人間というのは、ここまで感覚を尖らせられるのだと、今、初めて知った。
これよりは、ただ一撃のみにて反乱の流れを断ち切る大任。それを成し遂げるという強い意識で、相当に気を張っている所為なのか。
肌は、空気の流れすら敏感に感じ取って、ほんの僅かな床の軋みの音が、心なしか大きく聞こえる気すらする。
「――」
腰の刀が、今、普段以上に重く感じるのは、きっとその所為だろう。これだけ集中できているなら、一瞬の隙すら見逃さず、刀を振れる気がする。
秀隆が進んだ先、土田御前が集めた家臣がそこに集い……信長に対し、反旗を翻す、その時を待っている。
とはいえ、真っ先に戦いを仕掛ける訳ではない。準備の準備が整っての、顔合わせの段階だ。それでも……ここを過ぎれば、母上一人を切ったとて、反旗の流れを止める事は出来ないだろうと思う。
ここしかないのだ。
言葉で止められる段階は過ぎた。それでも、彼女の息子として、これ以上の悪逆を母にさせないために。兄を叛逆の神輿にさせぬために。そして、姉への叛逆を確実に潰すためにもここで……
切る理由を、積み重ねてきた。それがどんな物かを、数える事は出来ようが、しかし今は……ただ一つ。そこより生じた必殺の覚悟を、鈍らせる事なく、尖らせるのだ。母が兄を当主に据えようと、覚悟を決めたように。
「ふぅぅぅ……う」
何度も、頭の中で咀嚼する。母の喉首を掻っ切るその一瞬の景色を、想像し。幾度とて繰り返し……手順を、頭の中に刻み込む。
母を切った後、自分が討たれようと、その場には勝家が居る。きっと、反旗の芽を抑え込み、母以外の犠牲を出さずに終えてくれるだろう。であれば、自分が考えるのはただ一点、母を切るその瞬間のみ。
そこだけを考えればいい様に、事前にいろいろ考えを巡らせたのだから、ここで華を咲かせてくれないと、死んでも死にきれない。
「流石に、運動等が得意でもない母上に避けられるとも思わないが……まぁ念には念を入れておこう。万が一首を絶てねば苦しませるばかりだ」
と、口に出しておきながら、閉口する。
ここで聞き取られたら全ての計画がご破算だ。考え事にふけり過ぎて周辺の確認を怠り過ぎている。浮足立ってる。
秀隆自身、集中しているつもりではあったのだが。それでも大舞台の直前なのだから心が揺れもするのだろう。
もう一度気を引き締め直さないといけない。そう思っていたところで……
「よう、喜六郎」
「っ!?」
その声に急いでくるりと後ろに振り返る。
そこに立っていた人物の姿に目を見開いた。
「あ、兄上……」
「どうした? 怖い顔して。なんか悩み事か?」
兄、信勝が、此方に向けて歩いてきているのである。
なぜ、と一瞬思ったが……しかし、自分が今、ここにいること自体が答えではないかと思った。いよいよ母が決起を促すその時なのだから、主役がいなければそもそも成り立たない。故に、母上が呼び寄せたのだろう。
しかし、焦っている様子もない。姉に反旗を翻す、等という暴挙については、まだ知らされていない模様だ。
であれば。ここで下手に動揺してぼろを出すのが一番まずい。秀隆としては、最後の最後まで信勝には何も知らずに過ごしてもらいたい。そうでなくては……母の不意を完璧に突く事ができない。
「怖い顔など。いつも通りの仏頂面でございます」
「ふーん。そうかぁ」
「兄上こそ、どうしてここに」
とはいえ、万が一、別の用事だった場合、不穏な態度を取っていては、寧ろ違和感を抱かせてしまう可能性もある。
秀隆のその質問に、信勝は笑って答えた。
「お前に会いに来たんだよ」
「――私に?」
「そうそう」
どうやら、その万が一の可能性だったようで。
一つ、息を吐いた。兄はまだ何も知らされていないようだ。であれば、ここは適当に話して煙に巻くのが一番だろうと判断する。
しかし、事ここに至って兄にまだ何も言わない……というのは些かと不自然というか。母上は何を考えているのか。
「しかし、あいにくと私はこの後、用事でして……えぇ」
「知ってる」
――その時、信勝の口が、カパァ、と裂けたように笑みを浮かべたのが、見えた。
「え?」
「母上を切りに行くんだろ?」
「――っ!?」
驚いて、意識を信勝に向けた、その瞬間だった。
何者かに、急に羽交い絞めにされる。何事か、と思う暇もなくそのまま抱えあげられて信勝の前にまで連れてこられた。
秀隆よりも大きなその体……そして屈強な腕。
秀隆には、見覚えがあった。
「か、勝家殿!? これは一体!?」
「申し訳ありませぬ秀隆様……信勝様のご命令です」
「兄上の……!?」
「――きろくろー、こっち見ろ」
しかし、そこに集中している暇もなく、ぐい、と頬を両の掌で包み込まれて無理矢理に正面を向かされてしまう。そこには……兄の、端正な顔が見えた。
だが。
「っ……!」
「お前は昔っからそうだよなぁ」
宝石の如く赤い、美しい目は……まるで泥沼かのように濁り、蕩けてしまっていた。覗き込めば、その奥まで飲み込まれてしまうような。そんな、明らかに異常な目で、彼はいびつな笑顔を象っている。
笑っているはずなのに。見開かれた目も、三日月の如く弧を描く口も、だらんと下がった眉も、その全てが組みあわさって、背筋を冷やす。
