――心が休まる時は、喜六郎には無かった。
もし外に出た時、もう一度あれを目撃した時。自分がどうなってしまうのか。それを考えてしまうと部屋の隅から一歩も動けない。そもそも、部屋の中で目をつむっていても、瞼の裏にアレが浮かんで来て、目を瞑って堪える事も出来ない。
部屋の畳の目を一つ一つ数え、必死になって気を逸らそうしても。あの日の空と、耳に聞こえる音、そして浮かぶ傷の事が頭から離れない。記憶の中でも、じぃと自分を見つめているのだ。
アレは、何なのか。
寝物語に聞いた鬼の仲間か?
ちがう。そんな物じゃない。
喜六郎は、様々、アレを自分の中で知っている物に例えようとして。しかしどれも決して当て嵌める事が出来なかった。当て嵌めて、せめて理解の範疇に抑えようと、本能的に努力をしていたのだが。それも上手く行かない。
自分の理解の範疇を超えた存在に対し、どうしようもなければ、後はもう取り乱す事しか人間は出来ない。そこまで年を経て居ないならば、猶更の事だ。
誰か部屋に入って来るのが耐えきれず、部屋の隅まで這って逃げた。
そもそも、誰にも触れられぬように、近寄ろうともしなかった。
食事もとらず、無理に食わせようとするならば、器をひっくり返し、抑えようとした手から必死に逃れようともがき、それがダメなら指に歯を向いて噛みついた。誰も近寄らせまいと、暴れた。
世話をしようとしていた者達も、その様子を恐れてか、全く誰も近寄ってはこない。とっくに空腹で倒れても不思議ではない頃合いだというのに、全く疲れる気もしなかった。
では一人でいれば普通に過ごせたのか? 決してそんなことは無い。鳥のさえずり、虫の羽音、すきま風、家鳴り、人の喋り声。音だけではなく、部屋を開けて差し込んで来る、日の光、行燈の明かりからすら逃げ出す始末。過剰に。あらゆるものに反応してしまう。
目に映る物、全てが此方へと迫る驚異の存在に見えていた、と。もし仮に言われたとしても誰もが信じる程に荒れ、狂っていたのだ。彼は。
今も、空の彼方から見ているのだろうか。そう思っただけでも、寝られない。
夜中も、爛々と、目を見開いて過ごしていた。静かに輝く月も、部屋の隅に溜まり切った闇も、睨みつけて過ごす。決して、あらゆる異変を見過ごしてしまう事とのないように、と。
しかし、そんな一睡もせず、気を張っている等、大人でも長く保てない。
先ず、叫ぶ喉が枯れ声が出せぬようになった。次に、目が掠れ、殆どマトモに物が見れなくなり、最後には……物音すら、ぼんやりとしか聞こえず。気にも留められなくなる。口を締めて置く事も出来ず、だらしなく開かれたまま。
まるでその姿は幽鬼のようですらあって。呻く事しか出来ない。
心身は削れきって、もう、自ら何かする事すら出来ぬようになって行った。
そんな状態に陥って、幾日が経ったか。
腐った食事と、倒れた家具、そんな中心で、呆然と天井を喜六郎は眺めていた。
「――入りますよ」
もはや、誰が入っても反応すら示さない。そんな状態になって、しかしながら。誰も入る事も無くなっていた室内に、堂々と入ってくる者が一人居た。
喜六郎にはもうそれが一体誰かも分からない。それを考える事も、出来て居ない。
そんな彼の前に、影が差す。
遮られた光と、刺した影の差で、ようやく反応して、体を起こした。それでも追い出そうなどと言う気にはならない。何も考えられないまま、ただ見上げる事しか出来ない。
「酷いものですね。悪いモノに取り憑かれた、という話でしたが。ここまでとは」
「御前様!! 危のうございます! 喜六郎様は!」
「コレは私の子。何を恐れる事があると? ――何をしているのです」
「立ちなさい」
―パァン!!
