酷く。のんびりとしていた。
ここ暫く、ずっと自分たちを振り回していた自覚がないかのように。それこそ……まるで自分が絵を頼むために来た時のように。履いている小袴をちょいちょい、と治す仕草などまるで緊張感の欠片も無い。
そのくせ――その目ばかりは、ぐるぐるキラキラとして、清川の、楽し気に渦巻く底なしの渦の如くだ。
「――喜六郎」
それが、気に入らなかった。
こちらがどれだけ心配したというのか――どれだけ気にしていたというのか。分かっていない様にしか見えない、寧ろ、そんな事を気にしない程に、楽しそうにしか見えないから。故に。
信勝は、信長を差し置いてでも、一歩前に出た。
「ははは。兄上、どうなされたのですが、そのように顔を顰めて。久しぶりに姉弟揃って話すのですから、もっと! にこやかにですね」
「出来る訳ないだろ」
少し、語気を強めたのは、態とだった。当然と言えば当然だ。
自分がどんな気持ちで姉上に意見したと思っている。結構怖かったのだぞ。そもそも自分が姉上に逆らうなんて許される事じゃないのに。それでも、頑張ったのだ。それを知らないでそんな笑っていられるなんて。
そんな、何処か小さい……というか、こまい、恨みを込めての八つ当たりじみた言葉を吐いている。
とはいえ。恨みだけではなく。正直ほっとして、気が抜けてしまって。喋る余裕を取り戻せたから、口から憎まれ口が零れてしまった、というのもある。詰まっていたものが溢れだしてくるように。
「こっちは腰抜かしそうになったんだぞ! 勝手に出ていくって、戻って来たと思ったら様子が可笑しくなって、変な奴らを連れ歩くようになって。なんだよ、あの白いの!」
「何と言われても。此方の……まぁ、分かりやすく言えば『味方』ですかね」
「んな事は分かってるんだよ!」
「でしょうね」
「お前なぁ?!」
「あははは。すみませんすみません、冗談ですよ」
だからか。もうちょっと、弟を詰めて、真剣な話をするつもりだったのに。どうにも締まらない。まるで、何時もの様に話してしまう。
自分も、喜六郎も。もしここに菓子と茶でもあったなら。二人して、何時ものように絵の相談でもしそうなくらいに――しかし、それでも。喜六郎との距離は余りにも遠い。
錯覚なのだ。
今は、そうは出来ない。彼を此方へと、織田家の元へと戻さなければ、結局は。でも別に難しい事じゃない。誰の禍根を買った訳でも無い、今なら。
もう長くはないけれど。その間だけでも、弟と静かに過ごせれば――
「――喜六郎」
「はい」
「帰ってこい、変な奴らと付き合うのもやめて」
そして、勢いで、そう続けた。言いたい事を言った。
別に。信勝は喜六郎と争いたかったわけじゃないから。
弟が変貌したのが心配だっただけで。姉に相談したのだって、喜六郎が可笑しくなったのを自分でどうにか出来るとは思わなかったから。
その結果、事態がとんでもなく大きくなりかけたけれども……それだって、結局は大きな事にならず、こうして姉と一緒に、喜六郎の前に立っているのだから。だからそうならなかったことを、これ以上は考えない。
だから、言う事は変わらない。
兄として。弟に。
そのつもりで、言いたい事を言った。それ以外にはない。寧ろ、それしか言っちゃいけないと思った。余計な事は言わなかった。
そうじゃないと、自分の本気の言葉は届かないと思ったから。
「……それだけですか?」
「それだけってなんだよ。それ以外に必要か?」
信勝にとっては、それがここに来た理由の全てで。実に真剣に言っているつもりだったのだけれども。
喜六郎は……それを聞いて、何とも言えない。苦笑、と辛うじて呼べるような、そんな笑い方をした。どんな表情だお前それ、と信勝が言いたくなるような面だった。
「――はぁ。いやはや、事ここに至って、それとは。やはりここでお二人を招いたのは間違いではありませんでしたなぁ。姉上」
「こういう所は好ましいと思うが、俺。ここまで突き抜けてると逆に大物だよこいつは」
「姉上からそのような言葉が出るのも驚きですが。ま、やっぱりそうですよね。このお二人が揃ったら厄介極まりないですよね」
はぁー、とため息を吐く喜六郎だが、ため息を吐きたいのは此方である。自分の言葉に否とも応とも言っていないで、勝手に姉上と話しだしているのだから、少しくらいこっちに何か喋れ。
