木刀を振る。
只管に振る。
一心に振る。
ほかの事を考えないように、やってきたことを只管になぞる。素振りという行為のお手本のようではあるが……だが、結局素振り一つとて、何も考えずにしていてはただの繰り返し、身にはならない。
一つ、ため息を吐いて、木刀を振る手を止めてしまう。
「……」
信長の、あの表情が頭から離れなかった。
優し気なあの笑顔が。
『哀れよな秀隆……お主は、『愛』という物の本質を知らずに育ったのであろうな』
秀隆には、姉に『哀れ』と言われる理由が分からない。
姉の言葉の意味が分からない。
秀隆は母の『愛』によって救われ。兄の『愛』によって自分の長所を見つけた。姉に長所を『愛』してもらっていたからこそ、絵の腕はどんどん上がったと言えるだろう。
彼は多くの愛を受けて育った。恵まれていると言える。
だから、『愛』という物については、それなりに多くの事を知っていると思った。
今も、愛という物を知っている、というその思いに揺らぎはなかった。
「……」
だが考えなくてはならない。この言葉は……秀隆を嘲笑って言った言葉ではないのだ。
姉は、『父の遺言もあるのだし、母も諦めが付く』と秀隆が言った、その直後にこの言葉を残したのである。そのような事はあり得ない、という一言を付けて。
不可解ではある。前当主が残した次期当主の指名。そこで諦める事なく、まだ自分の野望の為に動くという事があるのか……
これが、他人の言葉ならわかる。しかし、仮にも夫の、それも、実に正当な言葉を無視してまで兄を押し上げようとする理由が、いったいどこにあるのか。
「……あるいは……あるのか?」
鍛錬も集中して出来ないのであれば……向かうところは決まっている。
母の下へ向かい、確かめればいい。直接聞くのは憚られるが。もし、万が一母が本当に諦めていなかったら、その時は、自分が改めて説かねばならないと思った。
きっとしっかり話をすれば、止まれる段階にはきている。
秀隆は、そう思っていた。
部屋の前で膝を折り、三つ指ついて頭を下げる。
急な訪問だ。礼を失する事は出来ない。
「――母上。秀隆です」
母の部屋……寝室とは別の、私室。
何時も母と謁見する時はここだったが……しかし、今までとは心持という物が違う。ここに入った後、母との関係が大きく変わるやもしれない。
母と子、という関係から……敵同士に、なり得るやもしれない。
それでも。姉と兄と、母とが、万が一にも相争う事だけは、避けなければならないだろう。であれば機会は、今しかない。
「失礼させていただいても、よろしいでしょうか」
『……入りなさい』
許可をもらい、襖を横に開ける。部屋の中、行燈の明かりに照らされて、土田御前はこちらを見ている。母に向け、秀隆はもう一度頭を下げてから、ゆっくりとその前に進み出し、座してその瞳を見つめた。
荒れているか、とも思ったが、予想以上にその瞳は澄んでいて、落ち着いていた。
姉の行為で葬儀はもはやめちゃくちゃになってしまった。あの後も誰も集中することなど出来やせず、糸が切れたかのように真剣さ、という物が失せてしまっていた気がする。その事で、ある程度の荒れている事も想像していたのだが。
……とはいえ、それも表面上の事かもしれない。
「葬儀、お疲れ様でございました」
「貴方も……というのは、些か酷ですか。関心をいささかも向けてこなかった父親の為に泣け、等と」
「……いいえ、そのような事は」
「気を使わなくても良いのですよ。殿は、良き将ではありましたし、私も愛してはいました。それでも、良き父であった、とは思っていません」
先ずは、探り。
腹の底では、激情を煮えたぎらせているかもしれない、と思って……だが、しかし受け答えに不穏な色はない。実に穏やかなものだ。
これならば、と。秀隆は、さらに一歩を踏み出すこにした。
「……父上は、姉上を当主と名指しされましたな」
「えぇ。殿はその様にと、言い残されましたね」
「私は、姉上の下でしかと働くつもりです。兄上はよく姉上に尽くすでしょうし、出世も早いでしょう。その時、兄上が少しでも早く城一つでも任せられるように、となれば。母上も喜ばしいかと思いますし。その為にも」
……遠回りな言い方ではある。
要するに『それで問題はないな』と。『もはや兄が当主になることはないと、分かっているな』という確認である。
これに頷けば、母は漸く、諦めたことになるであろうし。
これに否というのであれば……いよいよ、秀隆も覚悟を決めざるを得ない。
母の言葉を、秀隆は待っている。
だが。