「無茶ばっかりするんだ。弟のくせに」
「な、何の話です……兄上」
「権六から全部聞いた。母上を切って、姉上への謀反が起こる前に潰す、だっけか? その為に一人で母上の傍にいながらいろいろ準備してたんだって?」
「ぐっ……!」
後ろの勝家を睨みつけようと思ったが、しかし。そこを見計らったかのように、頬を優しく掌で撫ぜられて、力が抜けてしまう。
頬に触れる信勝の掌は、あまりにも優しく、そしてつららを想起させる程にに、冷え切っていた。まるで、この世の者ではないかのようで。頬を撫ぜる度に、秀隆の抵抗する力をそぎ取っていく。
「全く、いいか喜六郎。お前はな、弟なんだ。弟はそんな大それた事なんかしなくていいんだよ。こういうのは兄貴の僕の仕事なんだ」
「そ……そのような! これは、母上を切れなかった私の……!」
「だーかーらー、お前は僕の弟なんだ。そんな母上を切る、なんてつらい事、やらなくていいんだよ。お前は黙って、僕の後ろにでも隠れておけばいい。姉上でもいいぞー」
ささやく言葉は、その冷えた手とは正反対に。甘やかで、優しい。
しかし、ささやかれている秀隆に有無を言わせぬ、異様な迫力がある。抵抗するな、僕の言うことを聞け。お前は何もしなくていいんだ、と彼の頭に刷り込むように。
「それにしても、母上もとんでもないこと考えるよなー。姉上を排して、僕を祭り上げようなんて。全く、それについてこようとする奴らも奴らだ。全く、能無しの馬鹿しか居ないのかなぁこの家。姉上の邪魔にしかならない」
「――そ、そうです。ですから、私が……!」
「だめだめ。頭を刈っただけじゃ腐った手足は残る。
ぐにゃり、開いていた目が細められて、弧を描く。
何を言っているのか。しかし今は、考える前に感覚が叫んでいた。
咄嗟に勝家の腕から抜けようともう一度暴れるが、しかし、油断一つも勝家はしていない。抜け出せない。勝家との腕力の差は歴然だ。しかし、それでも今ばかりは、それに納得してはいけない、と思う。
「――喜六郎。もしお前が母上を切っても、こういうことはまた起きる」
「そのようなことは……っ!」
「だから、周りも腐らせる原因は綺麗さっぱり居なくならないと。姉上が目指す天下に不要な奴らは……僕が一緒に連れていく。できる限り、多くな」
「……っ!?」
「僕が姉上の敵をぜぇんぶ炙り出すんだ。僕についた奴らは姉上の道に要らない愚か者。僕みたいな無能を祭り上げようなんて考える僕以上の無能共なんだ。そいつら諸共僕らが消えれば、姉上は何の憂いもなく邁進できるから」
「はぁ……初めて、姉上のお役に立てる」
――血の気の引いた、音が聞こえた。
兄は、頬を赤らめて、初心な生娘の様な恍惚とした表情を浮かべている。
マズい。そう思った時には、信勝は既に勝家と秀隆の隣を抜けて……秀隆が向かおうとしていたその先に。母と、裏切り者達の会合の場に足を向けているのだ。
それが何を意味しているか、分からない秀隆ではない。
とっさに、腰の刀に目を向ける。何とか抜き放つ事ができれば、勝家を切り、信勝を止める事も叶う。今しかない。まず、一瞬、力を抜いて、諦めたように見せかけてから、一気に動く。出来るはずだと、自分に言い聞かせ……
そう、動こうとして……
「――そ、こ、ま、で」
ぎゅ、と手を握られた。向かった、と思っていたのが、何時の間にか秀隆の隣で彼の腕を握り、こっちを覗き込んでいる。にやぁ、と悪戯が成功した小僧の様に、もっと笑みを深めていた。
「悪い子だなぁ、喜六郎……でも、お前はそういうやつだ。真面目だからなぁ。最後まで諦めたりしないよなぁ。何でもお見通しだぞ、僕には」
「兄上ッ! お考え直しください、兄上が、そのようなことを……っ!」
「変に修行なんかして。無理に母上を切ろうとして。反旗の計画を止めるためにとても頑張っていた……でも、もういいぞ? あとは、兄上に任せておけ」
そのまま、信勝の顔が近づいてくる。
その目の底は、見えない。
泥沼どころではない、渦巻き、粘る、闇の底のような瞳がこちらを見つめている。それは生温い暖かさを孕んだ狂気であり、そして……
間違えようもなく、家族への『
「お前は、弟なんだから」
そう言って、こつん、と額と額を合わせ。
「――権六、喜六郎を外へ。中に入れるな? そいつの諦めの悪さは、見てわかっただろう? 気を引き締めてかかれよ」
「……ははっ」
「まって、まってください、兄上……!」
今度こそ、信勝は母の元へと歩き出す。
秀隆は、その歩みを止められない。勝家の手によって、引き離されていく。暴れる、暴れる。ひたすらに暴れる。しかし、びくともしない。勝家がどれだけの力を込めて、秀隆を止めているか……あまりにも無慈悲な手際である。
勝家の顔は見えない。しかし、それでも秀隆は後ろに見えるであろう男を睨めつけながら叫ぶ。
「離せっ……勝家!! 貴様ッ! 己の主君をむざむざ見殺しにする気か!?」
「申し訳ありません、申し訳ありません……っ!」
「ぐっ……このっ……ええいっ! 離せ! 離せぇッ! 兄上、兄上……っ!」
兄上。
ただ、秀隆の兄を呼ぶ悲鳴が、城の中に空しく響くばかりであった。
カッツの感情面の振り切れ具合が上手く書けて居るかが分からなくて虚無る。