とか、色々言おうとした信勝に対し……喜六郎は、掌を突き出して、その機先を制すようにしてから口を開いた。苦笑から、半ば呆れのようなそれに、浮かべた色をゆるりと変えながらも。
「分かってますよ。戻るか戻らないか、の話でしょう。というかそもそも兄上、私、こんな状況なんですよ? 本当に、よく言えましたよね、そんな事」
「こんな状況って。お前、まだ何にもしてない癖に、口先だけで色々言ったって、誤魔化されないぞ」
「……全く、私って、徹底的に情けない弟扱いなんですね」
それはそうだ。
信勝にとって、喜六郎はいつだって自分の下の弟で。それ以外の何者でもない。
「いいでしょう。取り敢えず改めて、状況を私の口から説明させていただきましょうと思います。構いませんね? 姉上」
「――良いぞ」
「はい。では――兄上」
だが、それを聞いて、寧ろ喜六郎は、不機嫌そうになっていくばかりだ。不機嫌、というよりは……困っている、という方が近いか。頭をガリガリと掻きながら、此方を見つめるその表情は、まるで人の親の如くだ。
なんでそんな顔で見られなけりゃいけないのか、と寧ろ不満は、此方が露にしたかったほどなのだが。そんな此方の事情など知らないだろう喜六郎は、話し始めるまで、少しばかり間を開けた。
「兄上。そもそも、この状況で私がそう簡単に戻れると思いますか?」
「当たり前だろ。お前はただ家から出ていって、妙な奴らとつるんでいるだけだ。出奔したのは、そりゃあ、色々マズいかもしれないけど」
「いや出奔だけですか? 私、ただ出奔されただけだと思われてる? いやー、おかしいな前に会った時、色々言ったんだけどなぁ……?」
それは、覚えている。
色々と言っていた言葉も、一言一句。だがそれが今、何の関係があるというのだ。
「――ではまず、前提から。私は家から出ていったのは……どうしてだと思います?」
「知るか。僕に分かる訳ないだろ。姉上じゃないんだから」
「……まぁ、でしょうな。兄上ならそう言うか。では、質問を変えましょうか。では私がどうして織田家に戻れると思ったんですか?」
「戻れる戻れないじゃない。戻すんだ。お前を」
彼は、自分の、弟だ。
織田家の家族だ。ずっと一緒に過ごしてきた大切な弟だ。自分と姉の近くに彼が居ないのはおかしいから。だから、連れ戻す。
信勝にとって、戻す理由なんてそんな大層な物じゃなくていい。『弟だから』で十分。
無能共を納得させる『いい訳』なんて幾らでも用意できるから。別に難しい事なんかじゃないし。
「……戻りません、戻れませんよ」
喜六郎は。しかし、その答えに――睨みつけるかのように目を見開き、否と返す。
瞳の奥から、突き刺す様な視線に、一瞬言葉に詰まりそうになって。それでも……何とか、口を開いた。
「なん、でだ」
「だって。このまま、なんて可笑しいじゃないですか。我々は、決して特別でも何でもない、ただの人で。普通に愛すればいいだけの話なのに。このままいけば、兄上は姉上の手で――」
その先を、喜六郎は、口にしない。ガツガツと、片足で地団太を踏んで、酷く苛立っている様に見える。しかし、額に手を当てて、天井を仰ぐ姿は、まるでどうすれば良いか、途方に暮れているようにも見えた。
しかし、唐突にその動きは止まって……だらり、と顔に当てられていた手が下りる。
下りた手の奥から覗いた顔は、歯をむき出しにして、大口を開けて、秀隆は笑顔を浮かべ。
「えぇだから、だから変えないといけない。我々の様な事が、当然のように、当たり前のように起こっているんですよ? この広い広い世界で……おかしいじゃあないですか」
「な、何の話をしてるんだよ」
「理由の話ですよ。誰かの愛で誰かが死ぬ。そんな世界は、間違ってる」
ざわり、と肌が泡立つ。
静かで、低い……けれど、燃えるような感情によって、震える声だった。
「変えなければならない。姉上も、兄上も、母上も……日ノ本の民も、外の世界の如何なる人も。誰かを純粋に愛して、愛される。そうなるように」
言っていた。そう言えば。様子の可笑しくなった喜六郎が自分の元へ来た時も、似たような事を、楽しげに言っていた。自分が、母を。姉が、自分を。殺さなくていいようにする。そうする。と。
変える。
彼は、何度もそう言っていた。それは、軽々しく口にされた言葉だったのか?
