「では、何れ決起の折りに」
「えぇ。期待していますよ……それでは」
――未だ、手元にある刀を抜く事は出来ない。
もし引き抜いても、万が一にも揺らぐやもしれなければ、未だ時ではない事を意識し心を静める。暗がりに揺れる行燈の明かりが、自分の不安な心を現しているようだった。
隣にいる母と楽し気に喋る男は、織田家の未来を憂うならば、信長ではなく信勝様に当主を譲るべきだ……などと、調子の良い事を言ってはいるが。しかし、結局の所は家の事ではなく、自分の栄華を夢見ているのだろう。
もし本当に家の事を考えているのであれば。先ず、反旗という手段は取るべきではないだろうに。二つに国が割れて相争えばその分、国力は失せて細くなるばかりだ。
だが……それを母が意識しているとは思えない。
否、彼女にとっては信勝を当主に据える事こそが最優先で。それ以外は取り敢えず脇に置いて考えないようにしている。目的に向けて、槍の如く思考を尖らせれば、一点に全てを賭ける分迷わず、あらゆる障害を貫いて突き進める。
それは……今の秀隆にとって、最も必要なものだ。
素直に見習う事が出来れば、より良かったのだが。
「……どうしたのです? こちらを見て」
「あ、いえ。母上の手腕、見習わねば、と思うておりました」
「この程度。在りし日の殿は、もっと辣腕を振るっておりました。その傍に在ったのですから猿真似程度はこなさねば……とはいえ」
「はい」
「そう言ってもらえるのは、母として喜ばしいですね」
そう言って笑う母に、秀隆も……僅かに笑いを返す。
こうして言うのが。反乱について話す場でなければ、どれだけ良かっただろう。当たり前に母から多くの事を学べれば、それはどれだけ幸せなのだろう。
子供は、親の背を見て育つ。
そんな当たり前の事をするのが、今はとても苦しい。
「……そう、ですか」
「えぇ。貴方に教えてきたことは、そう多くありませんから……これからは秀隆、お前とも親子としての時間を増やせれば、幸いです」
「はい。私も……母上と過ごせる時間が増えるのならば、ありがたく」
母から学んだ事すらも。ただ、母を切る為だけに使う。それは一体、どれだけ業の深い事なのだろう。母と触れ合う事に、こうして喜びを覚えているのも事実だというのに。
……秀隆は、母を憎んでいるわけではない。未だ家族として愛しているのに間違いはない。だが、それでも見逃せぬことがある。
愛する者を、それでも切らねばならぬ。
この世はなんと地獄に寄ったものか、と秀隆は思うばかりだった。
仏はその昔、自分の家族すらも自らの悟りに至る為の『障害』とみなし、自ら家を出たのだという。
しかし、仏には家族への愛がなかったのか……と言えば、全くもってそうではない。寧ろ愛深かったからこそ、その愛情は悟りに至る為の大きな障害となり得ると彼は判断したのである。
愛深いからこそ、人は矛盾に苦しみ、しかしてそれでも答えを出すしかない。
仏の教えを全て理解できるわけがない。それでも僅かに分かる事をかき集め、その事実のみを頼りにしている。
「……」
少なくとも秀隆にとって救いなのは、このような悩みなど、さして特別なものではないと知る事が出来た事だろうか。
愛する事と、目標との乖離。
そんなものは、特別なものではない。寧ろ、自分を含む衆生も良く抱くものであると寺の坊主は説いていた。
民草とてこの程度の事を乗り越えて生きているというのに、武士の子である自分が出来ない道理はない。
秀隆とて、大名の子だ。自分が民草よりも恵まれている事を理解している。民草とて乗り越えられることなのだから、決して不可能ではない、と鼓舞できるのは……実に彼にとっては大きな事だ。
特に、今は。
「――勝家殿、そのような所で見てらっしゃらずとも、御用があるのであれば話しかけてきてください」
「は……申し訳ありません」
さて。
流石にこのような場所で考え事をしているのだ。何時までもそのままとは行かない。
縁側にて、日差しが差し込む中。胡坐を組んでの考え事中。しばし前に、人よりも少し重たい足音が、自分の近くに近寄ってきていたのは、耳に捉えていた。
「精神の鍛錬でございますか?」
「えぇ。私にとって、目標を成し遂げる為に最も必要な鍛錬です。自らがどれだけ未熟なのかは、理解しておりますが故」
「いいえ、秀隆様の心が未熟などと、一体誰が言えましょうか。御身の目標を考えれば」
「そう言って下さるのは勝家殿位ですよ」
――そろそろ兄の下へ戻ったのではないのか。
そう言った秀隆に対し、勝家は少し溜息をついた。
曰く、姉との蜜月を邪魔されたくないのでしばらく向こうで暇をつぶしてこい。後秀隆の様子を見て様子を伝えろ。と言われたのだという。
下手するとご自身で様子を見に来かねない勢いだったので、流石に承知せざるを得なかった、との事。
何とも兄らしい言葉に、秀隆も思わず笑顔を零してしまう。
対して勝家は、一つ溜息を吐いてから、秀隆の隣に腰かけた。
「全く。兄上は私が幾つだと思っているのか。もう子供ではないというのに」
