それが、一瞬。弟かどうか……信勝は自信が持てなかった。
大人しい方だった。いつだって表情をはっきり表に出す、そんな人間ではなかった。しかしながら、目の前の男は、違う。
ヒトを圧倒するような、ギラギラとした、自信と熱意にあふれた表情をしていた。表情に脂が乗っている。活力が、口の端からあふれ出して来ているような気すらしていた。
「喜六郎、か?」
「全く、幼名で呼ぶのはおやめください、とあれほど申していますのに……まぁいいですけれども。入ってよろしいでしょうか。お話があり、お伺いしました」
「あ、あぁ……わかった」
「では、失礼して」
一言で表すならばいつもよりも『力強かった』と言えばいいだろう。笑う口の端から覗く、ぬめった輝きを見せつける歯も、こちらを見つめる目の力強さも、真正面から、目の前の人間を丸のみにするような圧力となって、それを肌に感じざるを得ない。
骨格が変わったわけでもない。だというのに、以前よりも一回り程、体つきが大きくなったようにすら感じてしまう。
されども、まるで別人かと勘違いするかのようなその迫力に、信勝は、どうしても眉を顰めざるを得ず……しかしながら。話がある、というのであれば、それを拒む事はしない。別人ではないのだから。
「よ……っと」
……異様なのは、その雰囲気だけではない。
彼が羽織っている上着の、腹のあたり。そこが、どす黒い赤に染まっている。まるでそこから溢れだしたものが、そこを染め上げたかのように。
何もかもが、以前の喜六郎とは違う……少し身構えながらも、とりあえず、彼の座った目の前に、自分も腰を下ろした。
「……それで、なんだ。話って」
「そう難しい事ではありませんよ。一つ、ご挨拶に伺っただけです……これと共に」
そういって、先ず秀隆が信勝の目の前に差し出したのは、一枚絵。そこに描かれていたのは……実に、艶やかで、しかしながら、格好良い女性の姿。
片目を隠すほどの長い髪と不敵な表情、肌に張り付くような奇妙な服と、そして大きく広がる派手で外連味に溢れた……蓑、とは大きく違う、ばさりと広がった大布。
そして、周りに燃え立つ、焔。
信勝はこの人物を見たことがない。だが……この絵の構図は、脳裏に嘗ての光景を思い出させた。
「これって、姉上……か?」
そう。焔の中心で、不敵な笑みを浮かべ、そして座すその姿は、正にかつて、秀隆が描いた信長の一枚。信勝が、秀隆に頼んで描かせたあの一枚。忘れる訳がない。大きく変わっているがしかし、本質は変わっていないような気がする
「えぇ。久方ぶりに描き上げました所、私の思った以上の会心の出来になりましたので。せっかくなので兄上に、と」
「そ、そうか」
そう口にする秀隆を、信勝は改めて見つめ直す。
これを描くために失踪していたのか。と、口にしようと思ったが、しかし、それをすんでの所で堪える。そんな訳がないのは、流石に分かっているだろうと。
今の秀隆に、信勝は得体の知れなさを感じている。昔の、絵を楽しんでいた頃の秀隆のようで、しかしその時とは明確に違う、この異様な雰囲気。
それを聞き出したかった。
「……なぁ、喜六郎」
「はい」
「今まで、何処で、何をしてたんだ?」
「少しばかり、準備をば、しておりました」
「準備?」
「えぇ。準備でございます。やりたい事が出来ましたので。その下準備を……話というのはその事でございますれば、手間が省けましたな」
はっはっはっはっ。
秀隆の笑い声が、堂々と部屋の中に響き渡る。
あまりにも快活で、そしてあっけらかんとしていて。先日までの様子とはまるで違う。
母を切ろうとしていた時の、鬼気迫る表情とはまるで違う……肩の荷を下ろして、軽くなったその軽さを、楽しんでいるかのような。そんな気軽さがある。
「……」
「おっと、これは失礼。喧しかったですかな? いやはや、ここまで大口開けてわらったのも、割となかったもので。慣れませんなぁ」
「……下準備って、何のための下準備なんだ」
「ああいえ。ちょっとした独立の準備でございますよ」
――そんな気軽さで言われたものだから、一瞬聞き間違えたのかと思った。
「えっ、ど、独立?」
「はい。あ、とはいえ、姉上に反旗を翻すつもりは全くございませんよ。そこはご安心いただければ。私もそこまで恩知らずではありません」
「あ、は? え? あ、そ、そう、なのか……?」
一瞬、信じられない事を言われたような気がしたのだが、さらにその直後に言われた事で、心がぐらっぐらに揺らぐ。独立、という言葉が、今、信勝が置かれている現状では欠片も洒落にならない響きをもっているのを、目の前の男が理解していない訳がない。
それを、まるで気軽に口にするのだから、信勝だとて一瞬弟の正気を疑いそうにもなるが……しかし、それをまるで気にしている様子もない。
「えぇ。独立とは読んで字の如く。我が身一つで、戦国の世に立ってみたく思いまして」
「そ、そうか。えっと……姉上に、報告とかは?」
「ああ、それはこれからするつもりです。流石にしないまま出奔というのも、些かに不義理ですから」
とはいえ、出奔という言葉を気軽に口にしているのも中々の話だ。家に仕え、そして当主の為に忠義を捧げるのが武士の本業、誉であれば、出奔という言葉には、相当に重い意味がのしかかってくる。
「あ、姉上に不満があるのか?」