――事ここに至り、信勝は、始めてその言葉を、改めて考えた。
殺さなくていいようにする、とはどういう意味だ?
多くの家臣を説得するとか。姉の事を母に認めさせるとか。自分が道ずれに家臣を殺そうとしているのを阻止するとか。その何れとも違う別の考えを持っているだとか。
そういう事だと思っていた。その為に家を出たと、そう思っていたのだ。
そんな事をやらなくていい、と止めたその直後だったから。余計にムキになったというのは、確かにある。だが。
それ以上に、出来をしない事を無理矢理為そうとして…… 大変な事になるのではないかという心配は、あった。自ら滅びるような道だって躊躇なく選んで。その結果、もう本当に『家族の問題』では済まない所まで行ってしまうのではないか。
そう思って、ここまで来ていた。
だがしかし――前提から、違っていたとすれば?
喜六郎が言っている『変える』というのは、一体、何の話なのだ?
信勝は、分からない。まるで――隣の姉の野望を聞いている時のような、そんな感覚だった。信勝には、思い至らない。
「……変える」
「そうですよ」
「何をだ?」
「――そうですね。例えば……兄上」
不意に、こちらと喜六郎の視線がかち合う。
まるで吸い込まれそうな渦の如き瞳。だというのに、何処までも透き通って見える、不思議なその瞳。気が狂っているように見えて、でもやはり、何時もの秀隆の瞳の様にも見えている。
何方なのか、察する事が難しい。
しかしながら、『曲がる』という事をしない目だという事だけは、分かった。
「……なんだよ」
「人は『飢え』に耐えかねれば一揆を起こす。当たり前です。飢えで死ぬのはいやでしょうからね。では、それをどうすれば解決できるでしょう?」
意外な事に。
そんな彼が問うてきたのは、なんとも平凡な問いだった。
一揆を防ぐのは、土地を収める大名家として当然の行いだ。それを『どうすればいいでしょうか』等と言えるわけがない。
「色々あるだろ、例えば……あんまり、搾り取り過ぎないとか」
「ふむふむ成程。うむ、実に分かりやすく、そして正しい。流石は兄上」
馬鹿にしているのか。と言おうと思ったがしかし。その言葉は、此方から欠片も視線を逸らさない秀隆の姿に、黙殺されてしまう。
此方をずっと覗き込む秀隆の視線は……ずっと、真剣そのもので。寧ろ、下手な事を言えばこちらが、恥をかきそうな。そんな予感がする。
しかし。
「では、私の回答を――『飢え無い様にする』」
「……それは、回答じゃなくて、結果じゃないか」
「いいえ? 兄上。人間が『飢え無く』なる」
「食物を必要としなくなれば、良いのではないかと思うのですよ」
飛んできたのは、そんな予感を遥かに超える……否、下回る、まるで子供のような答えだった。揶揄っているのか。こっちは真剣に答えたというのに。色々な苛立ちが口を突いて出ようとしてくる。
「お前な、ふざけているのか。人は腹が減ったら――」
「飢えて死ぬ。それは当然。しかし……それは、今の『人』の形に過ぎません」
だが。
彼の笑顔に、その先の言葉は封殺された。
「人の形を、変えれば宜しい」
「……何を言ってるんだお前」
「例えば、木や果実は、飯を食わずとも、雨と日があれば大きく育つ。人もそのようにすればいいではないですか」
「そ、そんな事、出来るわけ――」
「だから、そのように人を『変える』のですよ。例えば、ね」
喜六郎は、此方を見ている。
じっと見ている。一歩も目を逸らさない。
だからこそ……彼の言葉に、少しゾッとした。
そんな事出来る訳ない、だとか。そんな言い訳をしているのではなく。秀隆は人を『そうする』と言っている。本気で言っている。出来ると言っているのだ。
人とというモノを、姿形が同じだけの、全く別の何かに変えてしまうという事を。喜六郎は、今、口にした。
「……か、変える、って」
「信じられないかもしれませんがねぇ。いえ、信じてもらわなくてもいいです。私が実際に成せばいいだけの話ですから」
「人を、変えれば、いい話ですから」
目の前で、喜六郎は――
ただ。先ほどよりも。
裂けるように。
獣のように。
