由では無かった。
ぎ ぎぎぎ ぎ
その音がした直後だった。黒い、線が少し、太くなって。そして、翠の傷が少し広がったようにも見えた。黒が増えた分、翠が押しのけられた様だ。
そこまで考えて、ふと気が付いた。
――傷が、開いているのではないか。
そう思ったらわぁ、と自然に声が漏れた。
今まで、何なのか、どうしてそんなものがあるのかも分からなかったその傷。それが開いて。その向こうには透き通る様な蒼ではなく、何者も侵せぬ様な黒がある……何かが在るのだ! その先に、空とは違う何かが!!
殊更に、ひと時も見逃したくなくて。出来るだけ瞬きもしない様に、口元をキュッと引き結んで、頑張って目を開いて、空の彼方を見つめて。
ぎぎ ぎぎ ぎぎぎ
音はだんだんと大きく。それに合わせて、傷が開いていく。
ふと、その最中、光が見えた。傷の先にある黒の中に、瞬く輝きが見えた。それは夜に見る、星のそれとよく似ている気がする。あの先にあるのは、夜空なのだろうか。昼なのに夜なんておかしい。どうして傷の先は夜なんだ。
「――あ」
夜の奥を見つめていて、星の瞬きの中に、一際大きな輝きが一つ。いや、二つ。まるで隣り合うように、光っている。強く。綺麗だ。あの傷は、この二つの光を隠していたのだろうか。だったら、納得も出来る。
「(あんなにきれいなもの、ひとりで、みていたいよね)」
でも、見せてくれた。あの傷は、自分だけに。あの輝きを見せてくれたのだ。それが、殊更特別なことな気がして。なんだかとても嬉しかった。二つの星は、まるで此方を見つめている様で。その星を、喜六郎もしっかりと見つめていた。
傷から見える黒い夜空は、今も広がるのをやめて居ない。
ぎぎぎ ぎ ぎぎぎぎ
より大きく。より広く。既に見えている蒼い空の半分以上は真っ黒な空に入れ替わってしまっているのだ。二つの星の周りに瞬く輝きはより数を増やし、本当に夜空を見ている位に美しくて……
ふと、ある事に気が付いた。
違う。
二つの星は、大きさが余りにも違い過ぎる。瞬く光にしか見えない他の星と違い、確実に輪郭を持った、円に見えて……いや、そうじゃない。あの二つの光は先ほどは、少し輝きが大きな、光に過ぎなかったのに。円になっているのだ、気が付いた時には。
「こっちに、きてる」
アレは……円ではない。光が円になっている様に見えただけで、もう今は、細くなって行っている。アレは……眼のように、見えないだろうか。
空の彼方で、あんなにハッキリと見える眼。大きい、どころの騒ぎではない。しかも今も近づいてきていて、更に大きさは増して言っている。それに……近づいてきて、漸く分かった事がある。
アレは……間違いなく、此方を見ているのだ。此方に向けて、近寄ってきているのだ。
「――あ」
そして、見えてくる。目があるのであれば、当然。顔がある。
黒の中から滲み出てくるそれは……赤い色をしていた。血の赤とも違う。夕焼けの赤とも違う。深い、しかし、余りにもハッキリとした、赤。黒を押しのけるような、目に痛いほどの赤。赤。赤!!
輝く瞳だけではなく緑の輝きを顔全体に湛え、最早星の輝きなど気にもならない程、その側頭から角を五つ、雄々しく生やしたその顔面の形相たるや。人とは思えぬ……否、この世の物とは思えぬ、見た事も無い。
もはや、黒はほぼ赤にとって代わり。
黒の奥から、翠の輝きは濁流の如く溢れ、既に蒼を喰い尽くす!!
――違う。
大きい等という話ではないという事を、理屈ではない。感覚で理解した。アレは、アレは、アレは! 三千世界の何者をも見越し、手中に収める事も容易いのだ!! 天より地へと当然の様に手を伸ばし大地を掴み持ち上げるのも容易かろう!!
もしあれが出てきたら空の果ての何処までも、あの紅が全てを埋め尽くす。天地の全てはアレの照覧の元、人々は恐怖するだろう。
敵いようのない、絶対的な『力』に。
それが、見ているのだ。此方を。
否……見ているのではない!! 今、自らを、目指して――!!
「……――」
「――ああああああああああああああああああああああああああああああ」
乳母がその場に駆けつけた時。彼は天を見上げ、叫んでいる……というより、ただただ口を裂けるほどに開いて、大声をもらしていた。屋敷中に響く程に。目は虚空を泳いだまま、ピクリとも動かない。
傍から見れば、乱心か、はたまた悪霊に取り憑かれたのか。
すぐさま家臣に抱えられ部屋に運ばれ……医師や祈祷師が呼ばれる騒ぎになった。
彼が本当は何を見ていたのか。それを、知っている者は誰も居ない。
――それから暫く、彼は全く外に出なくなり。自らの部屋に引き篭もり、ただ震えるばかりの生活を送る様になった。
織田家が複雑怪奇過ぎて虚無る。