冗談にしても笑えませんよ。
と、口にしようかとも、一瞬思った。だが……やめた。姉がそんな趣味の悪い冗談を言う等、ないだろう。となれば、間違いなく本気でそう言っているのだろう。
にしても。秀隆だって、怒るよりまず困惑してしまう。こんなにさらりと言われたら。
「……分かってて言ってらっしゃる」
「うむ。お主がまぁ、諸々考えて、考えて、考える事をやめずにたどり着いた答えであろう事は、なんとなくな。でもやめんか?」
「本気ですか。いやはや、姉上には、いつも度肝を抜かれる……やめると思っていると?」
流石に秀隆とて、それが本気というのであれば、下がれない。今までの労苦を惜しむつもりもないが……しかし、母の野望を止められたのは、あの時、自分だけだった。それを果たせなかった未熟を、罪を、ここで投げ捨てるなど。
姉の目を、正面から見返す。
ここで目を逸らしては、母の首を狩るなど夢のまた夢。強い意志を持たねばならぬ、と己に言い聞かせて、燃え盛る焔の奥を、寧ろ覗き込むように。
その焔に目が焼かれようとも、最早構うまい、と。
「母上は、俺がさっさと処す。反乱企んでるやつを潰すのなんざ当主としての仕事だ。お前がやるべき事じゃないだろ」
「しかし母を止められなかった責任があるのは私です」
「んなもん、いきなり生みの親切れっつったって無理だろ普通は。俺だって、まだそこまではいけんし。それにお前、死ぬんだろ?」
「十中八九は」
「じゃあ止めるわ。もったいない」
姉は、耳などをほじりながら、そう口にした。
真剣に話しているとは到底思えない態度だが。しかし。姉の目は、未だ焔を消していない。気を抜くことはしない。
「もったいない、ですか」
「まぁな。お前はずぅっと、ずぅっと、考えておる。普通だったらなんも考えず『仕方ない事だから』で済ませる事まで、まぁよう考えよる。母上の事だってそうだ」
「……考えず、何もせずに母を切るなど、土台無理な事ですし。考えなしでいられる程にこの浮世、甘くはないでしょうに」
寧ろ言い訳に逃げて母を切るなど、秀隆には到底出来るものではない。仕方ない、等と流されて切れる程、母との縁は軟ではない。一つ一つ、自分で納得できる理由を積み重ねていかねば剣など振れぬ。
そも、考えなしでやっていける程、この浮世が甘くないのは……秀隆は、嫌と言うほどに知っている。
ゲッター線の使者にそそのかされて。
自分の不調を隠したりもして。
そもそも、母に自分が裏切り者だと発覚しないようにする為にも。
秀隆は、ともかく嫌と言う程に頭を使って来た。否、そうでなくてはあっという間に破滅していたかもしれない。そうじゃないと今までやってこれなかった。油断して、のんびりできる時など、兄と姉が居た時くらいだ。
「――そこだ」
「はぁ」
「お前はそういうがな? 家の命で頭を満たし、その命令に終始して、その事について何も考えぬ……そういう者の方が、この世の中多い」
「そのような事は、ないでしょう」
「お前はな、天下に遍くある『人』という物に希望を持ち過ぎだ。そんなに周りの人間って色々と考えておらん。おらんおらん」
――だから、俺にとって、お前は貴重な人材なんだ。
姉は、一つ溜息を吐いた。
なんだか、その目に、少しあきらめにも似た光が見えたような気がした。
「それが何でか、お前には分からんのだろうなぁー……」
「えぇ、まぁ、全くもって分かりませぬが」
「単純だ。そっちの方が、とんでもなく楽だからだよ」
そしてその諦めの光と、今にも反吐を出しそうなそんな表情は、秀隆にとっては驚きを伴った。正直な話、怒りや悲しみの表情であれば、見た事はあった。それに、犬の糞でも踏んだかのような渋い顔だって見た事はある
だが明確に『嫌悪』といえる表情を見たのは、今回が初めてだったかもしれない。
「自分の頭で必死に考えるのって、疲れるだろ?」
「……えぇ、まぁ。それは、そうですね」
「生きるのに必死だと、
母上に付き従ってる奴らも、凡そそんな奴らばかりだろう、と信長は言う。
「正直、菩提寺で仏の道なんぞ学び始めた時は、ちょいと不安にすらなったわ。仏の教えだからと考える事をやめるやつなんざごまんといる」
「……」
「だがなぁ……お前はずっと、仏の教えを自分でかみ砕いて、その上で、自分の答えを出そうと必死に足掻いている。それが、どれだけ大きな違いか」
……そんな事を言われたのは、初めてだった。
考える事だけで、ここまで褒められるなんて。絵の腕以外を姉に褒めてもらったのは実は初めてかもしれない。それに……