「そのような。私にとっては自慢の姉上です。むしろ、お仕えしてその覇業をお支え出来るなら、それは私にとっては幸せですとも」
「じ……じゃあ、なんで出ていくなんて!!」
事ここに至って、ようやく信勝も気持ちが追いついて来た。
急に出奔する、等と。無責任にもほどがあるのではないか、と感情が爆発した。その感情のままに、ついにがなり立ててしまったが、しかし秀隆は飄々とした態度を崩したりもしないまま。
目の前の秀隆の様子が、あまりにも落ち着行き過ぎているのが、信勝にとっては違和感でしかないのだ。失踪なんてして、出奔なんて言い出して。あまりにも無責任な事を言っているというのに。申し訳なさも浮かべない。
信勝の知っている真面目さは、何処かへ行ってしまった様に。
「しかし、やりたい事が出来てしまったのでしかたないのですよ。いや、本当に」
信勝の剣幕など気にも留めず。彼は信勝から目を逸らさず、ニヤリと笑いすら返す。
「なんだよっ! そのやりたい事って!」
「――この世界というのはね、兄上、どうにも……不条理なものですなぁ」
気にも留めていない……というよりは。焦っている幼子を見ているように、暖かく見守っているようだ。だからなのか、彼は、信勝の目から、目を逸らさない。ずっとずっと信勝を見つめている。
「皆が誰かを自分なりに愛して、しかしながらその結果争いは止まらぬ」
「……何の話だ」
「今の話です。人の愛という物の、今の形の話をしておるのです。ここ最近、私はソレを嫌というほど思い知りましてねぇ。いやぁ、まこと、この世は、地獄、修羅の巷!!」
「だから、それがお前のやりたい事に、関係してるっていうのか!」
「大いに! 兄上が、姉上と争い、母上が姉上を殺そうとし……姉上が兄上の頼みで当人の命を諦める! そんなものを私が許すつもりはない!」
互いに言葉を交わし、信勝は怒りと戸惑いで言葉を吐き出す。しかしながら……目の前の秀隆は、そんな剣幕に全く揺らぐどころか。笑顔すら浮かべて、此方を見つめ。
「だから――殺さなくていいようにしようかと思います、はい」
「っ」
そこで気が付いた。
自分を見つめ直すその瞳の奥底に、翡翠の光が揺れている。まるで湖面の揺れに光が形を如何様にでも変えているかのように。
けれども。瞳の奥に差し込む様な翡翠色の輝きは何処にもなく。
そして揺れる、というよりも。まるで、それは、蠢いているかのような。
まるでその形は……二つ角の大鬼を、形どったような――
ギ ロ リ
その何かに、睨まれた、気がして。
一瞬、一歩、下がりそうになって。
「……殺さなくて、良いように?」
「えぇえぇ。後は私にお任せいただければ。織田家も、兄上も、姉上も、母上も、勝家殿も皆、皆、皆、私が悪いようには致しませぬ。それだけを、お伝えしようと」
そこに付け込むかのようにずい、と一歩前に進み出る秀隆に……信勝は、なんとか引かなかった。秀隆の目を見返して、口を開いた。
「出来るもんか。僕の弟の癖に、そんな事。僕に任せておけばいいって言っただろ」
「確かにあの時は無理だったかもしれませんが……今は、酷く体の調子が良くて。やれる気がするのですよ。未熟者の、弟でも」
互いに鼻を突き合わせる様な距離で。
呼吸が聞こえるような距離で。
信勝の様子は、寧ろ秀隆にとって想像通りだったのか。彼はむしろ、その笑みをより深くそして、より迫力のあるものに。
威嚇するかのように歯を見せて、瞳の内は開き切り。信勝を見ている。
威圧する、というよりは……心の内から、感情が溢れだしている様な。そんな。
「大体、お前をこのまま返すわけないだろう。人を呼んでやる」
「それは困りますなぁ。姉上の前に引きずり出されてお説教など、とてもとても」
「うるさい。黙って兄貴に従え、喜六郎」
「そうは参りません――今宵は、これにてっ!!」
直後、秀隆が視界から消える。否、後ろに向かって思い切り飛び下がったのだ。その動きに信勝の目では追いつけていないのだ。
驚いた。胡坐をかいたあの姿勢から、ほとんど大きな動きを見せる事もなく、しかも後ろに向かって跳躍し……もう既に部屋の外に堂々と仁王立ちしている。人間の動きではない。猿の化け物かと見紛うほどだ
しかし、驚いて口を開いている暇はない。急いで追いかけた信勝はその先で……見た。
庭の木の枯れ枝、そこに片足でひょいと立つ秀隆の姿を。
「な――」
あははははははは あはははははははっ
両手を大きく広げて、天を仰いだ秀隆の哄笑が、満月の元に鳴り響く。
「それでは兄上、何れ私の夢の舞台にて! その時は見せましょう、私の夢の果てを!」
そして、もう一度。ぴょい、と軽く……高く、高く跳躍し、塀の向こうへと秀隆は消えていく。
狐に化かされているのか、と思い、とっさに指先を、かみちぎった。血の味と、痛みが確かに信勝の頭に響く。
夢でも、幻でもない。
何かが、水面下で動き始めている。
喜六郎が何かを起こそうとしている。
ぎり、と歯を食いしばってから、踵を返す。急がねばならない。勝家を使者として向かわせてから……姉の、信長の元へと。
秀隆の異変。解決できるとすれば、信長以外に、信勝には思い浮かばなかった。
ちょっとゲッター原作的なシーンを書いてみたかったけどうまくいったか分からなくて虚無る。