失踪
信勝と、信長。
二人の織田家の姉弟の陣営の対立はあまりにも明確なれど……未だ、事は起きず。
即座に戦いを起こすかと思われていた信勝ではあるが、しかし。彼はある意味貪欲であった。より多くの戦力をかき集めながらも、姉とは表立って対立する事をしなかった。
故に、周囲の想像とは真逆。信勝は、未だ信長との決戦の火ぶたを切るどころか、むしろ大っぴらに彼女との友好を深める素振りすら見せるほどだ。
――信勝は、実に貪欲だった。
土田御前が集めた『不穏分子』だけでは満足しなかった。彼は、自分……織田信勝が当主である事を望む人間を徹底的に洗い出した。それは、将来の信長が抱える疵になりかねないのだ。今の内に処分しておくに越したことはない。
故に、更なる人材を集める、と称し自分の道ずれを多く用意し始めた。まともに戦わせるつもりなんぞ元から毛頭ないし、自分が策に嵌めて、姉に始末していただくつもりですらあった。
まぁ姉を相手にすればまともに戦っても先ず間違いなく自分達を打ち破ってもらえるだろうが、念には念を入れておくに越したことはない。こういう時は、姉に無駄な手間を取らせないのが弟としての役割だろう。
――しかし、それとは別に、大きな不安が、一つ。
「権六、まだ喜六郎の行方は分からないのか!!」
「申し訳ございません……何分、誰にも知らせる事も出来ず、少ない人手で探さざるを得ず芳しい成果は……」
「ええい、このでくの坊め。下がっていい!」
信勝が、秀隆を母との会合の場から追い払ったその次の日から、彼の姿が見当たらない事である。初めは権六が……と思い込んだ信勝は、彼の首を刎ねようとすらしたのだがしかし、信長の城にまでたどり着いた事を、幾人の武将が証言していたことから、間違って権六が始末してしまった、という線は消えた。
であれば、一体彼は何処へ行ったのか……姉の元を立ち去った後は、一向に行方が知れない秀隆を、信勝は勝家に命じて探し続けていた。だが、未だ芳しい報告は上がってきていない。
もっと人員を割きたい所ではあったが、しかし反旗を翻す、という大それた計画を立てている身の上で、流石に大っぴらに弟を探すのに人員も割けず、しかし探さないという選択肢はない以上……その結果として勝家にしか事を頼めないという事態になった。
「喜六郎、一体どこに行ったんだ……」
「信勝様、秀隆様の安否が気になるのは分かりますが」
「うるさい。喜六郎が居なくなったらどういう事になるかわかっていないのか」
秀隆は、土田御前の戦力の一翼として――獅子身中の虫として、だが――周りの諸将たちにも大きく顔を認識されていた。対信長戦ともなれば、勝家に次ぐ先鋒とすら目されていた彼が失踪したとなれば……こちら側はそれをどう見るのか。
「間違いなく姉上側が裏切り者として処断した……なんて言い出す奴が出てくる」
「……それは」
「もし僕たちの側の無能共がそれを信じてのぼせ上ってみろ。僕じゃもう止められないんだ。あの人が無責任に集めた奴らだ、我慢なんて利くわけがない」
「ずるずると開戦、等ということになれば……」
「もう計画もくそも無い」
信勝は、決して無能ではない。秀隆という存在の価値を理解している。大前提として秀隆への親愛の情はあるにしても、それに目が眩むような決してない。目が眩むとすれば姉である信長相手くらいだろう。
故に……秀隆の行方を探すのは、決して間違いではない。それでも全てを傾けるわけにもいかないのは分かっている故に、本当に際の所で探している。信勝の思う最高を注いでいるのにそれでも手ごたえ一つ無いことが……余計に彼をいら立たせていた。
「だから……喜六郎を探さないとダメだっていうのに……この無能が! 喜六郎をさっさと探さないとどうなると思っている! 命かけて探せ!」
「は、はっ! 申し訳ありません!」
正直にいえば、信勝は自らの足で探したいくらいなのだ。それを抑えて勝家に任せている。最早、信勝の腸は煮え滾る程だ。
「これでもし、喜六郎が大けがでもしててみろ……権六、生中な処罰じゃすまないぞ」
「ははーっ! 必ずや秀隆様を探し出します!」
眼前に跪く勝家に、したうち一つしながら信勝は、窓から外を見つめる。満月浮かぶ夜空を八つ当たり代わりに睨めつけ、ため息を吐く。
弟の安否と、計画のとん挫の可能性に、心を辛くもさせながら。
夜半の自室で。
「……」