姉が考えている事を無理して理解しようとしたことはない。だから、こうして彼女の考えをつらつらと聞くのも、意外と少ない気がした。
「――これ、見たろ」
「は、地球儀、でしたか。えぇ、日本の小さな事、そして、世界の広い事は先ほどしっかりとこの目で」
「そうだよ……お前のやってる事なんざ、世界から見れば豆粒みたいな事だ」
「豆粒とは、また随分な」
「俺が俺の仕事をすれば、お前はそんな豆粒みたいな事の為に死ぬ必要もない。貴重な人材の死をわざわざ見過ごせってのがおかしな話だろう」
――それは、確かにそうだ。
信長は、この家の当主だ。
彼女が反乱を鎮圧しようと号令をかければ、織田家全体が彼女の言葉通りに動く。如何に母が戦力をかき集めようと、不利なのは彼女なのに変わりはない。真っ当に戦えば姉が真っ当に勝つのは当然の帰結ではあるだろう。
しかし。
「――確かに、姉上から見れば、私が母上を殺すのに拘るのは、下らぬ事なのでしょう」
「まぁ、俺から見れば確かにな」
「ですがね、姉上。私は腐っても武士の家系に生を受けた男……恵まれた側なのです」
秀隆は、それでも、と言うのだ。
「確かに世界から見れば私が行おうとしている事等、小さい事でしょう……ですが、そんな小さい事一つ成せずして、何が武士の子でしょうか」
「……それは」
「ましてや、身内同士の愛憎など、如何様な民草とて、抱える問題……ましてや、ここまで広い世界に、どれだけ溢れている事か」
世界が広いからこそ。
どこまでも広がっているからこそ。
世界には無数にも等しい人が居て。その人々の中には、秀隆と同じように悩み苦しむ者など無数にいる。秀隆以上に苦しい立場で、その悩みに向き合っている者もいるだろう。こんなにも世界が広いのであれば……と。
秀隆は寧ろ、覚悟がより強く決まったような気がした。
「なれば、そこで躓くのは、民草よりも恵まれた我が身には許されぬ事でしょうに」
「そんな理屈が何処にある」
「私の中に」
秀隆は、仏の道を学び、多くを取り込んだ。衆生がずっと自分と同じように悩んでいる事を知った。多くの者が悩み、そして己なりの答えを出している事も、知った。それは秀隆に一つ、積み重ねる力を与えた。
完璧な回答は存在しない。己なりの答えを出すしかない。されど、完璧な回答など存在しないならば、自らの意思で積み重ねたその果てに得た答えも、決して間違いではないのだと。
「――多くの者が答えを出したことが、私にとって力となったのなら。私も答えを出して後に続く者の力にならねばなりません」
「んな義理もなんもないだろうに。聖人にでもなる積りか?」
「まさか。私は俗人以外にはなり得ませんよ」
これは母を切る為に積み重ねた、多くの理由の一つでしかない。切る言い訳を探して見つけたようにしか見えないそれは……しかし、秀隆にとっては、よく考え、そして自らの意思で積み上げた確かな『理由』の一つだ。
「それで? 後は何がありますか? 私を止める理由。其の悉くを打ち落として見せましょうぞ」
「……ま、お前がよく考えている、と言っていたのは俺自身か。考えて覚悟を決めたのであればそりゃあ、生中な言い方じゃ言い訳も出来んなぁ」
「そりゃあそうですよ。恩人を切るのですから、泰山の如くに積み重ねました」
それらは最早幾つ積み上げたか。一息に思い返す事は秀隆当人にも出来ない程だ。
だがその一つ一つを思い返す事は、直ぐにも出来る。考え抜かずして出した答えは、その中には一つもないからだ。
「……ったく、もったいない。お前に、世界の景色を見せて、絵を描かせたかったんだがなぁ。あぁ、くそ」
「はは、そんな事だろうと思いました。まぁ、生き残ったらご一緒させていただきます」
「生き残る気あるか~?」
「……さっきまでは、ありませんでしたけど。今は、少しだけ出来ましたよ」
とはいえ。
最早、死んでも構わぬと思っていた命。こうして生き残れと求められたのは意外にも初めてだったりする。勝家とて、秀隆が生き残るとは思っていないだろう。
そもそも当人が死んで当然と思っているのだから。
だからずっと生き残った後の事は考えてなかったが……しかし、世界の景色を見て絵を描けという言葉には、少し、欲が沸いた。
母を切った後、自分の見た事もない景色を見て、絵を描くというのは、悪くないかもしれない。最近は仏画ばかりを描いていたのだから。
「そうか」
「えぇ。では……生き残ったなら、またお会いしましょう。姉上」
「うむ。そうだな。生き残ったら、色んな所へ連れて行ってやろう」
戦国の人が刹那過ぎて虚無る。