研心
――心は静かに。
織田家の菩提寺のその中心にて、只管に筆と共に、一枚の絵に向かっている。その周りに散らばる絵の数は、疾うに十枚を超えていた。
描かれているのは……菩薩、如来、天、どれも仏、仏、仏。様々な仏が描かれたその絵を人は、仏画と呼ぶ。その絵は、墨の色のみで書かれているにしては、異様な迫力を持っていた。まるで、人でも食い殺すような……穏やかなはずの仏とは、ほど遠い。
何よりも、目だ。
仏というのは衆生を慈悲を持って見守っている。
故に、目も優しく、見ているだけで心洗われる様な、優しい瞳をしているのが普通だ。
だが……これらの絵は、違う。
一枚は見守る、というより、睨みつけるといった方が正しいような瞳をしていて。またある一枚の瞳は、心の奥まで見抜くような鋭さを持っていた。
そんな、異質な仏画を、ひょいと拾い上げる手が、視界の端に入った。
「ほうほう――随分と腕を上げたな。秀隆。良い迫力だしてる」
「ありがとうございます」
「……にしても、お前、これおっかなすぎやしないか? 仏画ってなんだっけ」
「私としては、普通に描いているだけなのですけれども。どうしてもこうなってしまいますのが、悩みの種です」
「それでこれとは。となれば、描いている当人の心の内が出ているのやもしれん」
絵を拾い上げた人間――信長のその言葉に、男はぴたり、と動きを止めて。
「出来るだけ、心を落ち着けて描いているつもりなのですが」
「絵というのはそういう物よ……それで? どうだ、最近は」
くるり、と後ろに向けて振り返った。
姉は大層愉快そうな顔をしている。どうやら、この絵が気に入った様だった。彼としてはただ、これは修行にも近い感覚で書いているだけなのだが。
「こうして仏画を描きながらこの世の衆生について思いを馳せれば、民草の為に戦う為に気合も一段と乗ろうという物です」
「あー、いらんいらん、そういうのは。俺が聞いているのはそういう事じゃない」
「何を申します。それはまごう事なき本音でございますよ。刃に乗せる理由は、多ければ多いほど、躊躇いを無くしてくれる」
そう言って返せば、すぅ、と信長の目が細められる。先ほどまでけらけらと笑っていたのが急転直下、だが彼にとってはそこまで珍しい事でもない。姉、信長の機嫌の上がり下がりは昔からそれなりに激しかった。彼女がいきなり調子を変えたのも、秀隆にとってはそこまで驚くべき事ではない。
とはいえ、彼女がそこまで急に機嫌を変えたのは、下手な言葉を返したからでは当然ない。彼女が、ここに来ている理由にも、それは繋がる。
「――母を切れるほどには溜まりそうか? 仏の含蓄は」
「その為に、こうして仏の前で、研鑽を積んでいるのですから」
――秀隆は今、織田家の菩提寺に居た。
母の企みは、酷く狡猾に進んでいた。
兄を今一度、当主に据える為に。彼女は、多くの家臣に声をかけていった。それも、今の織田家に心底忠義を尽くしている、信秀に重用されていた側の者ではなく、むしろ信秀に冷遇されていた者に対して。
至極当然と言えば当然。織田家への不満を持つ者であれば、信勝を当主にした後の褒章で釣る事もさして難しくない。
織田家の前当主の妻、土田御前という強い織田家の血族の立場と、現状への不満は、既に多くの反乱を引き起こす種を、引き込んでいた。
……秀隆という男を、その内に加えて。
「お前は、私の傍に居なさい」
彼女が秀隆に下した命は、その一言のみ。
いわば、抑止の為。万が一の護衛役として、秀隆は母が話を持ち掛ける時に、常に傍につく事を求められている。
密会で、しかも反乱の話など持ち掛けるのだ、下手をすれば、こちらが危険分子をみなされ切りかかられたり、さらに言えばその首を手柄にして信長に取り入ろうとしたりする者も、現れるかもしれない。
それを抑えるために……ある程度は武術の腕が立ちかつ血縁、という安心できる人材を背後に置いているのである。
……とはいえ、それだけではないだろうが。
秀隆は、信勝、信長と兄姉として仲良くやっている。信勝はともかくとして、土田御前からしてみれば問題は信長の方だろう。
要するに信長に付かぬように唾を付け、そして常に傍に置くことで……秀隆の動きを監視もしている、というのもあると秀隆は思っている。
その証拠に……こうして、鍛錬という名目で外出する時でさえ、必ずや誰か一人は監視が付いている。ちら、と外に見える大柄な男が、今回のそれだ。
もしこうして姉と会っているのが、母に伝われば、信長に事が割れた、と判断されて母は即座に挙兵するだろう。