信勝は、自分が姉のように、誰も想像できないような事が出来る人間だと思っていない。自分は凡庸な人間だと思っている。誰でもやれる事しか自分は出来ない。地味な事しか自分は出来ないと、そう思っている。
こうして政務に取り組む事に、心を落ち着かせるの等、その事をよく表している、と信勝は思っている。
単純な政務、単純な作業。そういうのに『落ち着き』……即ち、安心感を覚えてしまっているのは、それが分相応だとわかっているからだ。姉はこういった政務に『退屈』をずっと覚えていた。それは、この程度の事は、姉にとっては片手間に済ませられる事でしかないからだ。
もっと広く、もっと大きく。天下一つを手玉に取る様な策を。そういったものを練っている時、姉は実に楽しそうに笑っている。
「――喜六郎は」
そんな三人姉弟の中で。喜六郎は、どうだっただろうか、と信勝は考える。
別に姉の様に特別な展望を持っていた訳ではない。だが、秀隆には絵の才覚と、自分や姉以上の腕っぷしがあった。
自分とはまるで似ていない。姉の事を、『ごく普通の』姉として扱っていたのは、喜六郎くらいだろうと思う。
姉と対等な立場でも、展望を持っている訳でもないのに。でも、信勝がそれに苛立ちを覚えたことは一度もなかった。
喜六郎は、姉を馬鹿にしていたわけではない。
彼が見ていたのはあくまで姉当人だ。姉の才能も、夢見る未来も、まるで見ていなかった。彼女がどんなものが好きで、どんな絵が好みで……ともかく、姉個人しか見ていなかったのが秀隆という男だった。
「だからアイツには、何度姉上が凄いんだって言っても『そうですねぇ』くらいしか反応しなかったよなぁ」
……周りの人間と違う、という点では、姉以上だったかもしれない。他人の思想という物をまるで重視しない。幼い頃は個人だけをずっと見て生きていた気がする。武士として生きるようになって、ようやく多少は相手の才覚とか、どんな事をを考えるのかも意識するようになった、程度か。
それでも、基本的には姉の才覚を気にしたことは全くない。
姉の方が優れているから自分より相応しい、とかそういう事を言ったことは一度もなかった。信勝が当主には信長の方がふさわしい、と言っていたから、であればやる気がない人がやるよりは、程度の気持ちだった。
姉弟とは、姉弟として……出来る限り、そう振舞っていた。
とはいえ、公私を混同するような事はあまりなかったが。
「……」
信勝にとって、喜六郎は大切な弟だ。
幼い頃からずっと一緒にいて、自分と姉を、『きょうだい』としてずっと慕って来た。その距離感は、信勝にとっては得難いものだ。
武家の家の嫡男と、長女。才能の無い兄と、才覚にあふれた姉。男子として家を継がせる程に才覚にあふれた信長と、家を任せられない程度の能力しかない信勝。
比べられて、比べられて、そして決して並び立つことだけは許されない。そんな二人をただの『きょうだい』に戻してくれる存在が、喜六郎だった。
信勝は、喜六郎が描いてくれた姉の絵を姉自身に自慢して『なんだこいつ……』的な顔をされる事で、昔の距離を思い出すこともあった。
家族思いの弟。
それが、母を切るという覚悟を決めるのに、どれだけの苦悩を経たか。
信勝は、それを必要ないものだと思った。姉の価値にも気づかない無能が、弟の苦悩の原因になっているなど、そんなの許したくなかった。
であれば、姉のお役に立つついでに。弟を助けられたら。それは信勝にとってとても喜ばしい事だ。兄は弟を守るものだから。当然の事だ。
『わたしは……どうしたら……』
あの日、この世界に絶望したような顔を見た時。
弟という物は脆いものだと、信勝は思った。
だから、守ろうと思った。母を切った後、喜六郎がどうなるのか。それを想像もしたくなかったから。しかし……
「何処に行ったってんだよ」
その結果として、喜六郎は、消えた。
信勝は、それがどうしてかは分からない。でも、喜六郎には生き残ってほしいから、今でもこうして探している。
自分は居なくなるから。姉を支えてくれる弟を。
「――
「っ!?」
その時だった。真横から聞こえた落ち着いた声に、直ぐに顔を振り向かせた。そこに……いる。
ボロボロになった羽織と、そして……赤い布を首に巻き付けて。夜天に輝く満月を背後に背負いながら。
犬歯を見せつけるように、獰猛な笑みと、渦を巻くように揺らめく瞳に光を浮かべながら……
家族としての描写が今まで足りていたかどうか分からず虚無る