怒っているように。
口を大きく開いて。顔中をしわくちゃにした。
ぐるぐると渦巻く信勝の背筋が、冷えるほど。
とても綺麗で、凶暴な。満面の笑顔だった。今すぐにもこちらに笑いながらかみついてきそうな。そんな笑い方だった。
心の底から浮かんできた、とてもはっきりとした笑い方だった。
「人の在り方を」
燃えるようで。輝くようで。そして、呪われているようで。その笑顔を見て、秀隆が与太話をしている、等と思えるような者はいない。
あの笑顔に、何かを奪われる様な気がした。足元から、何かが這い回ってきて、体の中身を、少しずつ吸い出されていっている。自分の中から、大切な何かが引きずり出されて行って。
薄っぺらい、張り付けたような笑顔などではない。自分の思いを滾らせ、そして湧き上がってきたものを、此方に叩きつけるような。
そんな、弟の『熱』をそのまま形にしたような表情。
ここで。信勝は、始めて分かった。
「そして人という種そのものを……私が気に入らない全てを、ぶっ潰して、壊して、変える。その為の力。その為の今、ですよ」
喜六郎は――否、秀隆はここで『勝負』をしに来たのだ。
謀反をしに来たのではない。
裏切りを働こうなんてしていない。
そもそもそんな小さな話をしていない。
信勝には、今の言葉を聞いて。それでも尚。秀隆がどんな事をしようとしているか、いまいち、分からない。
ただ――自分では到底分からない程に、大きな、大きな、大きな勝負を仕掛けようとしている事だけは、分かった。今、自分と、姉の前で。
自分の中の、『当たり前』が崩れてしまう、そんな大きな。大きな勝負を。
「人を『進化』させる。愛ゆえの苦しみも、悲しみも、痛みも、皆全てが、何もかも自らの手で振り切って、互いを愛し、希望を以て、生きる。そんな無限の可能性の果てにある輝かしい命に――!!」
のぼせ上がっている。そんな訳がない。今、秀隆はどれだけ必死な顔をしているのだろうか。
何か、大きなモノを、背負っている。
自分とはまるで、大きさの違う何かを、今、弟は軽々とその背に背負っている。
大地よりも尚、巨大で、巨大で、大きさが想像もできない程の何かが。
今、弟の背中から覗いている。此方を。見ている、目が合っている。見える、見えてしまった――!!
真っ赤な。真っ赤な影だ。
洞窟一杯広がる様な、大きな影だ。翠の光を纏った、巨大な影だ。紅葉の様な形の頭をした人型が、秀隆の後ろから、此方を覗き込んでいる。
陽炎の様に儚げに揺らいでいるのに、しかし目が離せない。寧ろ、此方が気圧されてしまう。影から立ち上る光が、この洞窟全体に満たされていく。
ただの幻覚か。一瞬、そう思った。自分が秀隆に気圧されたから見た、幻覚。
しかし……違う気がした。あの赤い影は、秀隆の後ろから……まるで、秀隆の体に絡みつくように、その姿を、絡ませていっているではないか。まるで、影そのものが生きているかのように。
「う」
睨みつけられている。赤い影に。何も考えられないまま、此方にまで、赤い影は伸びてきて……取り囲まれて。
目から、耳から、口から。自分の奥底をへと入り込んでくる。
自分の体の奥から、手足の先まで。まんべんなく根を張ろうとしてくる。
ずるずるずるずるずるずるずるずる
そんな音が聞こえて来る。
自分の中に、何か自分で無いものが入り込んでくる。足が震えてくる。自分が、自分でなくなっていく。
分かった。先程、自分の中の何かを引きずり出そうとしていたのは、これだ。あの時から、自分に纏わりついていたのだ。
もう無理だ。あの影の目の前に、立っていられない――
「ふん。『人』を作り変える、か。秀隆」
――けど、そんな中で。
「お前、神のような事を言うではないか。たかが人風情が」
同じくらい。熱い。そして、揺るがない。涼やかな声を、聞いた。
信勝→弟がやんちゃしてる。
秀隆→全部を賭けた大勝負に出ている。
その意識の差。逆に言えば信勝はここまで『弟のやんちゃを諫める』としか思っていなかった訳で。ある意味信勝君が筋金入りだという事が表現できていたら良かったと思って虚無る。
進化! 進化! 進化!