様々な軋轢があるのは、信勝とて分かっていた。
しかしながら、それでも尚、彼の来訪から一晩も、姉との会話の機会を待たねばならなかったのは、信勝にとっては凄まじい苛立ちを覚えざるを得なかったのだ。
繰り返すが、二人の立場を考えれば、これでも早かった方だろう。信勝の速攻の動きと、信長の即断即決があってこその電撃的な会談である。
当然、双方の陣営から見れば、すわ何事かという話だ。
特に信勝側からしてみれば、開戦の合図かと勘違いされかねない程の。
しかし此度の会談は、そんな雷の如き速度であっても、信勝にとってはそれでも遅いと言わざると得ない事だったのだ。真に私的な話であっても……信勝にとっては家の一大事にも匹敵する程の出来事だったから。
「――失礼いたします! 姉上!」
故に。
姉の部屋、そこへと向かう足取りは荒く、兎も角急く気持ちに任せたものになり。無礼と謗られても文句をいう事は出来ない事を承知で、それでも彼は部屋へと乗り込んだのである。
そんな信勝に、くるりと胡坐のまま振り向いたその顔は、への字口。一見しても、あまり機嫌がよさそうには思えない。
反旗を翻そうという側の頭と、現体制の当主。それがこうして当主の自室で顔を突き合わせる。それが、いわば敵対している者同士の腹の探り合いとも取られかねない行為であるのである。そこに、一見して喧嘩腰と取られかねない程の剣幕の信勝が乗り込んだ。
そんな表情をされても仕方ない、むしろ当然だとは思う。
「火急の要件故、無礼とはわかっていますが……申し訳ありません」
「貴様が、俺に対して、無礼と分かっていながら、か」
だが。
それでも――と、信勝は躊躇わずに踏み込んだ。
「なるほど。それ程の事態という事だな。良い、話してみろ、信勝」
「はっ、ありがとうございます! 先ず――」
信勝は、迂遠な表現など使わず、率直に起きた事を告げた。
行方不明の秀隆が突如として、自分の元へ戻ってきたこと。その秀隆が……異常な様子だったこと。そして彼が告げた、『舞台』や『夢の果て』等の、不穏な言葉の数々。
出来る限り率直に、自分の見たままを。
信長は、信勝が出来るだけ正確に伝えようとするその言葉を、黙って、聞いていた。
への字口を、少しずつ。正しながら。
「……なるほどのう。人間の動きではなかった、か」
「はい。以前の秀隆とは、全く別人の動きでした」
「幻を見たわけではないと?」
「僕しか見てませんでしたけど……ですが、アレは、幻なんかじゃありません。本物の秀隆でした」
「ふむ……」
そして最後には、真剣な顔になって信勝の話を聞き終えた後……信長は、ゆっくりと立ち上がって信勝に背を向けた。
「姉上。秀隆の様子、尋常なものではありません……」
「行方を捜すのに、力を貸せ、と?」
「……利が、無い訳でもありません。ですけど、それ以上に、心配なんです。喜六郎の様子が。全然、今までの喜六郎と、あまりにも違って」
この様な事を、姉に頼んだ事は、信勝にはない。
自分の様な男が姉に頼み事、等という大それた真似を出来るわけがない。ずっとそう思って生きてきた。ずっとだ。
だが最早そのような私情を優先するべきではない、と思った。初めての事だ。弟の為に信勝は、姉の目の前に立って、姉に言葉を尽くしていて、頼んでいる。信勝にとってあの秀隆の変わりようは、それ程の衝撃だった。
穏やかな雰囲気で、頑張って絵を描いていた何時もの姿から、ああして何者をも飲み込むような迫力を身にまとい、そして軽々と枯れ枝の上まで跳ね、そして容易にその上に立つ異常な身体能力を見せる。
あの変わりようは異常だ。何者かに取り憑かれた、と言われても決しておかしな話だとは思わないだろう。
「姉上……」
「ふむ」
しばしの間、無言の時間が続く。
現状、自分の言が聞き入れられる等、先ず無理な話だという事は分かっている。
反乱の一件。姉に報告していることもあって、気を張っている所だというのに、それに加えて秀隆の事など……自分でどうにかしろ、と言われても全く不思議ではない。普通に考えれば、そういう事だ。
だがそれでも今回の一件。だから、放っておく。それでは、駄目な気がする。このまま放っておけば……何か、取り返しのつかない事になると、そう思ったのだ。
「……そんな不安そうな顔をするな。探さないとは言うておらんだろう」
「えっ?」
「お主が思うておるよりも、この一件は実に面倒な事になっている。秀隆がそちら側の人間であるとか、そういう事だけではない。まぁ、理由はある」
「それって……」
「秀隆の行方は探すという事だ。とはいえあまり人員は裂けんがな」
――あまりにあっさりだった。
信勝としては、正直断られる可能性もあると思っていた。いかに弟とはいえ、秀隆が一家臣である事は間違いなく。当主の立場もある。出奔する等と言った、たった一人の家臣を探すのに、どうしてそう簡単に首を振れるだろうか。
それが、こんなにあっさりと。
「あ、ありがとうございます! 姉上!」
「……とりあえず今は下がれ。探すにしても、今からという訳にもいかんだろうしな」
良かった。
手に籠っていた力が、すぅっと抜けていくのが分かる。自分だけでは、今の秀隆を連れ戻す自信がなかった。