「信勝様にとっては、貴方はいつまでも可愛い弟なのでしょう。最近は、絵を描いてもらうのも減った、等とぼやいておられました」
「……絵だけではないでしょう」
「はは……鍛錬なども、ですな」
「全く。姉上に近すぎるのも、些かに。姉上も困っておられる事も多いというのに」
勝家の言葉を聞いて、今度は秀隆がため息を吐くことになった。
もう兄も自分も、元服してからそれなりに経つ。幼い頃から姉弟の距離が変わらないのは実に喜ばしい事ではあるが。
とはいえ、勝家にとっては、その姉弟の距離は、実に微笑ましいものなのだろう。隣の勝家の顔は、ため息を吐いていた割には、実に笑顔である。
「……とはいえ、兄上も、決してそれだけではないでしょうが」
だが……笑顔だった勝家の表情は、その言葉で険しいものに変わった。
「秀隆様も、そう思われますか」
「えぇ。平手殿の事はこちらでも聞き及んでいましたから……姉上の心労を考え、今は少しでも傍に居たいのではないか、と思います」
兄にこうして側近が居る様に。
姉にも、腹心とも呼べる人物が存在した。
織田家の家老として先代、信秀にも信頼されていた男、平手政秀。後見人として、そして信長の相談役としても、長い事彼女を支えていた男……実の父以上に、信頼できる大人であったやも知れない。
そんな政秀が、
当然、家中は大いに揺れた。信秀の統治を支えた実力ある家臣だ。彼が自ら死を選ぶなど想像も出来なかったものが多い。年を召していたとはいえ、未だにその経験で、多くの家臣の手本となれるような男だった。
秀隆も、直接会って話したことはなかったにせよ、その辣腕は自分の耳にも届くほどであった。当然、彼の死には驚いたものだ。
だが、最も衝撃を受けたのは……誰よりも、姉だったろう。
その原因が……かの葬式での信長の行いを諫める為ともなれば、なおさら。
「姉上は……」
「まるで平手殿が乗り移ったかのような辣腕ぶりでございます。それが信勝様にとっては些かと、痛々しい様にも、見えているようです」
「……平手殿は、命を賭しても構わぬほどに、姉に忠義をささげていらっしゃった」
それからだった。姉が、まるで人が変わったように当主としての仕事に取り組むようになったのは。否、以前も仕事はしていたのだが……かつて以上に、その辣腕を振るうようになっていた。
家臣の中には、かつての信秀様を思い出させるようだ、という者すら現れてる。若き当主がそれだけの腕を見せている事に、姉を認める家臣が増えているのも、事実ではある。
「その覚悟を、受け止めた、からでしょうか」
「喜ぶべき事なのかは、分かりませんな」
「……姉上にとっては、特に」
信長に、彼の思いが届いたのかは、他人には分からない。
しかし、彼女にとって何かしらのきっかけになったのは間違いないだろう。
……秀隆にとっても、喜ぶべき、と言い切れる事ではない。
大きな流れが動き出している、と物の怪は口にしていた。
平手の死は果たして、その流れに全く関係ない事なのか。それとも。
姉が、家臣に認められ始めた事。当主として相応しい傑物へだと、言われ始めた事。その裏でも尚進む、母の企み。
全ては、動き出しているようにも見える。
姉という個人を、中心として。
「なればこそ、今こそ信長様にとって正念場なのは、間違いないでしょう。平手殿の死を乗り越え、当主として大きく育つ……その憂いは、絶たねばなりませぬ」
「えぇ。万が一にも、家中での憂いもないようにしなくてはなりませんな……勝家殿、そろそろ?」
「……ではないかと思われます」
――すでに、土田御前の下に集う反乱分子の数は相当数になった。
多くの戦力を抱え、これだけあれば反旗を翻す事も可能であろう、程度には。勝てるかと言えば……分からないが。
しかし、時間をかけ過ぎれば事が露見する、という危険を孕んでいる謀だ。母とて現実的な所を見て、動き出す頃合いだろうというのは、凡その予想の範疇だった。
「私も、その時までに……ですな。必ずやあの方を……」
少しでも抵抗できるように。
秀隆は、ゆっくりと立ち上がった。今日は特に任務もない。菩提寺に赴いて一人、心と決意を磨く時だと。
「では、勝家殿。その時は……良しなに」
「承知いたしました。秀隆様も」
……立ち上がる。
決行の時は、近い。その時、母と過ごしたこの屋敷を、母の血で真っ赤に染める事を想像し。震える手に、ため息を吐く。
風に、新緑の葉が舞い上がる。
顔に吹き付けてきたそれに、一瞬目を細め……
――その向こうに、黒い細い何かが靡いた気がした。
風が吹き終わった後。周りを見渡す。何か、それらしいものはない。気のせいか、と思い改めて、菩提寺を目指し歩き出す。最近疲れているのだろうか、と思いながらも。それでも止まる理由にはならない、と自分を叱咤して。
秀隆が去った後、そこにふらり、別の人影が立っている。
秀隆よりも頭一つは小さく、そして細いその男は。
どろり、沼の様な赤い瞳で、その場に残った勝家を見つめて。母譲りの長い濡れ羽色の黒髪を後ろでくくって。
その小首を、かくん、とからくり人形の如く、傾けた。
昨日より筆が進んで思わずガッツポーズで虚無る。