とはいえ、こうして姉と会うのに何も対策をしていない訳ではないが。
「しかし、権六も大変だな。こんなところまで見張り番とは」
「彼の方がいらっしゃらねば、こうして会う事も叶いませんよ」
先ず、秀隆が信勝の陣営として動くにあたり、接触を図った男がいる。
信勝の側近であり、恐らくこちら側へ土田御前が取り込むであろう筆頭候補……柴田勝家。彼は、信勝の側近をこなしているだけあって、猛将なれど理性的な判断の下せる信頼のおける男だ。
母、土田御前が動く前に彼は勝家に接触を図り……いわば、自らの共犯者として母の側へと引き込んだ。
当然、反乱を起こすためのものではなく。母を止める為の共犯者として。
『――秀隆様のお心、しかと受け止めました。この勝家、微力なれど、出来る限りを尽くさせて頂きます』
秀隆の言葉に、勝家は容易く頷いてくれた。
信じてもらえない、という事もあり得たのだが……しかし勝家自身、信勝の傍から見ていた土田御前の様子には違和感を持っていたようで。確信を得た、との事だった。
ちらと、開け放たれた扉の方を見つめる。
その向こうで、こちらではなく外を見張っている勝家の姿が見える。恐らく、万が一ここを覗き込もうとする者がいないか、確認しているのだろう。
彼がこうして目こぼしをしてくれているからこそ、姉とこうして会う事が出来るのだから感謝しかない。
「つってもな……こうして鍛錬という言い訳を作って、その上で権六を連れてこないとならんとは。窮屈だのう」
「言い訳ではありませんよ。鍛錬は、鍛錬です。それよりも……」
「――母上の事だろう。安心せい。万が一、お主がしくじっても俺が必ず潰す。ま、その間に出る犠牲については……保証できんが。ま、それが気になるなら、分かっておるな?」
「えぇ。そう言っていただけば、最早憂いもなく。必ずや、母上は、我が手で」
そうでなくては、もし万が一秀隆がしくじった場合、姉に後を託すことも、出来なかったであろうから。
あの時、秀隆は母を切れなかった。
彼がこうして寺にいるのも。
姉とこうして会っているのも。
全ては、あの日の後悔から始まった。
多くの人が死ぬその前に。今度こそ……確実に、土田御前の首を、秀隆自身の手で刈り取るために秀隆は、こうして刃を磨き続けている。
今度は、決して躊躇わぬように。
多くの犠牲が出る前に、最小限の犠牲で済ませられるように。
自分には、今の母を切る事等、出来ない。一度思い出してしまった、あの時の記憶と大恩は、最早この頭から消え去りはしない。彼女には、人生を貰った。絵という道しるべを貰った。
それを思い出してしまっては、もう刃を向ける事が出来ない。人としての良識よりも、親子の情の方が勝ってしまった。結局の所、秀隆が母を愛しているのは変えられない。
ならばこのまま放っておくのか。逃げるのか。
それだけは、駄目だと。秀隆の人としての最期の一線が、止めさせた。
ここでもし母の凶行を見逃せば、兄も姉も相争う。何方か、下手をすれば、何方も死ぬまで終わらない様な血みどろの争いが始まってしまう。
では誰かに知らせて解決を任せるのか。姉に、若しくは……兄に。
止められなかったのは、自分ではないか。
「――御仏の教えを知るたびに、『
「間に合いそうか?」
「間に合わせて見せます」
自分が、責任を取るしかない。
今度こそ、母を切るために……秀隆は、母の傍にて準備を始めた。と言ってもやることは単純明快だ。母を切る覚悟を、明確に決める事。
彼自身、母の企みを止める為に出来る事等、多くない。母の計略を止める為に策を練るなど得手ではないし、下手にやればバレるだろう。
であれば……単純であった方がいい。
万が一の場合の事を、姉に頼む。
自分がしくじった場合の事を。
それだけやってしまえば、後は、隙を見つけて首を取る事だけに集中し、機会を伺って首を狩る。それだけだ。
「つーか、心を鍛える為に寺とか。素直すぎんか貴様」
「別に奇をてらう必要もありません。座禅や、読経、写経などは、武士も鍛錬の為にやる事ですから」
「鍛錬というても、己の母を切るための鍛錬だがな。仏も憤慨しているのではないか?」
「地獄で裁きを受ける覚悟はできております」
その機会の為に。彼は仏の前で、人を切る為の心構えを、一枚一枚、薄い紙を貼り重ねる様に……積み重ねているのである。
投稿が出来なかった事とあまりの難産にガチで虚無りそうになりました。ラ=グース様新しい宇宙とついでに新しいアイデアください。