馬を飛ばした。
馬がつぶれても、それでも走った。
一刻も早く知らせねばならない。手遅れになる。傷ついた片腕から血を滴らせながらも只管に、走った。
秀隆は、勝家には勝てなかった。当然だ。武術の腕において秀隆は勝家には未だ勝てない。アレは、武術というより、暴風が近いとは思うが。大柄な体と、その為に設えられた大振りな剣から繰り出されるのは、まさに災害の様な一撃だった。
そもそも立ち向かう時点で、時間を稼がれているというのに、その挙句に退けられたというのだから、未熟ここに極まれる。
「早く、姉上の下に……っ!」
信勝が、反旗の音頭を取る等と、天地がひっくり返ってもあり得ない事した。
それも……自分諸共、姉に反乱分子を粛清させる為に。まとめて消える、とはそういう事だ。自分が反旗を翻す要因だと、分かっているのだ。
だから自分があえて首謀者となったのだ。
確実に、自分たち諸共、不穏分子を消し去るために。
このままでは、兄が、死ぬ。
母も切れなかった。兄も止められなかった。
無念と、焦りと、恐怖で、心がぐるぐると渦巻く。
人生で初めてだった。姉に、縋ろうと思ったのは。
「姉上……姉上なら……っ!」
しかし、もはや姉以外、秀隆に頼れる人物はいなかった。織田家の現当主たる彼女でなければ、こんな大掛かりな一件など、止めようもない。急がねばならない。
秀隆は、ともかく走り抜けた。片手だけではなく、足も潰れて血まみれになろうと、それでもかまわず駆け抜けた。
――秀隆が、信長の居城へ辿り着いたのは、翌日の明け方の事だった。
ふらつきながら、緊急で取次を頼めば、番兵も、尋常ではない秀隆の様子を見て取って、素直に信長の元へと秀隆を通した。
痛みで耳鳴りもして来ている。誰かに話しかけられても、ほぼ聞きとる事すら困難。
それでもせめて姉には伝えねばならない。事が起きれば、最早、兄を打ち取らねば収束はしない。そうなる前に……急がねばならない。
そもそも、兄が姉に反旗を翻す等、初めから想定してすらいない。母の思惑があろうとも、兄は決して下手な事をしないという前提があった。だが……もはや前提は覆ったのである。
「……失礼、いたしますっ! 姉上っ!」
戸を開く。
何も言わないでの訪問に加え、この血まみれの体だ。秀隆も、流石に驚かれるだろうとは思った。それでも、緊急の要件だ。無礼は承知。如何様な処罰も後で受けよう。そう思っていたのだ。だが……
信長はくるりと振り向いたが。秀隆の惨状を見ても、一つ溜息をつくばかりで、驚いた様子を一つも見せていない。
「おう。秀隆か。こっぴどくやられたなぁおい」
「申し訳、ございません……仕損じました……!」
「あー、何となく分かってるから言わんでよい。ったく、権六にやらせたなあ奴……まあ良いか。こいつ抑えられるのなんざそうはおらんからのう」
むしろ、眉を顰めたのは秀隆の方だった。
どうして勝家に自分が敗れたことを、信長が知っているのか。何故、と口にしようとしてしかし……酷く、嫌な予感が頭を掠めた。
兄は、決して無能な男ではない。それを秀隆は一番よく知っている。
このような大それた事をするのに、何も言わずに事を起こす様な事はしないだろう……であれば。
「……あ、姉上……まさか」
「信勝から既に知らされておるわ。冗談かとも思うたが……お主の様子を見て、確信を持った。本当にそんな無謀をするとは。俺が信勝の行動を読み切れなんだのは、初めてか」
やはり。兄はこの事を姉に、始める前に知らせていたのだろう。
しかし、であれば。何故、なぜ姉はこのように泰然自若としているのか。
「お、お分かりであれば姉上! 急いで兄上をお止めせねばなりませぬ! 兄上を止められなければ……」
「止めん」
「……はっ?」
「止めん。信勝は、その覚悟で俺に文を寄こした。俺も、覚悟を決めさせられた。アレの覚悟を無駄にはせん……褒めようとは、欠片も思わんがな」
そういって、信長は踵を返し、文机に向き直る。仕事でもしようと思っているのか。頭にカッとしたモノが昇る。声を荒らげそうになる。怒りのまま、姉に食って掛かりそうになる。
しかし、叫ぼうと、感情を荒らげようと、自分が向き合ってきた問題がどうにか出来たことがないのは、秀隆自身が一番よく知っている。
この窮地。絶対に思考を停止させ、感情的になってはいけない。姉に、利を以て説かねばならない。ここで兄を止めねばいけない、と思わせるような言葉を。
「……姉、上」
「なんだ」
――しかし。
口から、言葉が出ない。
秀隆とて、信長が信勝の事をどうとも思っていない訳ではない……むしろその真逆であることは、よく知っている。であれば。何故信長は、それをよしとしたのか。
覚悟を決めさせられた、と言っていた。それは、秀隆と同じように、信勝という大切な家族を切り捨てる覚悟を決めたという事だろう。