その刹那の後だった。
乾いた音と共に、小柄な体が容易く畳を転がった。呆然としていた意識が、痛みと共に一気に引き戻されていく。喜六郎は、先ず、霞む視界でもう一度、その人物を見た。何が起きたのかを、考えるよりも。前にだ。
その女性は、堂々と。日の光を背に背負って、真っすぐに立って。喜六郎を見下ろしていたのだ。
「何を怯える事がありますか。しゃんとなさい」
頬を叩かれた、とか。謝りもしないで、とか。先ず、考えなかった。目の前の女性に、喜六郎は間違いなく見惚れていた。自分と同じ色の、真っ赤な、燃えるような瞳に、喜六郎は見惚れていた。
覚えている。あの巨大なナニかの瞳とは違う。綺麗で、真っすぐな目だった。
誰か入って来ても只管に追い返していた。内なる衝動に身を任せて。不思議と目の前の女性には、傍に寄りたいとすら思い……少しふらつきながらもその女性に近寄ろうと、震える足に喝を入れて……歯を食いしばって立ち上がったのだ。
「き、喜六郎様!」
「あら、立てるではありませんか」
寧ろ……暖かさすら感じた。そのぬくもりに向けて、彼は必死に近寄ろうとしていた。この荒れる心から、何とか逃れようと。安寧を得ようと。必死になって、近寄ろうとした。震える手を、出来る限り遠くへ伸ばした。
そうして伸ばした手に、触れる感触があった。ぼやけた視界に写るのは自分の薄汚れた手に触れる、白い、綺麗な手。
「しかし、汚れがひどい……体を洗わせなさい」
「え……いや、しかし、喜六郎様は部屋から出たくない、と」
「何を言っているのです。その様な情けない言葉に従わず、この子の乳母であるのなら無理にでも連れ出しなさい。それこそ、真の忠臣の在り方でしょう」
――ここから出る。
先ほどまでそんな事を考えつきもしなかった。外の全てが恐ろしく感じていたのだ。でもこの人が言うのなら。別に出ても良いかもしれない。そう思った。
「……あの」
「ん? 何です」
「あなたが、ついてきて、くださるのなら……でます。ここから。おねがいします、そばにいて、ください」
あと少しだけ。この温もりの傍に居たい、というのが彼の本音であった。故に、最早掠れた声しか出せぬ喉で、必死に訴えたのだ。
貴女に従いますから、決して離れないで欲しい、と。そう言われた女性は……一つ溜息を吐いて、乳母に向けて振り向いた。
「行きますよ」
「えっ? し、しかし御前様」
「構いません。子に寄り添うのは、母の役割でしょう」
――そうして、喜六郎は久しぶりに部屋を出た。その手を、女性に握られて。
汚れていると言った割りには。優しく、確と、握られたその手を、彼はじっと見つめていた。一体この人が誰なのか。喜六郎は未だ知らなかったけれど。それでも、この人に自分が救われたという事は。何となくわかった。
だから……彼は何も言わず、その手を少し握り返した。
その手は暖かくて。少し、凍り付いていたように動かなかった顔が。少し、動いて。笑えた気がしたのだ。
自分を連れ出してくれた彼女が、自分の母親である事を、喜六郎はその時知った。名前を、土田御前という。
曰く織田家の、武家の子として醜態を晒していた息子を諭しに来たのだ、と乳母は喜六郎に語った。とても子供思いの優しい方である、そうでなくては今の喜六郎の元へは来ないだろう、とも。
喜六郎は、自分が何かしらに取り憑かれている、と噂されて、多くの織田家の者から距離を置かれていた事を知った。
そして、そんな自分に母が会いに来てくれたのを、知った。
「喜六郎様、御前様に感謝せねばなりませんよ」
そう乳母には言われたが、そう言われずとも、彼は漠然と、母への感謝を胸に抱いていた。感謝、というには余りにも形をもたない、淡い物であったが。しかしそれ程形容するのも難しい、原始的な気持ちだったからこそ。彼の胸の奥、其処にそれは、刻まれた。
御前様のキャラを掴みかねて虚無る