「――何を言っているのです。織田の当主になるのは信勝。それは変わりありません」
「……母上、そのような事を申しても。お館様が決めた事です。姉上を当主に任ずると。最後の遺言を、無碍にされるおつもりですか。そのような無体に、誰が付いてくると」
「殿は既にお年を召されて、少し鈍ってしまわれたのでしょう。あのような遺言を残すなど、正気ではない」
その言葉に、秀隆は目を見開いた。
否、と言っているのかと思った。だが。違う。
信長が当主につくというのに反対である、と口にするのではない。そうであれば、まだいいだろう。
しかし母が言っているのは、そうではない。
そもそも姉を指名した遺言……それを残した、父に正当性がないと、言っている。
そんな馬鹿な話はない。最も近い家臣に残すという判断ができている時点で、真っ当な判断をする力は残っていたはずだ。だというのに。
母にとって、姉は未だ『一応認められた正当な当主』ではなく『兄が当主になるのに邪魔な存在』でしかないのだ。その二つの認識の間には……実に巨大な隔たりがある。
「正常な判断を下すなら信勝を当主にと決めていたはずです。そうでないのであれば殿が正気でなかったという事。うつけの奇行からの心労も祟ったのでしょう。殿もなんとお可哀そうに」
「母上、何を、もうしているのですか」
「正義は私にあります。歪んでしまった殿の言葉ではなく、かつて、この織田家を強くした頃の殿、私が愛した『織田信秀』の真意を汲まねば、武家の女とは言えないでしょう」
喉が渇く。
今、目の前にいるのは、本当に自分の母なのか、一瞬、疑いたくなった。
「そういうところが出来ぬのが、秀隆。まだ未熟な所ですね。精進なさい」
「は……」
誰かの意見に自分の意見を否、としてぶつけるのではなく。
もはや確かめられぬ真意を『自分の都合の良い方に解釈して』いる。それは最早、狂気だ
姉のやらかした事等、可愛い子供の悪戯かの様に見えてくる。
これは最早、死者への冒涜を超えている。安らかに眠る死者を自分の好きなように、操り人形の如く、使おうとしているのではないか。
それとも……本当に、そうとしか考えられないのか。
「とはいえ、偽りの当主が織田の頂点に立っているのは、到底許されることではありませんね。正しい織田家の形に戻さねばなりません……であれば、母が一つ骨を折るしかありませんか」
「――母上、何を、なさる積りですか」
「信長を、偽りの当主を掲げる佞臣諸共に排除する。当然の帰結でしょう。その為には信勝の味方を増やさねばなりません。まぁ最悪、貴方が居てくれれば大丈夫でしょうか」
母が立ち上がり、こちらに歩み寄ってくる。
ちらり、と壁にかけられた短刀が目に入った。
――今なら、
今、秀隆の頭の中には、一つの選択肢があった。
もはやここで手を選ばずに止めなければ……母は、恐ろしい事を始める。
兄も、姉も、下手をすれば死にかねない。そんな恐ろしいことを。
今の母は、かつて自分を地獄の底から救い出してくれた母ではない。彼女は狂ってしまった。望み諸共、その狂った人生を終らせる。やるのであれば……今だ。
歯を食いしばる。自分がやらねば。そう思って、ゆっくりと母の顔を見上げた。もはや今生の別れ。その顔を胸に刻み込んで、罪を全て背負う。その覚悟を決めようと。
した。
けど、出来ない。
「あ……」
秀隆は、見た。
母の顔を。
狂った者の目か? 否、そうではない。
あの時の、自分を救ってくれた母、そのままの顔だった。多少、年をとっても、燃え盛るような意思を込めた赤い瞳も、凛とした表情も、
狂気に狂った顔には、到底見えなかった。
「秀隆。これからは、少し忙しくなるかもしれません」
掌が伸びてくる。体が動かない。小刻みに、自分の手が震えているのに気が付いた。
「迷惑をかけますが……共に信勝を、勘十郎を助ける為に、頑張りましょうね」
頬に触れる手の温度も。全ては、あの時のままだ。
正気を失っているわけじゃない。
母は、兄を愛している。姉を憎んでいる。
きっとそれだけなのだ。愛しているから、憎んでいるから、彼女は何でも出来るのだ。兄の為に。姉を排除する為に。それ以外に理由はいらない。全ては、愛する者の為に。彼女の中には、しっかりと理由があり、そして、そこへ向けて冷静な判断を下しているのだ。ただ一つ、信勝を当主にするという目標の為に。
狂っているのは、正気を失い、正常な判断が下せない事を言う。であれば、正気のままに、狂気にも等しい行動をとる時、それはなんと言えばいいのだろうか。
彼は、もう動けない。
マザーの感情を表現しきれずに虚無る