だが、姉が居るなら百人力どころか、万人、文字通り一軍が味方に付いたかのような力がある。とてつもなく心強い。
姉上を味方につけると気が大きくなるのは、些かと小物臭い気がしないでもないけれども、等と、自分でも思うが。
「全く……喜六郎の奴、変に驚かせて……でも、もうこれで大きな顔はさせないぞ」
「……」
「直ぐに連れ戻してやるから、覚悟しろよ!」
意気揚々と出て行った信勝を見送ってから、信長は一つ溜息をついた。
それから……自室の窓に、視線を向け直した。
「んで。どういう気分だ。自分自身の話を目の前でされて」
「想定通りではあったので別に。とはいえ、異常だとか言われるのは些か以上に悲しくはありますが。私、そんなおかしな事になってますかねぇ」
開いた窓より、ぬるり、足から入ってくるその影は……誰あろう、弟とここで話していた件の人物、秀隆である。ずっと屋根の上で、話が終わるのを待っていたのだろう。
彼が、ここに何時からいたか、と言えば。
「なっとるな。ちょいと前までは若武者、今は落ち武者の亡霊ではないか」
「ちょおっと心外すぎますが……」
「それに、俺の自室に、一切何者にも気取らせず入り込むとか、まぁ随分だぞ。警備って何か知っておるか?」
「それは警備の皆様がしっかりとしていないのが問題かと」
初めから。
信勝がここに現れる直前。秀隆は、突如としてこの部屋に入り込んできた。それも、風を入れるために開けていた窓に、いつの間にか腰かけてながら、信長に語り掛けたのだ。
今から兄上が来るので、きちんと話を聞いてあげてください、と。
自分で説明するよりも、信勝にそのままを説明させた方が手っ取り早いと思ったのか。それとも別の思惑があったのか。ともかく、目の前の弟は、カラカラ笑いながら、改めて部屋の中に降り立った。
「いやはや、それにしても姉弟仲良い事は、良き哉、良き哉」
「茶化すな。お主、一体何に魅入られた」
「――」
その様子に、信長は一切動じない。信勝に言われた通りの姿であるからか? それもあるが根本的な部分は違う。信長には、ある一つの心当たりがあった。
秀隆の今の目は、そこに宿る翠の輝きは……信長には、見覚えがある。
彼は昔から、時折空を睨んで周りが見えなくなる時がある。
その時、彼は空模様ではなく全く別のモノを睨んでいたらしいのは、信長も薄々ではあるが気づいてはいた。
今の彼の目に宿っている、翠の輝きは……その時のモノだ。
天の彼方を睨みつける、その時、ちら、と秀隆の目に一瞬、輝いていたその光だ。
「……誤魔化せませんなぁ。くくくくくっ」
「否定はせんのか。魅入られているというのは」
「えぇ。いつもそれくらいの心構えでいなければ飲み込まれますから。考える事、心を強く保つ事、自覚することは増えました」
それは到底、魅入られた者の口ぶりではない。
本当に魅入られた者は、それを口にしないものだ。自分が何をしているのか、わからない者すら多い。それこそ、自らの思考を停止させる。
しかし……秀隆は、どうやらそうではないようだ。
信勝の言う通り。その目には確かに『理性』という物があった。翠の光と共存するように揺らめく、確かな理性の輝きが。
「姉上。私はね、別に姉上たちと敵対するつもりもないのですよ。それは誠にそうです」
「出奔して独立する弟がそのような異様な雰囲気を漂わせながら『夢の果て』とか言い出さねば、信じてやってもいいのだがな?」
「くくっ、これは手厳しい。しかし、争う必要もない相手と、どうやって戦えと」
「……何をしようとしている?」
「変革を。我が身に宿った……否、我が身そのものとなった、この力によって」
その光を宿したままに。
熱に浮かされたようでもなく。何かに背を追われ焦るようでもなく。現実から目を逸らして理想ばかりに目を焦がしているようでもなく。
信長の目を、真正面から真っすぐに、見つめて。
「身の丈に余る力ではあります。しかしながら、そうでもしなければ変えられぬものもありますので」
「自分で言うか。身の丈に合わぬと。であればやめておけよ」
「いやです」
厄介だと思う。こういう手合いが一番。
自分の身の丈に合わぬ、というが。力など皆初めはそんなものだ。その力をどうやって使いこなすかは、先ずそれが『自分の身の丈に合っていない』と自覚する所から始める
その点、目の前の弟は、自分に宿る力を正確に測りきっているように見える。
身の丈に合わぬ、得体の知れぬモノ。されど、それでも目的の為にはためらいなく踏み込んで使う。
「私はね、姉上。許せないのですよ」
「何をだ?」
「時代が」
「時代だと?」
「えぇ。誰かへの思い……それは、忠義であり、家族愛であり、この世全体への憂いでもある。その結果として、一体どれだけの人が、これから死ぬというのか。これから時代はさらに加速する」
そして――何よりも。
「そのきっかけは、貴女だ。姉上」
「――俺だと?」
「そう。私はソレを望まない。だから――決めたのです」
信長には、何となくわかるのだ。
今目の前で、地球儀をそっと撫でる男。この男が……
「この、世界を。
自分より、数段『先』の未来を見ている事が。
ノッブの高度過ぎる思考をトレースなんて出来なくて虚無る。
若干修正しました。