それを否、と言える立場に、秀隆は居ない。何故なら、彼自身が母を切ろうとしていた事実は、覆りようがない。
兄と姉の間にあるものを、秀隆はすべて理解出来てる訳ではない。
故に、迂闊な言葉を吐く事も当然できない。
「っ……」
「どうした。申してみよ」
では、実利的な面ではどうだろう。
これも……厳しいだろう。
計画されている段階ならともかく、最早全ては整って、後はその堰を切るだけの段階。その旗印を兄が自ら買って出た。それがどのような意図で行われているのか……問題として皆が言うのはそこではない、『兄が反旗を自らその手に持った』という事実だ。
当主として、最早庇える段階に無い。
事が起きれば止められないだろう。
考えれば考えるほど、詰んでいる。
秀隆には、兄を助けるように頼むための言葉が、何もない。
「――何もいう事がないのであれば、下がって治療を受けよ。重症ではないか」
「……」
しかし。しかし。
それでも引き下がれない。
おかしな話ではないか。姉を思って、自ら滅びの道を選ぶなど。
母を止めて、この反旗を止めるのは、自分の責任であったのに。
ここで兄の言うとおりに下がってしまうのはあまりにも、無様ではないか。
感情が荒れ狂う。もはや、理性で訴えることは、叶わない。でも、それでも。必死になって、心の奥から、絞り出すように。
「――助けて、ください……姉上。兄上を」
もはや、何の理屈もない、感傷に塗れた、懇願の言葉を。
「当主として、見過ごせないことも。わかっております」
「……」
「兄上が如何なるお覚悟をしているのか。私には理解しかねます。そんな私が何か言うのは、烏滸がましい……と思います」
「……うむ、そうだな」
「それでも! 兄上を……その様に死なせるなど。姉上の手にかけるなど……させたくはないのです、私はっ……これは、私のわがままです。個人の感情です。それでもっ!」
あまりにも、酷ではないか。
あんなにも幼い頃、姉上、姉上と慕っていた頃を知っている。姉の絵を描けばとても喜んでいた表情を知っている。同じ城で仕事が出来るとはしゃいでいた声を知っている。
兄は、姉が大好きなのだ。純粋に、慕っているのだ。
兄が最も愛する人に、姉に、その首を切らせるなど。あまりにも。
「お願いします、姉上……兄上を、今、今、お止めください……お願いします……!」
「――秀隆よ」
しかし。その言葉を、信長は冷静に……しかし、冷徹とは呼べない程度に。
いっそ、ぬるいと呼べるくらいの声で、その言葉を断ち切った。
顔を上げた秀隆の目に入ってきたのは……少し、困ったような顔をした信長の顔。一つ溜息を挟み、彼女は口を開く。
「信勝……勘十郎はな。俺の敵を減らすため、と言って反旗を起こしよった。実際、理由はそれがほとんどを占めておるだろう……しかし」
「……しかし」
「こうも書いておったよ。『喜六郎の奴に母を切らせるのは、あまりに酷ではないか』と」
目を見開く。そして、目の前景色がぐらつき、ぼやけていく気がする。
それは……それは。自分が思っていた事と、まるで同じ事ではないかと。
「……お主は、母にせめてこれ以上の悪事をさせまいとした。それは紛う事なき、母への愛情だ。そして、俺と信勝を思っての事でもあったのだろうよ」
「そ、それは……!」
「それと同じくらい。信勝は、お主を思い、俺を思い、事を起こしたのだろうな」
「……っ」
――これが、
理解したか。という一言で、秀隆は最早立っていられなくなった。体から力が抜ける。悪夢のようだった。母は、兄の事を思うからこそ事を起こし。そしてその事を、母の為に止めようとした自分は……兄の、姉弟を思う心に敗れ、そして姉に諭されている。
誰も彼も、家族を愛しているだけだ。だというのに、こんなにもすれ違い、そして誰も救われようがない。こんな空しい話があるか。どうしてこんなにも家族を思っているのに、全てが破滅へと向かうのか。
呆然とする秀隆に、しかし信長は、淡々と、言葉を紡ぐ。
「次は、兄を切る覚悟をしておけ……まぁ、無理強いはせん。したくないのであれば、賊でも狩っておればよい。その程度は、よいだろう」
「……あ゛ぁ」
そのまま、地面に蹲る。震えが止まらなくなった。
小さく、小さく……幼い頃のように、体を小さく丸めて。その震えを抑えようとするが、もう、止まらない。
「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛……」
泣き叫んだ。
体の奥底からあふれる感情に振り回されて。喉の奥底からの叫び声が、姉の部屋にわんわんと響き渡る。
もう届かない。姉も、兄も、母も。もはや、自分の遠く届かない所まで行ってしまった。どんなに子供のようにわがままを言っても、止まってくれる訳もない。
誰も彼も、己の思いを以て、殺しあうばかりだ――
こういう時のノッブを書き切れているか不安で虚無る。